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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第56話 王妃が倒れた日、それでも彼女を呼ばなかった

王妃エレオノーラが倒れたのは、三十日間の二日目の午後だった。


 その日は朝から、王妃宮全体に奇妙な緊張があった。


 昨夜の咳は落ち着いた。

 寝具の一部を替え、香炉を止め、薬湯も医師の指示通りに調整した。


 だから、誰もが少しだけ安心していた。


 完全に安心したわけではない。

 だが、大事には至らなかったという安堵が、王妃宮の廊下を薄く満たしていた。


 リリアナも、午前中は救貧院支援金の台帳確認に戻っていた。


 昨日作った横断表は、王妃宮の小会議室の壁に貼られている。


 空欄だらけ。

 確認中だらけ。

 見た目はひどく不格好だ。


 それでも、誰も剥がさなかった。


 セレスティアに頼らず、今いる者たちで初めて作った表だったからだ。


「この受領確認、昨日の棚番号とは別ですね」


 リリアナが台帳を指さすと、エルンが顔をしかめた。


「……またですか」


「またです」


「王妃宮の棚は、どうしてこんなに人を試すのでしょう」


「棚は悪くありません。たぶん」


「たぶん?」


「記録している人間が悪いです」


 リリアナが真面目に言うと、エルンは少しだけ笑った。


「リリアナ様、最近かなり容赦がなくなりましたね」


「お姉様ほどではありません」


「それは、かなり高い目標です」


「目標ではありません。参考です」


 そんな会話ができるくらいには、王妃宮の空気は少しだけ緩んでいた。


 その緩みを裂くように、廊下から足音が響いた。


 早い。


 ただの急ぎではない。


 危急を知らせる足音だった。


 扉が開き、若い侍女が顔を真っ青にして入ってくる。


「マルタ様! リリアナ様! 王妃陛下が――」


 その先を聞く前に、マルタは立ち上がっていた。


「寝室ですか」


「はい。お立ちになろうとして、そのまま」


「医師は」


「呼びに行かせました」


「香炉は」


「止めております」


「寝具は」


「昨日、替えました」


 侍女の声が震えている。


 リリアナは、椅子から立ち上がった。


 膝が少し震えた。


 王妃が倒れた。


 その言葉だけで、頭の中が白くなりそうだった。


 以前なら、誰かが叫んでいたかもしれない。


 セレスティア様を。


 リリアナ自身も、喉の奥までその名前がせり上がった。


 お姉様。


 来てください。


 どうすればいいか教えてください。


 今なら間に合う。

 北方辺境伯家へ早馬を飛ばせば、すぐには無理でも、文書で指示をもらえるかもしれない。


 でも。


 三十日。


 その言葉が、壁に貼られた紙のように脳裏に浮かんだ。


 緊急時の定義。


 生命・身体に重大な危険がある場合。


 王妃が倒れたなら、緊急時に当たるかもしれない。


 呼んでもよいのかもしれない。


 その抜け道が、一瞬、甘く見えた。


「リリアナ様」


 マルタの声がした。


 リリアナは顔を上げる。


 マルタは、すでに指示を出し始めていた。


「薬湯記録、夜間記録、寝具記録、香炉記録。昨日作った横断表も。全部持って寝室前へ」


「はい」


「リリアナ様」


「はい」


「セレスティア様を呼ぶかどうかは、記録を見てから判断します」


 その言葉で、リリアナの胸が少しだけ締まった。


 呼ばない、と決めつけない。


 だが、すぐには呼ばない。


 まず見る。


 今いる者たちで、開く。


「はい」


 リリアナは横断表を壁から外した。


 指が震えて、紙の端がかすかに鳴る。


 でも、落とさなかった。


 王妃の寝室前には、すでに数人の侍女が集まっていた。


 王妃は寝台に戻され、医師が脈を診ている。


 顔色は悪い。

 意識はあるが、目を開けるのもつらそうだった。


 咳は激しくない。


 だが、呼吸が浅い。


 昨日とは違う。


 リリアナは、それを見ただけで足がすくんだ。


「王妃陛下……」


 呼びかけそうになる。


 しかしマルタが、低い声で言った。


「記録」


 短い一言。


 リリアナは、はっとして紙を開いた。


 薬湯記録。

 夜間記録。

 香炉記録。

 寝具記録。


 昨日作ったばかりの横断表は、空欄が多い。


 でも、見比べる場所だけは分かる。


「昨日から変わったものを確認します」


 リリアナは声に出した。


 声が震えている。


 でも、声に出す。


「香炉は停止。薬湯は昨夜と同じ。寝具は古いものへ戻した。夜間記録では、咳は一度落ち着いている」


 エルンが横で記録する。


 医師が言った。


「熱は高くありません。脈は弱いが、毒や急病の反応ではないように思います」


「では、何が」


 侍女の一人が泣きそうに言う。


 リリアナは横断表を見つめた。


 何かが足りない。


 昨日、寝具を替えた。

 香炉も止めた。

 薬湯も同じ。


 それでも倒れた。


 なら、昨日の対応で見落としたものがある。


 姉なら。


 また思った。


 お姉様なら、もう気づいているかもしれない。


 お姉様なら、記録のどこを見るのか分かるかもしれない。


 呼びたい。


 いま、すぐに。


「呼びたいです」


 リリアナは小さく言った。


 マルタは隣で答えた。


「ええ」


「お姉様なら、もう原因に気づいているかもしれません」


「ええ」


「私たちは遅いです」


「はい」


「怖いです」


「はい」


「でも、呼んだら、また戻ってしまいます」


 リリアナの声が崩れかけた。


 マルタは、静かに言った。


「なら、記録を見ます」


 その言葉は、命令ではなかった。


 祈りに近かった。


 リリアナは涙をこらえ、横断表の端を握り直す。


「見ます」


 そのとき、エルンが古い療養記録の束を持ってきた。


「リリアナ様。セレスティア様の過去記録の写しです。王妃陛下の咳関連で、香炉変更の年のものを」


「ありがとう」


 リリアナは受け取る。


 ページをめくる。


 セレスティアの字があった。


 整いすぎて、今は少し泣きたくなる字。


『夜間咳嗽増加。香炉使用時間と一致する可能性。花香を止め、薬草香へ変更願い』


 これは前に読んだ。


 さらにめくる。


『咳が長引く場合、香炉のみならず、寝具、染料、乾燥薬草袋、防虫香布、保管棚の湿気取り薬草を確認すること。香りを発するものは、香炉に限らない』


 リリアナの指が止まった。


「……香炉に限らない」


 マルタが顔を上げる。


「何と?」


 リリアナは読み上げた。


「乾燥薬草袋、防虫香布、保管棚の湿気取り薬草……」


 寝具は替えた。


 でも、寝具を保管していた場所は?


 新しい掛け布を入れていた保管棚は?


 そこに防虫用の薬草袋が入っていた可能性は?


「昨日替えた寝具は、どこから出しましたか」


 リリアナが尋ねると、侍女が答えた。


「西側の保管棚です」


「そこに、防虫香布か乾燥薬草袋は?」


 侍女の顔色が変わった。


「……ございます。冬物保管用に」


「古い寝具に戻したあと、その香布は?」


「寝室の隅に、一時的に置いたままかもしれません」


 マルタの目が鋭くなった。


「すぐ確認」


 侍女が走った。


 数分後、彼女は小さな布袋を持って戻ってきた。


 乾燥した薬草の香りが、かすかに漂う。


 医師が受け取り、匂いを確かめる。


「強い。これは……防虫用の混合香草ですね。通常は問題ありませんが、体調が落ちている方には刺激になる可能性がある」


 リリアナは、膝から力が抜けそうになった。


 香炉ではなかった。


 寝具そのものでもなかった。


 寝具と一緒に持ち込まれた防虫香布。


 そんなもの、普通なら見落とす。


 姉は、過去の記録に残していた。


 香りを発するものは、香炉に限らない。


「寝室から全て出してください」


 リリアナは言った。


「寝具保管棚の香布も確認。王妃陛下の寝室に入る布類は、一度別室で風を通してから。記録に残してください」


 医師が頷く。


「処置します。窓を少し開けて空気を入れ替えましょう。ただし身体を冷やさないように」


 マルタが即座に侍女たちへ指示を飛ばした。


 アデルも遅れて駆けつけた。


「母上は」


「意識はあります。原因候補は防虫香布です」


 リリアナは早口で答えた。


「香炉ではなく?」


「はい。お姉様の過去記録にありました。香りを発するものは香炉に限らない、と」


 アデルは一瞬、言葉を失った。


 そして、すぐに言った。


「薬師ギルドに確認を出す。防虫香布の成分と、王妃宮で使用されている保管薬草の一覧を至急」


「お願いします」


 リリアナは横断表に追記した。


『防虫香布。寝具保管棚より寝室へ持ち込み可能性。香炉以外の香気源として確認』


 字は乱れていた。


 でも、読めた。


 しばらくして、王妃の呼吸は少しずつ落ち着いた。


 医師は、まだ予断は許さないと言った。


 だが、急激な悪化は避けられた。


 王妃は薄く目を開け、リリアナを見た。


「……セレスティアは」


 その一言で、部屋の空気が止まった。


 リリアナの胸が詰まる。


 王妃もまた、最初に姉の名を呼んだ。


 それは責める言葉ではない。


 頼る癖だった。


 王妃自身にも染みついていた癖。


 リリアナは、震えながら答えた。


「呼びませんでした」


 王妃のまぶたが、かすかに動く。


「そう」


「呼びたかったです」


 リリアナは言った。


「何度も。今すぐ呼びたいと思いました。お姉様なら、もっと早く分かったかもしれません」


「ええ」


「でも、記録を開きました。お姉様の過去記録を。今いる者で」


 王妃は、弱々しく息を吐いた。


 微笑んだようにも見えた。


「よく……呼びませんでした」


 その瞬間、リリアナは涙をこらえられなかった。


 その場で泣き崩れたわけではない。


 でも、涙がぼろぼろ落ちた。


「王妃陛下、私は」


「泣いてもいいわ」


 王妃の声はかすれていた。


「でも、記録は……閉じないで」


 リリアナは泣きながら頷いた。


「はい」


 マルタが、そっと記録帳をリリアナの前に置いた。


 泣きながら、彼女は書いた。


『王妃陛下、一時倒れる。防虫香布の可能性。セレスティア様の過去記録より、香炉以外の香気源を確認。セレスティア様は呼ばず。呼びたかった。何度も。記録を開いた。王妃陛下、よく呼びませんでした、と』


 字はひどかった。


 けれど、残った。


 その日の夜、王妃宮は眠れなかった。


 王妃の容体は落ち着いたが、誰も完全には安心できない。


 防虫香布が原因だった可能性は高いが、王妃の体調がそれほど敏感になっていること自体が問題だった。


 医師は、長期的な療養体制の再設計が必要だと告げた。


「香炉、寝具、薬草、保管棚、清掃用の香草水。王妃陛下の周囲にある香気源をすべて一覧化する必要があります」


 その言葉に、リリアナは絶望しかけた。


 すべて。


 また、すべて。


 姉なら。


 思った。


 でも今度は、すぐに次の言葉も出た。


 では、どこに記録するか。


「香気源一覧を作ります」


 リリアナは言った。


 声は枯れていた。


「王妃陛下の周囲にある香りの出るものを全部。香炉だけではなく、布、薬草袋、清掃水、花、保管棚。担当を分けます」


 マルタが頷く。


「明日から始めましょう」


「今日ではなく?」


「今日は寝なさい」


「でも」


「寝なさい」


 マルタの声は絶対だった。


 リリアナは少しだけ笑った。


「お姉様なら、寝ない気がします」


「だから同じことをしてはいけません」


「はい」


 その夜遅く、王妃宮から北方辺境伯家へ報告書が送られた。


 緊急照会ではない。


 報告だった。


 セレスティアの回答を求めるものではない、と冒頭に明記されていた。


 翌朝、セレスティアはその報告書を受け取った。


 封を開ける前から、胸がざわついた。


 王妃宮から。

 緊急ではない。

 しかし、厚い。


 ノアがそばにいた。


「読みますか」


「読みます」


 セレスティアは封を切った。


 最初の一文で、息が止まりかけた。


『王妃陛下が一時倒れられました』


 指先が冷たくなる。


 だが、次の文へ進む。


『現在は落ち着いておられます。セレスティア様への照会は行っておりません。本報告は回答を求めるものではありません』


 その一文で、かろうじて呼吸を取り戻した。


 読み進める。


 香炉ではなく、防虫香布の可能性。

 自分の過去記録に残していた「香りを発するものは香炉に限らない」という記述。

 リリアナたちがそれを見つけたこと。

 王妃の容体が落ち着いたこと。

 長期的な療養体制の再設計が必要なこと。


 最後に、リリアナの記録写しが添えられていた。


『セレスティア様は呼ばず。呼びたかった。何度も。記録を開いた』


 セレスティアは、その一文を何度も読んだ。


 目の奥が熱くなる。


「私を、呼ばなかった」


 声が震えた。


 ノアは静かに頷いた。


「はい」


「でも、私の記録を開いた」


「はい」


「防虫香布……そうでした。昔、香炉を止めても咳が残った夜があって」


 記憶が戻る。


 王妃の寝室。

 強い花香。

 薬草袋。

 湿気取りの布。

 眠れない夜。


 当時、誰も気にしていなかった小さなこと。


 それを自分は、記録に残していた。


 その記録が今、使われた。


 自分自身ではなく。


 自分の体を王妃宮へ戻すのではなく。


 紙に残した仕事が、誰かの手で開かれた。


「それなら」


 セレスティアは、報告書を胸元に抱いた。


「それなら、少しだけ報われた気がします」


 涙が一筋、落ちた。


 ノアは何も言わなかった。


 その沈黙がありがたかった。


 セレスティアは、しばらくしてから報告書を机に置いた。


「長期的な療養体制の再設計が必要、とあります」


「はい」


「これは、私が戻る理由にされるかもしれません」


「されるでしょう」


「でも」


 セレスティアは、リリアナの記録写しを見た。


 呼びたかった。

 何度も。

 記録を開いた。


「戻らずに関われる形が、少し見えた気がします」


 ノアは彼女を見る。


「記録の設計ですか」


「はい。私が王妃宮へ常駐するのではなく、療養体制の記録様式を整える。直接判断は王妃宮と医師が行う。私は過去記録の整理方法だけ、文書で提案する」


「それなら、あなたの三十日停止と矛盾しませんか」


 セレスティアは少し考えた。


「今すぐは書きません」


「はい」


「三十日の間は、返事を書かない。ただ、自分の記録として案を残します」


「よいと思います」


 セレスティアは帳面を開いた。


『王妃陛下が倒れた。私は呼ばれなかった。

 リリアナたちは記録を開いた。

 私が残した一文が、防虫香布に気づく助けになった。

 私がいなくても、私の仕事が生きた。

 これは、私が戻る理由ではなく、私が記録を残した意味かもしれない』


 書き終えて、少しだけ息を吐く。


 そして、もう一行。


『三十日後、戻るか戻らないかではなく、どう関わらないか、どう関われるかを考える』


 その言葉は、まだ曖昧だった。


 けれど、初めて未来の形が二択ではなくなった気がした。


 王妃宮では、不格好な横断表の横に、新しい紙が貼られた。


『香気源一覧――未完成』


 花。

 香炉。

 寝具。

 防虫香布。

 薬草袋。

 清掃水。

 保管棚。

 侍女の香油。


 空欄だらけ。


 確認中だらけ。


 だが、リリアナはその紙を見て、少しだけ背筋を伸ばした。


「未完成ですが、貼ります」


 エルンが言う。


「よろしいのですか」


「はい。未完成だから貼ります。完成してから出すと、また誰か一人が裏で全部整えることになります」


 マルタが静かに頷いた。


「その通りです」


 リリアナは、王妃の寝室の方を見た。


 呼ばなかった。


 呼びたかったけれど、呼ばなかった。


 それは冷たさではない。


 姉の三十日を守るためであり、王妃宮が自分たちの足で立つためだった。


 まだ、立てているとは言えない。


 膝は震えている。


 何度も転びそうになる。


 でも、昨日よりは少しだけ、床を見ている。


 その夜、王妃は短く目を覚まし、マルタに言った。


「リリアナは」


「記録室です」


「休ませなさい」


「先ほど休ませましたが、戻ってきました」


 王妃は、かすかに笑った。


「セレスティアに似てはいけないところまで似てしまうわね」


「注意いたします」


「ええ。似るなら、記録を残すところだけに」


 マルタは静かに頭を下げた。


 王妃は窓の外を見た。


 夜の王妃宮は、まだ不安定だった。


 けれど、どこかに小さな灯りがあった。


 セレスティアが戻ってきた灯りではない。


 彼女が残した記録を、誰かが開いた灯り。


 それは頼りなく、揺れていた。


 だが、確かに消えてはいなかった。

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