第52話 空いた椅子は、また彼女を見ていた
王太子妃候補の椅子が空いた。
その事実は、王都にとって格好の餌だった。
王妃宮と王太子府は、発表文の中で明確に書いた。
リリアナ・レイノルドの一時停止は、本人意思による教育再設計と、王太子との関係性再確認のためである。
他候補選定とは連動しない。
だが、王都の人々は発表文を最後まで読むとは限らない。
いや、読んだとしても、自分たちの望む形で読み替える。
「では、次はセレスティア様なのでは?」
「元々の婚約者ですものね」
「王妃宮の実務にも通じているし、王太子府の記録にも関わっていたのでしょう?」
「むしろ、最初からあの方の方がふさわしかったのでは」
「でも、ご本人は戻るおつもりがないようですわ」
「そこを説得するのが王宮の務めではなくて?」
茶会で。
馬車の中で。
神殿帰りの回廊で。
仕立屋の試着室で。
セレスティアの名は、また空いた椅子へ向かって押し出されていた。
悪意ばかりではなかった。
むしろ今回は、かなりの部分が善意に見えた。
セレスティア様こそふさわしい。
あの方なら王宮を立て直せる。
王太子殿下も、今度こそ彼女を正しく扱うだろう。
王妃宮も彼女を必要としている。
リリアナ様が下りたなら、自然な流れではないか。
自然な流れ。
その言葉ほど、人を押し流すものはない。
北方辺境伯家の王都屋敷にも、その噂は届いていた。
セレスティアは、報告書を読みながら、指先の温度が少しずつ下がっていくのを感じた。
『王太子妃候補一時停止を受け、セレスティア・レイノルド嬢復帰論が拡大』
『王妃宮実務に通じた人物として、同嬢が最適との声』
『保守派一部、混乱収束のため元婚約者への復帰を支持』
『若手令嬢層の一部、セレスティア様が戻るなら王宮改革が進むのではとの期待』
読み終えて、セレスティアは紙を机に置いた。
部屋は静かだった。
窓の外には午後の光が差している。
王都の音は遠い。
けれど、目の前の紙一枚で、彼女は王宮の廊下に引き戻されたような気がした。
王太子府の重い扉。
王妃宮の静かな廊下。
書類の束。
アデルのために整えた会議資料。
リリアナの泣き声。
父の沈黙。
王妃の咳。
そして、椅子。
自分が一度座っていたはずの椅子。
いや、正確には、座っていたと思わされていた椅子。
王太子妃候補という名の場所。
けれど、その実態は、王太子府の下準備と王妃宮の実務と公爵家の体面を支えるための座席だった。
そこへ、また戻れという声が聞こえる。
今度は断罪ではなく、期待として。
「合理的には」
セレスティアは静かに言った。
向かいに座るノアが顔を上げる。
「はい」
「合理的には、私が戻るのが一番早いのでしょうね」
口にした瞬間、胸が痛んだ。
それは嘘ではない。
自分は王妃宮を知っている。
王太子府の資料の流れも知っている。
王妃の体調管理の癖も、救貧院支援金の詰まりやすい箇所も、薬師ギルドとの契約更新時期も知っている。
アデルの会議前に、どこまで情報を渡せば理解できるかも知っている。
リリアナがどこでつまずきやすいかも知っている。
だから、自分が戻れば早い。
混乱は減る。
王宮は安定する。
きっと、多くの人が助かる。
その事実が苦しかった。
「早いことと、正しいことは別です」
ノアは静かに言った。
セレスティアは小さく笑った。
「最近の閣下は、私が言ってほしい言葉を先に置いてくださいますね」
「必要そうなので」
「はい。必要です」
セレスティアは目を伏せた。
「でも、国にとっては?」
ノアはすぐには答えなかった。
その沈黙に、セレスティアは少し救われた。
国のため。
その言葉は強い。
個人の痛みを黙らせるには、あまりに便利だ。
王妃宮のため。
王太子府のため。
救貧院の子どもたちのため。
王宮の安定のため。
国のため。
そのすべてに、嘘は含まれていない。
だからこそ厄介だった。
「国という言葉で、あなた一人を戻すなら、それもまた同じです」
ノアは言った。
セレスティアは、ゆっくり息を吐いた。
「同じ」
「はい」
「王宮が困るから戻れ。国が困るから戻れ。救貧院が困るから戻れ。言葉が大きくなるだけで、構造は変わらない」
「そうです」
「では、私は何もしない方がよいのでしょうか」
「そうは言っていません」
ノアは首を振った。
「関わる形を、あなたが決める必要があります」
「戻るか、戻らないか、ではなく?」
「はい」
セレスティアは、その言葉を胸の中で転がした。
戻るか、戻らないか。
王都はいつも二択を突きつける。
悪女か、才女か。
反乱か、従順か。
守られるか、利用されるか。
戻るか、見捨てるか。
けれど、現実はもう少し複雑なはずだ。
自分が戻らずに、過去の記録を渡すことはできる。
王妃宮の仕組みづくりに、文書で助言することはできる。
王太子妃候補には戻らず、記録訂正の当事者として協議に参加することはできる。
できることは、いくつかある。
ただし、それは全部、自分の意思で選ぶ必要がある。
誰かの期待ではなく。
「私は、まだ戻るとは言いません」
セレスティアは言った。
「はい」
「王太子妃候補にも、戻るとは言いません」
「はい」
「でも、私の過去の記録が王宮の仕組み直しに役立つなら、それを完全に拒むこともしたくありません」
「はい」
「その線引きを、書きます」
ノアは頷いた。
「よいと思います」
セレスティアは机に向かい、白紙を出した。
最近、白紙への恐怖は少しだけ薄れてきた。
完全になくなったわけではない。
それでも、白紙はもう、他人の命令を書く場所だけではなかった。
自分の線を引く場所でもある。
『王太子妃候補一時停止に伴う諸言説について』
表題を書いて、一度手を止める。
強い。
しかし必要だ。
『私は、王太子妃候補への復帰を表明しておりません。
また、王妃宮および王太子府の混乱収束を理由として、私個人が過去の役割へ戻ることを当然視されることは望みません』
ペン先が少し震えた。
当然視。
その言葉に、今までのすべてが詰まっている気がした。
当然のように支える。
当然のように整える。
当然のように戻る。
もう、それは受け取らない。
『私が過去に担った実務記録について、制度改善や記録訂正のために文書で協力する可能性はあります。
ただし、それは王太子妃候補への復帰、王妃宮への常駐、または過去の職務負担の再開を意味しません。
今後、私の関与範囲は、私本人の意思確認と書面による合意を必須とします』
最後まで書き、セレスティアは息を吐いた。
この文は、断絶ではない。
しかし、復帰でもない。
曖昧だと批判されるかもしれない。
でも、現実に即している。
「どうでしょう」
ノアに差し出すと、彼は読み終えて頷いた。
「線が引けています」
「冷たくありませんか」
「冷たくありません。境界です」
「境界」
「はい」
セレスティアは、その言葉を静かに受け取った。
境界。
拒絶よりも、少しだけ息がしやすい。
同じころ、王太子府でも、空いた椅子をめぐって議論が起きていた。
会議室には、アデルと複数の側近がいた。
ディランは、まだ処分決定前で出席を制限されている。
だが、彼と近い考えの者は残っていた。
その一人、ラウルが慎重に口を開いた。
「殿下。リリアナ様の一時停止を受け、王都ではセレスティア嬢復帰論が強まっております」
「知っている」
アデルは短く答えた。
「王太子府としては、これを完全に否定するよりも、選択肢として保持しておく方がよろしいのでは」
室内の空気が硬くなる。
アデルはラウルを見た。
「本人の意思が出ていない」
「もちろん、強制する意図はございません。ただ、現実問題として、セレスティア嬢ほど王太子府と王妃宮の双方に通じた方はいません」
「だから戻すのか」
「戻す、と申しますか、復帰をご検討いただく」
「同じだ」
アデルの声は低かった。
ラウルは少し眉を寄せる。
「しかし殿下、王太子府は今、混乱しております。未共有事項一覧も、記録訂正も、想定以上に時間を要しています。セレスティア嬢が一定期間でも協力されれば」
「王太子府が困るから彼女を戻す、という発想をやめろ」
アデルの言葉が、会議室に落ちた。
側近たちは黙った。
アデルは続ける。
「その発想で、私たちは彼女に頼り続けた。王妃宮も、公爵家も、王太子府も。今また同じ理由で戻せば、何も変わらない」
「では、王太子府の混乱は」
「我々が引き受ける」
「殿下が?」
「私も含めてだ」
アデルは机の上の未共有事項一覧を指した。
「見ろ。これが、彼女一人に圧縮していたものだ。これを見た上で、まだ“彼女なら早い”と言うのか」
ラウルは答えに詰まった。
早い。
確かに早いだろう。
だが、その早さは誰の時間を削って生まれていたのか。
今なら、その問いが残る。
「本人から文書が来るまでは、セレスティア・レイノルドの復帰案は議題にしない」
アデルは言った。
「議事録に残せ」
若い書記官がすぐにペンを走らせる。
アデルはさらに続けた。
「もし本人が協力可能な範囲を示した場合も、それを王太子妃候補復帰と結びつけることはしない。王太子府は、彼女の職務協力と婚約関係を切り分ける」
側近の一人が、思わず言った。
「切り分ける、ですか」
「ああ」
アデルは自嘲気味に笑った。
「私は、それができていなかった」
誰も何も言えなかった。
アデルは窓の外を見た。
王宮の庭は、今日も整っている。
だが、その整い方を見る目が変わった。
整っているものの下で、誰が乱れを吸収していたのか。
それを考えずにはいられなかった。
王妃宮でも、同じ話題が避けられなくなっていた。
リリアナは、王妃の前でセレスティア復帰論の報告を読んでいた。
読むたびに、胸が痛む。
『空位となった王太子妃候補に、元候補者セレスティア様を戻すべきとの声』
『王妃宮内一部、実務安定のためセレスティア様の限定復帰を期待』
『慈善団体関係者、セレスティア様が戻れば混乱が収まるとの意見』
リリアナは紙を置いた。
「やっぱり、こうなりました」
王妃は寝椅子に体を預けている。
顔色は良くないが、意識ははっきりしていた。
「ええ」
「私が下りたから」
「それだけではありません」
王妃は静かに言った。
「セレスティアの力が、実際に必要とされているからです」
リリアナは唇を噛んだ。
それが一番苦しい。
誰かの悪意だけなら、怒ればいい。
でも、セレスティアの力が本当に必要だという事実は、消せない。
「私は、お姉様を戻したくありません」
「ええ」
「でも、お姉様の記録や知識が必要なのも分かります」
「ええ」
「では、どうすれば」
王妃は少しだけ微笑んだ。
「あなたなら、どう記録しますか」
リリアナは一瞬驚いた。
「私が?」
「ええ」
リリアナは考えた。
セレスティアなら、どう書くだろう。
いや。
違う。
自分なら、どう書くか。
「……セレスティア様本人の復帰ではなく、過去記録の参照と文書回答による限定協力の可能性を検討。ただし、本人意思確認を必須とし、王太子妃候補復帰とは切り分ける」
王妃は、静かに頷いた。
「よいですね」
リリアナは少しだけ目を見開く。
「よいですか」
「ええ。とても」
マルタも横で頷いた。
「その表現で試案を作りましょう」
リリアナは、胸の奥が少し温かくなった。
自分が作った言葉が、使われる。
でも、それは姉の代わりに背負うことではない。
自分の分として、王妃宮で必要な線を引くことだ。
「書きます」
リリアナは言った。
「はい」
そのとき、王妃宮にセレスティアの文書が届いた。
リリアナは封を見て、息を止めた。
セレスティア本人の意思確認。
まさに今、必要としていたもの。
王妃が頷く。
「読みなさい」
リリアナは封を切り、ゆっくり読み上げた。
『私は、王太子妃候補への復帰を表明しておりません。
また、王妃宮および王太子府の混乱収束を理由として、私個人が過去の役割へ戻ることを当然視されることは望みません』
読みながら、リリアナの目に涙が浮かんだ。
姉の言葉は、相変わらず強くて、痛い。
『私が過去に担った実務記録について、制度改善や記録訂正のために文書で協力する可能性はあります。
ただし、それは王太子妃候補への復帰、王妃宮への常駐、または過去の職務負担の再開を意味しません。
今後、私の関与範囲は、私本人の意思確認と書面による合意を必須とします』
読み終えたあと、部屋は静まり返った。
王妃は目を閉じた。
「見事ですね」
マルタが言った。
「ええ」
リリアナは涙を拭いた。
「お姉様は、椅子に戻らないとは書いていません。でも、戻るとも書いていません」
「それが大切です」
王妃が言う。
「他人の二択に乗らない。セレスティアは、自分の関わり方を選ぼうとしている」
リリアナは頷いた。
「王妃宮の試案も、これに合わせます」
「ええ」
その文書は、すぐに王太子府にも送られた。
アデルは読み終え、深く息を吐いた。
「彼女らしい」
側近の一人が問う。
「殿下、これを受けて王太子府としては」
「復帰案は議題にしない」
アデルは即答した。
「ただし、記録訂正と制度改善に関する文書照会は可能とする。その場合も、彼女の回答義務はない。回答するか、いつ回答するかは本人判断だ」
「かなり制限されます」
「当然だ」
アデルは言った。
「今まで制限がなさすぎた」
そして、アデルは自分でも短い文を書いた。
『セレスティア・レイノルド殿の文書を受領。
王太子府は、同殿の協力可能性を王太子妃候補復帰と結びつけない。
制度改善に関する照会を行う場合も、回答義務を負わせない』
書き終えてから、彼はしばらくペンを置けなかった。
王太子府が、セレスティアに回答義務を負わせない。
それは当然のことのはずなのに、文にすると重い。
今まで、どれほど当然のように彼女へ回答を求めていたのか。
夜、王都には新たな噂が流れた。
セレスティアは王太子妃候補へ戻ることを否定したらしい。
いや、完全には否定していないらしい。
文書協力はあり得るらしい。
つまり、まだ可能性はあるのでは。
いや、本人は当然視するなと書いている。
どちらなのか。
人々はまた、都合よく読もうとした。
だが、今回は王妃宮も王太子府も、同じ線を引いた。
王太子妃候補復帰とは連動しない。
本人意思確認を必須とする。
文書協力は義務ではない。
それでも、完全には止まらなかった。
一部の貴族と慈善関係者が、勝手に「セレスティア復帰嘆願書」を作り始めたのだ。
理由は単純だった。
言葉で線を引かれても、人は自分の願いを諦めるとは限らない。
戻ってほしい。
助けてほしい。
あなたならできる。
その善意に似た圧力が、次の紙束になろうとしていた。
北方辺境伯家の王都屋敷では、セレスティアがその予兆をまだ知らずにいた。
彼女は自分の文書の控えを畳み、帳面を開いた。
『空いた椅子は、確かに私を見ている。だが、私は見返した。座るかどうかは、まだ私が決める』
書き終えて、少しだけ息を吐く。
完全に強くなったわけではない。
椅子はまだ怖い。
でも、以前のように目を逸らすだけではなかった。
そのことを、今日の記録として残した。




