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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第72話 守りたいものの欄に、母を書けなかった

 母の覚書の箱の上には、四枚の紙が置かれていた。


『未読も選択肢』


『読むなら、支えを求めてもよい』


『支えも、私が選ぶ』


『誰を選ぶかより、何を守るか』


 それはもう、箱というより小さな砦のようだった。


 セレスティアは朝の光の中で、その四枚を見下ろしていた。


 紙を増やすたび、少しだけ楽になる。

 だが同時に、紙を増やさなければ触れられないほど、自分はこの箱を怖がっているのだとも分かる。


 母の覚書。


 まだ中身は知らない。


 それなのに、すでに王都は騒ぎ、父は謝罪し、リリアナは待ち、王妃宮は基準を作り、王太子府まで未読記録の扱いを整えた。


 一枚の未読の紙が、これほど多くの紙を生んでいる。


 それが少し滑稽で、少し恐ろしかった。


 ノアは、今日は少し離れた席にいた。


 彼は何も言わない。


 セレスティアが箱の前で立ち止まっていることには気づいているはずだ。


 それでも、急かさない。


 それがありがたく、同時に少しだけ心細い。


 人は不思議だ。


 急かされれば腹が立つのに、急かされないと、自分だけが置かれているような気がする。


「閣下」


「はい」


「私は、何を守りたいのでしょう」


 問いは、思ったより素直に出た。


 ノアはすぐには答えなかった。


「私が答えることではなさそうです」


「そうですね」


「ですが、整理はできます」


「お願いします」


 セレスティアは机に座り、白紙を出した。


 ノアはその向かいに移動する。


「まず、候補を出すのはどうでしょう」


「候補」


「はい。守りたいと思っている可能性のあるもの」


 セレスティアはペンを持った。


 しばらく迷ってから、最初に書いた。


『十三歳の私』


 その文字を見た瞬間、胸の奥が鳴った。


 母の覚書を読むことは、十三歳の自分に関わる。


 あの眠れなかった夜。

 母の寝室の前に立った朝。

 リリアナの泣き声。

 父の不在。


 あの少女を、今さら傷つけたくない。


 次に書く。


『今の私』


 当然だ。


 今の自分も守らなければならない。


 過去の少女を救うために、今の自分を壊しては意味がない。


 次に、少し迷って。


『母の記憶』


 書いた瞬間、ペンが止まった。


 母の記憶。


 自分は、母を守りたいのだろうか。


 母を悪く思いたくない。

 母を責める自分になりたくない。

 病で苦しんでいた人を、今さら責めたくない。


 それは、母を守りたいということなのか。


 それとも、母を責める自分を見たくないだけなのか。


 セレスティアは、その下にもう一行書いた。


『母を責めたくない私』


 少し嫌な書き方だった。


 だが、正確な気がした。


 ノアは、その文字を黙って見ていた。


 セレスティアは続ける。


『リリアナとの距離』


 これもある。


 母の覚書の内容によっては、リリアナとの関係がまた揺れるかもしれない。


 母がセレスティアを心配していたなら、リリアナは自分を責める。

 母がリリアナについて書いていたなら、セレスティアはどう受け取るか分からない。


 姉妹の距離は、まだ細い橋のようだ。


 急に重いものを載せれば、折れるかもしれない。


 最後に、少し考えて。


『父との境界』


 これも必要だった。


 母の覚書を読むかどうかを、父の謝罪や父の期待に引っ張られたくない。


 父が読んでほしいと思っているから読む。

 父に反発したいから読まない。


 どちらも嫌だった。


 自分で決めたい。


 一覧を眺める。


 十三歳の私。

 今の私。

 母の記憶。

 母を責めたくない私。

 リリアナとの距離。

 父との境界。


 守りたいものは、思ったより多かった。


 だが、その中に一つ、書けないものがあった。


 セレスティアは、白紙の端を見つめた。


 母。


 ただ、それだけを書くことができなかった。


「母、と書けません」


 小さく言う。


 ノアは静かに頷いた。


「はい」


「母の記憶とは書けました。でも、母を守りたいとは、今は書けません」


「それでよいのでは」


「よいのでしょうか」


「無理に書くと、また自分を縛るのではありませんか」


 セレスティアは目を伏せた。


 そうだ。


 母を守らなければならない。


 病だった母を責めてはいけない。


 亡くなった人を悪く思ってはいけない。


 そういう言葉は、いくらでもある。


 けれど、今の自分が本当に母を守りたいのかは分からない。


 母を恋しく思う気持ちはある。


 母に見ていてほしかった。


 母に休ませてほしかった。


 母に抱きしめてほしかった。


 それらは確かだ。


 でも、母を守りたいかと問われると、ペンが止まる。


「私は、薄情でしょうか」


 セレスティアは尋ねた。


 ノアは、少しだけ眉を動かした。


「そうは思いません」


「なぜ?」


「守るという言葉は、今のあなたには重すぎるからです」


「重すぎる」


「はい。あなたは長い間、誰かを守る役割に置かれてきた。母君まで守る欄に入れれば、また役割に戻ってしまうかもしれない」


 セレスティアは、息を止めた。


 母を守る。


 それは美しい言葉に見える。


 だが、今の自分にとっては危険かもしれない。


 病だった母。

 亡くなった母。

 皆が惜しむ優しい母。


 その母を守るために、自分の怒りや痛みを黙らせる。


 それは、また同じ構造だ。


「では、今は書きません」


 セレスティアは言った。


「はい」


「母を守りたいかどうかは、未確認」


「よいと思います」


 彼女は紙に書いた。


『母を守りたいか――未確認』


 書いた瞬間、少しだけ胸が軽くなった。


 守りたいと書かなくていい。


 守りたくないとも決めなくていい。


 未確認。


 その曖昧な棚に置ける。


「便利ですね、状態区分」


 セレスティアが言うと、ノアは少しだけ笑った。


「ええ」


「でも、心に使うと少し変です」


「変ですが、役に立つなら」


「役に立っています」


 セレスティアは、その紙を箱の横へ置いた。


 箱の上ではない。


 まだ母の覚書そのものに載せるには、少し近すぎる気がした。


 同じ頃、王妃宮では、リリアナもまた「守りたいもの」を書いていた。


 きっかけは、セレスティアが誰を支援者に選ぶかについての噂だった。


 王妃宮に届く報告は、相変わらず勝手だった。


『リリアナ様は選ばれなければ深く傷つかれるだろう』


『姉妹関係修復のためにも、リリアナ様同席が望ましい』


『妹君が姉を支える姿は、王都の不安を和らげる』


 王都の不安。


 その言葉に、リリアナは腹が立った。


 自分が姉のそばにいるかどうかは、王都の不安を和らげるための絵ではない。


 だが、腹が立つ一方で、同席したい気持ちは消えない。


 それが苦しかった。


 マルタは言った。


「では、何を守りたいのか書いてみましょう」


 リリアナはすぐに返した。


「また分解ですか」


「はい」


「本当に何でも分解しますね」


「便利ですので」


 リリアナは苦笑しながら、紙を出した。


『私が同席したい理由と守りたいもの』


 一、姉を支えたい。

 二、母の言葉を知りたい。

 三、自分も関係している気がする。

 四、姉に置いていかれたくない。

 五、姉妹関係を完全に失いたくない。

 六、王都に美談として使われたくない。


 四番を書いたとき、リリアナは顔を赤くした。


「これ、ひどいですね」


 マルタが覗き込む。


「置いていかれたくない、ですか」


「はい」


「正直でよろしい」


「よろしいのですか」


「よろしいです。隠すと別の形で出ます」


 リリアナは、紙を見下ろした。


 姉に置いていかれたくない。


 まるで幼い子どもだ。


 でも、本当にそう思っている。


 セレスティアが北方辺境伯家で少しずつ自分を取り戻している。

 王妃宮も、姉なしで動き始めている。

 父も記録を読み始めている。

 アデルも変わり始めている。


 その中で、自分だけが姉の外側に置かれるのが怖い。


 母の覚書を姉が誰か別の人と読み、自分には何も知らされない。


 それを想像すると、胸が苦しくなる。


「私は、また姉にしがみつこうとしているのでしょうか」


 リリアナが尋ねると、マルタは少し考えてから答えた。


「しがみつきたい気持ちはあるでしょう」


「あります」


「同時に、しがみつかないようにしたい気持ちもあります」


「あります」


「では、両方記録します」


 リリアナは頷き、書いた。


『姉にしがみつきたい気持ちあり。しがみつきたくない気持ちもあり』


 書いてから、苦笑した。


「本当に情けない記録です」


「人間らしい記録です」


「マルタ様、その言い方、家令の方々にも広まっていそうです」


「広まるとよいですね」


 リリアナは少し笑った。


 そこへアデルが入ってきた。


 今日は王太子府から、支援者選択に関する基準の共有に来ていた。


 リリアナは、慌てて紙を裏返した。


 だが、アデルは気づいた。


「隠すなら、見ない」


 彼はすぐに言った。


 その言い方に、リリアナは少し驚いた。


 以前の彼なら、心配して踏み込んだかもしれない。


 今は、先に境界を置く。


「ありがとうございます」


 リリアナは言った。


「これは私的記録です」


「分かった」


 アデルは席についた。


 マルタが王太子府の資料を受け取る。


 その中にも、似たような項目があった。


『支援者選択時、本人の感情的必要と政治的意味づけを分離すること』


 リリアナはその一文を読み、アデルを見た。


「殿下の言葉ですか」


「エドの言葉だ」


「少し悔しそうですね」


「悔しい。私より先に良い表現をした」


 リリアナは思わず笑った。


「記録しますか」


「もうされた」


「さすがエド様」


「本当に油断ならない」


 そのやり取りは軽かった。


 けれど、軽さの下に大切なものがあった。


 支援者選択。


 そこには、感情と政治が混ざる。


 セレスティアが誰を選ぶかは、本人の心の問題であると同時に、王都が勝手に意味をつける政治的材料にもなる。


 だから分ける必要がある。


 アデルは言った。


「リリアナ」


「はい」


「君が同席を望むとして、それは悪いことではない」


 リリアナは息を止めた。


「……はい」


「ただ、望んでいることと、選ばれる権利があることは違う」


「はい」


「私も、彼女に許されたいと思うことがある。だが、許される権利があるわけではない」


 その言葉は、静かに重かった。


 リリアナは目を伏せる。


「私も、姉に近づきたいと思います。でも、近づく権利があるわけではありません」


「うん」


「それでも、望むこと自体は悪くないのでしょうか」


「悪くないと思う」


 アデルの声は、少しだけ優しかった。


 リリアナは、その優しさを受け取りすぎないように、少し間を置いて頷いた。


「ありがとうございます。記録します」


「私の言葉を?」


「はい」


「それは少し恥ずかしいな」


「殿下も、慣れてください」


「努力する」


 二人の会話は、以前よりゆっくりになった。


 すぐに甘さへ逃げない。

 すぐに正解へ飛びつかない。


 それは少し不器用で、けれど前より誠実だった。


 レイノルド公爵邸では、グレゴールが支援者選択に関する資料を読み、苦い顔をしていた。


 家令は相変わらず淡々としている。


「旦那様も、何を守りたいのか整理なさいますか」


「なぜ私が」


「エレナ様の覚書をめぐる判断に、旦那様の感情も関わっておりますので」


「私の感情など関係ない」


「関係ございます」


 家令の声は静かだが、引かなかった。


 グレゴールは睨んだ。


「最近、お前は本当に遠慮がない」


「暫定版以降、記録方針が変わりましたので」


「私が許した覚えはない」


「旦那様が消すなとおっしゃいました」


 グレゴールは、苦々しく息を吐いた。


 しばらくして、机の紙を引き寄せた。


「……何を書けばいい」


 家令はペンを用意した。


「覚書をめぐり、旦那様が守りたいものです」


「エレナの名誉」


 即答だった。


 家令は書く。


「次は」


「公爵家の体面」


 少し嫌そうに言う。


 家令はそれも書いた。


「次は」


「セレスティアを、これ以上壊さないこと」


 その言葉は、少し低かった。


 家令は、静かに書き留める。


「次は」


 グレゴールは黙った。


 長い沈黙のあと、ようやく言った。


「自分が、決定的に悪い父親だったと確定しないこと」


 家令の手が止まった。


 グレゴールが目を逸らす。


「書け」


「はい」


 家令は書いた。


『グレゴール公爵が守りたいもの

 一、エレナ夫人の名誉

 二、公爵家の体面

 三、セレスティア様をこれ以上傷つけないこと

 四、自身が決定的に悪い父親だったと確定しないこと』


 グレゴールは、その四番を見て顔を歪めた。


「醜いな」


「正直です」


「正直なら許されるわけではない」


「はい」


「だが、書かなければ、私は一番目と二番目だけを理由に動いていただろうな」


 家令は何も言わなかった。


 グレゴールは紙を見つめ続けた。


 自分は、セレスティアを傷つけたくないと思っている。


 それは本当だ。


 だが同時に、自分が悪い父親だと確定するのが怖い。


 その怖さが、判断を歪める可能性がある。


 そう紙に書かれると、逃げられない。


「この四番は、セレスティアには送るな」


「もちろんです」


「いや、待て」


 グレゴールは額を押さえた。


「隠すのか、これは」


「今すぐ送るべき内容ではありません。ただし、公爵家内記録としては残します」


「……そうしろ」


 家令は頷いた。


 グレゴールは椅子にもたれた。


「私は、自分の記録を読むのが嫌になってきた」


「読む義務があるものと、読む権利のものを分けましょうか」


「皮肉か」


「手順です」


 グレゴールは、今度は少しだけ笑った。


 疲れた笑いだった。


 北方辺境伯家では、夕方になってセレスティアが「守りたいもの」の紙を見返していた。


 母を守りたいか――未確認。


 その欄に、まだ目が止まる。


 ノアが茶を置く。


「今日はもう、そこまででよいのでは」


「はい」


「かなり進んでいます」


「進んでいるのでしょうか」


「少なくとも、母君を守るべきだと自分に強制しなかった」


 セレスティアは、その言葉を受け取った。


 母を守るべき。


 そう思わなかったわけではない。


 だが、べきで動かないようにした。


 それはたぶん、小さな前進だった。


「閣下」


「はい」


「もし私が母を責める言葉を書いたら、軽蔑しますか」


 ノアは、少し驚いたように彼女を見た。


 だが、すぐに答えた。


「しません」


「病だった人です」


「はい」


「もう亡くなっています」


「はい」


「それでも?」


「それでも」


 セレスティアは、少しだけ目を伏せた。


「私は、母を責めたいのかもしれません」


「はい」


「同時に、責めたくありません」


「はい」


「母が私を見ていたなら、なぜ助けてくれなかったのかと思ってしまう」


「はい」


「母が見ていなかったなら、それも悲しい」


「はい」


 ノアは、何も足さなかった。


 その「はい」だけが、今はありがたかった。


 否定されない。

 正されない。

 美しい方向へ引っ張られない。


 セレスティアは、紙の一番下に書いた。


『母を責める可能性を、今は否定しない』


 書いたあと、胸がきゅっと痛んだ。


 怖い一文だった。


 でも、書いた。


 そしてその下に、もう一行。


『責めることと、憎むことは同じではないかもしれない』


 これも、まだ分からない。


 でも、棚に置く。


 夜、セレスティアは箱の上の紙を整えた。


 四枚の紙の横に、今日の紙を置く。


『守りたいもの――暫定』


 その中には、母を守りたいとは書かれていない。


 母の記憶。

 母を責めたくない私。

 母を責める可能性。


 そんな、きれいではない言葉が並んでいる。


 けれど、それが今の本当だった。


 セレスティアは帳面を開き、今日の最後に書いた。


『守りたいものの欄に、母と書けなかった。

 それが今の私の本当なら、そこから始めるしかない。

 母を守るために、また私を黙らせない』


 書き終えて、彼女は静かに目を閉じた。


 母の覚書は、まだ開かれていない。


 だが、開く前に必要な言葉は、少しずつ揃い始めている。


 美しくはない。


 親孝行でもないかもしれない。


 それでも、セレスティア自身の言葉だった。

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