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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第63話 希望欄に、人の名前を書かないで

 状態区分は、思っていたより便利だった。


 確定。

 未確認。

 希望。

 交渉中。

 不明。


 王妃宮では、あらゆる紙の端にその五つの言葉が書き込まれ始めた。


 救貧院への薪代は、金額確定。支払い日は未確認。

 薬草契約は、品目確定。納入量は交渉中。

 療養室の香気源一覧は、寝具確認済み。封蝋香料は未確認。

 慈善会からの寄付配分表は、暫定版一。状態区分付き。


 それだけなら、よかった。


 問題は、便利な言葉ほど人はすぐ使いすぎることだった。


 その朝、王妃宮の小会議室では、三十日対応表の更新会議が行われていた。


 リリアナは、少し眠そうな顔で席についている。


 昨夜も遅くまで状態区分表を確認していた。マルタに二度「寝なさい」と言われ、三度目でようやく部屋へ戻った。


 最近、彼女は自分が姉に似てきたところと、似てはいけないところの区別をつける練習をしている。


 寝ないのは、似てはいけないところ。

 記録するのは、たぶん似てもよいところ。


 まだ暫定版だ。


「では、復帰要請関連の整理に移ります」


 エルンが紙をめくった。


 机の中央には、嘆願者たちから提出された未解決事項と分担案が積まれている。


 その一枚に、リリアナは目を止めた。


『王妃宮療養記録再設計』


 状態区分欄には、こう書かれていた。


『セレスティア様の文書協力――希望』


 リリアナは、そこで手を止めた。


 エルンは気づかず、説明を続けようとする。


「こちらは療養記録再設計に関する要望です。王妃陛下の香気源一覧、緊急時判断基準、薬師ギルド照会手順について、セレスティア様の文書協力を希望と」


「待ってください」


 リリアナの声は静かだった。


 だが、部屋の空気が変わった。


 エルンが顔を上げる。


「はい」


「今の欄を、もう一度読んでください」


「セレスティア様の文書協力――希望、です」


「それは、誰が書きましたか」


 エルンが紙を確認する。


「療養記録担当の暫定案です。複数名の確認が入っています」


 リリアナは、紙を見つめた。


 希望。


 状態区分としては間違っていないように見える。


 セレスティアの文書協力は、確定していない。

 交渉中でもない。

 未確認とも少し違う。

 だから、希望。


 しかし、胸がざわついた。


 それは、書いてはいけないもののように思えた。


「マルタ様」


 リリアナは横を見た。


「はい」


「これは、変です」


「どこが?」


 マルタはすぐに答えを与えない。


 最近の彼女は、リリアナが自分で言葉にするのを待つ。


 それがありがたくもあり、時々とてもつらい。


「希望欄に、お姉様の名前が入っています」


「はい」


「でも、お姉様は項目ではありません」


 リリアナは、ゆっくり言った。


「文書協力という作業の希望なら、分かります。でも、“セレスティア様”と名前を書くと、お姉様本人を希望欄に入れているように見えます」


 エルンがはっとした顔をした。


 古参女官の一人が、困ったように言う。


「ですが、実際に希望しているのはセレスティア様からの助言です」


「はい。分かります」


 リリアナは頷いた。


「私も、心の中では何度も希望しています。お姉様が助けてくれたらと。でも、それを紙に書くときは分けなければならないと思います」


「分ける?」


「はい」


 リリアナは白紙を引き寄せた。


『療養記録再設計に必要な作業』


 一、香気源一覧の分類方法

 二、緊急時判断基準の形式

 三、薬師ギルド照会書式

 四、過去記録の索引化

 五、記録更新者欄の追加


 そこまで書いてから、彼女は言った。


「希望欄に書くべきなのは、“セレスティア様”ではなく、これらの作業のうち王妃宮内で不足しているものです」


 エルンが少し考え込む。


「つまり、セレスティア様の文書協力を希望、ではなく」


「王妃宮内で香気源分類方法の知見が不足――状態区分、不明。過去記録索引化の方法――未確認。外部知見の参照可能性――三十日後に確認、などです」


 リリアナの声は少しずつ強くなっていた。


「お姉様を“希望”にしないでください。希望欄に、人の名前を書かないでください」


 会議室が静まった。


 言ったあと、リリアナ自身も少し震えた。


 強く言いすぎただろうか。


 だが、言わなければならなかった。


 セレスティア・レイノルドという名前を、また王妃宮の不足を埋める希望欄に入れてはいけない。


 それは、形を変えた復帰嘆願だ。


 マルタが静かに頷いた。


「リリアナ様の指摘を採用します」


 エルンはすぐに紙を書き直した。


『修正前:セレスティア様の文書協力――希望

 修正後:療養記録再設計に関する王妃宮内知見不足――不明/外部知見参照可能性――三十日後確認』


 年配女官が小さく息を吐いた。


「言われてみれば、そうですね」


 リリアナは少しだけ肩の力を抜いた。


「私も、最初は見落としそうでした」


「リリアナ様でも?」


「はい。希望しているのは本当ですから」


 正直に言うと、部屋の空気が少し和らいだ。


 誰もが、心のどこかで希望している。


 セレスティアが助けてくれれば、と。


 その気持ちを無かったことにはできない。


 ただ、それを紙の上で彼女本人に貼りつけてはいけない。


「では、今後の状態区分表に注記を加えます」


 リリアナは言った。


『人物名を状態区分欄に置かない。必要な作業、知見、確認事項として分解すること』


 書き終えた瞬間、彼女は少しだけ息を吐いた。


 また紙が増えた。


 けれど、必要な紙だった。


 同じ頃、王太子府でも似たようなことが起きていた。


 王太子府の未共有事項一覧、暫定版二。


 そこには、王妃宮療養体制と連動する項目が追加されていた。


 アデルは机の前でその一覧を見ている。


 エドが説明していた。


「王妃宮備品の香気源分類について、王太子府側の財務分類が不十分です。清掃水、防虫香布、薬草袋が別科目に分散しており、王妃宮一覧との照合に時間がかかります」


「分類統一案は」


「暫定版を作成中です」


「よし」


 そこまではよかった。


 だが、次の項目でアデルの目が止まった。


『療養記録再設計――セレスティア嬢助言希望』


 アデルは、しばらくその文字を見つめた。


 ラウルが言う。


「殿下。三十日後に、セレスティア嬢へ文書照会を行う候補項目です」


「候補項目」


「はい。現実的に考えて、彼女の助言が最も有効でしょう」


 アデルは、ゆっくり椅子にもたれた。


 言っていることは分かる。


 現実的だ。

 効率的だ。

 セレスティアなら、きっと分かる。


 だが、また同じだ。


「この欄から彼女の名前を外せ」


 アデルは言った。


 ラウルが眉をひそめる。


「しかし」


「必要なのは、彼女本人ではなく、知見だ」


「その知見を持っているのが彼女です」


「なら、その知見を分解しろ」


 アデルの声は静かだったが、明確だった。


「香気源分類方法。療養記録の索引化。薬師ギルド照会書式。緊急時判断基準。必要なものを項目にしろ。セレスティア嬢助言希望、では何も分解できていない」


 エドがすぐに記録する。


 ラウルは、まだ納得していない顔だった。


「殿下。結局、彼女に聞くことになるのなら」


「聞くかどうかは三十日後、彼女が決める」


「それまで作業が止まる可能性があります」


「止まるなら、どこで止まるか記録する」


 アデルは一覧を指で叩いた。


「人の名前を不足欄に置くな。人を穴埋め材にするな」


 言ってから、彼は少し驚いた。


 自分の口から、そんな言葉が出るとは思わなかった。


 かつて自分は、セレスティアを穴埋め材にしていた側だった。


 王太子府の不備。

 自分の理解不足。

 リリアナの不安。

 王妃宮の混乱。


 その穴を、彼女が静かに埋めていた。


 そして誰も、それを穴とは呼ばなかった。


 アデルは、低く言った。


「王太子府の暫定版二にも注記を入れる。人物名を希望欄、未確認欄、不明欄に置かない。必要な作業へ分解する」


 エドが書いた。


 ラウルは黙っていた。


 その沈黙には、納得ではなく抵抗がある。


 しかし、今はそれでよかった。


 抵抗も記録される。


 同じ日の午後、北方辺境伯家にも、王妃宮と王太子府での修正報告が届いた。


 セレスティアは、まず王妃宮の報告を読んだ。


『希望欄に人物名を置かないこと。必要な作業、知見、確認事項として分解すること』


 その一文で、彼女は動けなくなった。


 ノアが、向かいで静かに様子を見る。


「どうしました」


「……リリアナが」


 声が少し震えた。


「リリアナが、たぶん言ったのです」


「何を?」


「希望欄に、人の名前を書かないで、と」


 ノアは報告書に目を通した。


 そして頷いた。


「良い指摘です」


「はい」


 セレスティアは紙を見つめた。


 希望欄。


 そこに、自分の名前が書かれていたらしい。


 セレスティア様の文書協力――希望。


 以前の自分なら、それを見たときどう思っただろう。


 きっと、すぐに応えなければと思った。


 希望されている。

 必要とされている。

 自分がやれば進む。


 その希望欄に、自分の身体ごと吸い込まれていたかもしれない。


 でも、リリアナが止めた。


 人の名前を書くな、と。


 必要な作業へ分解しろ、と。


「私、少し救われました」


 セレスティアは言った。


「はい」


「リリアナが、私を項目にしなかった」


「はい」


「昔は、私もリリアナを項目にしていたかもしれません」


 ノアが静かに見る。


 セレスティアは苦く笑った。


「リリアナ対応。リリアナ慰撫。リリアナ社交補助。そんなふうに、心の中で書いていたかもしれません」


「それは、あなたが背負わされていたからでもあります」


「はい。でも、あの子を人ではなく作業として見ていた瞬間もあったと思います」


 言葉にすると、胸が痛んだ。


 リリアナを恨んだこともある。

 面倒だと思ったこともある。

 また泣いている、また私が処理するのか、と感じたこともある。


 その感情は、消えない。


 でも、今はその感情ごと見られる気がした。


「人を作業にしない」


 セレスティアは呟いた。


「簡単なようで、とても難しいですね」


「はい」


「王宮は、ずっと人を役割名で呼んできましたから」


 王太子。

 王妃。

 公爵令嬢。

 王太子妃候補。

 妹。

 姉。

 補佐。

 癒やし。

 器。


 その役割名の下に、人がいた。


 セレスティアは、そのことをようやく少しずつ見ている。


「返事は?」


 ノアが聞く。


 セレスティアは、少し笑った。


「書きません」


「はい」


「でも、三十日後にリリアナへ伝えたい言葉が増えました」


「記録しますか」


「はい」


 彼女は帳面を開いた。


『リリアナが、希望欄に私の名前を書かないでと言ったらしい。

 必要な作業へ分解すること。

 私は、項目ではない。

 同時に、私もまた誰かを項目にしていたかもしれない。

 人を作業にしない。これはきっと、とても難しい』


 書き終えて、しばらくその一文を見つめた。


 北方辺境伯家の窓の外では、午後の光が少し傾いている。


 王都の喧騒は遠い。


 だが、紙の上では今日も誰かが戦っている。


 その頃、レイノルド公爵邸でも「希望欄」が問題になっていた。


 家令が作成した古い家内記録整理表に、グレゴールは目を通していた。


 そこには、こう書かれていた。


『セレスティア様面談――希望』


 グレゴールは、その項目で目を止めた。


「これは何だ」


 家令は答えた。


「旦那様が、いずれセレスティア様と面談を望まれる可能性があると考え、希望欄に」


「消せ」


 家令は驚いた。


「よろしいのですか」


「私はまだ、あれと面談する資格を整えていない」


 グレゴールは、低く言った。


 その声は不機嫌だった。


 だが、いつもの支配的な響きとは少し違った。


「セレスティア面談希望、などと書けば、まるで私が望めば面談が近づくようではないか」


「では、どのように」


 グレゴールはしばらく黙った。


 そして、不本意そうに言った。


「面談に必要な未整理事項、としろ」


 家令は素早く書き直す。


『セレスティア様との面談に先立つ未整理事項

 一、幼少期教育記録の確認

 二、リリアナ様教育停止経緯

 三、母エレナ様療養中の姉妹対応記録

 四、公爵家として謝罪すべき事項の洗い出し』


 グレゴールは最後の項目で眉をひそめた。


「四は誰が入れた」


「私でございます」


「勝手に」


「必要かと」


 グレゴールは家令を睨んだ。


 家令は頭を下げたままだ。


 長い沈黙。


 やがてグレゴールは、低く言った。


「……消すな」


 家令は静かに頷いた。


「承知しました」


 グレゴールは窓の外を見た。


 面談希望。


 そう書くのは簡単だった。


 娘に会いたいのか。

 家へ戻したいのか。

 謝りたいのか。

 問い詰めたいのか。


 自分でも分からない。


 分からないまま希望欄に名前を書くな。


 その言葉は、王妃宮から公爵邸にも届いていた。


 不愉快だ。


 だが、刺さった。


 王妃宮では夕方、リリアナが状態区分表の注記を壁に貼っていた。


『人物名を状態区分欄に置かない。必要な作業、知見、確認事項として分解すること』


 エルンが横で言う。


「これ、かなり大事ですね」


「はい」


「でも、面倒ですね」


「はい」


「人の名前で書いた方が早いです」


「そうです」


 リリアナは頷いた。


「セレスティア様に聞く。マルタ様に聞く。殿下に確認。医師に任せる。そう書く方が早いです」


「それを分解する」


「はい。何を聞きたいのか。何を確認したいのか。どの知識が不足しているのか」


「大変です」


「大変です」


 リリアナは、少しだけ笑った。


「でも、人を作業にしないためには、たぶん必要です」


 その言葉に、マルタが静かに目を伏せた。


「よい一文です」


「記録しますか」


「しましょう」


 リリアナは記録帳に書いた。


『人を作業にしないために、必要なものを分解する』


 書き終えたあと、ふと考えた。


 自分は、アデルを何かの欄に入れていないだろうか。


 希望。

 未確認。

 交渉中。

 不明。


 彼との関係を、そう分類しようとしていた。


 でも、アデル自身を状態区分に入れてはいけない。


 分類すべきは、関係について確認すべきことだ。


 自分は彼をどう思っているのか。

 守られたい気持ちはどこから来ているのか。

 王太子妃候補ではない自分で、彼と向き合えるのか。

 彼は自分を守る相手ではなく、一人の人として見られるのか。


 リリアナは、こっそり別紙に書いた。


『アデル殿下――希望、ではない。

 確認事項。

 一、私は殿下を恋として好きなのか。

 二、守られる場所を好きだったのか。

 三、殿下は私を癒やし役ではなく人として見ているか。

 四、私は殿下を王太子ではなく人として見ているか』


 書いて、顔が熱くなった。


 慌てて紙を閉じる。


 だが、捨てなかった。


 これは私的記録。


 暫定版一。


 夜、アデルが王妃宮に立ち寄ったとき、壁の新しい注記を見て足を止めた。


「人物名を状態区分欄に置かない」


「はい」


 リリアナは少し緊張した。


「王太子府でも似た修正をした」


「そうなのですか」


「ああ。セレスティア嬢助言希望、という項目があった」


 リリアナの顔が少し曇る。


「こちらにもありました」


「直した」


「こちらもです」


 二人は、壁の紙を見上げた。


 しばらく沈黙が続く。


 やがてアデルが言った。


「私は、君を状態区分に入れていたのかもしれない」


 リリアナは息を止めた。


「殿下」


「リリアナ――癒やし。リリアナ――守るべき相手。リリアナ――私を正しいと思わせてくれる存在」


 アデルの声は低かった。


「そんなふうに、君を人ではなく役割で見ていた」


 リリアナは胸が痛んだ。


 でも、逃げなかった。


「私も、殿下を入れていました」


「私を?」


「はい。アデル殿下――私を選んでくれる人。アデル殿下――姉より私を見てくれる人。アデル殿下――守ってくれる場所」


 言いながら、目が熱くなる。


「私も、殿下を人ではなく、私の穴を埋める名前にしていたと思います」


 アデルは、静かに目を伏せた。


「私たちは、ひどいな」


「はい」


 リリアナは、涙をこらえながら笑った。


「でも、気づけました」


「ああ」


「気づいたことは、記録できます」


「君は本当に、何でも記録に戻すな」


「戻さないと、怖いので」


「そうか」


 アデルは、少しだけ笑った。


「では、記録しよう。私たちは互いを役割にしていた。今後、人として確認する」


 リリアナは頷いた。


「暫定版一ですね」


「また暫定版か」


「はい。完成は急ぎません」


 その言葉に、二人は少しだけ笑った。


 甘さはある。


 痛みもある。


 未確認だらけだ。


 でも、それを確定したふりで婚約へ押し込むよりは、ずっとましだった。


 その夜、北方辺境伯家の屋敷で、セレスティアは窓辺に立っていた。


 王都の明かりが遠くに見える。


 あの明かりの一つ一つの下で、誰かが紙を書いているのかもしれない。


 確定。

 未確認。

 希望。

 交渉中。

 不明。


 その便利な言葉が、誰かを救い、誰かを傷つけ、また直されている。


 完璧な言葉などない。


 使われながら、間違われながら、訂正される。


 人も、関係も、仕組みも。


 セレスティアは帳面を閉じた。


 今日はもう書かない。


 その代わり、心の中で一つだけ思った。


 私も、私自身を役割ではなく人として扱う練習をしている。


 まだ暫定版一にも満たないかもしれない。


 けれど、始まってはいる。

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