第64話 父の記録には、娘の名前ではなく役割だけが残っていた
レイノルド公爵邸の記録室は、長いあいだ誰にも見られない場所だった。
もちろん、鍵が掛かっていたわけではない。
家令は出入りする。
書記官も出入りする。
必要があれば、グレゴール・レイノルド公爵も書類を取り寄せる。
けれど、そこにある古い紙が「読まれる」ことは少なかった。
保管されている。
整えられている。
必要なら取り出せる。
そういう状態と、実際に読まれることは違う。
その日、グレゴールは久しぶりに記録室へ足を踏み入れた。
家令が静かに灯りを増やす。
棚には、レイノルド家の財産目録、婚姻記録、教育計画、使用人名簿、王宮提出書類の控えが並んでいた。
その一角に、娘たちに関する記録がある。
セレスティア。
リリアナ。
二人の名がついた綴じが、同じ棚に並んでいた。
しかし厚さは、まるで違った。
セレスティアの綴じは分厚い。
教育課程。
王妃宮見習い記録。
王太子府補佐履歴。
社交行事出席記録。
家内実務引き継ぎ資料。
一方、リリアナの綴じは薄かった。
舞踏教師の報告。
礼法教師の評価。
体調不良による欠席記録。
社交適性に関する覚書。
グレゴールは、その差を見て、眉をひそめた。
今まで見えていなかったわけではない。
知っていた。
長女は多く学び、次女は柔らかく育てる。
それが家の方針だった。
セレスティアには王太子妃候補としての重責があった。
リリアナには、姉にはない可憐さと社交的柔らかさがあった。
そう説明してきた。
だが今、その説明がやけに薄く見えた。
「旦那様」
家令が、一冊の古い綴じを差し出した。
「こちらが、姉妹教育方針に関する初期記録です」
「初期?」
「セレスティア様が十二歳、リリアナ様が九歳の頃のものです」
グレゴールは受け取り、表紙を開いた。
古い紙の匂いがする。
最初の数枚は、家庭教師の報告だった。
セレスティアは数字に強く、文書理解も早い。
リリアナは体調に波があり、長時間の座学には向かない。
セレスティアは妹の遅れを補助することが多い。
リリアナは姉のそばだと安心する。
そこまでは、記憶にある。
だが、次の一文で、グレゴールの指が止まった。
『以後、リリアナ様の情緒安定のため、セレスティア様を補助役として同席させることが望ましい』
補助役。
グレゴールは、その言葉を見つめた。
娘の名前の横に、最初から役割が置かれている。
セレスティア――補助役。
紙をめくる。
『リリアナ様、礼法稽古中に涙。セレスティア様が代わりに手順を説明し、場を収める』
『リリアナ様、王宮茶会前に不安を訴える。セレスティア様が持ち物確認、挨拶文暗唱補助』
『リリアナ様、父君同席時は緊張少なし。セレスティア様同席時はさらに安定』
どの記録にも、セレスティアはいた。
だが、娘としてではない。
補助。
安定。
代替。
調整。
リリアナのための環境要素として。
グレゴールは、紙を閉じかけた。
だが、閉じなかった。
家令が静かに見守っている。
「……この記録を、私は読んだのか」
「当時、要約はご覧になっているはずです」
「要約」
「はい」
「原文は?」
「おそらく、読まれておりません」
グレゴールは家令を睨みかけた。
だが、睨む先を失った。
読まなかったのは自分だ。
要約だけを見て、納得した。
リリアナは繊細。
セレスティアは優秀。
姉妹関係は良好。
長女が次女をよく支えている。
それで足りると思った。
その要約の下で、セレスティアが何度「補助役」として記録されていたかなど、考えもしなかった。
「次を」
グレゴールは言った。
家令は別の綴じを出した。
今度は、母エレナの療養期の家内記録だった。
セレスティアが十三歳、リリアナが十歳。
エレナは病で寝込む日が増え、家内の細かな指示が乱れ始めた時期だ。
グレゴールは、その頃のことをあまり思い出したくなかった。
妻の体調が悪く、家の社交も王宮との関係も重く、王太子妃候補であるセレスティアの教育も進めなければならなかった。
仕方がなかった。
その言葉が、すぐ浮かぶ。
だが、その「仕方がなかった」の下に何があったのか。
彼は紙を開いた。
『奥方様療養中につき、来客時の茶菓手配をセレスティア様が確認』
『リリアナ様、母君不調により不安定。セレスティア様が寝室前で待機』
『公爵閣下、王宮会議により不在。姉妹対応はセレスティア様中心』
『リリアナ様の夜泣きにより、セレスティア様が同室。翌朝の座学は予定通り実施』
グレゴールの指が止まった。
翌朝の座学は予定通り実施。
セレスティアは、夜に妹のそばにいて、翌朝には座学を受けていた。
その紙に、彼女が眠ったかどうかは書かれていない。
疲れていたかどうかも。
ただ、予定通り実施。
それだけ。
「……これは」
声が掠れた。
家令は、何も言わなかった。
グレゴールは、さらに紙をめくる。
『セレスティア様、王宮提出用挨拶文の暗唱に遅れなし』
『リリアナ様、姉君が不在の時間帯に不安を訴える』
『以後、セレスティア様の稽古予定をリリアナ様の休息時間に合わせ調整』
調整。
誰の予定を、誰のために。
紙は淡々としている。
そこに悪意はない。
ただ、家がそう回っていた。
リリアナを落ち着かせるために、セレスティアの予定を動かす。
母の不調を埋めるために、セレスティアに確認させる。
父の不在を補うために、セレスティアを置く。
グレゴールは、初めてその流れを真正面から見た気がした。
胸の奥に、鈍い痛みが走る。
怒りではない。
言い訳でもない。
もっと扱いに困るものだった。
「旦那様」
家令が静かに言う。
「休まれますか」
「休まん」
「しかし」
「読む」
グレゴールは紙から目を逸らさなかった。
「ここで閉じたら、また同じだ」
家令は、少しだけ目を伏せた。
「承知しました」
その頃、王妃宮では、リリアナが新しい注記を壁に貼っていた。
『人物名を状態区分欄に置かない。必要な作業、知見、確認事項として分解すること』
昨日貼ったばかりの紙だ。
だが、すでに周囲には追記が増えていた。
『例:セレスティア様に聞く → 香気源分類方法の知見不足』
『例:マルタ様確認 → 判断基準の承認者未定』
『例:医師に任せる → 医学的判断事項と事務判断事項の分離』
壁は、もうすっかり紙だらけだった。
リリアナはそれを見上げ、ため息をついた。
「王妃宮というより、紙の森ですね」
エルンが横から言う。
「森なら、道しるべが必要です」
「上手いことを言いましたね」
「記録しますか」
「しません」
リリアナは笑った。
そのとき、マルタが一通の封書を持って入ってきた。
「レイノルド公爵家からです」
リリアナの笑みが消えた。
父から。
その言葉だけで、身体が少し固くなる。
「私宛ですか」
「王妃宮宛です。ただし、姉妹教育記録の一部について、状態区分の見直しを始めたとの報告です」
「姉妹教育記録……」
リリアナは封書を受け取った。
手が冷える。
父が、何を見たのか。
怖い。
だが、開ける。
中には、短い報告文と、古い記録の写しが数枚入っていた。
最初の一枚を読んだ瞬間、リリアナは息を止めた。
『以後、リリアナ様の情緒安定のため、セレスティア様を補助役として同席させることが望ましい』
補助役。
姉が。
自分のための補助役。
紙の上の言葉なのに、頬を打たれたようだった。
リリアナは次の写しを読む。
『リリアナ様、姉君が不在の時間帯に不安を訴える』
『セレスティア様の稽古予定をリリアナ様の休息時間に合わせ調整』
『リリアナ様の夜泣きにより、セレスティア様が同室。翌朝の座学は予定通り実施』
文字が滲みそうになる。
リリアナは、慌てて瞬きをした。
泣くのは後だ。
今は読む。
全部読む。
「……私」
声が震えた。
マルタは何も言わない。
リリアナは紙を握りしめそうになり、途中でやめた。
これは記録だ。
握り潰してはいけない。
「私、お姉様の時間を、ずっと使っていたのですね」
マルタは静かに答えた。
「そのように記録されています」
「私は覚えていません」
「幼かったのでしょう」
「でも、お姉様は覚えているかもしれません」
「かもしれません」
リリアナの胸が痛む。
夜泣き。
不安。
姉がいないと落ち着かない。
自分には断片しかない。
暗い部屋。
母の咳。
姉の手。
姉の声。
優しい記憶として残っていた。
でも、姉にとってはどうだったのだろう。
眠れない夜。
翌朝の座学。
自分の予定を動かされる日々。
「マルタ様」
「はい」
「私、これをお姉様に謝りたくなります」
「でしょうね」
「でも、三十日中です」
「はい」
「それに、今すぐ謝れば、また私が楽になるための謝罪になるかもしれません」
「その可能性はあります」
リリアナは、目を閉じた。
謝りたい。
でも、謝ればよいというものではない。
謝罪もまた、相手に受け取りを求める行為だ。
今の姉に、それを送ってよいのか。
「では、まず記録します」
リリアナは言った。
「はい」
彼女は帳面を開いた。
『公爵家より姉妹教育記録の写し。
私は幼い頃から、姉を情緒安定のための補助役として使っていた。
使っていた、という言葉は苦しい。でも、記録上そうなっている。
私は覚えていないことが多い。姉は覚えているかもしれない。
今すぐ謝りたい。でも、それは私が楽になるためかもしれない。三十日中は送らない。まず読む』
書き終えると、涙が一粒落ちた。
紙の端に落ちそうになり、慌てて布で拭う。
マルタが静かに言った。
「よく閉じませんでした」
その言葉で、リリアナは少しだけ泣いた。
同じ頃、北方辺境伯家にも、レイノルド公爵家から別の封書が届いていた。
差出人は、グレゴールではない。
公爵家家令。
表書きにはこうある。
『過去家内記録の状態区分見直し開始について。回答不要』
セレスティアは、封を見つめたまましばらく動けなかった。
公爵家からの封書は、今でも胸を重くする。
しかも、過去家内記録。
読みたくない。
でも、読まないまま置くのも怖い。
ノアは向かいに座っている。
「読まなくてもいい」
いつもの逃げ道。
セレスティアは、小さく首を振った。
「読みます。ただ、少しずつ」
「はい」
封を切る。
最初の文には、こう書かれていた。
『本書は、セレスティア様に回答または訂正を求めるものではありません。公爵家内において、過去の姉妹教育記録、家内役割記録の状態区分見直しを開始した旨の報告です』
回答を求めるものではありません。
その一文があるだけで、少し呼吸ができた。
セレスティアは続きを読んだ。
『現在、人物名を状態区分欄に置かないという王妃宮方式を参考とし、過去記録内の“補助役”“安定要素”“代替対応”等の表現について、必要作業、当時の判断者、負担の所在へ分解する作業を進めております』
手が止まった。
補助役。
安定要素。
代替対応。
懐かしいというには、あまりに痛い言葉だった。
自分は、そう呼ばれていたのか。
いや、呼ばれていたことは知っていたのかもしれない。
ただ、紙で改めて見ると痛い。
次の紙に、古い記録の写しがあった。
『リリアナ様の情緒安定のため、セレスティア様を補助役として同席させることが望ましい』
セレスティアは、目を閉じた。
一瞬で、昔の部屋の匂いが戻った。
母の薬湯の匂い。
リリアナの泣き声。
家庭教師の困った顔。
父の不在。
そして、自分に向けられる当然の視線。
セレスティア様、少しリリアナ様のおそばに。
セレスティア様なら、分かってくださいますね。
セレスティア様はお姉様ですから。
そうだ。
自分は姉だった。
そして、補助役だった。
読み進める。
『リリアナ様の夜泣きにより、セレスティア様が同室。翌朝の座学は予定通り実施』
その一文で、胸がぎゅっと縮んだ。
覚えている。
寝不足の朝。
文字が二重に見えたこと。
家庭教師に「集中が乱れています」と言われたこと。
リリアナは悪くない、と自分に言い聞かせたこと。
そして、誰にも「眠い」と言わなかったこと。
セレスティアは紙を机に置いた。
「……覚えています」
声がかすれた。
ノアは、静かに茶を寄せた。
「止めますか」
「少しだけ」
「はい」
セレスティアは茶を飲んだ。
手が少し震えている。
「父は、これを読んだのでしょうか」
「報告が来ているなら、少なくとも誰かが読んでいます」
「家令でしょう」
「おそらく」
「父も読んだと思いますか」
ノアは少し間を置いた。
「分かりません。ただ、送ることを許したのなら、何らかの形で見ている可能性はあります」
「そうですか」
セレスティアは、もう一度紙を見た。
怒りがある。
今さら見たのか、という怒り。
今さら送ってくるのか、という疲れ。
でも同時に、少しだけ息が詰まるような感覚もあった。
家が、自分の過去を見始めた。
遅すぎる。
遅すぎるが、見始めた。
「返事は書きません」
セレスティアは言った。
「はい」
「でも、これは箱にしまいません」
「なぜ?」
「まだ読みます」
声は震えていた。
だが、はっきりしていた。
「三十日の間に、王妃宮だけでなく、私自身の過去記録も読まなければならない気がします」
「無理はしないでください」
「はい。少しずつ」
彼女は、最初の紙の端に小さな栞を置いた。
今日はここまで。
そう決める。
全部読まないことも、自分を守る手順だった。
レイノルド公爵邸では、グレゴールがまだ記録室にいた。
家令が、セレスティアと王妃宮へ送った報告の控えを持ってくる。
「送付いたしました」
「返事は求めていないな」
「明記しております」
「よい」
グレゴールは、古い記録を見下ろした。
セレスティア補助役。
リリアナ情緒安定。
父不在。
母療養。
紙の上に、家族が解体されているようだった。
だが、解体しなければ見えないものもある。
「家令」
「はい」
「この“補助役”を、どう分解する」
家令は少し考えてから答えた。
「必要作業としては、リリアナ様の礼法稽古補助。不安時の同席。持ち物確認。暗唱補助。夜間対応。判断者は、当時の家庭教師、奥方様療養中は侍女長、最終責任は公爵家当主である旦那様かと」
最終責任。
グレゴールの顔がこわばった。
だが、怒らなかった。
「……書け」
家令は頷き、紙に書き始めた。
『補助役――分解
作業:礼法稽古補助、不安時同席、持ち物確認、暗唱補助、夜間対応
当時判断者:家庭教師、侍女長、家令補佐等
最終責任:レイノルド公爵グレゴール』
グレゴールは、その最後の行を見つめた。
自分の名が、ようやくそこに入った。
娘の名前ではなく。
穴を埋める場所ではなく。
責任の欄に。
重かった。
非常に重かった。
「旦那様」
家令が静かに言った。
「お消しになりますか」
グレゴールは、しばらく黙った。
そして低く言った。
「消すな」
その声は、不機嫌で、苦くて、少しだけ掠れていた。
「消せば、またセレスティアの欄に戻る」
家令は深く頭を下げた。
「承知しました」
夜、王妃宮でリリアナは、父から届いた写しをもう一度読んだ。
そして、セレスティアへの手紙を書きかけた。
『お姉様、ごめんなさい』
そこまで書いて、止まった。
消す。
新しい紙を出す。
今は送らない。
代わりに、自分の記録帳へ書く。
『謝りたい。でも、まだ謝らない。
謝る前に、私は何を知らずに姉を使っていたのかを読む。
謝罪を、私の楽になる道具にしない』
書き終えて、リリアナは静かに泣いた。
その頃、北方辺境伯家でセレスティアもまた、帳面を開いていた。
『父の家から、古い記録が来た。
私は補助役だった。安定要素だった。代替対応だった。
知っていたようで、紙で見ると痛い。
返事は書かない。
でも、読み捨てない。
私が何を背負っていたのか、私もまだ全部は知らない』
書き終えると、涙は出なかった。
ただ、胸の奥に重い石が置かれたようだった。
けれど、その石には名前がついた。
補助役。
嫌な名前だ。
だが、名前がついたものは、いつか分解できるかもしれない。
作業。
判断者。
責任。
そして、人。
セレスティアは灯りを落とす前に、もう一度だけ古い記録を見た。
そこには、十三歳の自分がいた。
妹の隣で眠らずに朝を迎えた少女。
誰にも「眠い」と言わなかった少女。
彼女に、今のセレスティアはまだ何も言えなかった。
慰めることも、怒ることも。
ただ、見た。
初めて、見ようとした。




