表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
59/110

第59話 不完全な紙を、誰が責めるのか

 王妃宮が出した判断手順は、完璧ではなかった。


 それは、誰よりもリリアナ自身が分かっていた。


『王妃陛下急変時の王妃宮内判断手順について』


 一、医師を招集。

 二、薬湯、香炉、寝具、夜間記録を確認。

 三、過去療養記録を参照。

 四、防虫香布を原因候補として排除。

 五、王妃陛下の容体を再確認。

 六、当該時点で外部照会は不要と判断。

 七、今後のため、緊急照会基準を整備中。


 紙にすると、ひどく整って見える。


 けれど、実際は違った。


 医師を呼ぶ声は裏返っていた。

 薬湯記録は棚から一度落とした。

 香炉記録の綴じは古い年度のものを開きかけた。

 防虫香布に気づくまで、誰もがセレスティアの名を喉元で飲み込んでいた。


 そして何より、「排除」という言葉は正確ではなかった。


 防虫香布を完全に原因として排除したわけではない。

 部屋から取り除き、影響の可能性を減らしただけだ。


 セレスティアなら、きっと直す。


 リリアナはその箇所を見るたび、胸がむずむずした。


 訂正すべきか。


 いや、訂正した方がいい。


 そう思いながら、ペンを持ち、しかし動けずにいた。


 なぜなら、それはもう王妃宮から出した正式な経過記録だったからだ。


 間違いを見つけたなら、訂正記録を出すべきだ。


 でも、出せばまた言われる。


 ほら、未熟だ。

 やはりセレスティア様がいなければ。

 王妃陛下の療養記録でさえ、言葉一つ正確に扱えない。


 怖い。


 単純に、怖かった。


 マルタは、リリアナの手元を見ていた。


「訂正したいのですね」


「はい」


「どこを?」


「四番です。“排除”ではなく、“一時除去”か“原因候補として寝室外へ移動”が正確だと思います」


「そうですね」


「では、やはり訂正した方が」


「した方がよろしいです」


 あまりにあっさり言われ、リリアナは顔を上げた。


「よろしいのですか」


「誤りに気づいたなら、訂正記録を出します」


「でも、また未熟だと言われます」


「言われるでしょう」


「お姉様なら、最初から間違えませんでした」


「それは分かりません」


「でも」


「セレスティア様でも、初稿を後で直すことはあったはずです」


 リリアナは黙った。


 姉の書類はいつも完成形で届くように思っていた。


 だが、考えてみれば当然だ。


 完成形になる前には、下書きや修正があったはずだ。


 ただ、それを誰も見なかっただけ。


 姉は不完全な過程を、ほとんど誰にも見せなかった。


 あるいは、見せられなかった。


「訂正してよいのですね」


「訂正しなければ、誤りが残ります」


「訂正したら、未熟さが残ります」


「どちらを残すかです」


 マルタの声は静かだった。


 リリアナは、紙を見つめた。


 誤りが残る。

 未熟さが残る。


 その二つなら、未熟さを残した方がいい。


 そう思えた。


「訂正します」


 リリアナはペンを取った。


 新しい紙に書く。


『訂正記録。

 先に提出した「王妃陛下急変時の王妃宮内判断手順について」の第四項における“防虫香布を原因候補として排除”の表現は不正確でした。

 正しくは、“防虫香布を香気源の一候補として寝室外へ移動し、影響軽減を確認した”です。

 原因確定ではなく、以後も医師および薬師ギルドと確認を継続します』


 書き終えると、胸がどっと重くなった。


 でも、少しだけ呼吸が楽になった。


「これで」


 マルタが受け取り、読んだ。


「よろしいと思います」


「怖いです」


「はい」


「でも、出します」


「はい」


 訂正記録は、その日の午前中に王太子府と書記局へ送られた。


 そして当然のように、王都にも広がった。


 反応は早かった。


「王妃宮が訂正記録を出したらしい」


「ほら、やはり不正確だったのでは?」


「王妃陛下の急変時に、その程度の記録で判断していたのか」


「セレスティア様なら、こんな訂正は不要だったでしょうね」


 そういう声があった。


 一方で、別の声もあった。


「訂正したのなら、むしろ誠実では?」


「今まで王宮の記録がどれほど訂正を隠してきたのかを思うと、私は悪くないと思いますわ」


「未熟さを見せるのは、勇気がいることですもの」


 評価は割れた。


 だが、リリアナが最も恐れていた言葉は、やはり届いた。


『王妃陛下の療養に関わる記録を、未熟な者に任せるべきではない』


 その一文を読んだとき、リリアナは思ったより傷つかなかった。


 いや、傷ついた。


 けれど、崩れなかった。


 自分でも不思議だった。


 マルタが尋ねる。


「大丈夫ですか」


「大丈夫ではありません」


「はい」


「でも、崩れてはいません」


「ええ」


「たぶん、訂正できたからです」


 リリアナは紙を机に置いた。


「未熟だと言われても、訂正できたことは残ります」


「その通りです」


「お姉様なら、もっと上手くやったかもしれません」


「かもしれません」


「でも、これは王妃宮の紙です」


「はい」


 リリアナは小さく息を吐いた。


「私たちの紙です」


 その言葉は、少しだけ温かかった。


 同じ頃、王太子府でも訂正記録は読まれていた。


 アデルは、第四項の修正文を何度か読み返した。


「こちらの方が正確だ」


 若い書記官エドが頷く。


「はい。排除では断定が強すぎます」


「私も最初の文では気づかなかった」


「私もです」


 アデルは苦笑した。


「では、王太子府も気づかなかったと記録しておけ」


 エドが本当に書こうとするので、アデルは一瞬止めかけた。


 だが、止めなかった。


 それも事実だ。


 ラウルが横で眉をひそめる。


「殿下。何でも記録すればよいというものではありません」


「何でも隠せばよいというものでもない」


「王妃宮の未熟さが外に出ています」


「訂正しなければ、誤記が残った」


「しかし」


「ラウル」


 アデルは彼を見る。


「今までの王宮は、訂正を恥として扱いすぎたのではないか」


 ラウルは黙った。


 アデルは続ける。


「だから、完成形になるまで誰かが裏で整え続けた。セレスティアのような者が、訂正前の混乱を一人で吸収した」


「殿下は、またセレスティア嬢を」


「彼女だけの話ではない」


 アデルは静かに言った。


「不完全な紙を出し、訂正し、改善する。その過程を組織が持てなければ、また誰か一人に完璧を求めることになる」


 ラウルは不満そうだった。


 だが、すぐに反論はしなかった。


 王太子府にも、訂正記録の文化は少しずつ入り込んでいる。


 それを快く思わない者も多い。


 だが、止めきれなくなっていた。


 午後、北方辺境伯家にもその訂正記録の写しが届いた。


 セレスティアは封を開け、すぐに第四項へ目を通した。


 そして、指が止まった。


「直しましたね」


 向かいのノアが顔を上げる。


「王妃宮が?」


「はい」


 セレスティアは紙を見つめた。


『排除』から『寝室外へ移動し、影響軽減を確認』へ。


 正確になっている。


 昨日、自分が直したかった箇所だ。


 彼女は思わず笑いそうになり、同時に泣きそうにもなった。


「私が直したかったところです」


「そうでしたか」


「でも、私が直す前に、王妃宮が直しました」


「よいことですね」


「はい」


 セレスティアは頷いた。


「よいことです」


 言いながら、胸が少し痛い。


 自分がいなくても直せた。


 それは良いこと。


 だが、自分が必要ないように見えて少し寂しい。


 また、良い寂しさ。


 最近の彼女は、その感情に名前をつけられるようになってきた。


「返事は?」


 ノアが尋ねた。


「書きません」


「はい」


「三十日ですから」


「はい」


「でも、記録には書きます」


 セレスティアは帳面を開いた。


『王妃宮が訂正記録を出した。私が直したかった箇所だった。

 私が直さなくても、王妃宮が気づいた。

 寂しく、嬉しい。

 不完全な紙を出し、訂正できる場所になれば、誰か一人が完璧を背負わずに済むのかもしれない』


 そこまで書いて、少し考える。


 そして一行足した。


『リリアナは、よく直した』


 これは、今は送らない。


 でも、三十日後に伝えたいと思った。


 その日の夕方、レイノルド公爵邸では、グレゴールが王妃宮の訂正記録を読んでいた。


 彼は眉間に皺を寄せた。


「王妃宮は、こんな未完成な記録を外に出しているのか」


 家令は控えめに答えた。


「訂正を公にした、ということかと」


「恥を晒しているだけだ」


「あるいは、恥を隠さなくなった、とも言えます」


 グレゴールが鋭く見る。


「お前は最近、本当によく喋る」


「申し訳ございません」


「誰の影響だ」


 家令は少しだけ間を置いた。


「お嬢様方の記録を読んでおりますので」


 グレゴールは不快そうに視線を逸らした。


 だが、怒鳴りはしなかった。


 家令は続ける。


「これまで、未完成のものは誰かが整えてから旦那様へ届いておりました」


「当然だ」


「その“誰か”が、セレスティア様だった可能性がございます」


 部屋が静まった。


 グレゴールは紙を置いた。


「それは、もう分かっている」


 低い声だった。


「分かっているが、それで家がどうなる」


 家令は答えなかった。


 グレゴールは窓の外を見る。


 王妃宮も王太子府も、未完成なものを見せ始めた。


 リリアナまで、自分の未熟さを文にする。


 セレスティアは戻らず、しかし影響だけを残す。


 家長としては、非常にやりにくい世界になった。


 だが父としては。


 そこから先を、グレゴールは考えなかった。


 考えようとすると、胸の奥に鈍い痛みが生じるからだ。


 王妃宮では、夜になっても香気源一覧の前に人が集まっていた。


 訂正記録を出したことで、妙に空気が変わった。


 完璧でなくてもよい。


 ただし、間違えたら直す。


 その当たり前のことが、王妃宮では新しかった。


 エルンが紙を持ってきた。


「リリアナ様。来客用封書の香料について、書記局から確認が来ました」


「封書まで?」


「はい。王妃陛下の寝室近くに持ち込む場合、香料付きの封蝋を避けるべきではないかと」


 年配女官がため息をつく。


「本当にきりがありませんね」


 リリアナは頷いた。


「きりがありません」


「では、どこかで区切らなければ」


「はい。ですから、寝室内、寝室前室、王妃宮一般区域で基準を分けます」


 エルンがすぐに書く。


 マルタが横から言った。


「よく分けましたね」


「全部禁止にすると、現場が壊れる気がしました」


「ええ」


「でも、全部自由にすると王妃陛下が危ない」


「その通りです」


「分けることばかりですね」


 リリアナは少し笑った。


「お姉様も、閣下も、マルタ様も、みんな別だ別だとおっしゃるから」


「便利でしょう」


「便利です。でも大変です」


「それも別です」


「もう」


 リリアナが思わず笑うと、周囲の侍女たちも少しだけ笑った。


 その小さな笑いは、王妃宮にとって貴重だった。


 不安は消えていない。


 王妃の体調もまだ慎重に見なければならない。


 セレスティアの三十日も始まったばかり。


 それでも、笑いが一つ生まれた。


 夜、王妃エレオノーラは寝台の上で、訂正記録の写しを読んだ。


 マルタが横に控えている。


「リリアナが出したのね」


「はい」


「怖かったでしょう」


「かなり」


「でも、出した」


「はい」


 王妃は、薄く微笑んだ。


「セレスティアは、これを読んで直したくなったでしょうね」


「おそらく」


「直したかしら」


「いいえ。回答は来ておりません」


「そう」


 王妃は目を閉じた。


 その表情には、安堵があった。


「よかった」


 マルタは静かに尋ねる。


「よかった、でございますか」


「ええ。セレスティアが直さなかったことも、リリアナが直したことも」


「はい」


「王妃宮は、ようやく不完全な姿を見せ始めたのね」


 王妃の声はかすれていた。


「今まで、その不完全さを誰か一人が隠してくれていた」


 マルタは何も言わなかった。


 それは、王妃自身への痛みでもあったからだ。


 王妃は続けた。


「これからは、隠さず直す場所にしなければ」


「はい」


「私も、もう少し生きなければね」


「陛下」


「冗談よ。半分は」


 マルタは眉をひそめた。


「半分は困ります」


 王妃はほんの少し笑った。


 その笑いは弱かったが、確かにあった。


 同じ夜、セレスティアは自室で、まだ送らない覚書の箱を閉じた。


 王妃宮の訂正記録は、別の封筒に入れてある。


 彼女は、机の上に手を置いた。


 今日は、書かなかった。


 送らなかった。


 直さなかった。


 それなのに、何かが進んだ。


 不思議だった。


 自分が動かないことも、物語の停滞ではない。


 誰かが動く余白になる。


 そう思えた。


 もちろん、王都は明日も何か言うだろう。


 王妃宮は未熟だ。

 リリアナは危なっかしい。

 セレスティアが戻れば早い。

 ノアは沈黙している。

 王太子府は変わりすぎた。


 言葉は止まらない。


 それでも、今日のセレスティアは返事を書かない。


 書かないことで、誰かの紙が残ったから。


 彼女は帳面に最後の一行を書いた。


『私が正しく直さないことで、誰かが自分で直す日もある』


 その一文は、彼女にとって少しだけ苦く、少しだけ優しい真実だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ