第66話 送られなかった母の言葉
レイノルド公爵家から王妃宮へ届いた報告は、奇妙な形をしていた。
それは、過去記録の写しではなかった。
かといって、完全な目録でもなかった。
表紙には、家令の整った字でこう書かれている。
『姉妹教育記録内に発見された私的覚書について。内容未送付。存在のみ共有』
リリアナは、その表題を見ただけで胸がざわついた。
内容未送付。
存在のみ共有。
それは、いかにも今の王宮らしい言い回しだった。
すぐに全部を出さない。
けれど、隠したことにもしたくない。
相手への影響を考えて、状態だけを記録する。
正しいのかもしれない。
けれど、読む側にとっては、とても気持ちが悪い。
「マルタ様」
リリアナは、封書を開ける前に言った。
「これ、読む前から嫌です」
「はい」
「母の覚書、ですよね」
「表題からは、その可能性が高いです」
「内容未送付ということは、私たちに読ませない判断をしたということですよね」
「少なくとも現時点では」
「誰が?」
「公爵家でしょう」
「お父様が?」
「家令も関わっていると思われます」
リリアナは唇を噛んだ。
父が、母の言葉を送らないと判断した。
そのこと自体に、妙な怒りが湧いた。
今さら。
今まで何も見てこなかった父が、今度は「影響が大きいから」といって母の言葉を止めるのか。
でも、別の声もある。
もしかすると、その判断は正しいのかもしれない。
セレスティアは三十日の回答停止期間中だ。
過去記録を読むだけでも苦しんでいるはずだ。
母の私的覚書がどんな内容か分からないまま送るのは危険かもしれない。
正しさと腹立たしさが同じ場所にあった。
リリアナは、ゆっくり封を開いた。
中の文面は短かった。
『姉妹教育記録の整理中、故エレナ公爵夫人の私的覚書一枚を発見。
内容はセレスティア様に関わるものと思われる。
受領者への影響が大きいと判断し、三十日回答停止期間中の送付は見合わせる。
三十日期間終了後、セレスティア様ご本人の受領意思確認の上、送付可否を再判断予定。
本件について、王妃宮およびリリアナ様への回答を求めるものではない』
リリアナは、読み終えても紙から目を離せなかった。
母の覚書。
セレスティアに関わるもの。
影響が大きい。
この三つだけで、想像はいくらでも膨らむ。
母は、姉について何を書いていたのだろう。
心配していたのか。
褒めていたのか。
謝っていたのか。
それとも、もっと別のことか。
「内容を知りたいです」
リリアナは言った。
声が震えていた。
「はい」
「でも、知ってしまうのが怖いです」
「はい」
「お姉様に先に読ませるべきなのか、それとも私も関わる記録だから私にも読む権利があるのか、分かりません」
「分からない、でよいと思います」
「よくありません」
思わず強い声になった。
リリアナは、すぐに息を呑む。
「すみません」
「構いません」
マルタは表情を変えなかった。
「分からない状態がつらいのですね」
「はい」
リリアナは報告書を机に置いた。
「母の言葉まで、状態区分に置かれているみたいです」
「そうですね」
「未送付。影響大。三十日後再判断」
「はい」
「必要なのは分かります。でも、母の言葉がまた誰かの判断で止められていることが、嫌です」
言いながら、リリアナは自分でも混乱していた。
誰かの判断で止められる。
それは確かに嫌だ。
でも、何でもすぐ送ればいいわけでもない。
セレスティアの三十日を守るなら、止める判断も必要だ。
では、どうすればいいのか。
「マルタ様」
「はい」
「母の覚書も、暫定扱いなのでしょうか」
「存在は確認済み。内容は未共有。送付は未判断。状態区分で言えば、存在確定、内容未共有、送付可否三十日後確認、でしょう」
リリアナは、思わず苦く笑った。
「人の心まで台帳みたいですね」
「台帳にしなければ、また誰かの胸の中だけにしまわれます」
その言葉に、リリアナは黙った。
胸の中だけにしまわれる。
それは、たぶん一番危ない。
優しさのように見えて、相手に何も知らせないまま時間だけが過ぎる。
「記録します」
リリアナは言った。
自分の記録帳を開く。
『母の私的覚書が見つかった。内容未送付。セレスティア様に関わるものらしい。
読みたい。怖い。父が止めたことに腹が立つ。でも、今すぐ姉に送るべきではない気もする。
母の言葉まで、誰かの判断で止まっているのが嫌。
ただし、存在が記録されたことは、隠されるよりはよいのかもしれない。
分からない』
最後に、はっきり書いた。
分からない。
その三文字を見て、少しだけ息ができた。
同じ頃、北方辺境伯家の王都屋敷にも、同じ報告が届いていた。
ただし、宛先はセレスティア本人ではなく、ノア宛だった。
表書きには、こう記されている。
『セレスティア様に関わる可能性のある私的覚書発見について。本人への即時開示を求めず、庇護者としての状況把握のため共有』
ノアは、それを読んだ瞬間、わずかに眉をひそめた。
庇護者。
また、その言葉だ。
便利で、危うい言葉。
彼は封を開け、文面を確認した。
エレナ公爵夫人の私的覚書が見つかったこと。
セレスティアに関わる内容と思われること。
影響が大きいと判断し、三十日期間中は送付を見合わせること。
ノアへは、セレスティアの状態に配慮する立場として存在のみ共有すること。
ノアは読み終え、紙をしばらく見つめた。
内容は書かれていない。
それは配慮だろう。
だが、ノアにだけ共有するという判断は、別の問題を含んでいる。
セレスティア本人が知らない「彼女に関わる母の覚書」の存在を、自分だけが知る。
それは、彼が最も避けてきた位置だった。
代弁者ではない。
所有者でもない。
彼女の言葉や過去を、自分の手元で管理する者ではない。
ノアは、しばらく考えた。
セレスティアに伝えるべきか。
伝えれば、彼女は揺れる。
伝えなければ、自分が彼女の過去を隠す形になる。
どちらも痛い。
彼は報告書を畳み、立ち上がった。
セレスティアは、自室で古い記録を読んでいた。
今日は午前中に一枚だけ、と決めている。
ノアが入室すると、彼女は顔を上げた。
「何かありましたか」
彼の表情で察したのだろう。
ノアは、少しだけ間を置いた。
「レイノルド公爵家から、私宛に報告が届きました」
「閣下宛に?」
「はい」
その時点で、セレスティアの目がわずかに冷えた。
自分に関わることを、ノアへ。
その構図を、彼女も感じ取ったのだろう。
「私に関わることですか」
「その可能性が高いと書かれています」
「読ませてください」
ノアは、すぐに紙を差し出さなかった。
セレスティアはその沈黙を見て、少しだけ身を固くした。
「閣下?」
「内容自体は書かれていません。存在のみの共有です」
「何の存在ですか」
「故エレナ公爵夫人の私的覚書です」
セレスティアの顔から、色が引いた。
母。
その言葉は、今でも彼女の中で触れにくい場所にある。
病の記憶。
薬湯の匂い。
白い指。
咳。
リリアナの泣き声。
父の不在。
その中に、母の言葉があった。
「母の……覚書」
「はい」
「私に関わるもの、と?」
「そう書かれています」
「内容は?」
「送られていません」
「なぜ」
「受領者への影響が大きいと判断し、三十日期間中は送付を見合わせる。三十日後、あなたの受領意思を確認した上で送付可否を再判断する、と」
セレスティアは、しばらく何も言わなかった。
部屋の中の空気が、急に重くなる。
ノアは、報告書を彼女の前に置いた。
「私だけが知る形にはしたくありませんでした」
セレスティアは紙を見た。
すぐには手を伸ばさなかった。
「……ありがとうございます」
声は小さかった。
「でも、知りたくなかったです」
「はい」
「知りたくなかったのに、知らされないのも嫌です」
「はい」
「母が、私について何か書いていた」
「はい」
「それを父が、今は送らないと決めた」
「はい」
セレスティアは、ようやく紙に手を伸ばした。
読み進める。
内容はない。
存在だけ。
それが、かえって想像を広げる。
母は何を書いたのだろう。
あの人は、私を見ていたのだろうか。
見ていたなら、なぜ何も変わらなかったのか。
見ていなかったなら、なぜ今さら私に関わる覚書があるのか。
どちらでも痛い。
「母は、私をどう見ていたのでしょう」
セレスティアは呟いた。
ノアは答えなかった。
答えられるはずがない。
セレスティアは報告書を机に置いた。
「読みたいです」
「はい」
「でも、今は読みたくありません」
「はい」
「三十日後に、受け取るかどうかを私が決める」
「そう書かれています」
「父が決めるのではなく?」
「最終的には、あなたの意思確認が必要と」
セレスティアは苦く笑った。
「ようやく、母の紙を読むかどうかだけは私が決められるのですね」
その言葉は皮肉だった。
だが、完全な皮肉ではない。
小さな事実でもあった。
彼女は帳面を開いた。
しばらくペンを握ったまま動かなかった。
そして書いた。
『母の私的覚書が見つかった。私に関わるものらしい。内容はまだ知らない。
読みたい。読みたくない。知りたくなかった。隠されたくもなかった。
三十日後、受け取るかどうかを私が決める。
母の言葉を読むかどうかを、初めて私が決める』
そこまで書いて、手が止まった。
母の言葉。
セレスティアは、母を恨んでいたのだろうか。
父ほど明確ではない。
リリアナほど近くもない。
母はいつも病の向こう側にいた。
責めれば病人を責めるようで苦しく、恋しがれば自分がまた幼くなるようで怖かった。
だから、長いあいだ母のことは曖昧なままにしていた。
その曖昧さへ、今、紙が届こうとしている。
内容も分からない紙が。
「閣下」
「はい」
「もし私が三十日後に受け取らないと言ったら、それは逃げでしょうか」
「いいえ」
ノアは即答した。
珍しく、間がなかった。
セレスティアは顔を上げる。
「即答ですね」
「これは即答できます」
「なぜ?」
「母親の私的な言葉を読むかどうかは、あなたの権利です。読む義務ではありません」
読む義務ではない。
その言葉で、胸の奥が少しだけ震えた。
自分は今まで、あらゆる記録を読む義務のように感じていた。
知るべき。
確認すべき。
向き合うべき。
でも、母の言葉を読むことは義務ではない。
それは権利。
受け取ってもいい。
受け取らなくてもいい。
「では、考えます」
セレスティアは言った。
「はい」
「三十日後まで」
「はい」
「今日は、もう読みません」
「それがよいと思います」
彼女は古い記録も、母の覚書の存在報告も、一つの箱へ入れた。
鍵はかけない。
でも、蓋は閉じる。
その頃、レイノルド公爵邸では、グレゴールがエレナの覚書をもう一度読んでいた。
『あの子に、何もしない日を一日あげたい』
その一文が、何度読んでも胸に刺さる。
エレナは、見ていた。
セレスティアが静かに我慢していることを。
それなのに、自分たちは何もしなかった。
いや、エレナは病で動けなかった。
自分は?
グレゴールは、紙を机に置いた。
家令が控えている。
「旦那様」
「何だ」
「この覚書について、状態区分を更新いたしました」
「読め」
家令は紙を見た。
「存在確定。内容未共有。送付未判断。送付候補時期、三十日期間終了後。受領意思確認、必須。公爵家内責任者、グレゴール様」
グレゴールの眉が動く。
「責任者まで書くのか」
「はい」
「なぜ」
「誰が保留しているのかを曖昧にしないためです」
グレゴールは、しばらく家令を睨んだ。
だが、やはり怒鳴らなかった。
「……そうか」
低い声で言う。
「なら、書け」
「すでに」
「早いな」
「暫定版二でございます」
家令が真顔で言うので、グレゴールは一瞬だけ言葉を失った。
そして、苦々しく息を吐いた。
「お前まで暫定版か」
「便利ですので」
「便利な言葉は、ろくなことにならん」
「はい。ですので使用条件も添えております」
グレゴールは、ついに少しだけ笑った。
笑ったといっても、ひどく苦いものだった。
「王妃宮の病が、公爵家にも移ったな」
「病ではなく、手順かと」
「同じようなものだ」
そう言いながら、グレゴールはエレナの覚書を丁寧に封筒へ戻した。
乱暴には扱わなかった。
扱えなかった。
「エレナは、私より先に気づいていた」
ぽつりと、彼は言った。
家令は黙っている。
「気づいていたのに、何も変えられなかった」
「奥方様は病で」
「私は病ではなかった」
その言葉は、部屋に重く落ちた。
グレゴール自身が一番驚いているようだった。
自分で言うつもりはなかった。
だが、出た。
私は病ではなかった。
では、なぜ見なかったのか。
王宮が忙しかったから。
公爵家の責務があったから。
セレスティアが優秀だったから。
リリアナが繊細だったから。
エレナが病だったから。
理由はいくらでもある。
だが、どれも完全な答えではない。
「旦那様」
家令が静かに言った。
「その言葉も、記録いたしますか」
グレゴールは家令を見た。
しばらく、何も言わなかった。
そして、低く答えた。
「書け」
家令は頷き、紙に書いた。
『グレゴール公爵発言:エレナ夫人は病であった。私は病ではなかった』
グレゴールは、その文字を見た。
逃げ場が一つ、消えた気がした。
王妃宮では、リリアナが母の覚書についてアデルに話すかどうか迷っていた。
王太子府連絡のためにアデルが来る予定はある。
けれど、これは家の問題だ。
母の私的覚書。
姉に関わるかもしれない紙。
父が送らないと判断した紙。
アデルに話すべきなのか。
それとも、セレスティアの許可もないのに広げるべきではないのか。
リリアナは、マルタに聞いた。
「殿下に話すべきでしょうか」
マルタは答える。
「アデル殿下が関わる実務に影響があるなら共有。そうでなければ、リリアナ様の私的相談として扱うかどうかです」
「私的相談」
「はい」
「私は、殿下に頼りたいのかもしれません」
「その可能性はあります」
「また守ってもらいたいのかもしれません」
「その可能性もあります」
「では、話さない方がよいですか」
「決める前に、何を話したいのか分解しましょう」
リリアナは、もう少しで笑いそうになった。
「何でも分解ですね」
「有効です」
「はい」
彼女は紙を出した。
『アデル殿下へ話したいことの分解』
一、母の覚書が見つかったという事実を共有したい。
二、自分が怖いという感情を聞いてほしい。
三、父への怒りを分かってほしい。
四、姉にどう謝ればよいか相談したい。
五、守ってほしい気持ちがある。
五番を書いたとき、顔が熱くなった。
「……ありますね」
マルタは淡々と頷く。
「ありますね」
「では、全部話すのは危険です」
「なぜ?」
「五番が混じるからです」
「混じっていることを自覚して話すなら、少し違います」
リリアナは考えた。
隠すと、また別の形で出る。
なら、言ってしまうべきなのかもしれない。
アデルが来たのは、その少し後だった。
彼は王太子府の暫定版更新について報告しに来たのだが、リリアナの顔を見てすぐに気づいた。
「何かあったのか」
その声に、リリアナは少し泣きそうになった。
優しい。
危ない。
でも、逃げない。
「はい」
リリアナは紙を握った。
「母の私的覚書が見つかりました。お姉様に関わるものらしいです。内容は未送付です」
アデルの表情が変わる。
「セレスティアに?」
「三十日後、お姉様本人の受領意思確認の上で判断するそうです」
「そうか」
「私は、それを怖いと思いました。読みたいとも思いました。父に腹が立ちました。殿下に守ってほしい気持ちもあります」
最後まで一息で言った。
言ってから、顔が熱くなった。
アデルは、少し驚いたように彼女を見ていた。
それから、ゆっくり頷いた。
「話してくれてありがとう」
「守ろうとしないでください」
「今、しそうになった」
「はい。分かりました」
「だが、しない」
アデルは言った。
その声は少し苦しそうだった。
「君が怖いと言ったことは受け取る。父上……いや、公爵への怒りも分かる。だが、私がそれを理由に公爵家へ口を出すと、また君の感情を私の政治に使うことになる」
リリアナは、胸の奥がじんと痛んだ。
「はい」
「だから、今は聞く」
「聞くだけ?」
「必要なら、一緒に分解する」
リリアナは、思わず笑ってしまった。
「殿下まで」
「感染したと言っただろう」
「はい」
小さな笑いが生まれた。
泣きそうな空気の中で、少しだけ呼吸ができた。
「では、聞いてください」
「ああ」
「私は、母がお姉様について何を書いていたのか知りたいです。でも、知ってしまったら、母を恨むかもしれません」
アデルは黙って頷く。
「母は病でした。それでも、もしお姉様の苦しさに気づいていたなら、どうして何も変わらなかったのかと思ってしまうかもしれません」
「うん」
「そう思う自分が怖いです」
「うん」
「母を悪く思いたくない。でも、お姉様だけが悪くないとも思いたい」
言いながら、涙が落ちた。
「両方が、苦しいです」
アデルは、手を伸ばしかけた。
だが止めた。
代わりに、布をそっと机の上へ置いた。
リリアナはそれを受け取り、自分で涙を拭いた。
「ありがとうございます」
「ああ」
その距離が、今は必要だった。
同じ夜、セレスティアは母の覚書の存在報告を箱にしまった。
古い記録とは別の箱。
表に、自分で書いた。
『母の覚書――存在のみ確認。内容未読。受領意思、三十日後判断』
書いてから、少しだけ笑った。
自分の心まで状態区分にしている。
でも、今はそれが必要だった。
蓋を閉じる。
今日は読まない。
知りたい。
知りたくない。
その矛盾ごと、箱に入れる。
ノアが静かに言った。
「よく閉じました」
「はい」
「閉じることと、隠すことは別です」
セレスティアは、彼を見て少しだけ笑った。
「また別ですね」
「はい」
「でも、今日はその言葉に助けられます」
窓の外では、王都の灯りが揺れている。
あの灯りのどこかで、父も、リリアナも、アデルも、誰かが同じように紙を前にしているのかもしれない。
送るか。
送らないか。
読むか。
読まないか。
謝るか。
まだ謝らないか。
どれも、すぐに決められることではない。
だから、暫定の箱が増えていく。
セレスティアは灯りを落とす前に、帳面へ一行だけ書いた。
『母の言葉は、まだ私に届いていない。届いていないことにも、今日は意味があるのかもしれない』
それが救いかどうかは、まだ分からない。
けれど、今夜はそれ以上読まない。
読まないことを、彼女は選んだ。




