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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第60話 未完成を笑う人たちは、完成品の値段を知らない

 王妃宮が訂正記録を出した翌日、王都では妙な言葉が流行り始めた。


「未完成の王妃宮」


 最初に誰が言ったのかは分からない。


 おそらく、どこかの茶会で退屈した貴族が口にした軽口だったのだろう。


 だが、軽口ほど遠くまで転がる。


「聞きまして? 王妃宮の記録、訂正だらけだそうですわ」


「セレスティア様がいなくなった途端に?」


「ええ。しかも“未完成”と書いた紙を堂々と貼っているとか」


「まあ……それは正直と言うべきか、恥知らずと言うべきか」


「少なくとも、王妃陛下のおそばで未完成は困りますわね」


 笑い声。


 小さく、上品で、鋭い笑い声。


 リリアナは、その報告を読んでいた。


 王妃宮の小会議室。


 壁には、相変わらず『香気源一覧――未完成』が貼られている。


 その横には、昨日出した訂正記録の写し。


 さらにその下に、今日から新しく貼った紙がある。


『更新履歴』


 そこには、日付と時刻、修正者、修正内容が並び始めていた。


 防虫香布の表現修正。

 療養室入室基準の追加。

 封蝋香料の項目追加。

 清掃水の確認担当変更。


 綺麗ではない。


 文字の大きさも揃っていない。

 余白も不格好だ。

 まるで、王妃宮の裏側を壁にそのまま貼ったようだった。


 だから、笑われる。


「未完成の王妃宮、ですか」


 リリアナは小さく呟いた。


 エルンが気まずそうに言う。


「……外せますか?」


 その問いに、リリアナは紙を見上げた。


 外せば、壁は綺麗になる。


 来客が見ても恥ずかしくない。


 女官たちも、少しは安心するだろう。


 でも、外したら。


 また誰かが、未完成を机の引き出しにしまう。


 完成するまで見せない。

 整うまで出さない。

 誰か一人が裏で全部直す。


 そういう王妃宮へ戻ってしまう気がした。


「外しません」


 リリアナは言った。


 声は震えたが、逃げなかった。


 年配女官が眉を寄せる。


「リリアナ様。ですが、王妃宮の威厳というものが」


「威厳のために外して、次に王妃陛下がお倒れになったとき、誰がどこを見ればよいのか分からなくなる方が怖いです」


「それは……」


「笑われるのは嫌です。とても嫌です」


 リリアナは正直に言った。


「でも、笑われないために隠す方が、もっと怖いです」


 部屋が静かになった。


 マルタが、リリアナを見て静かに頷く。


「では、未完成のまま貼ります。ただし、未完成という言葉だけでは不用意に見えます」


「では、どう書けば」


「暫定版、としましょう」


 エルンが顔を上げる。


「暫定版?」


「はい。未完成だが、現在使用するための版。更新することを前提にした記録です」


 リリアナは、少し目を開いた。


「未完成より、少し前向きですね」


「少し事務的でもあります」


「それがいいです」


 リリアナは新しい紙を取り、表題を書き直した。


『香気源一覧――暫定版一』


 そして、横に小さく追記する。


『更新前提。誤りを発見した場合は訂正記録を残す』


 書き終えて、壁に貼った。


 不思議だった。


 未完成という言葉のままだと、責められているように感じた紙が、暫定版になると少しだけ立って見えた。


 まだ完成していない。


 でも、使う。


 間違えたら直す。


 それは恥ではなく、手順だ。


 マルタが言う。


「王妃宮内の記録について、今後は版番号をつけましょう」


「版番号」


「最初のものを暫定版一。訂正が入れば暫定版二。正式運用に耐える段階で第一版」


 エルンが素早く書き留める。


「それなら、何がいつ変わったか追えます」


「はい。誰が裏で直したか分からない状態を避けられます」


 リリアナは、胸の中で何かが小さくはまるのを感じた。


 版番号。


 更新履歴。


 訂正記録。


 それは地味な言葉ばかりだ。


 けれど、その地味さが王妃宮を支えるのかもしれない。


「マルタ様」


「はい」


「これ、お姉様に送りたくなります」


「送りません」


「はい。分かっています」


 リリアナは苦笑した。


「でも、三十日後には見てほしいです」


「そのとき、セレスティア様が望めば」


「はい」


 そのころ、王太子府でも同じような話が起きていた。


 アデルは、王妃宮から届いた『香気源一覧――暫定版一』の写しを読んでいた。


「暫定版」


 彼は呟いた。


 エドが隣で頷く。


「王妃宮は、今後この方式で記録を更新するようです」


「王太子府にも必要だな」


 ラウルが渋い顔をする。


「殿下、王太子府の文書に暫定版などと記せば、外部に不安を与えます」


「外部に出す文書と、内部で使う作業文書は別だ」


「しかし、内部であっても」


「内部で完成したふりをして、誰かに裏で完璧にさせる方が危険だ」


 アデルは、王妃宮の紙を机に置いた。


「王太子府の未共有事項一覧にも版番号をつける。初回を暫定版一。以後、更新履歴を残す」


 ラウルは不満そうだったが、エドはすぐにペンを取った。


「承知しました」


 アデルは少しだけ笑った。


「エドは最近、返事が早いな」


「考える前に記録すると、逃げにくいので」


「それは自分に言っているのか、私に言っているのか」


「両方です」


 アデルは声を出さずに笑った。


 王太子府で、こういう返事が許されるようになるとは思わなかった。


 以前なら不敬と取られたかもしれない。


 だが今は、少なくともこの部屋では、それが必要だった。


 王太子が間違える。


 側近も見落とす。


 若い書記官も訂正する。


 その過程を記録する。


 それは、王太子府の威厳を壊すものではなく、むしろ内側から腐らせないための骨組みなのかもしれない。


 ただし、そう思わない者もいる。


 ラウルが低く言った。


「殿下。未完成なものを見せる文化は、王宮の権威を損ないます」


 アデルは彼を見た。


「完成品だけを見せる文化は、完成までに誰が潰れたかを隠す」


 ラウルは口を閉ざした。


 アデルは続ける。


「私は、完成品だけを見ていた。その結果、セレスティアがどこで潰れかけていたのか見えなかった」


 部屋に静けさが落ちた。


 その名が出ると、まだ空気が変わる。


 だがアデルは逃げなかった。


「王太子府は暫定版を持つ。訂正記録も持つ。これは決定だ」


 エドが記録する。


『王太子府未共有事項一覧、暫定版方式を採用。更新履歴を保持』


 その紙は、やはり綺麗ではなかった。


 だが、残った。


 同じ日の午後、レイノルド公爵邸では、グレゴールが「暫定版」という言葉に眉をひそめていた。


「王妃宮が、未完成を言い換えただけではないか」


 彼は報告書を机へ置いた。


 家令は控えめに答える。


「言い換えではありますが、意味はあるかと」


「意味?」


「未完成と認め、更新する仕組みを作ったということです」


「王宮は、そんなものを外に見せる場所ではない」


「これまでは、見せないために誰かが整えておりました」


 グレゴールの目が鋭くなる。


「またセレスティアの話か」


「お嬢様だけではありません」


 家令は頭を下げたまま続けた。


「公爵家でも同じことが起きております。旦那様へ上がる前に、書類は何人もの手で整えられます。その者たちの名は、ほとんど残りません」


「それが家の運営だ」


「はい。ただ、その中に無理があった場合、表に出るころには分からなくなります」


 グレゴールは黙った。


 家令は、それ以上踏み込まなかった。


 踏み込みすぎれば、この場は閉じる。


 最近、彼も少しだけ学んでいた。


 言葉は、強く押し込めばよいわけではない。


 グレゴールはしばらくして言った。


「……公爵家の保管記録にも、更新履歴をつけろ」


 家令は一瞬、耳を疑った。


「旦那様」


「全てではない。まず、セレスティアとリリアナに関わる古い記録だけだ」


「承知しました」


「誤解するな。王妃宮の真似ではない」


「はい」


「家のためだ」


「はい」


 家令は深く頭を下げた。


 理由が家のためでも構わない。


 記録が残るなら。


 ほんの少しでも、過去が見える形になるなら。


 それは前進だった。


 北方辺境伯家の王都屋敷に『香気源一覧――暫定版一』の写しが届いたのは、夕方だった。


 セレスティアは封を開け、表題を見た瞬間、小さく息を呑んだ。


「暫定版」


 ノアが向かいから見る。


「良い表現ですね」


「はい」


 セレスティアは紙を読み進めた。


 項目はまだ粗い。


 分類も少し甘い。


 香気源の範囲に重複がある。

 清掃水と薬草袋の扱いは分けた方がいい。

 療養室、前室、一般区域の基準も、もう少し整理できる。


 直したい。


 けれど、直さない。


 これは王妃宮の暫定版一だ。


 最初の一枚。


 不格好でも、彼女たちの紙。


「よく考えましたね」


 セレスティアは言った。


「リリアナ様が?」


「リリアナだけではないと思います。マルタ様、エルン、侍女たち。たぶん、みんなで」


「はい」


「私なら、もっと整理したかもしれません」


「でしょうね」


「でも、この紙には私には書けない項目があります」


 ノアが少し目を上げた。


「どれですか」


 セレスティアは一つの欄を指した。


『私物確認への抵抗感あり。療養室入室基準として限定する』


「これです」


 ノアはその行を読む。


「なるほど」


「私は昔、必要な確認だからと書いていたと思います。抵抗感までは、たぶん表に出さなかった」


「なぜ?」


「そこまで書く余裕がなかったのかもしれません。あるいは、書けば面倒になると思っていたのかも」


 セレスティアは、紙を見つめた。


 リリアナは、自分とは違う。


 弱さや抵抗や嫌だという感情を、記録に残そうとする。


 それは未熟さでもある。


 でも、強さでもある。


「この紙は、私の紙ではありません」


 セレスティアは静かに言った。


「はい」


「それが、少し嬉しいです」


「寂しくは?」


「寂しいです」


 即答すると、ノアが少しだけ口元を緩めた。


「両方ですね」


「はい。両方です」


 セレスティアは、今日は帳面ではなく、別の紙を取り出した。


 返事ではない。


 評価でもない。


 ただ、自分のための記録。


『王妃宮、香気源一覧を暫定版として作成。

 私なら書かなかったかもしれない“現場の抵抗感”が記録されていた。

 これは私の紙ではない。

 だから意味がある』


 書き終えて、引き出しにしまった。


 送らない。


 でも、残す。


 夜、王妃宮では、暫定版一の前にリリアナが立っていた。


 アデルもそこにいた。


 王太子府の用件で来た帰りに、壁の紙を見に来たのだ。


「これが暫定版一か」


「はい」


「王太子府も真似する」


「真似という言い方は少し」


「参考にする」


「はい。それなら」


 リリアナは少し笑った。


 アデルも紙を見上げる。


「未完成のまま出すのは、怖いな」


「怖いです」


「笑われる」


「笑われています」


「それでも貼るのか」


「はい」


 リリアナは、暫定版一を見つめた。


「完成品だけを貼ると、完成するまでの苦しさが消える気がします」


 アデルは黙った。


 その言葉は、王太子府の会議室で自分が言ったこととよく似ていた。


「君は、もう姉の隣に立っているのかもしれないな」


 アデルが言うと、リリアナは首を横に振った。


「いいえ」


「違うのか」


「私は、お姉様の隣に立とうとしているのではなく、たぶん、私の場所に立とうとしています」


 アデルは、少し驚いた顔をした。


 リリアナも、自分で言ってから驚いた。


 でも、言葉はしっくりきた。


 姉の隣。


 それも大切だ。


 でも、姉の横に立つためだけに自分の言葉を持つのではない。


 自分の場所に立つ。


 その上で、姉と向き合う。


「今の言葉、記録した方がいいでしょうか」


 リリアナが少し照れたように言うと、アデルは微笑んだ。


「した方がいい」


「殿下も、最近すぐ記録と言いますね」


「感染した」


「毒ですか?」


「いや」


 アデルは少し考えてから言った。


「たぶん、薬だ。苦いが」


 リリアナは笑った。


「それ、前にもおっしゃっていました」


「そうだったか」


「はい。記録しています」


「参ったな」


 二人は、暫定版一の前で静かに笑った。


 その笑いは、まだ恋ではない。


 断ち切られた縁でもない。


 未完成の関係。


 暫定版一。


 そんな言葉が、リリアナの胸に浮かんだ。


 彼女はそれを口には出さなかった。


 でも、あとで記録帳に書いた。


『殿下との関係も、今は暫定版なのかもしれない。完成させようと急がない。更新履歴を残す』


 書いてから顔が熱くなり、慌てて帳面を閉じた。


 マルタがそれを見ていたが、何も言わなかった。


 ただ、少しだけ優しく見えた。


 その夜遅く、王都ではまだ「未完成の王妃宮」という揶揄が消えていなかった。


 けれど、それとは別に、小さな言葉も流れ始めていた。


「暫定版」


 完璧ではない。


 でも、使う。


 間違えたら直す。


 誰か一人に完成まで押しつけない。


 その言葉はまだ小さい。


 けれど、王宮のあちこちで、少しずつ紙の端に書き込まれ始めていた。


 暫定版一。


 その不格好な文字が、いつか誰かを救うかもしれないことを、まだ誰も知らなかった。

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