第55話 三十日間、姉に頼らない王妃宮
三十日。
紙に書けば、たった三文字だった。
けれど王妃宮で働く者たちにとって、その三文字は分厚い扉のようだった。
セレスティア・レイノルドには頼らない。
少なくとも、復帰要請、助言要請、面会要請、説得、嘆願は送らない。
緊急時を除き、彼女に回答を求めない。
それが王妃宮の壁に掲示されたとき、廊下はしんと静まり返った。
年若い侍女たちは互いに顔を見合わせ、古参女官たちは眉をひそめた。書記官たちは、机の上に積まれた台帳を見て、露骨に気の重そうな顔をした。
リリアナは、そのすべてを見ていた。
怖い。
正直に言えば、今すぐ姉に泣きつきたかった。
お姉様、三十日なんて無理です。
王妃宮はこんなに複雑です。
私はまだ帳簿も読み切れません。
どうしてよいか分かりません。
そう言えば、姉はきっと何かを書いてくれる。
冷静で、正確で、少し厳しい文を。
でも、それを求めないための三十日だった。
「リリアナ様」
マルタが隣に立つ。
「始めましょう」
「はい」
リリアナは頷いた。
王妃宮の小会議室には、今日から使うための大きな紙が貼られていた。
『三十日間対応表』
その下に項目が並ぶ。
一、復帰要請への返答
二、救貧院支援金
三、療養所薬草契約
四、王妃陛下療養記録
五、慈善基金確認
六、王太子府連絡
七、未共有事項一覧
八、緊急時判定
見ただけで、逃げたくなる。
けれど、逃げない。
「まず、復帰要請です」
マルタが言った。
「定型文を確認しましょう」
書記官エルンが読み上げる。
「『セレスティア・レイノルド様は三十日間、王妃宮復帰、王太子妃候補復帰、王太子府または王妃宮への常駐、社交的旗印としての参加に関する要請へ回答されません。王妃宮はこの意向を尊重し、個別要請を転送いたしません』」
リリアナは頷いた。
「よいと思います。ただ、“回答されません”だけだと冷たく見えるかもしれません」
古参女官の一人が、すぐに言った。
「ですが事実でございます」
「はい。事実です」
リリアナは少しだけ考えた。
「では、“この期間は記録確認と心身の回復に充てられます”を加えてください。理由があれば、少しは……」
言いかけて、止まる。
少しは納得してもらえる。
そう言おうとした。
だが、納得してもらうために姉の回復を説明材料にしすぎるのも違う。
「……いいえ。加えるなら、セレスティア様ご本人の文書に記された範囲だけ引用してください。こちらで勝手に補足しないでください」
エルンが頷く。
「承知しました」
マルタがリリアナを見た。
「よい修正です」
「今、少し危なかったです」
「気づけたなら結構です」
リリアナは小さく息を吐いた。
気づけた。
それだけで、今日の一歩だ。
次に救貧院支援金。
机の上に台帳が開かれる。
赤い印、青い印、緑の印。
まだ見るだけで頭が痛くなる。
「今月中に支払い期限が来るものは?」
リリアナが尋ねると、エルンが紙を差し出した。
「七件です。ただし、そのうち二件は受領確認が未着です」
「受領確認の保管場所は共有済みですか」
「昨日、棚番号を一覧に入れました」
「実物は?」
エルンが一瞬止まった。
「確認します」
リリアナは頷いた。
「確認してください。“一覧に入れた”ことと“実物がある”ことは別です」
言ったあと、自分で驚いた。
今のは、かなり姉っぽい。
だが、マルタは何も言わなかった。
エルンは棚へ向かい、しばらく探してから戻ってきた。
「一件、棚番号が違っていました」
古参女官がため息をつく。
「やはりセレスティア様なら、すぐに」
その言葉で、部屋が一瞬止まった。
リリアナの胸がきゅっと縮む。
でも、彼女は深く息を吸った。
「言っても構いません」
古参女官が驚く。
「え?」
「“セレスティア様ならすぐに分かった”と言っても構いません。事実なら」
リリアナは台帳を見ながら続けた。
「ただし、その次に“では私たちはどこに記録するか”を言ってください」
古参女官は口を閉じた。
マルタが静かに頷く。
エルンがすぐに書き込んだ。
『受領確認一件、棚番号誤り。訂正済み。確認者エルン、リリアナ』
リリアナはそれを見て、少しだけ安心した。
完璧ではない。
むしろ穴だらけだ。
でも、穴を見つけたら塞ぐ。
セレスティアを呼ぶのではなく、紙に残す。
それが、この三十日の仕事だった。
昼前になるころには、全員の顔に疲れが出ていた。
作業は遅い。
信じられないくらい遅い。
救貧院支援金の確認だけで、午前がほとんど潰れた。
以前なら、セレスティアが半分以下の時間で処理していたはずだ。
その事実が、部屋の中にずっと浮いていた。
誰も言わない。
でも、全員が思っている。
姉なら早い。
セレスティア様なら、もう終わっている。
リリアナも思った。
何度も。
けれど、そのたびに記録帳の端に小さく印をつけた。
姉なら早いと思った回数。
途中から数えるのが馬鹿らしくなった。
「休憩しましょう」
マルタが言った。
「でも、まだ」
「休憩も予定に入っています」
リリアナは紙を見る。
確かに、昼の休憩欄がある。
姉なら休まず続けたかもしれない。
また思った。
印をつける。
マルタがそれを見た。
「何の印ですか」
「“お姉様なら”と思った回数です」
「数えるのですか」
「最初は」
「今は?」
「多すぎます」
マルタは、ほんの少しだけ笑った。
「では、それも記録しましょう。『セレスティア様なら早いと思う場面多数』」
「そんな記録でよいのですか」
「よいのです。依存箇所の自覚です」
リリアナは少し笑った。
「依存箇所の自覚。嫌な言葉ですね」
「必要な言葉です」
「はい」
昼食後、王太子府からアデルが来た。
彼もまた、疲れた顔をしていた。
王太子府でも未共有事項一覧の作成が始まり、側近たちの反発を受けながら進めているらしい。
リリアナは、彼の顔を見るなり言った。
「殿下、寝ていませんね」
アデルは一瞬目を逸らした。
「少しは」
「少しは、という言い方は寝ていない人の言い方です」
「君も似たような顔をしている」
「私は昼食を食べました」
「私も食べた」
「何を?」
アデルは黙った。
リリアナは眉を上げる。
「殿下」
「……茶と焼き菓子を少し」
「それは昼食ではありません」
マルタが横から淡々と言った。
「王太子殿下用に軽食を用意させます」
「いや、私は」
「用意させます」
マルタの声には逆らえないものがあった。
アデルは小さく息を吐いた。
「分かった」
リリアナは少し笑った。
以前なら、アデルの世話を焼けることに胸を高鳴らせたかもしれない。
今は、ただ当然の確認として言えた。
少しだけ、楽だった。
軽食が届くまでの間、アデルは王太子府の状況を報告した。
「用語対応表がないだけで、午前が潰れた」
「こちらは受領確認の棚番号が違っていて、かなり時間がかかりました」
「どこも同じだな」
「はい。かなり地味に大変です」
アデルは苦笑した。
「地味に大変。いい表現だ」
「お姉様は、この地味に大変なことを、ずっとしていたのですね」
「ああ」
二人は、しばらく黙った。
その沈黙は、暗いだけではなかった。
同じものを少しずつ見始めた者同士の沈黙だった。
アデルが言う。
「王太子府でも、“セレスティアなら”という言葉が何度も出た」
「こちらもです」
「禁止するべきか迷った」
「私は、言ってもよいことにしました」
「なぜ?」
「言わないようにすると、心の中で思うだけになります。だから、言って、その次に“ではどこに記録するか”を言うようにしました」
アデルは少し目を見開いた。
「それはいい」
「殿下の府でも使いますか」
「使わせてもらう」
リリアナは頷いた。
「どうぞ。ただし、私もまだ試案です」
「試案でいい。今の王太子府に必要だ」
リリアナは、少しだけ頬を赤くした。
自分の考えが使われる。
嬉しい。
でも、それを恋の証にしない。
作業が役に立った。
それだけを受け取る。
午後は王妃宮療養記録の確認だった。
王妃の咳が昨夜長引いたという記録も上がっている。
今は落ち着いているが、療養記録の更新が必要だった。
リリアナは、古い記録棚の前に立った。
棚には年ごとの綴じが並んでいる。
「王妃陛下の咳に関する記録は、療養記録のどこに?」
若い侍女が答える。
「薬湯記録の綴じかと」
別の女官が言う。
「いえ、夜間記録では?」
エルンが棚を探す。
「香炉変更の記録は別綴じです」
リリアナは頭が痛くなった。
「なぜ分かれているのですか」
誰も答えない。
そして、誰かが小さく言った。
「セレスティア様が横断表を……」
全員がリリアナを見る。
リリアナは頷いた。
「では、その横断表はどこですか」
「分かりません」
「では、未共有事項一覧へ」
エルンが書く。
『王妃陛下療養記録、咳関連項目が薬湯、夜間、香炉、寝具の各綴じに分散。セレスティア様作成の横断表所在不明。再作成必要』
リリアナは、深く息を吸った。
「今日は、咳関連だけでも横断表を作りましょう」
「今日中にですか?」
侍女が驚く。
「全部は無理です。咳関連だけ。薬湯、夜間、香炉、寝具。この四つを並べます」
「でも、セレスティア様のようには」
「できません」
リリアナは即答した。
部屋が静まる。
「できません。でも、できないから作らないのではなく、できる範囲で作ります。未完成と書いて」
マルタが頷く。
「それでよろしい」
作業は、また遅かった。
薬湯記録の字が読みにくい。
香炉変更の記録に日付がない。
寝具の交換履歴は別の管理帳にある。
夜間記録は侍女によって表現が違う。
咳、咳き込み、呼吸乱れ、夜間不調。
同じ症状が違う言葉で書かれている。
リリアナは額を押さえた。
「お姉様、どうしてこれを読めたのですか」
アデルが横から言う。
「おそらく、全部読んだからだ」
「全部」
「全部読んで、頭の中でつないでいた」
「……もう一度言います。お姉様は化け物ではなく、とても努力していた人です」
アデルが少しだけ笑った。
「その訂正、聞いたことがある」
「昨日しました」
「いい訂正だ」
そう言いながら、アデルも記録を確認する。
王太子が王妃の寝具交換履歴を読む。
昔ならあり得ない光景だった。
だが今は、誰も止めなかった。
夕方近く、咳関連の簡易横断表が完成した。
ひどく不格好だった。
字の大きさも揃っていない。
空欄も多い。
確認中という文字がいくつもある。
それでも、初めて王妃宮の複数の記録が一枚に並んだ。
リリアナは、それを見て少しだけ胸が熱くなった。
「できました」
声が震える。
マルタが横で確認する。
「未完成ですが、使えます」
「本当ですか」
「はい」
アデルも頷いた。
「少なくとも、どこが分からないか分かる」
リリアナは笑った。
「分からないことが分かる。最近、そればかりですね」
「重要だ」
「はい」
そのとき、王妃の寝室から侍女が慌ただしくやって来た。
「マルタ様。王妃陛下が、少し咳き込まれて」
部屋の空気が一気に変わった。
リリアナの心臓が跳ねる。
「医師は?」
「呼んでおります。昨夜ほどではありませんが」
マルタはすぐに指示を出した。
「薬湯の準備を。夜間記録係を一名。香炉は止めてください」
リリアナは、反射的に言いそうになった。
お姉様に。
喉元まで出た。
だが、飲み込んだ。
そして、さきほど作ったばかりの横断表を掴んだ。
「記録を見ます」
自分の声が震えているのが分かった。
怖い。
王妃が苦しんでいる。
呼びたい。
姉を。
でも、呼ばない。
まず、今ある記録を開く。
マルタがリリアナを見た。
「落ち着いて」
「落ち着いていません」
「それでも、見る」
「はい」
リリアナは横断表を開いた。
薬湯。
香炉。
夜間。
寝具。
まだ空欄だらけの紙。
でも、何もないよりはいい。
「昨夜から変わったものは?」
リリアナが尋ねる。
侍女が答える。
「香炉は変えておりません。薬湯も同じです」
「寝具は?」
「寝具……昨日、掛け布を一枚新しく」
リリアナの指が止まった。
「新しく?」
「はい。冬前に届いた柔らかい布で」
マルタの目が鋭くなる。
「染料記録は?」
侍女が顔を青くする。
「確認しておりません」
リリアナの胸が鳴った。
横断表には、寝具欄がある。
空欄だ。
さっき作ったばかりの空欄。
それが今、意味を持った。
「寝具を替えてください」
リリアナは言った。
「念のため、古いものに戻して。染料記録を確認。医師にも伝えてください。香炉と薬湯だけでなく、寝具も疑います」
マルタがすぐに頷く。
「その通りに」
侍女が走る。
アデルも立ち上がった。
「薬師ギルドに確認を出す。染料に使われる植物で咳を誘発するものがあるか」
「お願いします」
リリアナは横断表を握りしめた。
手が震えている。
でも、動いている。
姉を呼ばずに。
姉の過去の考え方を、今いる者たちで使おうとしている。
その夜、王妃の咳は一時的に落ち着いた。
大事には至らなかった。
医師は、寝具の染料が原因かどうかはまだ断定できないと言った。
だが、疑うべき対象として記録する価値はあると認めた。
リリアナは、その言葉を聞いた瞬間、椅子に座り込んだ。
「……よかった」
小さく呟く。
マルタが隣に立つ。
「まだ断定ではありません」
「はい」
「ですが、よく見ました」
その言葉で、リリアナの目に涙が浮かんだ。
「お姉様を呼びたかったです」
「ええ」
「何度も」
「ええ」
「でも、呼びませんでした」
「はい」
マルタは、ほんの少しだけ柔らかい声で言った。
「よく、呼びませんでした」
その一言で、リリアナは泣いた。
声を殺して。
でも、確かに泣いた。
翌朝、王妃宮から北方辺境伯家へ報告が届いた。
三十日対応表作成開始。
救貧院支援金の確認進行。
咳関連簡易横断表作成。
王妃陛下の咳について、寝具染料の可能性を記録。
セレスティア様への照会なし。
最後に、マルタの字で短く書かれていた。
『リリアナ様は、何度もセレスティア様を呼びたいと感じながら、記録を開きました』
セレスティアは、その一文を読んで長く黙った。
ノアは何も言わなかった。
セレスティアは、報告書を胸元に寄せる。
「私を呼ばなかったのですね」
「はい」
「でも、私の記録の考え方は使った」
「はい」
「それなら」
声が少し震えた。
「それなら、少しだけ報われた気がします」
ノアは静かに頷いた。
「あなた自身を呼ばずに、あなたの仕事が生きた」
セレスティアは目を閉じた。
それは、初めての感覚だった。
自分が戻らなくても、自分がしてきた仕事が誰かの手で使われる。
自分の身体を差し出さなくても、記録が残り、誰かが開き、つなげる。
それが、少しだけ救いだった。
セレスティアは帳面を開いた。
『三十日間の初日。王妃宮は私を呼ばなかった。
でも、記録を開いた。
私がいなくても、私の仕事が少しだけ生きた。
それなら、私はただ消費されていたのではないと思える日が来るかもしれない』
書き終えて、彼女は静かに息を吐いた。
その日、王妃宮では不格好な横断表が壁に貼られた。
空欄だらけ。
確認中だらけ。
未完成。
けれど、誰も剥がそうとはしなかった。
そこに、三十日間の最初の小さな灯りがあった。




