第65話 十三歳の彼女に、誰が謝ればいいのか
セレスティアは、翌朝になっても古い記録を机の上から片づけられなかった。
北方辺境伯家の王都屋敷。
窓の外は穏やかだった。
薄い朝日が庭の木々を照らし、使用人たちの足音もいつも通り静かだ。
だが、机の上だけは昨日の夜のままだった。
レイノルド公爵家から届いた古い家内記録。
『リリアナ様の情緒安定のため、セレスティア様を補助役として同席させることが望ましい』
『リリアナ様の夜泣きにより、セレスティア様が同室。翌朝の座学は予定通り実施』
『セレスティア様の稽古予定をリリアナ様の休息時間に合わせ調整』
紙は淡々としている。
誰も怒っていない。
誰も謝っていない。
誰も悪意を込めていない。
だからこそ、苦しかった。
セレスティアは、二枚目の写しを指先で押さえた。
「翌朝の座学は予定通り実施」
声に出すと、胸の奥が鈍く痛んだ。
ノアは向かいに座っていたが、何も言わなかった。
彼女は、しばらくその一文を見つめてから言った。
「覚えています」
「はい」
「あの朝、文字が揺れて見えました」
「……はい」
「家庭教師の先生が、少し不機嫌でした。私の暗唱が一度止まったから」
記憶は、思っていたより鮮明だった。
リリアナが夜中に泣いた。
母の具合が悪く、屋敷全体が静かに張り詰めていた。
父は王宮へ行っていて不在。
侍女たちは忙しそうで、リリアナはセレスティアの袖を握って離さなかった。
仕方がない。
そう思った。
自分がいれば、この子は泣き止む。
自分がいなければ、侍女たちは困る。
母の寝室へ響く泣き声も止まらない。
だから、隣にいた。
朝まで。
「私は、あのとき怒っていなかったと思います」
セレスティアは言った。
「ただ、眠かった」
ノアが静かに頷く。
「はい」
「そして、眠いと言ってはいけないと思っていました」
「なぜ?」
「姉ですから」
言った瞬間、唇の端が小さく歪んだ。
笑いではない。
昔の自分のあまりの従順さに、今の自分が少しだけ呆れたような顔だった。
「姉なら、妹を怖がらせてはいけない。母が病のときに、家を乱してはいけない。父に余計な心配をかけてはいけない。家庭教師の先生に遅れを見せてはいけない」
「十三歳でしたね」
「はい」
「十三歳の子どもにしては、背負いすぎです」
その言葉に、セレスティアは少しだけ目を伏せた。
そう言ってほしかったのかもしれない。
けれど、言われると痛い。
「十三歳の私に、何と言えばいいのでしょう」
ノアはすぐには答えなかった。
セレスティアは、彼を見た。
「何も言ってくださらないのですか」
「急いで慰めると、軽くなる気がしました」
その返事に、セレスティアは息を止めた。
軽くなる。
そうだ。
よく頑張った。
あなたは悪くない。
大変でしたね。
どれも間違いではない。
でも、十三歳の自分に届くかどうかは分からない。
あの少女は、たぶんそう言われても困っただろう。
頑張る以外の選択肢を知らなかったから。
「では、今は何も言いません」
セレスティアは静かに言った。
「はい」
「ただ、見ます」
「はい」
彼女は新しい紙を一枚出した。
表題を書く。
『補助役の分解』
その下に、ゆっくり項目を並べた。
作業。
判断者。
利益を受けた者。
負担を負った者。
最終責任。
そして、作業欄に書いた。
夜間同室。
礼法稽古補助。
暗唱補助。
持ち物確認。
不安時の同席。
母療養中の家内空気調整。
書きながら、手が震えた。
だが止めない。
「利益を受けた者」
そこで、少し止まる。
リリアナ。
そう書くのは簡単だった。
でも、それだけでは違う。
セレスティアはしばらく考えてから書いた。
リリアナ。
家庭教師。
侍女。
父。
公爵家。
そして少し迷い、最後に書き足した。
母。
胸が痛んだ。
母を責めたいわけではない。
病に苦しんでいた人だ。
だが、セレスティアがリリアナを静かにさせることで、母の療養室は守られていた。
それも事実だ。
「負担を負った者」
そこには、まず自分の名前を書いた。
セレスティア。
それから、少し考えてリリアナも小さく書いた。
ノアがそれに気づく。
「リリアナ様も?」
「はい」
「なぜ?」
「リリアナも、自分の不安を自分で扱う機会を奪われていました」
セレスティアは言った。
「私がそばにいれば泣き止む。だから私を置く。それは、リリアナにとっても楽だったでしょう。でも、自分で眠る練習や、不安を言葉にする練習は遅れたのだと思います」
ノアは静かに聞いていた。
「私は、あの子を恨んでいます」
セレスティアは続けた。
「でも、あの子だけを責めれば、たぶん楽になります」
「楽になる?」
「はい。リリアナが泣いたから、私が犠牲になった。そう書けば単純です」
「単純ですね」
「でも、あの子は九歳でした」
セレスティアの声が、少しだけ揺れた。
「九歳の妹に、十三歳の私の負担の責任を全部負わせるのは違うと思います」
そう言ってから、彼女は自分の手元を見た。
自分がこんなふうに言える日が来るとは思わなかった。
リリアナを許したわけではない。
あの子の無邪気さに傷ついた事実は消えない。
それでも、責任の欄を間違えたくなかった。
「最終責任」
最後の欄に、彼女は長いあいだペンを置けなかった。
父。
母。
家庭教師。
侍女長。
公爵家。
そして、王宮。
どこまで書くべきか。
ノアは何も急かさない。
セレスティアは、ゆっくり書いた。
レイノルド公爵家。
それから、下に小さく。
父グレゴール。
書いた瞬間、胸の奥で何かが鳴った。
怖かった。
父の名前を、責任の欄に書くことが。
娘である自分が、父を裁くようで。
だが、そこに父の名を書かなければ、また自分の欄に戻ってくる。
セレスティア補助役。
その言葉の中に、すべてが押し込められてしまう。
「書きました」
セレスティアは言った。
「はい」
「怒られる気がします」
「誰に?」
「父に。昔の家庭教師に。家に。たぶん、昔の私にも」
ノアが少し眉を動かした。
「昔のあなたに?」
「はい。昔の私は、きっと言います。そんなことを書いても何も変わらない。そんなことを言う暇があったら、明日の準備をしなさい、と」
ノアは、しばらく黙った。
それから言った。
「今のあなたが書いているので、よいのではありませんか」
「昔の私が怒っても?」
「怒らせてあげてもいいのでは」
その言葉に、セレスティアは目を瞬いた。
怒らせてあげる。
十三歳の自分が怒る。
そんなこと、考えたこともなかった。
あの子は、眠くても怒らなかった。
つらくても怒らなかった。
自分がやるしかないと信じていた。
なら、今くらい怒ってもいいのかもしれない。
セレスティアは、紙の端に小さく書いた。
『十三歳の私は、怒ってもよかった』
書いた途端、目の奥が熱くなった。
けれど涙は落ちなかった。
ただ、胸の奥が深く軋んだ。
同じ頃、王妃宮では、リリアナが父から届いた古い記録の写しを読み返していた。
今日は、マルタだけでなくアデルも同席している。
王太子府との連絡会議の前に、リリアナが「これを読んでからでないと落ち着かない」と言ったためだった。
アデルは、黙って向かいに座っている。
リリアナは、紙の一文を指でなぞった。
『リリアナ様、姉君が不在の時間帯に不安を訴える』
「覚えていません」
彼女は言った。
「完全には」
アデルは静かに聞いていた。
「ただ、母の部屋が怖かったのは覚えています。静かすぎて。侍女たちも小声で。お父様はあまりいなくて。お姉様の部屋だけ、灯りがついていた気がします」
「うん」
「私、お姉様のところへ行けば安心できると思っていました」
「うん」
「でも、お姉様が眠かったかどうかなんて、考えたことがありませんでした」
声が震える。
リリアナは唇を噛んだ。
「九歳だったから、と言われればそうです。でも、九歳だったから何も感じなくてよいわけではありません」
マルタが言った。
「今、感じているのでしょう」
「はい」
「なら、それを記録しましょう」
リリアナは頷いた。
記録帳を開く。
『私は、姉の部屋の灯りを安心として覚えている。
姉にとってその灯りが、眠れない夜だった可能性を今まで考えなかった。
九歳だった私は悪意を持っていなかった。
でも、悪意がなかったことと、姉に負担がなかったことは別』
書きながら、涙が落ちた。
今度は、拭わずに少し待った。
紙に落ちないよう顔を上げる。
アデルが小さく言った。
「私も、似たことをしていた」
リリアナは彼を見る。
「殿下も?」
「ああ。君が笑うと安心した。泣くと守らなければと思った。セレスティアが何をしていたかは見なかった」
アデルの表情は苦かった。
「私は、君を安心として見ていた。セレスティアを処理として見ていた」
「処理……」
「ひどい言葉だ」
「でも、分かります」
リリアナは目を伏せた。
「私も、お姉様を安心として見ていました」
部屋は静かだった。
責め合いではない。
だが、痛い。
互いに、自分の中の醜さを紙の上へ出している。
マルタが、静かに言った。
「悪意がなかったことを免罪符にしない。悪意がなかったことを無視もしない。両方が必要です」
リリアナは泣きながら少し笑った。
「また両方です」
「はい」
「難しいです」
「難しいです」
アデルが、小さく息を吐いた。
「悪意がなかった。だが負担はあった。これを王太子府でも使うべきかもしれない」
「殿下」
「多くの者が、悪意なくセレスティアに頼った。私も含めて」
その言葉は重かった。
リリアナは頷いた。
「悪意がなかったから許される、ではない。でも、悪意があったことにすると、また別の嘘になります」
「そうだな」
二人は、同じ紙を見つめた。
そこには十三歳のセレスティアと、九歳のリリアナがいた。
どちらも子どもだった。
だが、同じ重さを背負っていたわけではない。
その差を、今になって大人たちが見始めている。
遅すぎる。
けれど、見ないよりはましだ。
レイノルド公爵邸では、グレゴールがまた記録室にいた。
昨日から、彼は何度も同じ棚の前に立っている。
家令は、少し離れて控えていた。
机の上には『補助役――分解』と題した紙がある。
家令が作成したものだ。
作業。
判断者。
利益を受けた者。
負担を負った者。
最終責任。
その最終責任欄に、自分の名前がある。
レイノルド公爵グレゴール。
消すなと言った。
自分で言った。
なのに、見るたび腹が立つ。
誰に腹が立つのか、分からない。
家令にか。
過去の自分にか。
セレスティアにか。
リリアナにか。
この紙そのものにか。
「旦那様」
家令が言った。
「こちら、当時の奥方様の覚書です」
グレゴールの表情が変わった。
「エレナの?」
「はい。姉妹教育記録の間に挟まっておりました」
家令は、一枚の古い紙を差し出した。
筆跡は、亡き妻エレナのものだった。
グレゴールは、しばらく受け取らなかった。
読むのが怖かった。
だが、最終的には手を伸ばした。
紙には、短い文章が書かれていた。
『セレスティアは、あまりに静かに我慢する。
リリアナが泣けばそばに行く。私が咳をすれば茶を替える。グレゴールが帰らなければ、家令に予定を聞く。
あの子は賢いから大丈夫だと、皆が言う。
でも、賢い子ほど、大丈夫ではないと言えないのではないか。
私がもっと動ければ、あの子を休ませられるのに。
次の春には、セレスティアだけを連れて湖畔へ行きたい。あの子に、何もしない日を一日あげたい』
グレゴールは、読み終えても動かなかった。
家令も黙っている。
部屋の時計の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……これは」
グレゴールの声は低かった。
「なぜ、今まで出てこなかった」
「姉妹教育記録の綴じの奥にございました。正式文書ではなく、奥方様の私的覚書として扱われていたようです」
「湖畔へは」
グレゴールは言いかけて、止まった。
行っていない。
そんな記憶はない。
その春、エレナの病状は悪化した。
湖畔どころではなかった。
セレスティアに、何もしない日は与えられなかった。
グレゴールは、紙を握りしめそうになり、寸前で止めた。
これは、潰してはいけない。
エレナが残した、セレスティアへの唯一に近い記録かもしれない。
「……これを」
彼は言った。
「セレスティアに送るべきか」
家令は即答しなかった。
慎重に言った。
「三十日間、回答を求めるものは送れません。ですが、過去記録の写しとして送ることは可能です。ただし、非常に慎重に扱うべきかと」
「なぜだ」
「奥方様のお気持ちが書かれています。セレスティア様にとって救いにもなり得ますが、同時に“分かっていたのに休ませられなかった”という痛みにもなり得ます」
グレゴールは黙った。
家令の言う通りだった。
エレナは気づいていた。
気づいていたのに、実現しなかった。
それは、救いなのか。
それとも、さらに残酷なのか。
「……今は送るな」
グレゴールは言った。
「承知しました」
「だが、隠すな」
「はい」
「状態区分は」
家令は少し考えた。
「未送付。理由、受領者への影響大。三十日期間終了後、送付可否再判断」
「そう書け」
家令は頷き、記録した。
『エレナ公爵夫人私的覚書。未送付。理由、受領者への影響大。三十日期間終了後、送付可否再判断』
グレゴールは、その文字を見た。
妻の紙すら、今は暫定の箱に入る。
それが正しいのかどうかは分からない。
だが、少なくとも衝動で送るべきではない。
そう判断できただけ、昨日よりはましなのかもしれなかった。
同じ日の夜、セレスティアは、また古い記録を一枚だけ読んだ。
今日は、母の療養期の来客記録だった。
『セレスティア様、奥方様寝室前にて来客対応。リリアナ様は侍女と庭へ』
短い一文。
それだけで、当時の空気が戻る。
母の部屋に入れない来客へ、代わりに挨拶をする十三歳の自分。
庭で泣き止んだリリアナ。
セレスティアは、紙を畳んだ。
今日はここまで。
無理はしない。
そう決めた。
ノアが尋ねる。
「大丈夫ですか」
「大丈夫ではありません」
「はい」
「でも、読めました」
「はい」
「十三歳の私に、まだ何も言えません」
「急がなくていい」
「はい」
セレスティアは帳面を開いた。
『十三歳の私は、怒ってもよかった。
でも、今の私はまだ、あの子に何と言えばいいか分からない。
だから今日は、見たことだけを記録する』
書き終えて、ペンを置く。
外では夜風が窓を揺らした。
王都は、相変わらず誰かの噂で満ちているのだろう。
だが、この部屋では、十三歳の少女の眠れなかった夜が、ようやく一行ずつ読まれ始めていた。
それは遅すぎる救出だった。
救出と呼べるかも、まだ分からない。
けれど少なくとも、もう彼女は記録の端で「補助役」とだけ呼ばれてはいなかった。




