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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第50話 妹まで危険だと言われた日、王太子は初めて怒った

 リリアナ・レイノルドが「姉を代弁しない」と書いた文は、本人が思っていたよりも遠くまで届いた。


 最初は、王妃宮の記録写しとして出しただけだった。


 姉の言葉を北方辺境伯のものにしないでほしい。

 過去に姉の言葉を聞かず傷つけたから、今度は曲げたくない。


 リリアナにとっては、それだけの文だった。


 だが、王都はそれだけでは済ませてくれなかった。


 王太子妃候補である少女が、自分の過ちを公に書いた。

 姉の騒動に自ら関わった。

 北方辺境伯への疑念に口を挟んだ。


 その事実は、王都の口に乗るとすぐ形を変えた。


「リリアナ嬢は、思ったより激情家なのですね」


「可憐な方だと思っていたけれど、あれでは王太子妃として不安ですわ」


「姉上に感化されたのでしょう」


「そもそも、姉から婚約者を奪ったような形だったのですもの。心が揺れるのは当然では?」


「でも、王太子妃候補が揺れすぎるのは困りますわ」


 茶会で。


 馬車溜まりで。


 仕立屋の奥で。


 神殿の慈善会の帰り道で。


 リリアナの名は、静かに傷つけられていった。


 かつて彼女を「優しい」「可憐」「王太子殿下を癒やす花」と呼んでいた口が、今度は「不安定」「危うい」「姉に感化された」と言い始める。


 同じ涙。

 同じ震える声。

 同じ柔らかさ。


 昨日までは美徳だったものが、今日は不安材料になる。


 その報告を受け取ったとき、リリアナは王妃宮の小執務室で、未共有事項一覧の追記をしていた。


 マルタが、いつもより少し慎重に紙を差し出す。


「リリアナ様。社交界の反応です」


「はい」


 リリアナは受け取った。


 読む前から、良い内容ではないことは分かった。


 マルタの表情が、ほんの少しだけ硬かったからだ。


 紙には、淡々とした文字で噂の内容が並んでいた。


『リリアナ様、姉君の影響を強く受けているとの声あり』


『王太子妃候補として情緒面に不安があるとの評』


『姉妹そろって王宮内秩序を乱す存在との言説』


『王太子殿下との婚約再検討を求める声、一部保守派にて発生』


 最後の行で、リリアナの指が止まった。


 婚約再検討。


 胸の奥に、冷たいものが落ちる。


 自分はもう、王太子妃候補として見られていないのかもしれない。


 いや。


 それ以前に、自分は本当にその椅子に座りたいのか、まだ分からない。


 分からないのに、いざ揺らされると怖い。


 その矛盾が情けなかった。


「……やっぱり、こうなりますよね」


 リリアナは小さく言った。


 マルタは静かに答える。


「予想はされていました」


「分かっていても、痛いです」


「はい」


「私、可憐と言われるのも嫌になっていたのに、不安定と言われると傷つくのですね」


「当然です」


 リリアナは、少しだけ笑った。


「最近、みなさん当然と言ってくださるので助かります」


「感情は矛盾します。矛盾したまま記録して構いません」


「はい」


 リリアナは記録帳を開いた。


 手は震えている。


 だが、書き始めた。


『社交界反応。リリアナ、姉の影響を受け不安定との評。王太子妃候補として不安との声。婚約再検討論あり。読んで傷ついた。怖い。だが、文を出したこと自体は撤回しない』


 最後まで書くと、少し息が整った。


 撤回しない。


 怖いけれど、撤回しない。


 そのとき、扉が勢いよく開いた。


 普段ならあり得ない音だった。


 リリアナもマルタも顔を上げる。


 入ってきたのは、アデルだった。


 護衛も側近も後ろにいたが、彼の足取りが速すぎて追いつけていない。


 アデルの顔は、明らかに怒っていた。


 リリアナは思わず立ち上がる。


「殿下?」


「読んだか」


 アデルは手に持っていた報告書を机に置いた。


 おそらく同じ内容だ。


 リリアナは頷いた。


「はい」


「君を不安定だと」


「書いてありました」


「王太子妃候補として不適格だと」


「そこまでは、まだ直接には」


「同じだ」


 アデルの声が硬い。


 リリアナは胸がざわついた。


 怒ってくれている。


 それは嬉しい。


 でも、危ない。


 この怒り方を、彼女は知っている。


 あの夜、アデルは自分を守るために怒った。


 リリアナが傷つけられたと思い込み、セレスティアを断罪した。


 その怒りと、少し似ている。


「殿下」


 リリアナは、静かに呼んだ。


「私は王太子府として抗議を出す」


 アデルは言った。


「君を不安定だと評する者たちに、王太子妃候補への侮辱として」


「お待ちください」


 リリアナの声は震えた。


 だが、はっきりしていた。


 アデルが止まる。


「なぜだ」


「私を守る言葉で、また誰かを切り捨てないでください」


 小執務室が静まり返った。


 アデルの目が揺れる。


「私は、君を」


「はい。守ろうとしてくださっているのは分かります」


 リリアナは言った。


「それは嬉しいです。嬉しいからこそ、危ないです」


「危ない?」


「殿下が私を守るために怒ってくださると、私はまた、その怒りに隠れたくなります」


 アデルは言葉を失った。


 リリアナは続けた。


「昔の私なら、きっと泣いていました。殿下が怒ってくださるのを待っていました。そうすれば、自分で言わなくてよかったから」


「リリアナ」


「でも、それではまた同じです」


 リリアナは報告書を指さした。


「私が不安定だと言われたことは、傷つきました。でも、完全に間違いとも言えません」


「違う」


 アデルが即座に言う。


 リリアナは首を振った。


「いいえ。私は不安定です」


「君は」


「私は、ずっと守られる役として扱われてきました。殿下の心的安定に良い影響を与える存在として記録されていました。泣けば誰かが助けてくれる場所にいました。今、その場所から出ようとしている途中です。安定しているはずがありません」


 アデルは黙った。


 リリアナの声は、少しずつ落ち着いていく。


「だから、私を不安定だと言う人をただ罰しても、何も変わりません」


「では、どうすればいい」


 アデルの声は低かった。


 怒りを抑えている。


 抑えようとしている。


 リリアナは、それを見て少しだけ胸が痛んだ。


 この人も、変わろうとしている。


 間違えながら。


「事実を出してください」


「事実」


「はい。私は情緒不安定だから危険なのではありません。過去に、情緒的安定要素として扱われていた。その記録があります」


 マルタが静かに頷いた。


 リリアナは続けた。


「私は今、その役割から出ようとしている途中です。だから揺れます。でも、その揺れを理由に私の言葉を消さないでください。そう書いてください」


 アデルは、長く息を吐いた。


 怒りの行き場を変えるように。


「君は、また記録で返すのだな」


「はい」


「本当に、セレスティアに似てきた」


 リリアナは少し苦笑した。


「似ているかどうかは、まだ保留にしてください」


「そうだったな」


 アデルは椅子に座った。


 そして、マルタへ視線を向ける。


「紙を」


 マルタはすぐに白紙を用意した。


 アデルはペンを取った。


 だが、すぐには書かない。


 以前のように、怒りのまま断罪文を作ることはできない。


 リリアナが隣に座る。


「一緒に考えてもよろしいですか」


「もちろんだ」


 その言葉に、リリアナは少しだけ目を伏せた。


 もちろん。


 以前なら、殿下がそう言うだけで胸が満たされたかもしれない。


 今は、その言葉を作業として受け取る。


 嬉しい。


 でも、作業をする。


「まず、私を守る文ではなく」


「事実の文」


 アデルが続けた。


「はい」


 リリアナは頷いた。


「それから、私を王太子府の飾りにしないでください」


「分かった」


「可憐でも、安定でも、不安定でもなく、現在再教育と記録確認を進めている当事者として」


 アデルは、少しだけ目を見開いた。


「当事者」


「はい。私は、当事者です」


 その言葉を口にすると、胸が熱くなった。


 可憐な花でも、王太子の癒やしでも、姉の代わりでもなく。


 当事者。


 リリアナは、自分でその言葉を記録帳に書き留めた。


 アデルは白紙に書き始めた。


『王太子府より。

 リリアナ・レイノルド嬢に関する近時の言説について、以下を記録する。

 同嬢は現在、王妃宮補佐教育を本人意思のもとで再設計し、過去の記録確認に参加している。

 過去、同嬢が“王太子殿下の心的安定に良好な影響を及ぼす存在”として扱われていた記録が確認されている。

 現在の発言や記録行為を、単に情緒不安定と評して退けることは、その過去の扱いを再び繰り返すものである』


 リリアナは読みながら、胸が詰まった。


 自分の過去が書かれている。


 恥ずかしい。


 でも、必要だ。


「続きは」


 アデルは言った。


「君の言葉を入れたい」


「私の?」


「王太子府の言葉だけでは、また君を説明する形になる」


 リリアナは少し考えた。


 そして、ゆっくり言った。


「私は不安定ではない、とは言いません」


 アデルはペンを構える。


「はい」


「私は今、自分が何を知らずにいたのかを見ている途中です。揺れないはずがありません」


 アデルは書く。


「でも、揺れていることを理由に、私の言葉を取り上げないでください」


 ペンの音が止まった。


 アデルはその一文を見つめる。


 それは、リリアナ自身の言葉だった。


 弱い。


 でも強い。


 いや、弱さを隠していないからこそ強い。


「入れる」


 アデルは言った。


 リリアナは頷いた。


「お願いします」


 声明は、王太子府と王妃宮の連名ではなく、二つの文書として出された。


 一つは王太子府による事実記録。


 もう一つは、リリアナ本人の短い言葉。


『私は今、自分が何を知らずにいたのかを見ている途中です。揺れないはずがありません。

 でも、揺れていることを理由に、私の言葉を取り上げないでください』


 その一文は、王都に静かな衝撃を与えた。


 可憐な妹が、弱さを隠さずに言葉を書いた。


 強がらず、泣き言にもせず。


 揺れている。


 でも、言葉を取り上げるな。


 それは、セレスティアの言葉とは違う響きだった。


 セレスティアの文が刃のように整っているなら、リリアナの文は震える手の温度を残していた。


 若い令嬢たちの間で、その文はすぐ広がった。


「揺れないはずがありません、ですって」


「分かるわ」


「怖いのに、言っているのね」


「私も、父に言われたの。感情的になっているだけだって」


「感情があると、問いまで無効にされるのよね」


 一方、保守派はさらに苛立った。


「情緒不安定を自ら認めたようなものではないか」


「王太子府はなぜそれを擁護する」


「殿下はリリアナ嬢に甘すぎる」


「いや、セレスティア嬢の影響で王太子府まで記録だ当事者だと言い始めたのだ」


 反発は強くなった。


 だが、リリアナは初めて、言われることを完全には恐れなかった。


 怖い。


 もちろん怖い。


 けれど、自分の文が残っている。


 そのことが、彼女を少し支えた。


 北方辺境伯家の王都屋敷にも、その声明は届いた。


 セレスティアはリリアナの文を読み、長いあいだ黙っていた。


 ノアは何も言わない。


 セレスティアは、ゆっくり紙を置いた。


「……あの子の言葉ですね」


「はい」


「私とは違う」


「はい」


「弱さが、そのまま残っている」


「そう見えます」


「でも、逃げていない」


 セレスティアの声は少し震えていた。


 リリアナが自分の言葉で立っている。


 姉の代わりではなく。

 姉の影でもなく。


 自分の揺れを、自分のものとして書いている。


「私は、少し羨ましいです」


 思わず口から出た。


 ノアが彼女を見る。


「羨ましい?」


「はい。私は、こんなふうに弱さをそのまま書けませんでした」


「あなたは別の書き方をしてきた」


「そうですね」


 セレスティアは小さく笑った。


「姉妹でも、言葉は違うのですね」


「違っていい」


「はい」


 彼女はリリアナへの短い返事を書いた。


『リリアナへ。

 あなたの言葉を読みました。

 揺れていることを隠さず、それでも言葉を取り上げないでほしいと書いたことを、私は尊重します。

 私の言葉とは違う、あなたの言葉でした。

 セレスティア』


 今回は、字のことは書かなかった。


 書かなくてもいいと思った。


 その夜、王妃宮でリリアナはセレスティアからの返書を読んだ。


『私の言葉とは違う、あなたの言葉でした』


 その一文を見た瞬間、彼女は静かに泣いた。


 大きな声は出さなかった。


 ただ、涙が落ちた。


 マルタが布を差し出す。


「よかったですね」


「はい」


 リリアナは泣きながら笑った。


「私の言葉だと、お姉様が」


「はい」


「私、姉の真似ではなかったのですね」


「ええ」


 リリアナは手紙を丁寧に畳んだ。


 そして記録帳に書いた。


『姉より返書。私の言葉とは違う、あなたの言葉でした、と。泣いた。でも嬉しい。今日は閉じないで、少しだけ泣く』


 マルタはそれを見て、何も言わなかった。


 感情の記録も必要だ。


 そう思ったからだ。


 だが、その静かな夜の外側で、王都の声はさらに荒れていた。


 リリアナの文は、一部の若い女性たちに強く響いた。


 同時に、保守派には新たな材料を与えた。


 王太子妃候補が揺れていると自ら認めた。


 ならば、その椅子は本当にふさわしいのか。


 王妃宮にも、王太子府にも、その問いは届き始めていた。


 そして王妃エレオノーラは、静かにその報告を読んでいた。


 寝台の上で、疲れた顔をしながら。


「マルタ」


「はい、陛下」


「そろそろ、避けられませんね」


 マルタは表情を引き締めた。


「王太子妃候補の件でございますか」


「ええ」


 王妃は目を閉じた。


「リリアナを守るためにも、アデルを逃がさないためにも、そしてセレスティアを二度とその椅子に縛らないためにも」


 しばらく沈黙が落ちる。


 王妃は、静かに言った。


「婚約そのものを、見直す時期です」


 その言葉は、まだ誰にも告げられていない。


 けれど、王宮の古い椅子がまた一つ、音を立てて揺れ始めていた。

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