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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第58話 彼女が書かなかった紙にも、意味があった

 セレスティアは、翌朝も覚書を送らなかった。


 机の引き出しには、昨日書いた紙が入っている。


『王妃宮療養記録再設計案――私的覚書』

『戻らないための設計図』


 表題だけ見れば、今すぐ王妃宮へ送るべき文書に見えた。


 香気源一覧。

 環境変化別記録。

 未完成のまま掲示すること。

 緊急時照会基準。


 どれも、王妃宮には役立つはずだ。


 けれどセレスティアは、送らなかった。


 それは冷たさではない。

 少なくとも、そう信じたい。


 王妃宮はすでに自分たちで香気源一覧を作り始めている。

 緊急照会基準も、セレスティアへ聞く前提ではなく、王妃宮内でまず何を判断するかという形で作ろうとしている。


 ならば今、自分が完成度の高い紙を送ればどうなるか。


 きっと使われる。


 リリアナたちは助かるだろう。

 マルタも、医師も、侍女たちも。


 だが同時に、王妃宮が自分たちで作り始めた不格好な紙は、簡単に脇へ置かれるかもしれない。


 セレスティア様の案が届きました。

 では、こちらを基準にしましょう。


 その一言で、昨日の夜にリリアナたちが震えながら引いた線が、消えてしまう。


 善意の助言が、誰かの小さな成長を覆ってしまうこともある。


 それを、今のセレスティアは少しだけ分かり始めていた。


「送らないことにも、責任があるのですね」


 朝食後、彼女はノアにそう言った。


 ノアは茶器を置き、静かに頷いた。


「はい」


「送る責任ばかり考えていました」


「普通はそうでしょう」


「でも、送らないことで守れるものもある」


「あります」


 セレスティアは、少しだけ苦笑した。


「難しいです」


「ええ」


「昔の私は、送ることで安心していました。私が書けば整う。私が直せば早い。私が出せば、誰かが困らずに済む」


「はい」


「でも、それは私がいないと困る仕組みを育てていたのかもしれません」


 言ってから、胸が痛んだ。


 自分を責めるための言葉ではない。


 分かっている。


 彼女はその構造の中で必死に働いていただけだ。


 けれど、自分の有能さが、知らないうちに誰かの依存を深めていた可能性もある。


 それは、受け止めるのが難しい事実だった。


 ノアは、すぐには慰めなかった。


 少し間を置いてから言った。


「あなたが悪いわけではありません」


「はい」


「ですが、あなたがどう関わるかを変えることで、仕組みも変わる」


「……はい」


 セレスティアは、その言葉を受け取った。


 悪くない。


 でも、変えられる。


 その二つは同時に存在する。


 最近、彼女の中にはそんな“同時に存在するもの”ばかり増えていた。


 嬉しいけれど苦しい。

 寂しいけれど良い。

 助けたいけれど戻らない。

 書けるけれど送らない。


 白と黒の間にある色は、思っていたより多い。


 一方、王妃宮では、香気源一覧をめぐって小さな衝突が起きていた。


 リリアナは朝から記録室にいた。


 昨夜は眠った。


 マルタに寝かされた、と言う方が正しい。


 朝起きたとき、まだ身体は重かったが、頭は少しだけ晴れていた。


 昨日の紙は壁に貼られている。


『香気源一覧――未完成』


 その下には、項目が増えていた。


 香炉。

 花。

 寝具。

 防虫香布。

 薬草袋。

 清掃水。

 保管棚。

 侍女・女官の香油。

 来客の香水。

 紙や封蝋に含まれる香料。


 最後の項目を書き足したのは、エルンだった。


「封蝋にも香りがついているものがありますから」


 彼がそう言ったとき、年配女官の一人が顔をしかめた。


「そこまで疑うのですか」


 部屋の空気が少し硬くなる。


 リリアナは、ペンを持ったまま顔を上げた。


「疑う、というより確認です」


「けれど、来客の香水や女官の香油まで書けば、皆が息苦しくなります」


「そうですね」


 リリアナはすぐに頷いた。


 年配女官は少し驚いた顔をした。


 反論されると思っていたのだろう。


 リリアナは続けた。


「息苦しくなると思います。私も、自分の身につける香りまで記録されると言われたら嫌です」


「では」


「でも、王妃陛下の療養室に入る場合だけは、確認が必要です」


 リリアナの声は柔らかかったが、逃げてはいなかった。


「全員の日常を縛るのではなく、療養室に入るときの基準を作ります。普段の香油まで禁止するのではありません」


 マルタが横で頷く。


「療養室入室基準、としましょう」


 エルンがすぐに書き足した。


『日常使用品全般を制限するのではなく、王妃陛下療養室への入室時基準として扱う』


 年配女官は、少しだけ肩の力を抜いた。


「それなら……まだ」


「嫌な気持ちは、記録して構いません」


 リリアナが言うと、女官は目を瞬いた。


「嫌な気持ちを?」


「はい。実施するときに反発が出ると分かっているなら、それも記録した方がよいと思います」


「反発まで記録するのですか」


「反発がないふりをすると、あとで別の形で出る気がします」


 マルタが、わずかに口元を緩めた。


「その通りです」


 リリアナは、少しだけ自信を得て、別紙を取った。


『香気源確認に対する現場反応』


 そう書く。


 そして、その下に一行。


『私物や身だしなみに踏み込まれるようで抵抗感あり。療養室入室時基準として限定する必要』


 書きながら、リリアナは思った。


 これはきっと、姉だけでは書ききれなかったかもしれない。


 セレスティアならもっと正確に、もっと早く、もっと美しく一覧を作っただろう。


 でも、現場の「嫌だ」という気持ちをどこまで拾ったかは分からない。


 いや、拾っていたかもしれない。


 けれど、少なくとも今の自分には、この「嫌だ」も記録したいと思えた。


 姉とは違う、自分の記録。


 そう思った瞬間、胸の奥が少し温かくなった。


 その頃、王太子府では、アデルが王妃宮備品一覧と格闘していた。


 王妃宮では「防虫香布」と呼ばれていたものが、王太子府の財務承認記録では「冬季保管用布材補助品」となっていた。


 薬草袋は「保管室湿気対策消耗品」。


 清掃用香草水は「王妃宮環境整備水」。


 アデルは額を押さえた。


「なぜ、同じものを別の名前で呼ぶ」


 若い書記官エドが、控えめに答える。


「部署が違うためです」


「知っている。知っているが、腹が立つ」


「記録しますか」


「私の怒りをか?」


「必要なら」


 アデルは思わず苦笑した。


「リリアナの影響を受けたな」


「王太子府全体が少しずつ」


「それは良いことか、悪いことか」


「まだ分かりません」


 エドは真面目に答えた。


 アデルは、少しだけ笑った。


「それも記録しておけ」


「承知しました」


 エドは本当に書いた。


『部署間呼称差異により殿下苛立ちあり。王太子府全体に記録文化の影響拡大。評価未定』


 アデルはそれを見て、眉をひそめる。


「そこまで書くのか」


「記録ですので」


「容赦がない」


「最近の方針です」


 そのやり取りに、部屋の空気が少しだけ緩んだ。


 しかし、すぐにラウルが入ってきて、空気はまた重くなった。


「殿下」


「何だ」


「保守派の一部より、王妃陛下ご急変の件について問い合わせが来ております」


「母上は落ち着いていると回答したはずだ」


「それに加えて……セレスティア嬢を呼ばなかった判断について、疑問を呈しております」


 アデルはペンを止めた。


「誰が」


「ヴァルム侯爵周辺です」


 やはり、と思った。


 彼らは必ずそこを突く。


 王妃が倒れた。

 それでもセレスティアを呼ばなかった。

 もし何かあれば、誰の責任か。


 その問いは、王妃宮を揺さぶるには十分だった。


「文面は」


 ラウルが紙を差し出した。


 アデルは読む。


『王妃陛下ご不調時に、過去実務に通じたセレスティア・レイノルド嬢への照会を控えた判断について、王妃宮および王太子府の見解を問う。三十日回答停止の尊重は理解するが、王族の身体に関わる事案において個人意思を優先しすぎていないか』


 個人意思を優先しすぎていないか。


 便利な言葉だった。


 セレスティアを呼べば、個人を犠牲にしたと言われる。

 呼ばなければ、王族より個人を優先したと言われる。


 どちらにしても、誰かが責められる。


 アデルは静かに紙を置いた。


「王妃宮へ共有する。ただし、返答は急がせない」


「しかし侯爵側は早急な」


「急がせない」


 アデルの声が硬くなる。


 ラウルは口を閉ざした。


 アデルは続けた。


「王妃宮が昨日対応した。母上は落ち着いている。セレスティアへの照会は行われなかったが、彼女の過去記録は参照された。この事実をまず整理する」


「殿下としては、王妃宮の判断を支持されるのですか」


 ラウルの問いは、少し鋭かった。


 アデルは彼を見た。


「支持する」


 即答だった。


「ただし、次回以降の緊急基準整備は必要だ」


「それを侯爵側へ?」


「伝える」


 アデルは言った。


「だが、“セレスティアを呼ばなかったことが誤りだった”とは書かない。王妃宮が記録を開き、医師とともに対応した事実を消すことになる」


 ラウルは黙った。


 アデルは、王妃宮へ送る共有文を書き始めた。


 これもまた、慎重な言葉が必要だった。


 守りすぎてもいけない。

 突き放してもいけない。

 事実を曲げてはいけない。


 言葉は、本当に疲れる。


 だが、疲れるから誰か一人に押しつけてよいものではない。


 夕方、王妃宮へその問い合わせが届いた。


 リリアナは読むなり、顔を青くした。


「やはり、言われましたね」


 マルタが頷く。


「想定内です」


「想定内でも嫌です」


「ええ」


「王妃陛下の身体に関わる事案において、個人意思を優先しすぎていないか……」


 リリアナは、その一文を読み上げて唇を噛んだ。


 痛いところを突かれている。


 自分たちは、セレスティアの三十日を守った。


 でも、もし王妃に何かあれば?


 その問いは昨日からずっと胸にあった。


 そこを、外から刺された。


「マルタ様」


「はい」


「私は、間違っていたのでしょうか」


 マルタはすぐには答えなかった。


 リリアナはそれが怖かった。


 即座に「間違っていない」と言ってほしかった。


 でも、マルタは言わない。


 少ししてから、彼女は言った。


「昨日の判断は、結果だけで正誤を決めるべきではありません」


「結果だけで?」


「王妃陛下が落ち着いたから正しかった、もし悪化したら間違っていた、では危険です」


「では、何で決めるのですか」


「判断手順です」


 マルタは横断表を見た。


「医師を呼んだ。薬湯、香炉、寝具、記録を確認した。過去記録を開いた。原因候補を見つけた。必要な処置をした。その時点で外部照会が必要かどうかを判断した」


「はい」


「その手順を記録し、次回の基準を作ることが必要です」


 リリアナは、ゆっくり頷いた。


「間違っていなかった、と言うのではなく」


「はい」


「どう判断したかを書く」


「その通りです」


 リリアナは紙を取った。


『王妃陛下急変時にセレスティア様へ照会しなかった判断について』


 そう書きかけ、また止まる。


「また、お姉様中心になっていますね」


 マルタが頷く。


「気づけましたね」


 リリアナは書き直した。


『王妃陛下急変時の王妃宮内判断手順について』


 今度は頷けた。


「こちらです」


 彼女は続けて書いた。


『一、医師を招集。

 二、薬湯、香炉、寝具、夜間記録を確認。

 三、過去療養記録を参照。

 四、防虫香布を原因候補として排除。

 五、王妃陛下の容体を再確認。

 六、当該時点で外部照会は不要と判断。

 七、今後のため、緊急照会基準を整備中』


 書き終えると、胸の奥の揺れが少しだけ収まった。


 自分が何をしたか。


 それが紙に残ると、少しだけ立てる。


「これを王太子府へ」


「はい」


「それから、ヴァルム侯爵側には?」


「王妃宮としては、王太子府と調整の上、事実経過を回答します」


「感情を入れずに?」


「できる範囲で」


 リリアナは苦笑した。


「難しいです」


「ええ」


 その日の夜、セレスティアのもとにも、ヴァルム侯爵側の問い合わせについての報告が届いた。


 王妃宮は回答を求めていない。


 ただ、事実共有として送られてきた。


 セレスティアは読み終え、しばらく窓の外を見ていた。


「やはり、そう来ますよね」


 ノアは頷いた。


「はい」


「私を呼ばなければ、王妃陛下より私の意思を優先したと言われる」


「はい」


「私を呼べば、私の三十日が破られる」


「はい」


「どちらを選んでも、誰かが責める」


「そういう問いの立て方です」


 セレスティアは、静かに息を吐いた。


 以前なら、こういう時に自分が出ていった。


 私が行けば済む。

 私が書けば済む。

 私が謝れば済む。


 でも、今回は違う。


 王妃宮が手順を書く。

 王太子府がそれを支える。

 ノアは代弁しない。

 自分も、三十日の中では答えない。


 それぞれが、自分の場所で言葉を持つ。


 その不安定な形を、守らなければならない。


「私は、返事を書きません」


 セレスティアは言った。


「はい」


「でも、王妃宮の判断手順を見たいです」


「見るだけ?」


「はい。見ます。直しません」


「分かりました」


 少し前なら信じられない会話だった。


 見るだけ。


 直さない。


 それが、こんなにも難しい。


 翌朝、王妃宮の判断手順が写しとして届いた。


 セレスティアはそれを読み、ペンを持ちそうになった。


 三箇所、直したい。


 いや、五箇所。


 表現をもう少し正確にしたい。

 順番を入れ替えたい。

 「排除」ではなく「一時除去」とすべきだ。


 手が動きそうになる。


 ノアが横から静かに言った。


「見るだけ」


 セレスティアは目を閉じた。


「見るだけ」


 自分でも繰り返す。


 そして、ペンを置いた。


「……できました」


「はい」


「とても直したいです」


「でしょうね」


「でも、これは王妃宮の手順です」


「はい」


「私の答案ではありません」


 その言葉に、自分で少し笑った。


 王妃宮の答案。


 不完全で、直したいところだらけで、それでも彼女たちのもの。


 セレスティアは、紙を畳んだ。


「リリアナは、よく書きました」


「返事は?」


「三十日後にします」


 きっぱり言えた。


 少しだけ、強くなれた気がした。


 その夜、セレスティアは帳面に書いた。


『王妃宮の判断手順を読んだ。直したいところがあった。直さなかった。

 不完全な紙を、その人たちの紙として尊重することも、私の練習なのだと思う』


 そして、少し間を置いてからもう一行。


『私が書かなかった紙にも、意味があった』


 その意味は、まだ小さい。


 けれど、確かにそこにあった。

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