第68話 読む権利は、読む義務ではない
母の覚書は、まだ封じられたままだった。
中身を知っている者は、レイノルド公爵家の記録室にいた数名だけ。
セレスティアは知らない。
リリアナも知らない。
王妃宮も知らない。
王太子府も知らない。
それなのに、王都ではもう、その紙にいくつもの意味が貼られていた。
「亡き母君からの懺悔文らしい」
「いえ、セレスティア様への励ましでは?」
「公爵家が公開を拒むほどなのだから、相当な内容なのでしょう」
「読まないなんて、むしろ親不孝ではありませんこと?」
「でも、読めばまた傷つかれるかもしれないわ」
「真実から逃げていては、前へ進めませんわよ」
真実。
その言葉は、いつも堂々としている。
だが、セレスティアはその言葉が少し嫌いになっていた。
誰かが「真実」と呼ぶものは、ときどき他人の傷を無理に開くための鍵になる。
北方辺境伯家の朝は、いつも通り静かだった。
ただ、セレスティアの机の上には、昨夜から一枚の紙が置かれている。
『母の覚書――存在のみ確認。内容未読。受領意思、三十日後判断』
自分で書いた状態区分だった。
それを見るたび、胸の奥が揺れる。
読みたい。
読みたくない。
母に見られていたかった。
見ていたなら助けてほしかった。
見ていなかったなら、どうして覚書など残したのか。
答えは、まだ封じられた紙の中にある。
いや、答えがあるとは限らない。
ただ、もっと複雑な傷が増えるだけかもしれない。
セレスティアは、報告書を読んでいた。
母の覚書をめぐる王都の反応。
その中に、一つの文があった。
『一部では、セレスティア嬢には母君の遺言的記録を読む義務があるとの声』
読む義務。
その四文字を見た瞬間、セレスティアは紙から目を離せなくなった。
「義務……」
向かいに座っていたノアが、顔を上げる。
「何と?」
「母の覚書を読む義務がある、と」
ノアの表情が、静かに冷えた。
「誰がそんなことを」
「一部の声、だそうです」
セレスティアは、紙を机に置いた。
「母の言葉を読むことまで、義務になるのですね」
「なりません」
ノアは即答した。
昨日と同じ、迷いのない声だった。
セレスティアは少しだけ笑いそうになった。
「閣下は、そこは即答してくださるのですね」
「はい。これは即答できます」
「なぜですか」
「読むかどうかは、あなたの権利だからです。権利は、他人が義務へ変えてよいものではありません」
セレスティアは、その言葉を胸の中で繰り返した。
権利は、他人が義務へ変えてよいものではない。
王宮では、いくつものものがそうやって変えられてきた。
学ぶ権利は、王太子妃候補として完璧である義務になった。
発言する権利は、王宮を混乱させない義務に置き換えられた。
記録を確認する権利は、すべてを整えて返す義務になった。
そして今度は、母の言葉を読む権利まで。
「書きます」
セレスティアは言った。
「公表文ですか」
「いいえ。まずは、私のために」
彼女は白紙を取り、表題を書いた。
『未読の権利について』
書いた瞬間、少しだけ呼吸が楽になった。
『私には、母の私的覚書を読む権利があります。
同時に、今は読まないと決める権利もあります。
読む権利は、読む義務ではありません。
読みたいと思うことと、今読むことは同じではありません。
読まないことは、母を拒むことでも、真実から逃げることでもありません。
少なくとも、他人がそう決めるものではありません』
そこまで書いて、ペンが止まった。
胸が苦しい。
でも、言葉は出ている。
『私は、三十日後に受領意思を確認されることになっています。
その時点で読むかもしれません。読まないかもしれません。
どちらを選んでも、その選択を物語として消費されたくありません』
書き終えると、セレスティアは紙を見つめた。
これは、出すべきだろうか。
出せば、また騒がれる。
読まない権利などと言っている、と。
冷たい娘だ、と。
母の遺した言葉を拒むのか、と。
だが、出さなければ「読む義務」という言葉が広がるかもしれない。
「閣下」
「はい」
「これは、出すべきでしょうか」
ノアはすぐには答えなかった。
最近の彼は、彼女が答えを求めても、簡単には渡さない。
「あなたはどうしたいですか」
「出したいです」
セレスティアは、自分でも驚くほどはっきり答えた。
「母の覚書の内容については語りません。読みたいかどうかも、まだ公には言いません。でも、読む義務という言葉だけは、受け取らないと示したいです」
「なら、出しましょう」
「冷たいと言われます」
「言われるでしょう」
「親不孝だとも」
「言われるかもしれません」
「それでも?」
「あなたが受け取らないと言う必要があるなら」
セレスティアは、静かに頷いた。
「出します」
その文書は、北方辺境伯家の確認印を添えて、書記局へ送られた。
だが、ノアは内容に手を入れなかった。
ただ、確認欄に一文だけ添えた。
『本書は、セレスティア・レイノルド本人が自身の意思として記したものであり、北方辺境伯家はその送付手続きのみを担う』
その一文は、もう何度も使われている。
けれど、使うたびに意味がある。
代弁しないための印だった。
王妃宮にその写しが届いたのは、昼過ぎだった。
リリアナは、マルタとエルンと共に読んだ。
『読む権利は、読む義務ではありません』
その一文で、リリアナの手が止まった。
「お姉様……」
声が震える。
彼女もまた、どこかで思っていた。
母の覚書なら、姉は読むべきなのではないか。
母の言葉なのだから。
読むことで、何かが分かるかもしれないのだから。
でも、その「読むべき」が、姉を追い詰める言葉になることまでは、考えきれていなかった。
「私も、思っていました」
リリアナは言った。
マルタが静かに見る。
「読むべきではないか、と?」
「はい」
リリアナは、紙から目を離さなかった。
「母の言葉なら、お姉様は読むべきなのでは、と。私ならきっと読みたいから。だから、お姉様も読むべきなのではと」
「今は?」
「分かりません。でも、“べき”ではないと分かりました」
リリアナは記録帳を開いた。
『姉の文書。読む権利は読む義務ではない。
私は、母の覚書なら姉は読むべきだと思っていた。
でも、それは私の読みたい気持ちを姉に重ねていたのかもしれない。
姉が読むか読まないかは、姉の権利。私は待つしかない』
書いてから、唇を噛んだ。
待つ。
それが、こんなにも難しいとは思わなかった。
姉に謝るのを待つ。
母の覚書を待つ。
アデルとの答えを待つ。
自分が何者になるのかも、待つ。
リリアナは、いつも誰かに決めてもらっていた。
だから待つことが苦手だった。
しかし、今は待つしかない。
「王妃宮として、この文書に反応しますか」
エルンが尋ねた。
リリアナは少し考える。
「反応というより、原則として採用します」
「原則?」
「はい。王妃宮内でも、未読記録の扱いについて定めます。読む権利と読む義務を分けること。受領者が未読を選べること」
マルタが頷いた。
「よろしい」
「王妃宮にも、開かれていない古い手紙や私的覚書がありますよね」
「あります」
「それを、関係者に“読むべき”と迫らないために」
リリアナは白紙を取った。
『未読記録の扱いに関する暫定基準』
一、私的記録の受領者は、読むかどうかを選ぶ権利を持つ。
二、読む権利は読む義務ではない。
三、未読を選んだことを、拒絶、逃避、不敬などと記録しない。
四、第三者は、受領者本人より先に内容の意味づけを行わない。
五、公開要求は本人意思確認の原則に反する。
書きながら、リリアナは少し息を呑んだ。
これは姉だけのためではない。
王妃宮にいる多くの女官、侍女、貴族令嬢たちにも関わるかもしれない。
亡き母からの手紙。
婚約者からの謝罪文。
父からの命令書。
読みたくない記録。
読まないことを選べる。
そんな考えは、王宮ではあまりにも新しかった。
同じ頃、王太子府でもセレスティアの文書は読まれていた。
アデルは、一文目から黙った。
『読む権利は、読む義務ではありません』
彼は、長くその文字を見つめた。
自分にも覚えがある。
報告書を読む義務。
謝罪文を読むべきだという圧。
王太子として、すべてを知るべきだという言葉。
だが、それ以上に思い出したのは、セレスティアへ渡してきた無数の紙だった。
読んでおいてくれ。
確認しておいてくれ。
君なら分かるだろう。
それは、彼女が読む権利ではなく、読む義務として置かれていた。
「王太子府でも採用する」
アデルは言った。
エドが顔を上げる。
「未読記録の扱いですか」
「ああ。特に、謝罪文や私的書簡だ」
ラウルが眉をひそめた。
「殿下。謝罪文を読まない自由まで認めれば、和解が進まなくなります」
「謝罪は、読まれた時点で成立するものではない」
アデルは静かに言った。
「まして、読ませれば許されるものでもない」
ラウルは黙った。
アデルは続ける。
「私もいずれ、セレスティアに直接謝罪文を書くことになるかもしれない」
室内が静まった。
「そのとき、彼女が読まないことを選んでも、それを不敬や拒絶として扱わない。王太子府内で、今のうちに定めておく」
エドが記録する。
『私的謝罪文、釈明文、未読記録について、受領者の読む権利と読まない権利を区分。未読をもって拒絶または不敬とは扱わない』
アデルは、その文を見て小さく息を吐いた。
これは、自分にとっても痛い規則だ。
謝れば読んでほしい。
読んだなら、少しは伝わってほしい。
そう思うに決まっている。
だが、それを相手に義務として押しつければ、また同じことになる。
謝罪すら、支配になる。
アデルは、ようやくその危うさに気づき始めていた。
レイノルド公爵邸では、セレスティアの文書を読んだグレゴールが、しばらく黙っていた。
家令は向かいに立っている。
「読む権利は、読む義務ではない、か」
グレゴールは低く言った。
「はい」
「私に向けているな」
「おそらく、一部は」
「一部?」
「王都全体にも、向けられているかと」
グレゴールは、鼻で笑いかけて、やめた。
笑えなかった。
セレスティアは、母の覚書を読む義務はないと書いた。
それはつまり、父が三十日後に「母の言葉だ、読むべきだ」と迫ることも拒んでいる。
先に釘を刺された。
そう感じた。
だが、それが不当だとは思えなかった。
「家令」
「はい」
「エレナの覚書の状態区分に追加しろ」
「何を」
「受領者が未読を選んだ場合、公爵家はそれを拒絶または不敬として扱わない」
「承知しました」
家令はすぐに書く。
グレゴールは、その筆音を聞きながら、苦い顔をした。
「私は、読んでほしいのだろうな」
ぽつりと漏れた言葉だった。
家令は手を止めない。
「そうかもしれません」
「エレナが何を書いたか、セレスティアに知ってほしい。私だけが抱えるのも嫌だ。エレナが見ていたことを、あれに知らせたい」
「はい」
「だが、それも私の都合だ」
家令は、ようやく顔を上げた。
「旦那様がそう記録なさるなら、前進かと」
「何でも前進にするな」
「失礼いたしました」
グレゴールは不機嫌そうに黙った。
だが、しばらくして言った。
「書け。公爵、覚書を読んでほしい感情あり。ただし、受領者の未読選択を妨げない」
家令は、静かに書き加えた。
『グレゴール公爵、覚書をセレスティア様に読んでほしい感情あり。ただし、受領者の未読選択を妨げない』
グレゴールは、その文字を見て顔をしかめた。
「情けない記録だ」
「人間らしい記録です」
「お前は最近、口が過ぎる」
「暫定版ですので」
「それは免罪符ではない」
「承知しております」
苦いやり取りだった。
だが、以前なら成立しなかった会話でもあった。
王都では、セレスティアの「未読の権利」に対して、また賛否が割れた。
「母の言葉を読まない権利など、冷たすぎる」
「いいえ、読むかどうかを自分で決めたいのは当然でしょう」
「令嬢たちが親からの手紙を読まないと言い出したらどうするの」
「読ませれば伝わると思う方が傲慢では?」
若い令嬢たちの間では、その言葉は静かに広がった。
特に、家族からの手紙や婚約者からの釈明文に苦しんだことのある者たちに。
「読まないと失礼だと思って、何度も読んで傷ついたことがあります」
「私も。謝罪文なのに、こちらが悪いような気持ちになって」
「未読のまま置く権利があるなんて、考えたことがなかった」
一方で、保守派は強く反発した。
「家族の言葉を読まない権利など、家の秩序を壊す」
「親の遺した言葉を選別するとは、傲慢だ」
「セレスティア嬢は、もはや個人意思を盾に全てを拒んでいる」
その声もまた大きかった。
セレスティアのもとにも、その反応は届いた。
彼女は、すべてを読み終えたあと、静かに紙を畳んだ。
「親不孝と言われています」
ノアが答える。
「はい」
「家の秩序を壊す、とも」
「はい」
「でも、若い令嬢たちの一部は、未読の権利という言葉を受け取った」
「そのようです」
セレスティアは少しだけ目を伏せた。
「私のために書いた言葉が、また外へ出ました」
「はい」
「今回は、少し怖くありません」
ノアが彼女を見る。
セレスティアは続けた。
「怖いです。でも、全部が怖いわけではありません。誰かが、読まなくてもいいのだと思えたなら……それは、少しだけ意味がある気がします」
「あります」
「ありますか」
「はい」
セレスティアは、少しだけ笑った。
「閣下は、最近たまに断言しますね」
「必要なときは」
「では、これは必要だったのですね」
「はい」
その夜、セレスティアは母の覚書の箱を開けなかった。
代わりに、その上に新しい紙を置いた。
『未読も選択肢』
たった一行。
だが、その一行があるだけで、箱の重さが少し変わった気がした。
彼女は帳面を開き、今日の最後の記録を書いた。
『母の覚書を読む権利はある。読まない権利もある。
読まないことを、親不孝と呼ぶ声がある。
それでも、私はまだ決めない。
決めないことを、今日の私の選択にする』
書き終えて、ペンを置く。
決めないこと。
それは、かつてのセレスティアなら許せなかった。
未処理。
未回答。
未確認。
そんな状態を放置するのは、罪のように感じた。
けれど今は違う。
未読。
未判断。
保留。
それらは逃げではなく、自分を守るための棚でもある。
セレスティアは灯りを落とした。
母の言葉は、まだ読まれていない。
だが、今夜初めて、その未読のままの沈黙が、少しだけ彼女自身のものになった。




