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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第54話 沈黙すら、都合よく読まれる

 セレスティア・レイノルドが返事を書かなかった。


 ただ、それだけのことだった。


 嘆願書は受け取った。

 読んだ。

 けれど、返事はしなかった。


 王妃宮と王太子府は、嘆願者たちに対して「現場の未解決事項と分担案を提出するように」と文書を出した。セレスティア個人に回答義務はない、とも明記した。


 それで、少しは静まるはずだった。


 少なくともリリアナは、そう願っていた。


 だが、王都は静まらなかった。


 むしろ、セレスティアが沈黙したことで、新しい読み方が生まれた。


「返事をなさらないということは、迷っていらっしゃるのでは?」


「完全に拒むなら、すぐ拒否文を出すでしょう」


「北方辺境伯閣下が止めているのでは?」


「いいえ、セレスティア様は慎重な方ですもの。きっと、王宮に戻る責任の重さを考えていらっしゃるのよ」


「つまり、説得の余地はあるということですわね」


 茶会で、夫人たちはそんなことを言った。


 彼女たちに悪意はない。


 おそらく、本当にそう思っている。


 セレスティアほどの能力がある令嬢なら、王宮を見捨てられないはずだ。

 王妃宮で困っている者たちを前にして、黙っていられるはずがない。

 今は傷ついているだけで、本当は戻る道を探しているのだ。


 そう信じたかったのだ。


 なぜなら、その方が楽だから。


 セレスティアが戻ってくれれば、王宮は安定する。

 救貧院も、療養所も、王太子府も、ひとまず息をつける。

 自分たちは、セレスティアを必要としていたのだと美しい言葉で語れる。


 その裏にある「では、なぜ彼女一人に頼っていたのか」という問いを、少し先へ押しやることができる。


 沈黙は、すぐに都合よく読まれた。


 北方辺境伯家の王都屋敷にその報告が届いたのは、朝食後だった。


 セレスティアは、今日は嘆願書を読まないと決めていた。


 代わりに、昨日途中で止めていた王妃宮療養記録の写しを一束だけ読む予定だった。


 だが、執事が持ってきた報告書の封蝋を見て、予定が崩れる音がした。


 ノアが先に受け取り、目を通す。


 ほんの少しだけ、表情が硬くなった。


 セレスティアはそれだけで察した。


「私の沈黙について、でしょうか」


「はい」


「読ませてください」


「途中で止めてもいい」


「はい」


 セレスティアは紙を受け取った。


 読み始めてすぐ、胸の奥に重いものが広がる。


『セレスティア嬢が嘆願書へ回答しないことにつき、一部で“復帰を迷っている”との見方』


『北方辺境伯家が回答を止めているとの噂あり』


『王妃宮関係者の一部、再説得の必要性を主張』


『嘆願者側、一度直接面会の機会を求める動き』


 セレスティアは、紙を閉じた。


 それ以上は読めなかった。


「……返事を書かないことまで、読まれるのですね」


 ノアは静かに頷いた。


「はい」


「同意とも拒絶とも言っていないのに」


「だからこそ、都合よく読めるのでしょう」


 セレスティアは、報告書を机に置いた。


 手が冷えている。


 昨日、返事を書かなかったことは、自分にとって大きな選択だった。


 逃げではなく、壊れないための選択。

 必要とされる喜びと罪悪感が混ざったまま返さないための選択。


 それなのに、外から見れば「迷っている」に変わる。


 あるいは「ノアに止められている」に変わる。


 選んだ沈黙すら、自分のものにならない。


「では、どうすればいいのでしょう」


 声が、少し疲れていた。


「書いても切り取られます。書かなくても読まれます。黙っていても、誰かの物語になります」


「完全には止められません」


「はい」


「ですが、沈黙の扱い方を決めることはできます」


「沈黙の扱い方?」


 ノアは少し考えるように視線を落とした。


「静かな拒絶ではなく、期限を置くのはどうでしょう」


「期限」


「はい」


 セレスティアは、まだ意味を掴みきれずに彼を見る。


 ノアは続けた。


「一定期間、王妃宮復帰、王太子妃候補復帰、社交的旗印としての参加、それらに関する要請へ回答しないと明言する」


「回答しないことを、明言するのですか」


「はい」


「それは……拒絶ではなく?」


「停止です」


 停止。


 その言葉は、少しだけ事務的で、少しだけ救いがあった。


「どれくらいの期間でしょう」


「短すぎれば、毎日のように期限後の予定を聞かれるでしょう。長すぎれば、逃避と取られる。三十日ほどが妥当かと」


「三十日」


 セレスティアは繰り返した。


 三十日。


 王宮にいたころなら、とても長い期間に思えた。


 三十日も王妃宮の実務を放置するなど考えられない。

 三十日も王太子府の資料確認をしないなどあり得ない。

 三十日も返事を保留するなど、無責任だ。


 そう思っただろう。


 でも今は、その三十日が欲しかった。


 自分の記録を読む時間。

 体を休める時間。

 必要とされる言葉に反射的に応じない練習をする時間。


 そして、王妃宮や王太子府が、セレスティア抜きで何を分担できるのかを見る時間。


「それは、逃げではありませんか」


 セレスティアは聞いた。


 ノアは、まっすぐに答えた。


「休むための制度です」


 制度。


 その言葉に、セレスティアは少しだけ瞬いた。


「休むための、制度」


「はい。気合いで休むのではなく、文書で休む範囲を定める」


「気合いで休む」


「あなたは、それをしようとすると失敗しそうです」


 あまりにも真面目に言われて、セレスティアは少しだけ笑ってしまった。


「否定できません」


「ですから、制度にする」


「……それは、少し私に向いています」


「そう思います」


 セレスティアは白紙を引き寄せた。


 最近、彼女は何かに追われると紙に向かう。


 それは昔と同じようで、少し違う。


 昔は他人のために紙へ向かった。

 今は、自分を守るためにも紙へ向かっている。


「書いてみます」


 ペンを取る。


 表題に迷った。


 復帰要請への回答停止について。


 硬い。


 でも、硬くていい。


 柔らかすぎる言葉は、また勝手に広げられる。


『復帰要請および関連要請への回答停止について』


 そう書いた。


 続ける。


『今後三十日間、私は王妃宮復帰、王太子妃候補復帰、王太子府または王妃宮への常駐、ならびに社交的旗印としての参加に関する全ての要請に回答いたしません』


 書きながら、胸が鳴る。


 全ての要請に回答しない。


 強い。


 冷たいと思われるかもしれない。


 けれど、今は必要だ。


『この期間は、自身の過去記録の確認、心身の回復、ならびに各組織における未共有事項の整理状況を見極めるためのものです』


 セレスティアは一度ペンを止めた。


 心身の回復。


 自分でその言葉を書くことに、少し抵抗があった。


 弱さを公に出すようで怖い。


 だが、書かなければまた「迷っている」「止められている」と読まれる。


 回復が必要だと、自分で書く。


 それもまた、事実だ。


『私の沈黙を、同意とも拒絶とも解釈しないでください。

 三十日後に必ず復帰可否を表明するものでもありません。

 その時点で改めて、自身の状態と各所の記録を確認した上で、必要な文書回答を行います』


 最後の一文をどうするか迷った。


 セレスティアは、少し考えてから書いた。


『この期間中、緊急時を除き、説得、嘆願、招待、面会要請は受け付けません』


 緊急時。


 入れるべきか迷った。


 入れれば、その穴からまた要請が来るかもしれない。


 だが、本当に緊急のこともある。


 彼女はその下に追加した。


『緊急時の定義は、生命・身体に重大な危険がある場合、または王妃宮および王太子府が本人回答を要すると正式に認定した場合に限ります』


 書き終えると、かなり硬い文になった。


 まるで政務文書だ。


 でも、それでいい。


 感情で押し流されないための文なのだから。


 ノアが読み、頷いた。


「よいと思います」


「冷たいですね」


「明確です」


「冷たく見えるでしょう」


「見えるでしょう」


 セレスティアは息を吐いた。


「それでも、出します」


「はい」


「この三十日は、私のためだけではありません」


「はい」


「王妃宮と王太子府が、本当に私抜きで分担を進めるための時間でもあります」


「その通りです」


「なら、これは逃げではありません」


 自分に言い聞かせるように言った。


 ノアは静かに答える。


「逃げではありません」


 その文書は、王妃宮、王太子府、書記局へ同時に送られた。


 そして、午後には王都にも内容が広がった。


 反応は、激しかった。


 保守派はすぐに批判した。


「三十日も回答しないとは、ずいぶん強気だ」


「王宮が混乱しているというのに、休むと宣言するのか」


「やはり北方辺境伯家が裏にいるのでは」


「令嬢一人が王宮に条件をつける時代になったのか」


 一方で、若い令嬢や一部の夫人たちは、別の反応を見せた。


「三十日、回答しないと決めるなんて」


「すごいわ。私なら、毎日届く手紙に全部返してしまう」


「休むためにも文書が必要なのね」


「私も、婚約契約の確認について、返事を急がない期間を置けないかしら」


 そして嘆願者たちは、困惑した。


「三十日も待つのですか」


「救貧院の支払いはどうなるの」


「療養所の薬草契約は」


「まず分担案を出せと言われても、現場はもう困っているのに」


 困っている。


 それは事実だった。


 そして、その事実は王妃宮へ重くのしかかった。


 王妃宮では、リリアナがセレスティアの文書を読み終えたあと、しばらく黙っていた。


「三十日」


 彼女は呟く。


 マルタが頷いた。


「はい」


「お姉様は、三十日回答しない」


「そうです」


「では、その間、私たちはお姉様に頼れませんね」


「頼れません」


 リリアナの顔が少し青くなる。


 だが、すぐに記録帳を開いた。


「王妃宮として、三十日間の対応表を作ります」


 マルタの目がわずかに和らぐ。


「そうですね」


「まず、復帰要請に関する問い合わせは、すべてこの文書を引用して返答。個別にお姉様へ転送しない」


「はい」


「救貧院、療養所、薬草契約、慈善基金。それぞれについて、三十日以内に処理期限が来るものを洗い出し」


「はい」


「お姉様の過去記録を参照する場合、原文を引用し、誰が参照したかを残す。勝手に判断をお姉様の意見として扱わない」


「重要です」


 マルタが言った。


 リリアナは、少しだけ震えながら書き続けた。


「それから……」


「はい」


「三十日、お姉様に頼らず回す、と王妃宮内に明示します」


 マルタは静かに頷いた。


「よろしい」


 そこへアデルが入ってきた。


 彼もセレスティアの文書を手にしていた。


「読んだか」


「はい」


「王太子府も、三十日間の照会停止を受け入れる」


「本当に?」


 リリアナは少し驚いた。


 アデルは苦笑する。


「受け入れなければ、また同じだ」


「側近の方々は」


「反発している」


「でしょうね」


「だが、今回は押し切る」


 アデルの声には疲れがあった。


 けれど、揺らぎは少なかった。


「王太子府も、三十日間で未共有事項一覧の第一段階を終える。セレスティアへの照会はしない」


「できそうですか」


「分からない」


 アデルは正直に答えた。


「だが、やるしかない」


 リリアナは少し笑った。


「殿下、最近“分からない”と言うのが上手くなりましたね」


「褒めているのか」


「はい」


「それなら、受け取る」


 短い会話だった。


 けれど、二人の間に少しだけ自然な空気が流れた。


 王妃宮は、その日のうちに三十日対応表の作成を始めた。


 復帰要請への返答定型文。

 嘆願者への分担案提出依頼。

 緊急時の判定基準。

 セレスティアの過去記録を参照する際の手順。


 作業は地味だった。


 書類ばかり。

 確認ばかり。

 分類ばかり。


 だが、その一つ一つがセレスティアを呼ばないための柵になった。


 同時に、王妃宮自身を支える骨組みにもなった。


 その夜、リリアナは疲れ果てて机に突っ伏した。


「マルタ様」


「はい」


「お姉様は、これを何年もしていたのですか」


「もっと複雑な形で」


「……お姉様、化け物ですか」


「それは褒め言葉ではありませんね」


「尊敬です」


「なら、別の表現を」


 リリアナは顔を上げ、少し考えた。


「お姉様は、とても努力していたのですね」


「それでよろしいかと」


「はい」


 リリアナは記録帳に書いた。


『三十日対応表作成開始。疲れた。姉は化け物ではなく、とても努力していた人。表現を訂正』


 マルタはそれを見て、少しだけ口元を緩めた。


 一方、王太子府では、アデルが側近たちの反発を受けていた。


「殿下、三十日もセレスティア嬢への照会を完全停止するのは非現実的です」


「緊急時の定義はあります」


「しかし、制度改善は今まさに」


「だから、我々で進める」


「効率が落ちます」


「落ちるだろう」


 アデルは認めた。


「だが、効率の高さを彼女一人の負荷で買っていたなら、その効率は正しくない」


 側近は黙った。


 アデルは続ける。


「三十日間で、王太子府内の未共有事項一覧を第一段階まで完成させる。セレスティアに照会しない。どうしても分からないものは“不明”として残す」


「不明のままですか」


「不明を不明として記録することから始める」


 若い書記官エドが、静かに頷いた。


 その姿を見て、古参側近のラウルは眉をひそめた。


 王太子府は確実に変わっている。


 それを良いことと見る者もいれば、危険と見る者もいる。


 その分裂もまた、三十日の中で露わになるだろう。


 北方辺境伯家の王都屋敷では、セレスティアが三十日回答停止文書の控えを箱に入れていた。


 嘆願書の箱とは別の箱だ。


 ノアが隣で言う。


「少し落ち着きましたか」


「はい。少しだけ」


「今日はもう報告を読まなくてもいい」


「読みません」


 珍しく、即答できた。


 ノアがわずかに目を細める。


「よい判断です」


「三十日の初日ですから」


「まだ始まったばかりです」


「はい」


 セレスティアは窓の外を見た。


 王都はまだ騒がしい。


 自分の三十日停止宣言も、きっと勝手に読まれている。


 冷たい。

 強すぎる。

 逃げた。

 正しい。

 必要な休息だ。

 また北方辺境伯の影響だ。


 いくらでも言われるだろう。


 でも、今日はもう返事をしない。


 彼女は帳面を開き、一行を書いた。


『沈黙を同意とも拒絶とも読まないでほしいと、初めて自分で決めた。三十日、私は私を急がせない』


 その一文を書いて、帳面を閉じる。


 まだ怖い。


 三十日後のことを考えると、不安になる。


 けれど、今日の夜だけは、少しだけ息ができた。


 ただし、王宮はその夜、別の緊張を抱えていた。


 王妃エレオノーラの咳が、いつもより長く続いていたのだ。


 まだ大きな異変ではない。


 医師も、夜番侍女も、薬湯で落ち着くと判断した。


 だが、王妃宮の記録棚には、セレスティアが昔書いた一枚の療養記録が眠っていた。


『咳が長引く場合、香炉だけでなく寝具、染料、乾燥薬草袋の交換履歴を確認すること』


 その記録が必要になる夜は、まだ少し先のことだった。

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