第61話 暫定という言葉を、誰かがまた笑った
暫定版。
その言葉は、思っていたより早く王宮の外へ漏れた。
最初は、王妃宮の内部記録に過ぎなかった。
『香気源一覧――暫定版一』
未完成ではない。
完成したふりもしない。
使いながら直すための紙。
リリアナにとって、それはようやく見つけた呼吸の仕方だった。
不完全なものを不完全なまま出すのは怖い。
けれど、暫定版なら、今の自分たちにも許される気がした。
ところが王都は、またその言葉を別の形にした。
「暫定版の王妃宮ですって」
「では、暫定版の王太子妃候補もいらっしゃるのかしら」
「リリアナ様のこと?」
「まあ、正式候補ではなくなったのでしょう? なら暫定妃ですわね」
笑い声が、薄い紅茶の香りに混じって広がる。
誰も大声では言わない。
上品な声で、少しだけ眉を上げて、扇の陰で笑う。
その方が、刃は深く入る。
王妃宮へ届いた報告書には、そのままの言葉が記録されていた。
『一部社交界にて、リリアナ様を“暫定妃”と揶揄する声あり』
リリアナは、それを読んだ瞬間、紙を落としそうになった。
「暫定妃……」
小さく呟いた声は、自分でも驚くほど弱かった。
マルタが隣で表情を変えずに言う。
「読むのを止めますか」
「いいえ」
リリアナは首を振った。
「読みます」
そう言ったものの、指先は震えていた。
暫定妃。
王太子妃候補の椅子から一度下りた。
でも、完全に無関係になったわけではない。
アデルとの関係も、まだ答えが出ていない。
だから暫定。
自分でも、昨日、記録帳に書いてしまった。
殿下との関係も暫定版なのかもしれない、と。
でも、自分で書くのと、他人に笑われるのは違う。
それも、王都の茶会で。
「私、また笑われていますね」
リリアナは言った。
「はい」
「そこは否定してくださらないのですね」
「事実ですから」
「マルタ様は本当に、こういうときも容赦がありません」
「容赦より確認が必要です」
リリアナは少しだけ笑った。
笑えたことに、自分でも驚いた。
痛い。
とても痛い。
けれど、以前のようにただ泣き崩れたいわけではなかった。
「暫定という言葉、悪い言葉ではないと思ったのですが」
「悪い言葉ではありません」
「でも、笑う人はいます」
「います」
「では、使うのをやめた方がよいのでしょうか」
マルタはすぐには答えなかった。
その沈黙で、リリアナは自分が何を聞いたのか分かった。
傷つきたくないから、言葉を手放すのか。
せっかく見つけた呼吸の言葉を、他人に笑われたから捨てるのか。
リリアナは、壁に貼られた『香気源一覧――暫定版一』を見た。
不格好な紙。
空欄と追記だらけの紙。
でも、王妃が倒れたあと、王妃宮が自分たちで作った紙。
それを守りたいと思った。
「やめません」
リリアナは言った。
声はまだ震えていた。
でも、逃げてはいなかった。
「暫定版という言葉は、使います」
「理由は?」
「完成していないものを、完成したふりで隠さないためです」
「はい」
「それに」
リリアナは少しだけ迷ってから続けた。
「私自身も、まだ暫定なのだと思います」
マルタが彼女を見る。
リリアナは、自分の胸元に手を当てた。
「王太子妃候補ではない。でも、殿下との関係が終わったとも言えない。姉の妹で、でも姉の代わりではない。王妃宮で学び直している途中で、まだ何度も間違えます」
「はい」
「だから、暫定と言われて傷つくのは、そこに本当の部分があるからだと思います」
言葉にすると、少しだけ痛みが形を持った。
形を持った痛みは、形のない痛みより少し扱いやすい。
「でも、妃ではありません」
リリアナは、はっきり言った。
「そこは違います。私はまだ妃ではありません。候補の立場も一時停止しています。だから“暫定妃”という言葉は、事実と違います」
マルタは頷いた。
「では、そのように記録しましょう」
「はい」
リリアナは記録帳を開いた。
『暫定妃という揶揄あり。傷ついた。
暫定であること自体は否定しない。未完成で、途中で、更新中であることは事実。
ただし、妃ではない。事実ではない呼称は受け取らない』
書き終えたあと、少しだけ息を吐いた。
「これ、公表しますか」
マルタが尋ねる。
リリアナはぎょっとした。
「こ、これをですか?」
「このままではなく」
「驚きました……」
「ですが、何らかの対応は必要でしょう」
リリアナは考えた。
暫定妃と呼ばれたことへ、いちいち反論するのは子どもっぽく見えるかもしれない。
けれど、放置すればその言葉は広がる。
そして自分だけでなく、王妃宮の暫定版文化そのものが笑われる。
「個人への揶揄には直接反応しません」
リリアナは言った。
「でも、王妃宮として“暫定版”の意味は説明した方がいいと思います」
「よろしい」
「暫定版は未熟さの放置ではなく、更新を前提とした運用記録です、と」
マルタの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
「その文、使えます」
「本当ですか」
「はい」
リリアナは少しだけ頬を赤くした。
自分の言葉が、また使われる。
怖いが、嬉しい。
すぐにエルンが呼ばれ、王妃宮の短い説明文が作られた。
『王妃宮における“暫定版”とは、未熟さを放置するための名称ではなく、更新を前提とした運用記録を指します。
誤りや不足を発見した場合は訂正記録を残し、版を更新します。
完成したふりをして不備を隠すのではなく、必要な者が現在使用できる形で共有し、改善を重ねるための手順です』
リリアナは最後に一文を加えるか迷った。
暫定妃という揶揄について。
書くべきか。
書かないべきか。
マルタが聞いた。
「入れますか」
「入れません」
リリアナは首を振った。
「これは私の感情ではなく、王妃宮の手順説明です」
「よろしいと思います」
「でも、私の記録には残します」
「それで結構です」
その文は、昼前に王妃宮から出された。
同じ頃、北方辺境伯家の王都屋敷にも「暫定妃」という言葉は届いていた。
セレスティアは報告書を読み、眉を寄せた。
暫定妃。
その文字を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
リリアナが傷つくだろうと思った。
かつてのリリアナなら、きっと泣いた。
自分はもう王太子妃候補として見られていないのか、と震えた。
あるいはアデルに縋ったかもしれない。
今のリリアナはどうするだろう。
セレスティアは紙を閉じた。
「リリアナが心配です」
ノアが向かいで頷く。
「はい」
「返事を書きたくなります」
「何と?」
「そんな言葉を受け取らなくていい、と」
「三十日です」
「分かっています」
セレスティアは苦笑した。
「分かっていますが、姉としては書きたいのです」
「それは自然です」
「自然でも、書きません」
「はい」
セレスティアは、王妃宮から届いた説明文の写しを読んだ。
暫定版とは、未熟さを放置するための名称ではなく、更新を前提とした運用記録。
その一文で、彼女は少しだけ目を細めた。
「リリアナの言葉ですね」
「分かりますか」
「はい。たぶん」
少し誇らしかった。
その誇らしさに、また胸が痛んだ。
リリアナが自分の言葉を持つことが嬉しい。
でも、その言葉が傷つけられることは怖い。
姉というものは、こんなにも面倒な感情を持つものだったのか。
セレスティアは、小さく息を吐いた。
「私、姉だったのですね」
ぽつりと漏れた言葉に、ノアが少しだけ目を上げた。
「今も、では?」
「今も……」
セレスティアは、その言葉をゆっくり受け取った。
姉であることは、自分を縛ってきた。
リリアナの面倒を見ること。
泣いたら慰めること。
失敗の後始末をすること。
守ること。
その役割から逃げたいと思った。
今も、戻りたくはない。
だが、姉であることのすべてを捨てたいわけではなかったのかもしれない。
リリアナの言葉を見て、心配し、誇らしく思う。
その感情まで捨てる必要はない。
「姉であることと、姉として背負わされることは別、ですね」
セレスティアが言うと、ノアはほんの少し笑った。
「はい」
「また別です」
「便利でしょう」
「便利です。でも、やはり大変です」
セレスティアは帳面を開いた。
『リリアナが“暫定版”の意味を説明した。暫定妃という揶揄には触れなかった。
姉として心配した。誇らしくも思った。
姉であることと、姉として背負わされることは別。
私はまだ、その違いを学んでいる』
書き終えると、少しだけ胸が軽くなった。
王太子府では、アデルが王妃宮の説明文を読んでいた。
「更新を前提とした運用記録」
彼は声に出した。
エドが頷く。
「王太子府の未共有事項一覧にも使えそうです」
「使う」
アデルは即答した。
そこへラウルが入ってきた。
「殿下。社交界では、リリアナ様を“暫定妃”と呼ぶ声があるようです」
アデルの顔が冷えた。
「知っている」
「王太子府として、抗議を」
「しない」
ラウルは意外そうに眉を上げた。
「よろしいのですか」
「感情としては、したい」
アデルは正直に言った。
「だが、王太子府が“リリアナは暫定妃ではない”と大きく否定すれば、その言葉をさらに広げることになる」
「では放置を?」
「王妃宮の説明文を支持する」
アデルは紙を置いた。
「暫定版という言葉の意味を、王太子府でも同じように使う。揶揄へ直接反応するより、その言葉を仕事の中で正しく使う」
「リリアナ様個人への侮辱は」
その問いで、アデルの指がわずかに動いた。
怒りがある。
確かにある。
だが、怒りのまま動かない。
それを、彼は学び始めている。
「リリアナ本人がどう扱うかを確認する」
アデルは言った。
「彼女の名誉は、彼女のものだ」
言ってから、彼は少しだけ苦笑した。
ノアの言葉に似ている。
自分の言葉が、少しずつ変わっている。
ラウルは不満そうだったが、それ以上言わなかった。
その日の午後、アデルは王妃宮へ向かった。
リリアナは小会議室で、暫定版の説明文の写しを整理していた。
アデルを見ると、少しだけ表情を硬くする。
「殿下。報告は届いていますね」
「ああ」
「暫定妃のことも」
「聞いた」
リリアナは深く息を吸った。
「私は、王太子府からの抗議は求めません」
アデルは、少しだけ目を見開いた。
「先に言われたな」
「殿下が怒るかもしれないと思ったので」
「怒っている」
「はい。分かります」
リリアナは、少しだけ困ったように笑った。
「でも、怒りで大きな声明を出されると、たぶん私はまた守られる場所に戻りたくなります」
「そうか」
「はい。それに、暫定妃という言葉は事実ではありません。けれど、私が暫定の状態であること自体は、否定したくありません」
アデルは静かに聞いた。
リリアナは続けた。
「私はまだ途中です。未完成です。更新中です。でも、妃ではありません」
「うん」
「だから、王妃宮の暫定版説明文で足ります。私個人の感情は、私の記録に残します」
アデルはゆっくり頷いた。
「分かった」
「殿下は、それでよろしいですか」
「よろしいかどうかで言えば、嫌だ」
アデルは正直に答えた。
「君が笑われるのは嫌だ」
リリアナの胸が少し温かくなる。
危険な温かさだ。
でも、もう逃げるだけではない。
「ありがとうございます」
リリアナは言った。
「そのお気持ちは受け取ります。でも、今回は私が扱います」
アデルは、少しだけ寂しそうに笑った。
「強くなったな」
「違います」
「違う?」
「扱う練習をしているだけです」
リリアナはそう言って、記録帳を開いた。
「今の会話も記録します」
「それは、少し恥ずかしいな」
「暫定版二に入るかもしれません」
「私たちの関係もか?」
冗談めかした言葉だった。
しかし、言ったあとでアデル自身が少し固まった。
リリアナも顔を赤くした。
短い沈黙。
それから、リリアナは小さく笑った。
「それは……まだ私的記録です」
「そうか」
「はい。公文書には載せません」
「助かる」
二人は少しだけ笑った。
その笑いは、ぎこちない。
でも、以前のように甘く塗られていない。
未完成のまま、そこにある。
夜になり、王都ではまだ「暫定妃」という言葉が囁かれていた。
けれど、同時に別の言葉も広がっていた。
「暫定版とは、更新を前提とした運用記録だそうですわ」
「王妃宮が説明文を出したの?」
「ええ。未完成を隠さないためだとか」
「……それ、少し面白いわね」
「面白い?」
「わたくしの家の慈善会も、完成してから出そうとして一年止まっている書類がありますもの」
誰かが笑う。
しかし、その笑いは先ほどまでの嘲笑とは少し違った。
自分たちの未完成にも、名前を与えられるかもしれない。
そんな小さな気配が生まれていた。
翌朝、王妃宮には一通の手紙が届いた。
差出人は、王都慈善会の若い会計係だった。
『王妃宮の暫定版という考え方を拝見しました。
当会でも、未完成のまま止まっていた寄付配分表を“暫定版一”として共有してみたいと思います。
完成まで誰か一人が抱え込むより、皆で見ながら直す方がよいのではないかと考えました』
リリアナはそれを読んで、しばらく黙った。
そして、泣きそうな顔で笑った。
「マルタ様」
「はい」
「笑われた言葉が、少しだけ別の場所へ届きました」
「ええ」
「暫定版、やめなくてよかったです」
「はい」
リリアナは、その手紙を壁の端に貼るか迷った。
そして、貼らなかった。
まず記録に残す。
貼るかどうかは、王妃宮の皆で決める。
それが暫定版のやり方だと思ったからだ。
その日の記録帳に、彼女は書いた。
『暫定妃と笑われた。痛かった。
でも、暫定版という言葉は別の誰かに届いた。
途中であることを笑われても、途中だからこそ共有できるものがあるのかもしれない』
書き終えたあと、リリアナは少しだけ背筋を伸ばした。
暫定版一。
自分もきっと、まだそのあたりだ。
でも、更新はできる。
そう思えた。




