第74話 母を守る人たちが、娘をまた黙らせる
王妃宮が出した一文は、王都に小さな波紋を広げていた。
『故人への敬意と、生者の痛みは対立概念ではない』
『故人を守るために、生者の発言を封じない』
その言葉を読んで救われた者もいた。
亡くなった親を慕いながら、それでも傷つけられた記憶を抱えていた者。
家の中で「もう亡くなった方なのだから」と言われ、何も言えなくなっていた者。
感謝と怒りが同じ胸にあることを、自分だけが醜いのだと思っていた者。
だが、当然のように反発もあった。
特に、故エレナ・レイノルド公爵夫人を知る者たちの間では。
「エレナ様は、本当にお優しい方でしたのよ」
「病の床でも、娘たちを案じておいでだったわ」
「それを今になって、セレスティア様が責めるかもしれないなどと……あまりにおいたわしい」
「亡くなった母君まで裁きの場に出すおつもりなのかしら」
誰かが、そう言った。
母を守る言葉は、柔らかかった。
だが、その柔らかさの内側には、確かに刃があった。
セレスティアは、まだ母の覚書を読んでいない。
母を責めるとも言っていない。
ただ、自分の中に怒りがあるかもしれないことを否定しないと決めただけだ。
それなのに王都では、もう「母を責める娘」と「母を守る人々」の構図ができ始めていた。
その日、レイノルド公爵邸には、一通の手紙が届いた。
差出人は、かつてエレナに仕えていた元侍女長、ベアトリス・ロワン。
今は王都郊外の親族宅で静かに暮らしている老女だった。
家令は封を確認し、グレゴールへ差し出した。
「旦那様。ベアトリス殿より」
「ベアトリス?」
グレゴールは一瞬、記憶を探った。
思い出す。
エレナが嫁いできた頃から仕えていた侍女。
病が重くなる少し前まで、身の回りを見ていた女。
セレスティアが幼かった頃も、屋敷にいた。
「まだ健在だったのか」
「はい」
グレゴールは封を切った。
文面は丁寧だった。
だが、老いた手で書かれた文字はところどころ震えていた。
『レイノルド公爵閣下。
故エレナ奥方様の私的覚書について、王都でさまざまな声があると聞き及びました。
私は、奥方様がセレスティア様を愛しておられたことを存じております。
奥方様は病の中でも、セレスティア様のことを幾度も案じておいででした。
どうか、そのことだけはセレスティア様へお伝えくださいませ。
奥方様は、決してセレスティア様を放っておいたわけではございません』
グレゴールは、そこで読む手を止めた。
決して放っておいたわけではない。
その一文は、エレナを守る言葉だった。
そして同時に、セレスティアを縛る言葉にもなり得る。
母はあなたを愛していた。
母はあなたを放っておいたわけではない。
だから、母を責めないで。
そう聞こえる。
少なくとも、今のグレゴールにはそう聞こえた。
手紙は続いていた。
『もし、セレスティア様が奥方様を誤解なさっているなら、私は証言いたします。
奥方様は、セレスティア様を休ませたいと何度もおっしゃっていました。
ただ、お身体が思うようにならず、叶わなかったのです。
どうか、奥方様の名誉をお守りくださいませ』
名誉。
グレゴールは、その言葉で目を閉じた。
まただ。
誰かを守るための言葉が、別の誰かを黙らせる形になる。
家令が静かに尋ねた。
「旦那様。いかがなさいますか」
「どう、とは」
「この手紙を、セレスティア様へ送るかどうかです」
グレゴールは、手紙を机に置いた。
すぐには答えられなかった。
エレナの名誉を守りたい。
それは本音だ。
ベアトリスの証言は、エレナが娘を案じていたことを示すものになる。
セレスティアが母を誤解しているなら、解けるかもしれない。
だが。
セレスティアは、まだ母の覚書を読んでいない。
母を責めるとも言っていない。
そこへ先回りして「奥方様はあなたを愛していた」「誤解しないで」と送れば、それは母を守るための圧力になる。
「送らん」
グレゴールは低く言った。
家令は驚かなかった。
「承知しました」
「ただし、隠すな」
「状態区分を」
「ああ」
グレゴールは不機嫌そうに言った。
「存在確定。内容、エレナ擁護証言。送付未判断。理由、セレスティアへの先回り圧力となる可能性」
家令は素早く書いた。
『ベアトリス・ロワン書簡。存在確定。内容、エレナ夫人がセレスティア様を案じていた旨の証言。送付未判断。理由、セレスティア様が母君の覚書を読む前に、母君を誤解しないよう求める圧力となる可能性』
グレゴールはその記録を読み、苦い顔をした。
「私がこんな判断をする日が来るとはな」
「よい判断かと」
「慰めるな」
「手順上、妥当です」
「それならまだ聞ける」
家令は軽く頭を下げた。
グレゴールは、ベアトリスの手紙をもう一度見た。
老女の忠心に悪意はない。
エレナを守りたい。
それは分かる。
だが、悪意がないことと、セレスティアを傷つけないことは別だ。
その言葉を、彼は最近何度も思い知らされていた。
王妃宮にも、ベアトリスの手紙の存在報告だけが届いた。
内容全文ではない。
公爵家が、セレスティアへの先回り圧力になる可能性を理由に送付を保留した、という報告だった。
リリアナはそれを読んで、しばらく黙った。
「ベアトリス……覚えています」
マルタが顔を上げる。
「元侍女長ですね」
「はい。母のそばにいた人です。少し厳しいけれど、優しい人でした」
幼い記憶の中に、白髪交じりの侍女がいる。
母の寝室の扉を静かに閉め、リリアナに「奥方様はお休みです」と言った人。
セレスティアに「お嬢様、少しお顔の色が」と言いかけて、結局それ以上踏み込まなかった人。
リリアナは、その記憶を思い出して胸が痛んだ。
「母を守りたい人たちが、出てきますね」
「当然でしょう」
「はい。母は愛されていました」
「ええ」
「そのことは、悪いことではありません」
「はい」
「でも、母を愛していた人たちは、お姉様の痛みを聞けるのでしょうか」
マルタはすぐには答えなかった。
リリアナは、自分で続けた。
「私も、母を守りたいです。母が悪く言われたら傷つきます。でも、お姉様が何か言う前から“奥方様は悪くない”と言われたら、お姉様は何も言えなくなります」
「そうですね」
「母を守る言葉が、姉を黙らせる」
リリアナは、白紙を出した。
『故人を守る証言の扱い――暫定案』
一、故人を擁護する証言にも価値はある。
二、ただし、受領者本人が未読・未判断の段階で提示すると、感情の先回りとなる。
三、証言者に悪意がない場合でも、受領者へ“誤解しないで”“責めないで”という圧力になる可能性がある。
四、故人の名誉保護と、生者の感情整理の順序を混同しない。
書き終えたあと、リリアナはペンを置いた。
「これ、冷たいでしょうか」
マルタは首を横に振った。
「冷たくありません。順序です」
「順序」
「はい。母君を守る証言を永遠に拒むのではなく、今どの段階で出すべきかを考える」
「……そうですね」
リリアナは少しだけ息を吐いた。
「母を守りたい人も、悪者にしたくありません」
「はい」
「でも、姉を黙らせたくもありません」
「はい」
「両方を持つのは疲れます」
「疲れますね」
リリアナは、苦笑した。
「そこは否定してほしかったです」
「否定しても、疲れは減りません」
「本当にそうですね」
そのやり取りで、少しだけ部屋の空気が和らいだ。
だが、問題は王妃宮の外へ広がっていた。
エレナを知る旧交の貴族夫人たちが、小さな集まりを開いたのだ。
表向きは、故人を偲ぶ茶会。
だが、実際にはセレスティアをめぐる噂への反発が中心だった。
「エレナ様は、娘を思わぬ方ではありませんでした」
「病で動けなかった方を、今になって責めるなど」
「セレスティア様もおつらいでしょうけれど、母君の愛まで疑うのは違いますわ」
「誰かが、あの方へ伝えて差し上げなければ」
そこで、一人の夫人が言った。
「では、連名で書状を出しましょう。エレナ様がどれほど娘たちを愛していたか、私たちが証言すると」
善意だった。
完全に。
だからこそ危険だった。
その話は、すぐに王妃宮と北方辺境伯家へ届いた。
北方辺境伯家で報告書を読んだセレスティアは、長く黙っていた。
ノアは、何も言わない。
セレスティアは紙を机に置き、静かに言った。
「母を愛していた人たちですね」
「はい」
「母を守りたい」
「はい」
「私は、母を攻撃していないのに」
「はい」
「でも、彼女たちにはもう、私が母を傷つけるかもしれない娘に見えている」
声は震えていなかった。
だが、奥に深い疲れがあった。
「母は、愛されていたのですね」
「そのようですね」
「私は、それを嬉しいと思うべきでしょうか」
「思うべき、ではないと思います」
ノアの返事は静かだった。
セレスティアは少しだけ目を伏せた。
「私は、少し羨ましいです」
「母君が?」
「はい。母を守りたい人は、こんなにいる」
言った瞬間、胸が痛んだ。
醜い感情だと思った。
母は亡くなっている。
病で苦しんだ。
その母を羨ましいと思うなんて。
だが、思ってしまった。
「私を守りたい人も、います」
セレスティアは続けた。
「閣下も、王妃宮も、リリアナも。でも、母を守る人たちの言葉は、迷いがないように見えます」
「亡くなった方は、複雑さが削られやすい」
「美しく守れるから?」
「はい」
ノアは、少しだけ苦い声で言った。
「生きている人は、怒ります。迷います。拒みます。相手に都合よく感謝しないこともあります」
「それは、守りにくいですね」
「守りにくいです」
セレスティアは、小さく笑った。
今度の笑いは、かなり苦かった。
「私は、守りにくい人間です」
「はい」
「そこは否定しても」
「守りやすい人間になる必要はありません」
その言葉で、胸の奥が少しだけ震えた。
守りやすい人間になる必要はない。
母のように、美しい記憶として守られる必要はない。
生きていて、怒り、迷い、拒む自分のままでいい。
「連名書状は、受け取りたくありません」
セレスティアは言った。
「はい」
「母を愛していた人たちの証言を、永遠に拒むわけではありません。でも、今、母を責めないでという形で渡されるなら、受け取れません」
「それを伝えますか」
「はい。ただし、私からではなく」
セレスティアは少し考えた。
「公爵家が止めるべきです。母の旧交の方々なら、公爵家の関係でしょう」
「妥当だと思います」
セレスティアは頷いた。
自分が全部返さない。
それを忘れない。
ノアはすぐに公爵家へ連絡文を出した。
内容は短い。
『セレスティア・レイノルドは、故エレナ公爵夫人を擁護する証言および連名書状について、現時点で受領を望まない。公爵家関係者による書状計画がある場合、本人へ直接送付されないよう整理を願う』
セレスティアは、それを確認してから一文だけ足した。
『証言者の故人への敬意を否定するものではない。ただし、受領の時期と形は本人が判断する』
ノアが読んで頷いた。
「よいと思います」
「冷たいでしょうか」
「明確です」
「最近、その返事にも慣れてきました」
「それはよかった」
レイノルド公爵邸にその連絡が届いたとき、グレゴールは顔をしかめた。
「当然だ」
彼は低く言った。
「エレナを守る会でも作る気か、あの者たちは」
家令は静かに言う。
「善意でございます」
「分かっている」
グレゴールは苛立ったように机を指で叩いた。
「分かっているから厄介なのだ」
「止めますか」
「止める」
即答だった。
「エレナの旧交の者たちへ、公爵家から文を出せ。故人を偲ぶことは妨げない。だが、セレスティアへ母を誤解しないよう求める書状、証言集、連名嘆願の送付は控えよ、と」
「承知しました」
「理由は……」
グレゴールは言葉に詰まった。
理由。
母を守るための言葉が、娘を黙らせる可能性があるから。
それを自分が書くのか。
妻を守りたい自分が。
彼は、深く息を吐いた。
「故人への敬意が、生者の感情整理に先回りしてはならない。そう書け」
家令がわずかに目を上げた。
「よろしいのですか」
「王妃宮の言い回しだろう。使う」
「はい」
「それから」
グレゴールは苦い顔をした。
「公爵家が、過去にセレスティアの感情整理へ先回りしすぎたことも添えろ」
「そこまで」
「綺麗な文だけ出せば、また同じだ」
家令は頭を下げた。
「承知しました」
文はその日のうちに出された。
エレナを知る夫人たちは驚き、反発した。
「私たちは奥方様を守りたいだけですのに」
「なぜ公爵家に止められなければならないの」
「セレスティア様は、そこまで脆い方なの?」
「いいえ、これは脆さではなく、順序の問題では」
中には、そう言う者もいた。
だが、全員が納得したわけではない。
王都の一角では、また新しい言葉が生まれた。
「母を守る声まで拒む娘」
その報告を受け取ったセレスティアは、驚かなかった。
少しだけ目を伏せ、静かに言った。
「そう呼ばれると思いました」
ノアが尋ねる。
「つらいですか」
「つらいです」
「はい」
「でも、今は受け取らないと決めたので」
「はい」
「母を守る人たちの言葉を、今の私が全部受け取る必要はありません」
「はい」
「それでも、母が愛されていたことは……いつか、知りたいと思うかもしれません」
セレスティアは、少しだけ遠くを見るような目をした。
「今ではないだけで」
「はい」
その夜、セレスティアは箱の横に新しい紙を置いた。
『母を守る言葉も、受け取る時期を選んでよい』
そして帳面に書いた。
『母を守りたい人たちがいる。
そのことを、完全には否定したくない。
でも、母を守る言葉が私を黙らせるなら、今は受け取らない。
母の名誉も、私の痛みも、誰か一人の手で一度に守れるものではない』
書き終えて、セレスティアはしばらくペンを握ったままでいた。
母を愛していた人たち。
その存在は、いつか救いになるのかもしれない。
今はまだ、痛い。
救いになりそうなものが痛い。
それが今日の真実だった。
彼女は、箱の上の紙を整えた。
未読。
支え。
選択。
守るもの。
母を守る言葉の受領時期。
まだ、母の覚書は開かれていない。
けれど、その周囲には、誰かに黙らされないための細い柵が、また一枚増えていた。




