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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第73話 母を責めてはいけないという優しい檻

母を守るために、また私を黙らせない。


 セレスティアは、昨夜そう書いた。


 書いたあと、しばらく眠れなかった。


 母を責める可能性を、今は否定しない。


 その一文も、まだ胸の奥に残っている。


 母を責めたいのか。

 母を責めたくないのか。

 母に見ていてほしかったのか。

 見ていたなら、なぜ助けてくれなかったのかと言いたいのか。


 どれも、まだ確定ではない。


 ただ、ひとつだけ分かった。


 母を悪く思ってはいけない、という言葉は、優しそうな顔をして彼女の口を塞ぐ。


 母は病だった。

 母は苦しんでいた。

 母はもう亡くなっている。

 母を責めるなんて、冷たい娘だ。


 どれも、きっと間違いではない。


 けれど、その言葉だけで十三歳の自分を黙らせることは、もうしたくなかった。


 翌朝、セレスティアは箱の上に置いた紙を一枚ずつ確認した。


『未読も選択肢』


『読むなら、支えを求めてもよい』


『支えも、私が選ぶ』


『誰を選ぶかより、何を守るか』


『守りたいもの――暫定』


 最後の紙には、まだ「母」とは書かれていない。


 母の記憶。

 母を責めたくない私。

 母を責める可能性。

 母を守りたいか――未確認。


 綺麗ではない。


 だが、綺麗にしてしまえば、また自分が消える。


 ノアは朝食後に来た。


 いつものように、彼は最初から箱を見ない。


 セレスティアが話すまで、ただ茶を置いてくれる。


 その距離感が、今の彼女にはありがたかった。


「眠れましたか」


「少しだけ」


「少しだけ、ですか」


「はい。眠れなかったと言うほどではありません」


「それは、眠れなかった人の言い方に近いですね」


 セレスティアは少しだけ笑った。


「最近、皆さんが私の言い方を疑うようになりました」


「記録文化の副作用です」


「嫌な副作用ですね」


「ですが、役に立っています」


「否定できません」


 そう言って、茶を一口飲む。


 香りは薄い。


 けれど、温かい。


 そのとき、執事が報告書を運んできた。


 封蝋を見ただけで、セレスティアは少し肩を固くした。


 王都の反応だ。


 母の覚書をめぐる噂は、まだ収まっていない。


 ノアが先に目を通す。


 ほんのわずかに、彼の目が冷えた。


 セレスティアは、もう驚かなかった。


「今度は何ですか」


「……読まなくてもいい内容です」


「そう言われると、読まない方が怖くなります」


「では、途中で止めてもいい」


「はい」


 セレスティアは紙を受け取った。


 最初の数行で、胸の奥が鈍く痛む。


『一部社交界にて、セレスティア嬢が母君の覚書を読むか迷っていることについて、“母を責めたいのでは”との声』


『故人であり病人であった母君に対し、厳しい感情を持つことは令嬢として冷淡ではないかとの意見』


『一方で、子ども時代の負担について複雑な感情を持つのは自然との声もあり』


『保守派周辺では、“母を責める娘”という言葉が出始めている』


 母を責める娘。


 セレスティアは、その言葉の上で目を止めた。


 紙が少し遠くなる。


 昨日、自分の私的な帳面にしか書いていないはずの感情。


 母を責める可能性。


 それが、まるで王都に見透かされたような形で噂になっている。


 実際には、誰も彼女の帳面など読んでいない。


 ただ、王都の人々が勝手に想像したのだ。


 母の覚書を読まないかもしれない。

 母を守りたいと即答しないかもしれない。

 ならば、母を責めたいのではないか。


 そして、それは冷たい娘ではないか。


 セレスティアは紙を置いた。


「速いですね」


 声は静かだった。


 ノアは何も言わない。


「私が自分の中でようやく“母を責める可能性”と書いたら、王都はもう“母を責める娘”と呼ぶ」


「あなたの帳面を読んだわけではありません」


「分かっています」


 セレスティアは小さく笑った。


 笑ったつもりだったが、うまく笑えていなかった。


「でも、先回りされた気がします」


「はい」


「私が自分の感情に触れる前に、外から名前を貼られる」


「はい」


「母を責める娘」


 その言葉をもう一度口にすると、胸の奥が冷えた。


「私は、そうなのでしょうか」


 ノアは、すぐには答えなかった。


 セレスティアは顔を上げる。


「今回は即答してくださらないのですね」


「“違います”と即答すると、あなたが責めたい気持ちまで否定することになるかもしれません」


 その言葉で、セレスティアは黙った。


 そうだ。


 違う、と言われたい。


 あなたは冷たい娘ではない。

 母を責めるなんて、そんなことはない。


 そう言われれば、一瞬は楽になる。


 でも、その楽さは、自分の中にあるかもしれない怒りをまた押し込める。


「では、どう言えばよいのでしょう」


「母君に対して複雑な感情を持つことと、“母を責める娘”という札を貼られることは別です」


「また別」


「はい」


「便利ですね」


「本当に」


 セレスティアは、今度こそ少しだけ笑えた。


 そして白紙を引き寄せた。


 表題を書く。


『母への感情と、外から貼られる札の区別』


 一、母を恋しく思う。

 二、母に見ていてほしかったと思う。

 三、見ていたなら助けてほしかったと思う。

 四、病だった母を責めたくないと思う。

 五、それでも怒りがあるかもしれないと思う。

 六、これらをまとめて“母を責める娘”とは呼ばれたくない。


 書き終えて、セレスティアは息を吐いた。


「札にされるのが嫌なのですね」


「はい」


「母を責める気持ちが絶対にない、と言い切るのではなく」


「はい。まだ分からないので」


「でも、王都の札は受け取らない」


「受け取りません」


 その言葉は、思ったよりはっきり出た。


 セレスティアは紙を見つめる。


 母への怒りがあるかもしれない。


 それは事実だ。


 でも、王都が面白がる「母を責める冷たい娘」という物語に、自分の感情を渡すつもりはない。


「これは公表しません」


 セレスティアは言った。


「はい」


「でも、王妃宮へは共有した方がいいでしょうか」


「なぜ?」


「似たような言葉で、誰かが傷つくかもしれません」


 母を責めてはいけない。

 父を恨んではいけない。

 家族なのだから許すべき。

 亡くなった人を悪く言ってはいけない。


 そういう言葉は、王宮にも社交界にも山ほどある。


 セレスティアだけではない。


 リリアナも、他の令嬢たちも、使用人たちも。


 家族に対する複雑な感情を、綺麗な道徳で潰されてきた者は多いはずだ。


「王妃宮の暫定基準としてなら、私の名前を出さずに使えるかもしれません」


 ノアは頷いた。


「それは、あなたが返答するのではなく、制度に渡す形ですね」


「はい」


「よいと思います」


 セレスティアは、少し考えた。


 直接公表はしない。


 だが、王妃宮へ「私的記録や家族記録を扱う際の注意」として意見を送る。


 三十日回答停止中ではある。


 ただし、王妃宮から回答を求められたわけではない。


 これは自発的な制度提案になる。


 また働いてしまうのではないか。


 その不安がよぎる。


 ノアが静かに言った。


「送らなくてもいい」


「はい」


「送るなら、範囲を限定しましょう」


「範囲」


「あなた個人の母君への感情ではなく、“外部の札貼りを避けるための一般原則”として」


 セレスティアは頷いた。


「短くします」


 彼女は別紙に、簡潔に書いた。


『家族に関する私的記録を扱う際、本人が複雑な感情を持つことと、外部が道徳的な呼称を貼ることを区別する必要があります。

 “親不孝”“冷たい娘”“恩知らず”等の札は、本人の感情整理を妨げる可能性があります。

 本人が怒り、悲しみ、恋しさ、罪悪感を同時に持つことを、単一の評価語へ圧縮しないこと』


 それ以上は書かなかった。


 短い。


 でも、必要なことは入っている。


「これなら」


 セレスティアはノアを見る。


「働きすぎでしょうか」


「ぎりぎりです」


「ぎりぎり」


「今日はこれ以上、制度提案を書かない方がよいと思います」


「分かりました」


 セレスティアは素直に頷いた。


 その紙は、北方辺境伯家から王妃宮へ「回答不要」の印をつけて送られた。


 王妃宮に届いたのは午後だった。


 リリアナは、文面を読んで顔を上げられなくなった。


『親不孝』『冷たい娘』『恩知らず』等の札。


 それらは、まさに彼女自身も恐れていた言葉だった。


 姉が母を責めたら、自分はどう思うのか。


 母は病だったのに。

 母だって苦しかったのに。


 そう思わない自信が、リリアナにはなかった。


 そして、そう思ってしまうこと自体が怖かった。


「マルタ様」


「はい」


「私、お姉様が母を責めたら、たぶん少し傷つきます」


「はい」


「母を悪く言わないで、と思うかもしれません」


「はい」


「でも、お姉様にもそう思う理由があるかもしれない」


「はい」


「両方、あります」


「ありますね」


 リリアナは、目元を押さえた。


「また両方です」


「はい」


「母を守りたい私と、姉を黙らせたくない私がいます」


「それを書きましょう」


 リリアナは頷き、記録帳を開いた。


『姉が母を責めたら、私は傷つくと思う。母を守りたいと思う。

 でも、姉を黙らせたくない。母を守るために、姉の十三歳の痛みをなかったことにしたくない。

 母を守りたい私と、姉を黙らせたくない私がいる』


 書いている途中で涙が落ちた。


 今度は、マルタが何も言わず布を差し出した。


 リリアナは受け取り、そっと目元を拭った。


「王妃宮として、これを基準に入れますか」


 エルンが控えめに聞いた。


 リリアナは深呼吸した。


「はい。ただし、私の感情ではなく、一般原則として」


 マルタが頷く。


「では、草案を」


 リリアナは書いた。


『家族記録・私的覚書の受領に関する補足――暫定版一』


 一、受領者が複数の感情を同時に持つことを認める。

 二、怒り、悲しみ、恋しさ、罪悪感、感謝、拒否感は併存し得る。

 三、外部者は、それを親不孝、冷淡、恩知らず等の単一評価語へ圧縮しない。

 四、故人への敬意と、生者の痛みは対立概念ではない。

 五、故人を守るために、生者の発言を封じない。


 五番を書いたとき、部屋の空気が少し変わった。


 リリアナ自身も、ペンを握る手に力が入った。


 故人を守るために、生者の発言を封じない。


 それは重い。


 母を守りたい人々にとって、残酷に見えるかもしれない。


 でも、必要だった。


 マルタが静かに言った。


「よい文です」


「怖いです」


「怖い文ほど、必要なことがあります」


「これを出したら、母を軽んじていると言われるかもしれません」


「言われるでしょう」


「でも、出します」


「はい」


 王妃宮から補足が出ると、反応はすぐに分かれた。


 若い令嬢たちの間では、静かなざわめきが広がった。


「故人への敬意と、生者の痛みは対立概念ではない……」


「これ、すごいわ」


「祖母のことを悪く思ってはいけないと言われてきたけれど、私は怖かったの」


「母を嫌いなわけではないのに、傷ついたことは残っているのよね」


 一方で、年配の貴族たちは顔をしかめた。


「亡くなった親を責める風潮を王妃宮が認めるのか」


「家族への敬意が失われる」


「これでは、親の威厳などなくなるではないか」


 その声は大きかった。


 だが、王妃宮は補足を撤回しなかった。


 アデルも王太子府でその文を読み、採用を決めた。


「故人への敬意と、生者の痛みは対立概念ではない」


 彼はその一文を何度も読んだ。


 エドが尋ねる。


「王太子府でも?」


「ああ。過去の王や王族に関する記録にも関わる」


 ラウルが眉をひそめた。


「殿下、それは危険です。故人である王族への批判を認めることになります」


「批判と痛みの記録は別だ」


「しかし」


「亡き者を敬うために、生きている者の被害や負担を記録できないなら、同じことが繰り返される」


 アデルの声は静かだった。


「私も、父祖の名を盾にしてきたことがある。王家の慣例だから、王太子妃候補だから、家のためだから。そういう言葉で、セレスティアを黙らせてきた」


 ラウルは黙った。


 アデルは続けた。


「王太子府でも採用する。ただし、故人への侮辱を推奨するものではないと明記しろ。敬意と検証を分ける」


 エドが記録する。


『故人への敬意と、生者の痛みの記録を区分。故人を守るために生者の発言を封じない。ただし侮辱・中傷とは区別』


 アデルは、それを見て小さく頷いた。


 レイノルド公爵邸にも、もちろんその補足は届いた。


 グレゴールは読んで、顔を歪めた。


「故人を守るために、生者の発言を封じない」


 低く読み上げる。


 家令は静かに控えている。


「エレナを守るために、セレスティアを黙らせるな、ということか」


「そのようにも読めます」


「お前は最近、遠慮なく言うな」


「旦那様が記録を求めておられますので」


「求めた覚えはあるが、こうも刺さるとは思わなかった」


 グレゴールは、エレナの覚書が入った封筒を見た。


 妻を守りたい。


 それは本当だ。


 病の中で娘を心配していた彼女を、誰にも責めさせたくない。


 だが、それを理由にセレスティアへ「母を悪く思うな」と言えば、また娘を黙らせることになる。


 グレゴールは、苦々しく言った。


「記録しろ」


「はい」


「グレゴール公爵、エレナ夫人の名誉を守りたい感情あり。ただし、それを理由にセレスティア様の感情表明を封じてはならないと認識」


 家令は書いた。


 グレゴールは、その文字を見て額を押さえた。


「私は本当に、認識ばかりだな」


「認識しないよりは」


「分かっている」


 疲れた声だった。


 その夜、北方辺境伯家に王妃宮と王太子府の補足採用報告が届いた。


 セレスティアは読み終え、静かに目を閉じた。


「使われました」


 ノアが頷く。


「はい」


「私の言葉が、また外へ出ました」


「はい」


「でも、今回は少しだけ……よかったと思います」


「はい」


 セレスティアは、王妃宮の補足文をもう一度読んだ。


『故人への敬意と、生者の痛みは対立概念ではない』


『故人を守るために、生者の発言を封じない』


 リリアナの言葉だろうか。


 それとも、マルタか、エルンか。


 分からない。


 でも、王妃宮の言葉になっている。


 セレスティア個人の怒りではなく、制度の紙になっている。


 そのことが、少しだけ救いだった。


「私は、母を責めるかもしれません」


 セレスティアは言った。


「はい」


「責めないかもしれません」


「はい」


「読んだら、恋しさしか出てこないかもしれません」


「はい」


「怒りしか出ないかもしれません」


「はい」


「全部出るかもしれません」


「はい」


 ノアは、ただ受け止めた。


 セレスティアは、箱の横に置いた『守りたいもの――暫定』の紙を取り出した。


 そして、新しい一行を書き足した。


『母を責めても、母を敬う気持ちが全部消えるとは限らない』


 その言葉は、少し怖かった。


 だが、少しだけ優しくもあった。


 母を責めるかもしれない。


 それでも、母を全部失うわけではないのかもしれない。


 母を恋しがる自分と、母に怒る自分が同時にいてもいいのかもしれない。


 セレスティアは、帳面を開いた。


『母を責めてはいけないという言葉は、優しい檻になる。

 でも、母を責めるかもしれない私も、母を恋しく思う私も、同じ私だ。

 どちらか一方だけを選ばなくてもいい。

 まだ読まない。けれど、読んだとき何が出ても、私はそれを一度は見たい』


 書き終えて、ペンを置く。


 母の覚書は、まだ開かれていない。


 だが、その周囲の言葉は少しずつ変わっている。


 母を守るために自分を黙らせるのではなく。


 自分を守るために母を消すのでもなく。


 その間に立つための、細い足場が作られ始めていた。


 まだ、暫定版一にも満たない足場。


 それでも、セレスティアは今夜、少しだけその上に立てた気がした。

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