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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第53話 戻ってほしいという言葉ほど、彼女を追い詰めた

 その紙束は、思っていたよりも厚かった。


 北方辺境伯家の王都屋敷に届けられたとき、執事はいつもより少しだけ表情を硬くしていた。


「セレスティア様宛でございます。ただし、差出人は複数名の連名となっております」


 銀盆の上には、一通の封書ではなく、紐でまとめられた書類が載っていた。


 表紙には、丁寧すぎるほど整った文字でこう記されている。


『セレスティア・レイノルド嬢の王妃宮および王太子府への限定復帰を願う嘆願書』


 限定復帰。


 その言葉を見た瞬間、セレスティアの胸が小さく軋んだ。


 完全な復帰ではない。

 常駐でもない。

 王太子妃候補へ戻れと明記しているわけでもない。


 だからこそ厄介だった。


 相手もまた、彼女の出した線を読んでいる。

 読んだ上で、その線のすぐ外側をなぞってくる。


 ノアは、向かいの席で封書を見ていた。


「読まなくてもいい」


 彼はいつものように、最初に逃げ道を置いた。


 セレスティアは少しだけ笑おうとした。


 けれど、うまく笑えなかった。


「読みます」


「今でなくてもいい」


「今、読みます。読まないまま置いておく方が、怖いです」


 ノアは静かに頷いた。


「では、途中で止めてもいい」


「はい」


 セレスティアは紐を解いた。


 最初の一枚には、嘆願の趣旨が書かれていた。


『セレスティア・レイノルド嬢が過去に王妃宮および王太子府の実務に深く関与し、多くの慈善、療養、外交儀礼、政務補助に貢献したことは、各記録より明らかである。

 現在、王妃宮および王太子府は記録訂正と制度改善の途上にあるが、現場の混乱はなお大きく、慈善支援、救貧院運営、療養体制、王太子府資料整理に遅延が生じている。

 ついては、同嬢の心身に配慮しつつ、限定的かつ名誉ある形での復帰を願うものである』


 名誉ある形。


 セレスティアは、その言葉の上で指を止めた。


 名誉。


 ずっと奪われていたもの。


 そして今、返すような顔で差し出されるもの。


 彼女は次の紙をめくった。


 そこには署名が並んでいた。


 王妃宮関係者。

 救貧院支援団体。

 療養所の管理人。

 薬師ギルドの関係者。

 貴族夫人たち。

 王太子府の若手書記官らしき名もある。


 知らない名もあった。

 だが、知っている名もあった。


 かつて、救貧院の薪代が遅れたときに泣きそうな顔で礼を言った管理人。

 王妃宮の薬草契約で何度も手紙を交わした薬師。

 慈善基金の受領確認をいつも丁寧に返してくれていた女官。


 悪意の署名ではなかった。


 それが、つらかった。


 セレスティアはさらに読み進める。


『セレスティア様が戻られれば、救われる現場があります』


『どうか、完全復帰でなくとも、月数回のご助言を』


『あなたの記録があるだけで、私どもは道を失わずに済みます』


『王妃宮は今、あなたの知恵を必要としています』


『あなたにしか見えないものがあります』


 そこで、セレスティアは紙を置いた。


 息が浅くなっている。


 ノアがすぐに気づいた。


「止めましょう」


「……まだ半分も読んでいません」


「読む必要はありません」


「でも、署名した方々は」


「今は、あなたの呼吸の方が先です」


 その言葉に、セレスティアは黙った。


 呼吸。


 そんなものを優先していいのか。


 署名した人々がいる。

 助けを求めている現場がある。

 自分を必要だと言っている人たちがいる。


 なのに、呼吸。


 でも、今は確かに息が苦しかった。


 セレスティアはゆっくり深呼吸した。


 一度。

 二度。


 それでも胸の奥の圧迫感は消えない。


「責められるより苦しいです」


 小さな声が漏れた。


 ノアは何も遮らなかった。


「毒だと言われたときも、反乱だと言われたときも、腹は立ちました。怖くもありました。でも、違うと線を引けました」


「はい」


「でも、これは」


 セレスティアは嘆願書を見る。


「戻ってほしい、と書いてあります」


「はい」


「あなたが必要だ、と」


「はい」


「私が断れば、この人たちを見捨てるような気がします」


 ノアは、少しだけ目を伏せた。


「見捨てることと、戻らないことは別です」


「分かっています」


 セレスティアは即答した。


 何度も学んだ。


 必要とされることと、従うことは別。

 心配することと、背負うことは別。

 協力することと、復帰することは別。


 頭では分かっている。


「でも、心が追いつきません」


 言った瞬間、涙が浮かんだ。


 泣きたいわけではなかった。


 でも、目の奥が熱くなった。


「私、たぶん嬉しいのです」


 声が震える。


「戻ってほしいと言われて、嬉しい。必要だと言われて、まだ胸が動く。ひどい目に遭った場所なのに、私の知恵が必要だと言われると、行かなければと思ってしまう」


 ノアは静かに聞いている。


 セレスティアは続けた。


「そんな自分が嫌です」


「嫌わなくていい」


「でも」


「あなたは、必要とされることで生き延びてきたのでしょう」


 その言葉は優しくなかった。


 けれど、残酷でもなかった。


 ただ、正確だった。


 セレスティアは涙をこぼさないように唇を噛んだ。


「はい」


「なら、必要だと言われて揺れるのは自然です」


「自然でも、危ないです」


「だから、今日は返事を書かない」


 ノアは言った。


 セレスティアは顔を上げる。


「でも」


「今日は返事を書かない」


 ノアの声は静かだった。


 命令ではない。


 だが、彼女が流されないように置かれた石のようだった。


「今書けば、嘆願者たちの痛みと、あなたの罪悪感と、必要とされる嬉しさが混ざります」


「それは……そうかもしれません」


「混ざったまま書いた言葉は、あなた自身を縛る可能性がある」


 セレスティアは、嘆願書へ視線を落とした。


 たしかに今、書こうとすればこうなる。


 お気持ちは受け取りました。

 限定的な協力なら。

 月数回であれば。

 文書であれば。


 そうやって、少しずつ扉を開けてしまう。


 まだ自分の足元も整っていないのに。


「でも、黙れば」


「黙ることと、同意は別です」


「彼らは、そう読まないかもしれません」


「読むかもしれません」


「なら」


「それでも、今日は書かない」


 ノアは繰り返した。


「あなたが壊れないことを、今日は優先してください」


 壊れないこと。


 セレスティアは、自分の手を見た。


 指先が震えている。


 この震えを無視して、王宮にいた頃のように書いてしまえば、きっと早い。


 けれど、それではまた同じだ。


 自分の限界を見ないで、誰かの必要に応じる。


 それをやめるために、ここまで来た。


「……今日は、返事を書きません」


 セレスティアは言った。


 ノアは頷いた。


「はい」


「でも、記録は書きます」


「自分のために?」


「はい。自分のために」


 彼女は帳面を開いた。


 嘆願書への返事ではない。


 誰にも送らない、自分の記録。


『戻ってほしいという言葉に、私はまだ弱い。

 必要だと言われると、胸が動く。

 嬉しさと罪悪感と怖さが混ざって、判断が濁る。

 だから今日は返事を書かない。

 書かないことを選ぶ』


 最後の一文を書いたとき、少しだけ息が楽になった。


 書かないことを選ぶ。


 それは逃げではない。


 少なくとも、今日だけはそう思いたかった。


 王妃宮にも、嘆願書の写しは届いていた。


 リリアナは、その厚さを見て顔を青くした。


「こんなに」


 マルタが封を確認し、机に置く。


「王妃宮関係者の名もあります」


「誰が署名したのですか」


「確認します」


 リリアナは一枚目を読んだ。


 限定的かつ名誉ある形での復帰。


 その一文で、胸が痛くなった。


「名誉ある形……」


 彼女は呟いた。


「お姉様は、名誉を欲しがっているのではないのに」


 マルタは静かに言う。


「名誉が不要というわけではないでしょう。ただ、名誉を理由に戻されることを望んでいない」


「はい」


 リリアナは署名欄を見る。


 知っている名前がいくつもあった。


 王妃宮の仕事で実際に困っている人たち。

 救貧院の関係者。

 慈善会の夫人たち。


 悪い人たちではない。


 むしろ、姉の仕事に助けられた人たちだ。


 だからこそ、残酷だった。


「私、怒ればいいのか、悲しめばいいのか分かりません」


 リリアナは言った。


「どちらもでしょう」


 マルタが答える。


「お姉様を戻そうとしていることには怒っています。でも、この人たちが困っていることも分かります」


「ええ」


「お姉様が戻れば早いことも、分かります」


「ええ」


「だから嫌です」


 リリアナは机に両手を置いた。


「悪意なら、違うと言えます。でも、これは……」


「善意に近い圧力です」


 マルタの声は苦かった。


 リリアナはその言葉を記録した。


『善意に近い圧力。戻ってほしいという言葉が、姉を追い詰める可能性あり』


 書いてから、顔を上げる。


「王妃宮として、どうしますか」


 ちょうどそのとき、アデルが入ってきた。


 彼も嘆願書の写しを手にしていた。


 表情は重い。


「王太子府にも届いた」


「殿下」


「王太子府の若手書記官の名もある」


 リリアナは目を伏せた。


「責めますか」


「責めたい気持ちはある」


 アデルは正直に言った。


「だが、彼らも追い詰められている。未共有事項一覧を進めれば進めるほど、セレスティアがどれだけ穴を塞いでいたか見えてくる」


「だから戻ってほしい、と」


「ああ」


 アデルは嘆願書を見た。


「情けない話だ。彼女に頼らない仕組みを作ると言いながら、困った途端に戻ってほしいと署名する」


「でも、困っているのも事実ですね」


「そうだ」


 二人は黙った。


 どちらか一方なら簡単だった。


 署名者を責めるだけなら。

 セレスティアに戻ってもらうだけなら。


 でも、どちらも違う。


 マルタが言った。


「まず、王妃宮と王太子府として、嘆願書をセレスティア様への回答要求として扱わないことを明記すべきです」


 アデルが頷く。


「同意する」


 リリアナも言った。


「お姉様に、返事を急がせないでください」


「そうだな」


 アデルは紙を取る。


「王太子府からは、嘆願書の受領を確認するが、セレスティア・レイノルドに回答義務はない、と出す」


「王妃宮も同様に」


 マルタが答える。


 リリアナは少し考えてから言った。


「それだけでは足りない気がします」


 アデルが見る。


「何が必要だと思う」


「署名した人たちに、王妃宮と王太子府が困っている現状を説明する必要があります。お姉様が戻らないから困っているのではなく、一人に依存した仕組みだったから困っているのだと」


 アデルは、少しだけ目を見開いた。


「その通りだ」


「戻ってほしいと言う前に、まず自分たちが何を分担するかを書いてください、と」


 リリアナの声には、震えがあった。


 だが、その震えは弱さだけではない。


 怒りも混じっていた。


「お姉様に嘆願するなら、その前に自分たちの未共有事項一覧を出してください。そう言いたいです」


 マルタの口元が、ごくわずかに上がった。


「よいと思います」


 アデルも頷いた。


「王太子府からも同じ方針を出す。嘆願者には、各現場の未解決事項、担当可能者、セレスティアに依存していた具体箇所の提出を求める」


 リリアナは少しだけ胸がすっとした。


 戻ってほしい。


 それだけでは終わらせない。


 何に困っているのか。

 誰が何をできるのか。

 どこをセレスティアに頼っていたのか。


 それを見せてもらう。


 姉に戻れと言う前に。


 その方針はすぐに文書化された。


 王妃宮と王太子府は、嘆願書を受領する。

 ただし、セレスティア・レイノルドに回答義務は発生しない。

 各署名者および関係部署は、復帰嘆願の前に、現場の未解決事項と分担案を提出すること。

 セレスティア個人への依存箇所を具体的に記録すること。


 その文が出ると、嘆願者たちの間に戸惑いが広がった。


「私たちは、ただ戻ってほしいと」


「分担案と言われても」


「何が分からないのかを出せと言われても、セレスティア様なら分かったから」


「だから、それが問題なのでは?」


 そう言ったのは、王妃宮の若い侍女だった。


 周囲の年配者が黙る。


 戻ってほしいと願うのは簡単だ。


 しかし、自分たちが何を彼女に頼っていたのかを書くのは、痛い。


 その痛みから逃げるために、嘆願という美しい形を取っていたことに、少しずつ気づく者もいた。


 その日の夕方、北方辺境伯家の屋敷に王妃宮と王太子府の対応文が届いた。


 セレスティアは読み終え、しばらく黙った。


「リリアナが考えたのでしょうか」


 ノアが尋ねる。


「おそらく、かなり」


 セレスティアは文面を見つめた。


 嘆願の前に、未解決事項と分担案を出すこと。


 セレスティア個人への依存箇所を記録すること。


 それは、まさに彼女が言いたかったことだった。


 でも今は、彼女が言わずに済んだ。


 王妃宮と王太子府が、自分たちの言葉として出した。


「少し、楽です」


 セレスティアは言った。


「はい」


「私が全部返さなくても、王妃宮と王太子府が少し返してくれた」


「はい」


「それでも、嘆願書は重いです」


「当然です」


「今日は、まだ返事を書きません」


「はい」


 セレスティアは嘆願書を閉じた。


 机の上に置いたままにするのはつらい。


 かといって、しまい込むのも違う。


 ノアが、空の箱を持ってきた。


「一時保管用に」


「ありがとうございます」


 セレスティアは嘆願書を箱へ入れた。


 鍵はかけない。


 ただ、机の上からは下ろす。


 それだけで、少し息がしやすくなった。


 夜、彼女は帳面を開いた。


『戻ってほしいと言われると、私はまだ揺れる。

 今日は返事を書かなかった。

 王妃宮と王太子府が、嘆願者に分担案を求めた。

 私が全部返さなくてもよい日が、少しだけ来た』


 書き終えて、セレスティアはペンを置いた。


 窓の外は暗い。


 王都のどこかでは、まだ彼女の名が語られている。


 戻ってほしい。

 冷たい。

 必要だ。

 見捨てるのか。


 その声は消えない。


 でも今日は、返事を書かない。


 書かないことを、彼女は選んだ。


 その選択は、誰にも見えない小さな抵抗だった。

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