表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
51/110

第51話 王太子妃候補という椅子は、誰のためにあるのか

王妃エレオノーラから呼び出しがあったのは、翌朝のことだった。


 場所は王妃宮の奥にある小さな応接室。


 大きな会議室ではない。

 記録官たちが並ぶ部屋でもない。

 王宮の権威を見せつけるための広間でもない。


 窓辺に淡い色の布が掛けられ、中央には丸い卓が置かれている。花はない。香炉もない。


 王妃の体調を考えてのことでもあり、セレスティアが何度も香りについて指摘していた名残でもある。


 そこへ呼ばれたのは、アデルとリリアナだった。


 マルタは王妃のそばに控え、書記局長が少し離れた席に座っている。

 記録は残される。


 ただし、今日の場にセレスティアはいない。


 それは彼女を外すためではない。


 今日の議題は、セレスティアの処遇ではなく、アデルとリリアナ自身のことだからだ。


 リリアナは、そのことを聞いたとき少しだけ胸が痛んだ。


 姉がいない場で、自分のことを決める。


 それは本来、当然のことのはずだった。

 けれど、今まで自分の人生の多くは、姉の影の中で決まっていた。


 姉が何を担い、自分が何を免除され、王太子が何を見ずに済んでいたのか。


 その積み重ねの先に、今の自分がいる。


 だから今日、姉がいないことは少し怖く、同時に必要でもあった。


「座りなさい」


 王妃が静かに言った。


 アデルとリリアナは、向かい合う形ではなく、斜めに並ぶ席へ座った。


 正面には王妃。


 その配置にも意味があるように思えた。


 対立ではない。

 恋人同士の親密な場でもない。

 当事者として、同じ卓につく。


 リリアナは膝の上で手を重ねた。


 指先が冷たい。


 アデルも、いつもより表情が硬かった。


 王妃は二人をしばらく見つめてから、口を開いた。


「本日は、王太子妃候補としてのリリアナの立場について話します」


 リリアナの肩が小さく震えた。


 分かっていた。


 分かっていても、言葉にされると重い。


 アデルが先に言った。


「母上。リリアナを責める場ではないはずです」


 王妃の目が、静かにアデルへ向く。


「その言葉は、優しさですか。それとも、話を始める前に彼女を守る姿勢ですか」


 アデルは口を閉ざした。


 リリアナは、胸の奥がぎゅっと痛くなった。


 嬉しかった。


 アデルが自分を責めないでほしいと言ってくれたことが。


 でも同時に、危なかった。


 また、守られる側に置かれそうになった。


 リリアナは息を吸い、アデルより先に言った。


「王妃陛下。私は、責められることも聞きます」


 アデルが彼女を見る。


 リリアナは彼を見ずに続けた。


「ただし、責められるだけではなく、事実として聞きます。感情で崩れそうになったら、少し時間をいただきます。でも、席は立ちません」


 声は震えた。


 けれど、最後まで言えた。


 王妃は小さく頷いた。


「よろしい」


 アデルは、ゆっくり息を吐いた。


「……すまない。先に守ろうとした」


「嬉しかったです」


 リリアナは正直に答えた。


「でも、少し危なかったです」


「分かった」


 その短いやり取りを、書記局長が記録する。


 以前なら、こうした個人的な会話は記録から外されただろう。


 けれど今は違う。


 何が誰をどう動かしたのか。


 曖昧にしないために、残す。


 王妃は二人を見た。


「では、問います。アデル、リリアナ。あなたたちは今も婚約を望みますか」


 部屋の空気が止まった。


 真正面からの問いだった。


 王太子妃候補としてふさわしいか。

 社交界の反応をどうするか。

 王宮の安定をどう守るか。


 そういう遠回りをせず、王妃はまず二人に問うた。


 あなたたちは望むのか。


 リリアナは、すぐに答えられなかった。


 胸の中でいくつもの感情が絡まる。


 アデルを好きだった。


 それは嘘ではない。


 彼に見つめられると嬉しかった。

 彼が自分を庇ってくれると、安心した。

 姉よりも自分を選んでくれたようで、満たされた。


 けれど、その感情がどこから来たのか、今は分からない。


 彼自身への恋なのか。

 守られる場所への憧れなのか。

 姉に勝ちたかった幼い嫉妬なのか。

 父や王妃宮が用意した役割の中で育った依存なのか。


 どれか一つではないのだと思う。


 だから、怖い。


 アデルも黙っていた。


 彼の沈黙は、以前のように答えを先送りする王太子の沈黙ではなかった。


 本当に考えている沈黙だった。


 王妃は急かさなかった。


 マルタも、書記局長も動かない。


 やがて、リリアナが先に口を開いた。


「……望むかどうかが、まだ分かりません」


 言った瞬間、胸が痛んだ。


 アデルを見るのが怖い。


 でも、見た。


 アデルは傷ついた顔をしていた。


 当然だ。


 望むと言われなかったのだから。


 けれど彼は、目を逸らさなかった。


「私もだ」


 低い声だった。


 リリアナの目が揺れる。


 アデルは続けた。


「君を大切に思っている。それは本当だと思う」


「はい」


「だが、それが恋なのか、守りたいと思う癖なのか、王太子として自分の過ちを取り戻したいだけなのか、まだ分からない」


 リリアナは唇を噛んだ。


 痛い。


 だが、嘘をつかれるよりずっとよかった。


「私も、殿下をお慕いしていた気持ちが、何だったのか分かりません」


「うん」


「守られるのが嬉しかったです。選ばれたと思えたのも嬉しかったです。お姉様より私を見てくださることに、安心していました」


 言っていて、自分がどれほど醜いかを突きつけられる。


 でも、止めない。


「でも、それは恋だけではなかったと思います」


 アデルは小さく頷いた。


「私も、君を守ることで、自分が正しいと思いたかった」


 リリアナの胸がさらに痛んだ。


 二人とも、何かを相手に求めていた。


 恋のような形で。


 けれど、その中には幼さも、依存も、逃げもあった。


 王妃は、静かに二人の言葉を聞いていた。


 そして、少しだけ目を伏せた。


「分からない、という答えを出せたことは大切です」


 リリアナは顔を上げる。


「大切、ですか」


「ええ。以前なら、二人とも“望みます”と言ったでしょう。自分にそう言い聞かせるために」


 アデルもリリアナも、反論できなかった。


 その通りだった。


 王妃は続けた。


「ですが、分からないまま王太子妃候補の椅子に座り続けることは、もう許しません」


 リリアナの手が、膝の上で強く握られる。


 椅子。


 王太子妃候補という椅子。


 姉が座っていた椅子。

 自分が座った椅子。

 父が、王妃宮が、王太子府が、都合よく移そうとした椅子。


 そこに、自分はまだ座っている。


 座る理由を持たないまま。


「王妃陛下」


 リリアナは、かすれた声で言った。


「私は、下ろされるのですか」


 王妃はすぐには答えなかった。


「あなたが望むなら、下りることを認めます」


 リリアナは目を見開いた。


 下ろされるのではない。


 下りることを、認める。


 それは似ているようで、全く違った。


「私が……決めるのですか」


「あなたとアデルが、です」


 王妃はアデルを見る。


「これはリリアナだけの問題ではありません。アデル、あなたもその椅子をどう扱うのか考えなければなりません」


 アデルは頷いた。


「はい」


「王太子妃候補とは、王太子の心を安定させるための椅子ではありません」


 その言葉は静かだったが、重かった。


 リリアナの胸に刺さる。


 王妃は続ける。


「また、失われた婚約を埋め合わせるための椅子でもありません。セレスティアを傷つけた罪悪感から誰かを選ぶ場所でも、リリアナが姉に勝ったと感じるための場所でもない」


 アデルは目を伏せた。


 リリアナも俯きそうになった。


 だが、顔を上げた。


 聞くと決めたから。


「では、何のためにあるのですか」


 リリアナが尋ねると、王妃はゆっくり答えた。


「国のため。王太子の伴侶となる本人のため。そして、本人が自ら選び、引き受ける責務のためです」


 責務。


 その言葉に、リリアナは少しだけ身を固くした。


 責務という言葉は怖い。


 姉を縛ってきた言葉だから。


 だが王妃は、その反応に気づいたように言った。


「責務は、人を縛るために使われてはなりません。本人が理解し、選び、必要なら退く道もあるものとして扱われるべきです」


 リリアナは、目の奥が熱くなった。


 もし、もっと早くその言葉を聞けていたら。


 姉は違ったのだろうか。


 自分も違ったのだろうか。


 そんな考えが浮かんだが、今は飲み込んだ。


 過去は戻らない。


 でも、今の言葉は残せる。


「私は」


 リリアナは、ゆっくり言った。


「王太子妃候補の椅子から、一度下りたいです」


 言葉にした瞬間、身体が震えた。


 怖い。


 怖いけれど、どこかで息ができた。


 アデルが彼女を見る。


 リリアナは彼に向き直った。


「殿下を嫌いになったわけではありません」


「分かっている」


「大切に思っています」


「私もだ」


「でも、私はまだ、自分でその椅子に座る理由を持っていません」


 声が震える。


 それでも言う。


「姉から奪った椅子だから下りるのではありません。私が、まだ自分で座る理由を持っていないからです」


 アデルは、長く沈黙した。


 その沈黙の中で、リリアナは彼が傷ついていることを感じた。


 同時に、考えていることも。


 彼はもう、すぐに守るとは言わなかった。


 引き止めるとも言わなかった。


 やがて、アデルは静かに言った。


「私も、君をその椅子に座らせ続ける理由を、今は持てない」


 リリアナの胸が痛む。


 だが、彼の言葉は正直だった。


「君を大切に思うからこそ、今のままではいけないと思う」


「はい」


「私は、君を守ることで自分を正当化していた。君を王太子妃候補としてそばに置くことも、その延長だったかもしれない」


「……はい」


「だから、私も見直しに同意する」


 王妃は、二人を見つめていた。


 その目に、悲しみと安堵が混じっている。


「では、記録します」


 書記局長がペンを取った。


『リリアナ・レイノルド、王太子妃候補の暫定的立場を一時停止する意思を表明。理由は、本人がその椅子に自ら座る理由をまだ持たないため。アデル王太子も同意』


 ペンの音が響く。


 リリアナは、その音を聞きながら、自分の中で何かが静かに外れていくのを感じた。


 鎖なのか。


 飾りなのか。


 よく分からない。


 けれど、何かが少し軽くなった。


 同時に、何かを失った痛みもあった。


 アデルとの関係が終わったわけではない。


 だが、今までの形は終わる。


 守られる花としてそばにいる自分は、もういない。


 いや、いないことにしなければならない。


「リリアナ」


 アデルが言った。


「はい」


「これは別れではない、と思っていいのだろうか」


 その声は、王太子ではなく、一人の青年のものだった。


 リリアナは少しだけ涙ぐんだ。


「分かりません」


 正直に答える。


 アデルは苦く笑った。


「そうか」


「でも、今ここで別れではないと決めるのも、違う気がします」


「ああ」


「私は、殿下を大切に思っています。それだけは、今のところ本当です」


「私も、君を大切に思っている」


 二人は、それ以上何も言わなかった。


 好きかどうか。

 結婚するかどうか。

 将来どうなるか。


 それを今すぐ決めない。


 その未定さが、かつての二人なら不安で耐えられなかったかもしれない。


 今は、その未定さを記録できる。


 王妃は静かに言った。


「この件は、王妃宮と王太子府の共同記録として扱います。ただし、発表文は慎重に」


 マルタが頷く。


「どのような表現になさいますか」


「リリアナが不適格だから降ろすのではありません」


 王妃は、はっきり言った。


「また、セレスティアを戻すための空席でもありません」


 リリアナは、その言葉に胸を突かれた。


 そうだ。


 自分が下りれば、次に必ず姉の名が出る。


 王太子妃候補の椅子が空いた。


 では、セレスティアが戻るのか。


 王都はきっとそう言う。


 それが怖い。


「王妃陛下」


 リリアナは言った。


「この発表で、お姉様の名前を出さないでください」


 王妃は頷いた。


「もちろんです」


「でも、きっと噂になります」


「なるでしょう」


「お姉様に、また椅子が向いてしまいます」


 リリアナの声が震える。


「私が下りることで、お姉様を戻す圧力が強くなるなら、私は」


「それを理由に座り続けてはいけません」


 王妃は静かに遮った。


「あなたが自分の理由を持たない椅子に座り続けることもまた、セレスティアを縛る理由になります」


 リリアナは黙った。


 確かにそうだ。


 自分が下りても、姉は縛られる。


 自分が座り続けても、姉は縛られる。


 なら、どうすればいいのか。


 王妃は続けた。


「だから、こちらも明確に書きます。王太子妃候補の一時停止は、リリアナ本人とアデル王太子の関係再確認および教育再設計のためであり、他の候補者選定とは連動しない、と」


 書記局長が頷き、記録する。


 リリアナは、少しだけ息を吐いた。


 完全に防げるとは思わない。


 でも、書かないよりはいい。


「私からも、お姉様へ手紙を書きます」


 リリアナは言った。


「自分の言葉で」


 王妃は頷いた。


「そうしなさい」


 その日の午後、王妃宮と王太子府から共同発表が出された。


 リリアナ・レイノルドの王太子妃候補としての暫定的立場を、一時停止する。

 理由は、本人意思による教育再設計と、王太子との関係性再確認のため。

 これはリリアナの不適格認定ではなく、また他候補選定と連動するものではない。

 今後、リリアナは王妃宮補佐教育を本人意思に基づき段階的に受け直す。


 王都は、当然のように騒いだ。


「やはり妹君は不安定だったのでは?」


「いえ、本人意思と書いてありますわ」


「でも、王太子妃候補の一時停止なんて前代未聞では?」


「では、セレスティア様が戻るの?」


「連動しないと書いてあるでしょう」


「書いてあっても、現実にはそうなるのでは?」


 誰もが好き勝手に言った。


 けれど、リリアナはその頃、自室でセレスティアへの手紙を書いていた。


 何度も深呼吸をして。


 何度もペンを止めて。


 それでも、書いた。


『お姉様。

 私は、王太子妃候補の椅子から一度下ります。

 お姉様から奪った椅子だからではありません。

 私が、まだ自分で座る理由を持っていないからです。

 殿下を大切に思う気持ちはあります。けれど、それが恋なのか、守られる場所への憧れだったのか、まだ分かりません。

 分からないまま椅子に座り続けることは、もうしたくありません。

 このことで、お姉様にまた椅子が向いてしまうのではないかと怖いです。

 でも、その怖さを理由に私が座り続けるのも違うと思いました。

 私は、私の分を見ます。

 リリアナ』


 書き終えると、涙が落ちた。


 だが、文字は滲まなかった。


 少しだけ、泣くのが上手くなったのかもしれない。


 その手紙が北方辺境伯家の王都屋敷に届いたのは、夕方だった。


 セレスティアは封を見た瞬間、息を止めた。


 リリアナからだ。


 ノアは向かいにいたが、何も言わなかった。


 セレスティアは封を切り、手紙を読む。


 読み終える頃には、指先が震えていた。


 妹が椅子を下りた。


 姉から奪った椅子だからではなく、自分で座る理由を持っていないから。


 その言葉が、胸に深く刺さる。


 セレスティアは目を閉じた。


「リリアナが、下りました」


 ノアは静かに頷いた。


「そのようですね」


「怖かったでしょうね」


「はい」


「私も、怖いです」


 ノアは彼女を見る。


 セレスティアは手紙を膝の上に置いた。


「空いた椅子は、きっと私を見ます」


「見るでしょうね」


「王都も、王宮も、父も。合理的には私が戻るべきだと言うでしょう」


「言うでしょう」


「リリアナは、それを怖がっています」


「あなたも」


「はい」


 セレスティアは、深く息を吸った。


「でも、リリアナがその怖さを理由に座り続けなかったことは、受け取ります」


「返事を?」


「書きます」


 彼女は白紙を取った。


 ペンを持つ手は震えている。


 それでも書いた。


『リリアナへ。

 あなたの手紙を読みました。

 自分で座る理由を持っていないから椅子を下りる、という言葉を受け取りました。

 その判断は、きっと怖かったと思います。

 このことで私に椅子が向くことをあなたが恐れていることも、受け取りました。

 ですが、あなたがその怖さを理由に座り続けなかったことを、私は責めません。

 私の椅子は、私が決めます。

 あなたは、あなたの分を見てください。

 セレスティア』


 最後の一文を書いたあと、セレスティアはしばらく動けなかった。


 私の椅子は、私が決めます。


 そう書いた。


 書いてしまった。


 怖い。


 だが、必要だった。


 ノアが静かに言った。


「強い文です」


「強がりです」


「強がりでも、あなたの言葉です」


 セレスティアは少しだけ笑った。


「最近、私たちはいつもそんなことを言っていますね」


「大事なことなので」


 セレスティアは封をした。


 窓の外では、王都の夕暮れが赤く広がっている。


 その光の向こうで、王太子妃候補の椅子が空いた。


 そして、まだ誰も座っていないその椅子は、確かにセレスティアの方を向き始めていた。


 彼女はそれを感じていた。


 けれど今度は、目を逸らさなかった。


 座るかどうかは、自分が決める。


 それだけを、今日の記録として胸に置いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ