第70話 誰と読むかまで、他人に決められたくない
母の覚書の箱の上には、二枚の紙が置かれていた。
『未読も選択肢』
『読むなら、支えを求めてもよい』
どちらも、セレスティア自身が書いたものだ。
短い言葉だった。
けれど、その二枚があるだけで、箱は少しだけ別のものになっていた。
以前なら、未処理の書類はすべて敵のように見えた。
開かなければならない。
読まなければならない。
判断しなければならない。
返さなければならない。
そう思っていた。
だが今、この箱の中にある母の言葉だけは、まだ開かないことを許されている。
読まないことも選択肢。
読むとしても、一人で読まなくていい。
それは救いのはずだった。
はずなのに。
セレスティアは、朝から何度も箱の前で立ち止まっていた。
庭へ出ようとして、立ち止まる。
茶を飲もうとして、立ち止まる。
刺繍道具を開いて、また視線が箱へ戻る。
読むなら、支えを求めてもよい。
では、誰に?
その問いが、紙の下からじわじわ滲み出してくる。
ノアか。
彼なら、隣にいてくれるだろう。
急かさず、意味を決めつけず、彼女が閉じたいと言えば閉じさせてくれる。
だが、ノアを選べば、王都は言う。
やはり北方辺境伯こそ、セレスティア嬢の最も近い場所にいるのだ。
母の私的覚書を読む場にまで同席するとは、家族以上の立場なのか。
レイノルド公爵家の記録を、北方辺境伯家が握るのか。
では、リリアナか。
妹と一緒に読む。
それは、いつか必要なことかもしれない。
だが、母の覚書がセレスティアについて書いたものなら、リリアナをそこへ呼ぶのは酷かもしれない。
リリアナはまた自分を責める。
姉を支えるつもりで、姉に支えられようとしてしまうかもしれない。
では、父か。
論外だ、と心が先に答えた。
まだ無理だ。
少なくとも、今は。
では、王妃か。
彼女は病中だ。
そもそも、母の私的覚書を読む場に王妃を呼ぶのは違う。
マルタ。
家令。
医師。
誰の名を浮かべても、すぐに別の問題が出てくる。
支えを求めてもよい。
その言葉は、確かに救いだった。
けれど、支えを選ぶことまで簡単になるわけではない。
「難しい顔をしています」
ノアの声で、セレスティアは顔を上げた。
彼は部屋の入口に立っていた。
いつの間に来たのか、足音に気づかなかった。
「また顔に出ていましたか」
「はい」
「最近、私は分かりやすくなっているのでしょうか」
「以前よりは」
「それは良いことなのでしょうか」
「少なくとも、こちらは助かります」
その返しが少し真面目で、セレスティアは小さく笑った。
だが、すぐに視線は箱へ戻る。
ノアもそれを見る。
「覚書のことですか」
「はい」
「読む気になりましたか」
「いいえ」
セレスティアは首を振った。
「読む気にはなっていません。ただ、もし読むなら誰と読むのかを考えてしまって」
ノアはすぐに口を挟まなかった。
それがありがたい。
セレスティアは、自分で続けた。
「閣下と読むのが、一番安全な気がします」
「はい」
「でも、一番誤解される気もします」
「でしょうね」
「リリアナと読むのは、姉妹としては意味があるかもしれません。でも、あの子には重すぎるかもしれない」
「はい」
「父とは無理です」
「はい」
「マルタ様は……」
言いかけて、セレスティアは止まった。
マルタ。
王妃宮の女官長。
冷静で、余計な慰めをせず、記録の扱いも分かっている。
だが、母の覚書を読む場に、マルタを呼んでよいのか。
王妃宮の人間だ。
私的な家族の記録であると同時に、王宮の実務へも波及しかねない。
「誰を選んでも、意味がついてしまいます」
セレスティアは言った。
「はい」
「私は、ただ怖い紙を読むとき、隣に誰かがいてほしいだけかもしれないのに」
「はい」
「それさえ、政治になります」
ノアは、静かに言った。
「政治にされることと、あなたが政治として選ぶことは別です」
また、別。
セレスティアは少しだけ笑った。
「本当に便利な言葉ですね」
「使えるうちは使いましょう」
「では、私はどう選べばよいのでしょう」
「支えに何を求めるかで分けるのはどうですか」
「分ける?」
「はい。感情の支え、記録の支え、家族としての支え、医療的な支え。全部を一人に求める必要はない」
セレスティアは、目を瞬いた。
全部を一人に求める必要はない。
その発想は、ありそうでなかった。
自分は、誰か一人を選ばなければならないと思っていた。
ノアか。
リリアナか。
マルタか。
父か。
だが、支えそのものを分解すれば、違う形が見える。
「記録の支えは、マルタ様かもしれません」
セレスティアは言った。
「はい」
「感情の支えは……」
そこで止まる。
ノアが見ている。
セレスティアは、少しだけ目を逸らした。
「閣下、かもしれません」
「はい」
「即答しないでください」
「すみません」
「いえ……」
胸が少し熱くなる。
それが恋なのか、信頼なのか、依存なのか、まだ分からない。
分からないまま置いておく。
それも最近学んだことだった。
「家族としての支えは、今はいません」
セレスティアは言った。
口にすると、思ったより痛かった。
「父でも、リリアナでも、まだ無理です」
「はい」
「でも、いつか必要になるかもしれません」
「はい」
「医療的な支えは、医師でしょうか」
「読むことで身体症状が出る可能性を考えるなら」
セレスティアは、白紙を一枚取った。
また紙だ。
最近、彼女の人生は紙ばかりだと思う。
でも、紙にしなければ、頭の中で絡まっていく。
『覚書受領時の支えの分解』
一、感情の支え。
二、記録の支え。
三、身体的支え。
四、家族関係の支え。
五、同席しない支え。
五番を書いたところで、セレスティアは手を止めた。
「同席しない支え」
ノアが静かに繰り返す。
「はい」
「どういう意味ですか」
「一緒に読まなくても、読んだ後に話せる人。あるいは、読まないと決めたあとに、その決定を支えてくれる人」
言ってから、セレスティアは少しだけ楽になった。
同席だけが支えではない。
誰かに隣に座ってもらうことだけが、支えを求めることではない。
読んだあとに会う。
読まない決断をしたあとに話す。
ただ、箱を閉じたことを見届けてもらう。
それも支えだ。
「今日は、これだけで十分です」
セレスティアはペンを置いた。
「読む人を決めるのではなく、支えを分けるところまで」
「はい」
「少し進みました」
「進んでいます」
ノアの言葉に、セレスティアは小さく頷いた。
同じ頃、王妃宮では、似たような問題が起きていた。
セレスティアの「読むなら支えを求めてもよい」という考えは、王妃宮の『未読記録の扱いに関する暫定基準』にも取り入れられた。
そして、その基準を読んだある女官が、古い謝罪文を読む際に同席者を求めたのだ。
それ自体は、問題ではなかった。
問題は、周囲の反応だった。
「謝罪文を読むのに付き添いが必要なんて」
「最近の王妃宮は、本当に繊細になりましたね」
「一人で手紙も読めないのですか」
「でも、読むのがつらい手紙もありますわ」
「それを仕事場へ持ち込むのはいかがなものかしら」
また、笑いと困惑が混じった声が生まれた。
リリアナは、その報告を読んで顔をしかめた。
「今度は、支えを求めることが笑われています」
マルタは静かに頷く。
「想定内です」
「また想定内ですか」
「はい」
「先に言ってください」
「言っても痛みは減りません」
「それはそうですが」
リリアナはため息をついた。
だが、以前よりは少し落ち着いている。
言葉は誤解される。
笑われる。
悪用される。
そのたびに補足していくしかない。
「支えを求めることも、分解が必要ですね」
リリアナは言った。
マルタの目が少しだけ和らぐ。
「よく気づきました」
「お姉様なら、きっともう表を作っています」
「今、その言い方は?」
「比較ではなく、予想です」
「よろしい」
リリアナは少しだけ笑い、白紙を出した。
『読書・受領時の支援区分――暫定版一』
一、同席支援。
読む場に同席し、必要に応じて休憩を促す。
二、記録支援。
内容の要約、状態区分、未回答事項の整理を行う。
三、身体支援。
体調悪化時に医師、侍女、休憩場所を確保する。
四、事後支援。
読んだ後、または読まないと決めた後に話を聞く。
五、代理読解不可。
本人の許可なく中身を先に読んで意味づけしない。
書き終えると、リリアナは小さく息を吐いた。
「同席だけが支えではない」
マルタが言った。
「はい」
「よいです」
「それと、支援者を選ぶ権利も必要です」
リリアナは追記した。
『支援者は、受領者本人が選ぶ。地位や血縁により自動決定しない』
書いた瞬間、胸に刺さった。
血縁により自動決定しない。
自分は姉の妹だ。
だから、母の覚書を読む場に自分がいて当然とは言えない。
その事実が痛かった。
だが、必要だった。
「これ、お姉様のことにも関わりますね」
「ええ」
「私は、選ばれないかもしれません」
「はい」
「そのとき、傷つきます」
「はい」
「でも、それを理由に姉を責めてはいけません」
「はい」
リリアナは記録帳を開いた。
『母の覚書を姉が読むなら、私は同席者に選ばれないかもしれない。傷つくと思う。でも、血縁だから自動的に選ばれるわけではない。姉が選ぶ』
書き終えて、目元を押さえた。
「難しいです」
「はい」
「家族なのに」
「家族だから難しいのです」
マルタの言葉は静かだった。
その日の午後、アデルが王妃宮を訪れた。
リリアナは、ちょうど『読書・受領時の支援区分』の写しをまとめていた。
アデルは紙を読み、ゆっくり頷いた。
「王太子府でも必要だ」
「殿下も?」
「ああ。謝罪文や釈明文だけでなく、処分通知や過去記録の閲覧にも関わる」
「支援者を選ぶ権利も?」
「もちろん」
アデルは少しだけ苦笑した。
「王太子だから同席する、というものではないだろう」
「はい」
リリアナは、そこで少し迷った。
そして、思い切って聞いた。
「殿下は、もしお姉様が母の覚書を読むとき、自分も関わるべきだと思いますか」
アデルは、すぐには答えなかった。
以前なら、答えたかもしれない。
王太子として。
元婚約者として。
過去に関わった者として。
だが今は、少し考えてから言った。
「思わない」
リリアナは少し驚いた。
「思わないのですか」
「ああ。私は、彼女の母の覚書を読む場にいる資格はないと思う」
「資格……」
「少なくとも、彼女が望まない限り」
アデルの声は静かだった。
「私は謝罪したいと思っている。説明したいこともある。だが、それは私の都合だ。母君の覚書を読む場に、その都合を持ち込むべきではない」
リリアナは、胸が痛くなった。
アデルも変わっている。
ゆっくりと。
その変化は、嬉しい。
そして少し寂しい。
彼がセレスティアに対して正しく距離を取ろうとするほど、自分もまた彼との距離を考えなければならない。
「リリアナ」
アデルが言った。
「はい」
「君は、同席したいのか」
リリアナは、すぐ答えられなかった。
胸の中を探る。
したい。
姉のそばにいたい。
母の言葉を知りたい。
自分も関係していると思う。
でも。
「したいです」
リリアナは正直に言った。
「でも、選ばれないかもしれないと思っています」
「うん」
「それが、怖いです」
「うん」
「でも、選ばれないことを姉の拒絶だと決めないようにしたいです」
アデルは、静かに頷いた。
「難しいな」
「はい」
「私も、彼女に謝罪文を書いたとして、読まれないかもしれないと思うと怖い」
「怖いですか」
「怖い」
アデルは苦笑した。
「読まれないことを罰だと思ってしまうかもしれない」
「でも」
「ああ。彼女の権利だ」
二人は、少しの間黙った。
その沈黙は、以前よりずっと大人びていた。
答えが出ないことを、少しだけ耐えられる沈黙だった。
レイノルド公爵邸でも、支援者選択の話は届いていた。
グレゴールは報告書を読み、顔をしかめた。
「支援者は受領者本人が選ぶ。血縁により自動決定しない、か」
家令が頷く。
「王妃宮の暫定基準です」
「つまり、セレスティアがエレナの覚書を読むとき、父である私が同席するとは限らない」
「はい」
「むしろ、選ばれないだろうな」
グレゴールの声は苦かった。
家令は何も言わなかった。
「お前もそう思うか」
「現時点では、その可能性が高いかと」
「正直だな」
「旦那様が記録を求めておられますので」
グレゴールは不機嫌そうに息を吐いた。
「では、書け。グレゴール公爵、覚書開封時の同席者に選ばれない可能性を認識。不満あり」
家令は、ためらわず書いた。
「本当に書くな」
「記録ですので」
「……続けろ」
家令は、少しだけ筆を止めてから顔を上げた。
「続きは、どうなさいますか」
「何が」
「不満あり、の次です」
グレゴールは黙った。
不満がある。
父なのに。
夫なのに。
家長なのに。
そう思う。
だが、その肩書きがセレスティアを守らなかった。
むしろ、肩書きを盾にしてきた。
なら、選ばれなくても当然なのかもしれない。
「……ただし、受領者の選択を妨げない」
グレゴールは低く言った。
家令は書いた。
『ただし、受領者の選択を妨げない』
その紙を見て、グレゴールは苦々しく笑った。
「私は、どんどん情けない男として記録されていくな」
「情けなさを記録できるのは、強さでもあります」
「慰めか」
「暫定評価です」
「便利だな、本当に」
そう言いながら、グレゴールは椅子に深く沈んだ。
妻の覚書。
娘の選択。
父として選ばれない可能性。
どれも不愉快で、どれも否定できなかった。
その夜、北方辺境伯家には王妃宮の『読書・受領時の支援区分』が届いた。
セレスティアはそれを読み、少しだけ目を伏せた。
「リリアナも、同じことを考えていました」
ノアが言う。
「支援の分解ですか」
「はい」
「あなたと似た表になっていますね」
「でも、違います」
セレスティアは紙の一文を指した。
『支援者は、受領者本人が選ぶ。地位や血縁により自動決定しない』
彼女は、その行をしばらく見つめた。
「リリアナは、これを書くのがつらかったと思います」
「なぜ?」
「自分が選ばれない可能性を、認める文だからです」
ノアは静かに頷く。
「はい」
「私は、まだ誰を選ぶか決めていません」
「はい」
「でも、選ばないことも含めて、私が決めてよいのですね」
「よいです」
セレスティアは、深く息を吐いた。
支えを求めてもいい。
支えを選んでもいい。
支えを選ばなくてもいい。
一人で読むと決めてもいい。
誰かと読むと決めてもいい。
読んだ後だけ話すと決めてもいい。
選択肢が増えることは、楽になることでもあり、迷いが増えることでもあった。
けれど、迷いを持てるのは、少しだけ自由なのかもしれない。
セレスティアは、箱の上の紙を一枚増やした。
『支えも、私が選ぶ』
それを置いたあと、しばらく眺める。
未読も選択肢。
読むなら、支えを求めてもよい。
読むなら、支えも私が選ぶ。
母の覚書は、まだ開かれていない。
けれど、その周りに置かれる言葉は少しずつ増えている。
まるで、まだ触れられない傷の周囲に、そっと柵を作っているようだった。
その柵は完璧ではない。
いつか壊れるかもしれない。
それでも、今夜は必要だった。
セレスティアは帳面を開いた。
『支えを求めることは、支えを他人に決められることではない。
誰と読むか。誰と読まないか。読んだ後に誰と話すか。
それも私が決める。
決めるのは怖い。でも、決められないよりはいい』
書き終えて、ペンを置く。
窓の外は静かだった。
王都は明日もまた、何かを言うだろう。
ノアを選べ。
妹を選べ。
父と読むべきだ。
一人で読むのは冷たい。
誰かと読むのは依存だ。
きっと、何をしても言われる。
それでも、セレスティアは今日、箱の上に置いた三枚目の紙を見て、小さく頷いた。
誰と読むかまで、他人に決められたくない。
その気持ちだけは、確かだった。




