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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第67話 母の言葉まで、王都は見世物にした

 母の私的覚書は、まだ誰の手にも渡っていなかった。


 少なくとも、セレスティア本人には。


 レイノルド公爵家の記録室で見つかった一枚の紙。

 故エレナ公爵夫人が、かつて娘について書き残したらしい覚書。


 内容は未共有。

 存在のみ確認。

 送付未判断。

 受領意思、三十日後確認。


 その状態区分は、あまりに冷たいようで、同時にぎりぎりの配慮でもあった。


 誰もがそう思おうとしていた。


 だが、王都は配慮の隙間に指を差し込む。


 翌日の午後には、もう噂になっていた。


「レイノルド公爵夫人の遺した覚書が見つかったそうですわ」


「亡くなられた奥方様の?」


「ええ。セレスティア様に関わる内容だとか」


「まあ……では、やはりお母様はご存じだったのかしら」


「何を?」


「あの方が無理をしていたことを」


「それを今まで隠していたの?」


「隠したとは限りませんわ。けれど、送らないことにしたのでしょう?」


「送らない? 母の言葉を?」


 声は、驚きと好奇心を同じ器に入れて混ぜたようだった。


 亡き母の言葉。


 苦労した長女。


 気づいていたかもしれない母。


 送られない覚書。


 これほど王都の興味を引く材料もなかった。


 そこに善意はあった。


 哀れみもあった。


 けれど、好奇心もあった。


 そして好奇心は、ときどき善意よりずっと速く走る。


 北方辺境伯家の王都屋敷にその報告が届いたとき、セレスティアは香りの薄い茶を飲んでいた。


 今日は古い記録を読まない日と決めていた。


 母の覚書の存在を知った翌日だ。


 無理に読めば、きっと心が追いつかない。


 だから、今日は読まない。


 代わりに、庭を少し歩いて、午後は簡単な刺繍でもしようと思っていた。


 刺繍は得意ではない。


 けれど、得意ではないことをする時間も必要だとノアに言われた。


 得意なことばかりしていると、また役割に戻りやすいから、と。


 そんな午後だった。


 執事が報告書を運んできた。


 ノアが先に受け取り、目を通す。


 表情が、わずかに変わった。


 セレスティアは、茶器を置いた。


「母の覚書のことですね」


 ノアは、隠さなかった。


「はい」


「噂に?」


「なっています」


「そうですか」


 自分の声が思ったより平坦で、セレスティアは少し驚いた。


 怒りはある。


 悲しみもある。


 だが、それより先に疲れが来た。


 またか。


 そう思った。


 悪女。

 才女。

 反乱。

 慎ましい令嬢。

 北方の傀儡。

 暫定。

 そして今度は、母の覚書。


 王都は、彼女の人生を次々と題材にする。


「読ませてください」


 ノアは報告書を渡した。


 そこには、いくつもの噂が記録されていた。


『亡きエレナ公爵夫人が、セレスティア嬢の苦境を知っていた可能性』


『公爵家が覚書を隠していたのではとの声』


『母の言葉なら、セレスティア嬢へ即時渡すべきとの意見』


『一方で、内容が重いなら三十日後まで待つべきとの意見』


『一部では、覚書内容を公開すべきとの過激な声もあり』


 公開。


 その言葉の上で、セレスティアの指が止まった。


 母の私的覚書を。


 自分もまだ読んでいない紙を。


 誰かが、公開すべきと言っている。


 呼吸が少し浅くなった。


「……公開」


 声に出すと、ノアの目がわずかに冷えた。


「あり得ません」


「そうですね」


「これは、あなたとご家族の私的な記録です。少なくとも、社交界が扱うものではない」


「でも、彼らは扱います」


 セレスティアは報告書を見つめたまま言った。


「内容を知らなくても。母が何を書いたか知らなくても。私が読むかどうか決めていなくても」


 彼女は紙を置いた。


 手が少し震えていた。


「母の言葉まで、見世物になるのですね」


 ノアは答えなかった。


 答えられる言葉がないとき、彼は無理に慰めない。


 それが、今はありがたかった。


 セレスティアは深く息を吸った。


「私は、読みたいのかもしれません」


「はい」


「でも、こうやって騒がれると、読みたくなくなります」


「はい」


「読むことも、読まないことも、王都への反応にされる気がします」


「されるでしょう」


「母の言葉なのに」


 そこで声が崩れそうになった。


 セレスティアは、唇を噛んでこらえた。


「母の言葉が、本当に私に向けられたものなら、それは私と母の間のものです。少なくとも、最初に触れるのは私でありたかった」


「はい」


「なのに、まだ内容も知らないうちから、周りが先に泣いたり怒ったりしている」


 セレスティアは、静かに目を伏せた。


「置いていかれた気分です」


 ノアは、その言葉を受け止めるように少しだけ頭を下げた。


「あなたより先に、誰かが意味をつけ始めている」


「はい」


「それは、ひどいことです」


 その一言で、胸の奥が少しだけ緩んだ。


 ひどいこと。


 そう言ってよかったのだと思えた。


 誰かの善意が混じっていても、同情があっても、ひどいものはひどい。


 セレスティアは白紙を出した。


 ノアが少しだけ身を乗り出す。


「書くのですか」


「返事ではありません」


「はい」


「私のための記録です」


 彼女は、ゆっくり書き始めた。


『母の覚書の存在が噂になった。内容を知らない人たちが、すでに意味をつけ始めている。

 私はまだ読んでいない。読むかどうかも決めていない。

 それなのに、母の言葉は“隠された真実”や“哀れな娘への救い”として語られている。

 母の言葉が私に向けられたものなら、最初に意味を決めるのは私でありたい』


 そこまで書いて、ペンを止める。


 怒りが、少しずつ形を持ってきた。


『公開を求める声は受け取らない。

 私が読む前に、母の言葉を誰かの物語にしないでほしい』


 書き終えたあと、セレスティアはしばらく紙を見つめた。


 これは公表しない。


 少なくとも今は。


 でも、書けた。


 それだけで少し息が戻った。


 同じ頃、王妃宮でも同じ報告が届いていた。


 リリアナは読んだ瞬間、椅子から立ち上がった。


「公開?」


 声が震えた。


「誰がそんなことを」


 エルンが気まずそうに答える。


「一部の茶会で、真実を明らかにすべきだという声が」


「真実?」


 リリアナは紙を握りしめかけて、慌てて机に置いた。


 紙を潰してはいけない。


 でも、潰したいくらい腹が立った。


「母の私的な言葉です。お姉様もまだ読んでいないのに。どうして他人が公開すべきなどと」


 マルタが静かに言う。


「王都は、物語を欲しがります」


「物語ではありません」


「はい」


「お姉様の人生も、母の言葉も、物語ではありません」


「はい」


 リリアナは、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 自分は母の覚書を読みたい。


 とても読みたい。


 でも、公開してほしいわけではない。


 姉より先に知りたいわけでもない。


 ただ、母が何を思っていたのか怖くて、知りたくて、分からなくて揺れているだけだ。


 それを、王都の人々が「隠された真実」として勝手に膨らませている。


「王妃宮として、何か出せますか」


 リリアナは言った。


 マルタは問い返す。


「何を?」


「私的覚書の公開を求める声は不適切だと」


「王妃宮が公爵家の私的記録へ口を出す形になります」


「でも、このままだと」


「はい。放置すれば、さらに広がるでしょう」


 リリアナは考えた。


 焦ってはいけない。


 怒っているときほど、分解する。


 彼女は白紙を出した。


『問題の分解』


 一、母の私的覚書の存在が漏れている。

 二、内容は未共有。

 三、セレスティア本人は読むかどうか未判断。

 四、公開を求める声がある。

 五、王妃宮がどこまで関われるか。


 五番で止まる。


 王妃宮は、この家族の私的記録に関わりすぎてはいけない。


 けれど、セレスティアは王妃宮にも関係する人物で、三十日回答停止中でもある。


 王妃宮は、彼女の三十日を尊重すると公に言っている。


 ならば、少なくともそこは守れる。


「王妃宮としては、セレスティア様の三十日回答停止期間中、本人が未受領の私的記録について外部から公開や回答を求めることは、本人意思確認の原則に反する、と出せますか」


 リリアナが言うと、マルタは頷いた。


「出せます」


「母の内容には触れずに」


「はい」


「公爵家の判断を支持するとも、批判するとも書かずに」


「できます」


 リリアナは息を吸った。


「では、それでお願いします」


 エルンが草案を書き始める。


 リリアナは、その横で自分の記録帳を開いた。


『母の覚書公開を求める声。怒った。とても怒った。

 私は読みたい。でも、公開してほしいのではない。

 お姉様が読む前に、母の言葉を王都の物語にしないでほしい』


 書きながら、涙が出そうになった。


 母。


 リリアナにとっても母だった。


 ただ、セレスティアに関わる覚書なら、まず姉のものだと思う。


 それが悔しくもあり、当然でもある。


 母をめぐる感情まで、姉と同じではない。


 母への寂しさ。

 姉への罪悪感。

 父への怒り。

 王都への嫌悪。


 全部が混じる。


 マルタが横で言った。


「顔色が悪いです」


「悪いと思います」


「休みますか」


「この文が出るまで休めません」


「では、文が出たら休みなさい」


「はい」


 その頃、レイノルド公爵邸では、グレゴールが激怒していた。


 怒鳴り声が応接室に響く。


「誰が漏らした!」


 家令は頭を下げたままだ。


「現在確認中でございます」


「確認中では足りん。母親の私的覚書だぞ」


「はい」


「セレスティアにも渡していないものが、なぜ茶会の話題になる」


 グレゴールの怒りは本物だった。


 だが、その怒りの奥には別のものもあった。


 恐れ。


 自分たちがまた、セレスティアより先に何かを奪ったのではないかという恐れ。


 家令は静かに言った。


「旦那様。漏洩経路の確認と同時に、公爵家として声明を出す必要がございます」


「声明?」


「はい。故エレナ様の私的覚書について、外部公開の予定はないこと。内容の扱いは、セレスティア様ご本人の受領意思確認を優先すること」


「当然だ」


「では、そう明記いたします」


 グレゴールは歩き回っていた足を止めた。


「いや、待て」


 家令が顔を上げる。


「何でしょう」


「その文では、まるで私がセレスティアの意思を尊重する父のようではないか」


 家令は黙った。


 グレゴールは自嘲するように息を吐いた。


「笑えるな。今さら」


「旦那様」


「書け。公爵家は、過去にセレスティアの意思確認を怠った。その反省に基づき、今回の覚書については本人の受領意思確認を行う、と」


 家令は一瞬、動きを止めた。


「よろしいのですか」


「よくはない」


 グレゴールは低く言った。


「だが、綺麗な父親の顔で書くよりはましだ」


 家令は深く頭を下げた。


「承知しました」


 草案はすぐに作られた。


『レイノルド公爵家は、故エレナ公爵夫人の私的覚書について、外部公開を行わない。

 当該覚書はセレスティア・レイノルドに関わる内容を含む可能性があり、本人の受領意思確認を経ずに扱うべきものではない。

 当家は過去、セレスティア本人の意思確認を怠った記録がある。その反省に基づき、本件については三十日期間終了後、本人が受領を望むかどうかを確認する』


 グレゴールはその文を読み、苦い顔をした。


「足りないな」


「どの部分でしょうか」


「漏洩したことへの謝罪がない」


 家令は静かにペンを構える。


「どなたへ」


 その問いに、グレゴールは詰まった。


 誰へ。


 セレスティアへ。

 リリアナへ。

 エレナへ。

 王妃宮へ。

 家そのものへ。


 全部だ。


 だが、全部と書くと薄くなる。


「セレスティアへ」


 グレゴールは言った。


「まずは、セレスティアへだ」


 家令は頷き、書き足した。


『当該覚書の存在が外部に流れたことについて、セレスティア・レイノルド本人に対し、公爵家として謝罪する』


 グレゴールは、その一文を長く見た。


 謝罪。


 また紙の上で謝っている。


 本人の前ではない。


 それでも、書かないよりはましか。


 分からない。


 だが、今できることはこれだった。


 王太子府にも、騒ぎは届いていた。


 アデルは王妃宮と公爵家の声明草案を読み比べていた。


 王妃宮は、本人未受領の私的記録への公開要求は本人意思確認の原則に反するとした。


 公爵家は、外部公開を行わず、三十日後にセレスティア本人へ受領意思を確認するとした。


 どちらも、以前の王宮なら出てこなかった文だ。


 アデルは、静かに言った。


「王太子府は、この件に深入りしない」


 エドが確認する。


「声明は出しませんか」


「出すと、王太子府が彼女の母の覚書を政治案件にしてしまう」


「では」


「王妃宮と公爵家の本人意思確認方針を尊重する、とだけ内部記録に残す。外部へは問い合わせがあった場合のみ回答」


 ラウルが言った。


「殿下。保守派の中には、王太子府が沈黙すれば公爵家寄りと見る者も」


「どう見られるかより、何を扱うべきでないかだ」


 アデルは疲れたように目を閉じた。


「彼女の母の私的覚書だ。王太子府が旗を振るものではない」


 リリアナを守るために動きたい気持ちがある。

 セレスティアへの過去の責任から、何か言いたい気持ちもある。


 だが、それは自分の感情だ。


 ここで王太子府が出れば、またセレスティアの個人的な痛みを政治の机に乗せることになる。


 アデルは、そう自分に言い聞かせた。


 夜、北方辺境伯家に公爵家の声明写しが届いた。


 セレスティアは、ノアと向かい合って読んだ。


『外部公開を行わない』


『本人の受領意思確認を経ずに扱うべきものではない』


『過去、セレスティア本人の意思確認を怠った記録がある』


『当該覚書の存在が外部に流れたことについて、セレスティア・レイノルド本人に対し、公爵家として謝罪する』


 最後の一文で、セレスティアの指が止まった。


 父が謝っている。


 紙の上で。


 公爵家として。


 本人へ直接ではない。


 それでも、謝罪という文字がある。


 胸の中に、嫌な重さが広がった。


「……謝られました」


 ノアは静かに頷く。


「はい」


「今度は、覚書の存在が漏れたことについて」


「はい」


「父は、謝ることが増えましたね」


 その言葉は皮肉だった。


 でも、少しだけ痛みも混じっていた。


 謝られればよいわけではない。


 謝られるたびに、謝るべきことがあったのだと突きつけられる。


 セレスティアは、声明を机に置いた。


「受け取りたくありません」


「はい」


「でも、公爵家が外部公開しないと明記したことは、必要でした」


「はい」


「謝罪は、今は受け取りません」


「それでいいと思います」


 彼女は帳面を開いた。


『母の覚書の存在が漏れた。公爵家が外部公開しないと声明。父は、公爵家として私に謝罪した。

 公開しない方針は受け取る。

 謝罪は、今は受け取らない。

 謝罪は、相手が出した時点で完了するものではない』


 書き終えたあと、しばらくその一文を見つめた。


 謝罪は、相手が出した時点で完了するものではない。


 それは、自分にも必要な言葉だった。


 リリアナからの謝罪。

 アデルからの謝罪。

 父からの謝罪。


 どれも、すぐ受け取らなくていい。


 同時に、自分がいつか誰かに謝るときも、相手にすぐ受け取れと求めてはいけない。


 セレスティアはペンを置いた。


 疲れた。


 ひどく疲れた。


 今日はもう何も読みたくなかった。


 ノアが静かに言った。


「庭へ出ますか」


「夜ですよ」


「少しだけ」


「……はい」


 二人は屋敷の小さな庭へ出た。


 夜風は冷たすぎず、草の匂いがした。


 王都の噂から、少しだけ遠い場所。


 セレスティアは空を見上げた。


 母の言葉は、まだ届いていない。


 届いていないのに、傷ついている。


 でも、公にはしないと決まった。


 読むかどうかは、三十日後に自分が決める。


 その小さな権利を、今日は抱えて眠るしかなかった。


「閣下」


「はい」


「母の言葉を読む日が来たとして、私は何を期待しているのでしょう」


「分かりません」


「母が私を見ていた証拠でしょうか」


「かもしれません」


「母が私を見ていなかった方が、楽だったかもしれません」


「そうかもしれません」


「見ていたのに何も変わらなかったなら、その方が痛い」


 ノアは、静かに答えた。


「はい」


 セレスティアは目を閉じた。


 嘘の慰めではない。


 それでよかった。


 夜の庭で、彼女は小さく息を吐いた。


 母に見られていたかった。

 でも、見られていたなら助けてほしかった。


 その矛盾は、まだどこにも行かない。


 だから今夜は、ただ持っているしかなかった。


 誰にも公開されないまま。


 誰にも意味を決められないまま。


 自分の胸の中で、まだ未読の母の言葉として。

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