第49話 リリアナは、初めて姉の代わりではなく姉の隣に立った
リリアナ・レイノルドは、その朝、鏡の前で長い時間を過ごしていた。
髪飾りを選ぶためではない。
ドレスの色を迷うためでもない。
自分の顔が、どんな顔をしているのかを確かめるためだった。
鏡の中の少女は、以前より少し痩せて見えた。
目元には疲れがあり、頬も心なしか青い。
可憐。
少し前まで、誰もがそう言ってくれた。
リリアナ様は可憐だ。
優しい。
柔らかい。
王太子殿下の心を癒やす方だ。
その言葉に、リリアナは安心していた。
姉のように完璧でなくてもよい。
姉のように何でもできなくてもよい。
自分には、自分の価値がある。
そう思えたからだ。
けれど今、その言葉の奥にあったものを知ってしまった。
王太子殿下の情緒的安定に資する存在。
王妃宮実務の負荷をかけず、社交上の交流を優先。
優しい妹。
守られる花。
可憐という言葉は、ときに柔らかな檻になる。
そして、その檻の中でリリアナは、姉を傷つけた。
鏡の前で、彼女は小さく息を吸った。
「……今日も、閉じない」
声に出してから、机に向かった。
白紙が置かれている。
何度も書き始めては、破り捨てた紙が横に積まれていた。
姉を守りたい。
だが、姉を代弁してはいけない。
姉の言葉を他人のものにするなと言いたい。
けれど、その言葉さえ、自分が姉の代わりに怒っているように見えるかもしれない。
難しい。
難しすぎて、逃げたくなる。
昔なら、泣いていただろう。
そして誰かが慰めてくれた。
父か、アデルか、あるいは姉が。
でも今は、自分で書く。
汚い字でも。
震える字でも。
リリアナはペンを取った。
『私は、姉を代弁しません』
最初の一文を書いた瞬間、胸が少し痛んだ。
代弁しない。
それは、姉を守らないという意味ではない。
でも、そう読まれるかもしれない。
それでも、書く。
『ただ、姉が自分の言葉で条件を出し、記録を確認し、声明に署名している姿を見ています』
姿を見ている。
それなら言える。
リリアナ自身が見たことだから。
『姉の言葉を、北方辺境伯閣下のものとして扱うことも、姉の意思を消す行為です』
ここで手が震えた。
強い。
自分にこんなことを書く資格があるのか。
姉の意思を消してきた側にいた自分が。
リリアナは、ペンを置きかけた。
そのとき、机の端に置いてあったセレスティアからの手紙が目に入った。
『記録は、罰ではなく、次に同じことをしないために使ってください』
リリアナは唇を噛んだ。
そうだ。
これは罰ではない。
自分を責めるためだけに書くのではない。
次に、同じことをしないために書く。
リリアナは続きを書いた。
『私は過去に姉の言葉を聞かず、傷つけました。だから今度は、姉の言葉を他人のものにしないでください』
書き終えた瞬間、息が切れた。
たった数行なのに、長い階段を上ったようだった。
そこへ扉が叩かれた。
「リリアナ様。マルタでございます」
「どうぞ」
マルタが入ってきて、机の上の紙を見た。
「書けましたか」
「はい。たぶん」
「読んでも?」
「お願いします」
マルタは紙を手に取り、ゆっくり読んだ。
リリアナはその間、指先を握りしめていた。
何を言われるだろう。
感情的すぎる。
未熟だ。
王妃宮の文としては整っていない。
そう言われるかもしれない。
けれどマルタは読み終えると、静かに紙を戻した。
「よろしいと思います」
リリアナは目を瞬いた。
「本当に?」
「はい」
「短すぎませんか」
「短い方が届くこともあります」
「私、また自分の過ちを書いてしまいました」
「必要な範囲です」
リリアナは、ほっとしたような、怖くなったような顔をした。
「出したら、私も何か言われますよね」
「言われます」
「王太子妃候補なのに、とか」
「おそらく」
「情緒不安定だ、とか」
「その可能性も」
「……少しは否定してください」
マルタは表情を変えずに言った。
「嘘は申し上げません」
リリアナは困ったように笑った。
「マルタ様、優しくないです」
「今日は優しさより準備が必要です」
「はい」
「出しますか」
リリアナは、紙を見た。
自分の字。
まだ、少し乱れている。
でも読める。
姉に褒められた。
字は読みやすくなってきました、と。
それだけで、泣きそうになった。
「出します」
彼女は言った。
「怖いですが、出します」
マルタは深く頷いた。
「では、王妃宮の記録写しとして扱います。ただし、これはリリアナ様ご本人の文です。王妃宮が代筆した形にはしません」
「はい」
「よろしいですね」
「はい。私の言葉です」
そう言った瞬間、リリアナは胸の奥で何かが小さく鳴った気がした。
私の言葉。
姉だけではない。
自分にも、それが必要だった。
王妃宮からリリアナの文が出されたのは、その日の午前だった。
王妃宮の封蝋と、リリアナ本人の署名。
そして書記局の受領印。
その組み合わせは、王都の人々に少し奇妙に見えた。
王太子妃候補の妹が、姉を代弁しないと宣言した。
自分の過ちまで書いた。
しかも、姉の言葉を北方辺境伯のものにするな、と。
噂はすぐに広がった。
ある茶会では、若い令嬢たちが目を丸くした。
「リリアナ様が、こんな文を?」
「可憐な方だと思っていましたのに」
「可憐な方でも、言葉は持てるでしょう」
「でも、自分の過ちまで書くなんて……」
「そこが、私はすごいと思います」
別の場所では、年配の夫人が眉をひそめた。
「妹君まで姉に感化されてしまったのね」
「王太子妃候補としては、不安が残りますわ」
「姉妹そろって王宮を揺らすとは」
その言葉は、すぐに王妃宮へ戻ってきた。
リリアナは報告を読み、顔を少し白くした。
マルタが尋ねる。
「お座りになりますか」
「立っていられます」
「無理をしていませんか」
「しています」
「では座りましょう」
「はい」
素直に椅子へ腰を下ろすと、少しだけ足が震えていることに気づいた。
怖い。
やはり怖い。
人に言われるのは怖い。
今まで「優しい」「可憐」と言われていた場所から、「不安定」「感化された」と言われる場所へ落ちるのは、痛い。
リリアナは自分の手を見た。
「マルタ様」
「はい」
「私、こんなに弱いのに、よく強そうなことを書きましたね」
「弱いまま書いたのでしょう」
「弱いままでも、書いてよいのですか」
「書いてよいと思います」
「お姉様も、そうだったのでしょうか」
マルタは少し黙った。
「セレスティア様は、弱さを見せる場所が少なすぎました」
「……はい」
「ですから、リリアナ様は弱さを隠しすぎない方がよいでしょう」
「でも、弱いとまた守られるだけになります」
「弱いことと、守られるだけになることは別です」
リリアナは、思わず笑った。
「マルタ様まで、“別”を使うようになりましたね」
「便利ですので」
「便利な言葉は危険では?」
「使い方次第です」
二人の間に、小さな笑いが生まれた。
その笑いに、リリアナは少し救われた。
午後、アデルが王妃宮へ来た。
表情は硬い。
リリアナの文が出たことで、王太子府にも問い合わせが殺到しているらしい。
リリアナは立ち上がろうとしたが、アデルが手で制した。
「そのままでいい」
「殿下」
「文を読んだ」
リリアナは少し俯いた。
「はい」
「強い文だった」
「怖かったです」
「今も?」
「はい」
アデルは、少しだけ黙った。
「君は、私より先にできた」
「何をですか」
「自分の過ちを書くことを」
リリアナは驚いて顔を上げた。
アデルは静かに続ける。
「私は記録の中では認めた。だが、自分の言葉として公に出すことはまだできていない」
「殿下は王太子です。言葉の重さが違います」
「それは言い訳にもなる」
その言葉には、自分への厳しさがあった。
リリアナは、どう返せばよいか迷った。
昔なら、すぐに慰めていただろう。
殿下は悪くありません。
そう言えば、アデルは少し楽になったかもしれない。
自分も、守られる場所に戻れたかもしれない。
でも今は、それを言わない。
「では、殿下も書けるときに書いてください」
リリアナは言った。
「今すぐではなくても」
アデルは彼女を見た。
「責めないのか」
「責めたい気持ちもあります」
正直に言うと、アデルは少し目を見開いた。
リリアナは続けた。
「でも、責める言葉を私が急いで出すと、また殿下に何かを求める形になる気がします。だから、今は記録します」
「君は本当に……」
アデルは小さく息を吐いた。
「変わったな」
リリアナは首を振った。
「強くなったのではありません。今まで弱いふりをしていた自分が、恥ずかしくなっただけです」
「それを言えるのは、強さだと思う」
優しい言葉だった。
胸が少しだけ温かくなる。
だが同時に、少し怖かった。
その温かさに寄りかかりたくなる。
リリアナは一度視線を落とし、それからアデルを見た。
「殿下、そういう優しい言葉はまだ少し危険です」
アデルが瞬いた。
「危険?」
「はい。嬉しくなるので」
正直に言うと、顔が熱くなった。
アデルも一瞬言葉を失い、それから苦笑した。
「そうか」
「はい。だから、嬉しいと思ったことだけ記録しておきます。すぐに意味を決めません」
「私たちは、何でも記録するようになったな」
「恋より台帳ですから」
言ってから、リリアナは少し笑った。
アデルも笑った。
ほんの少し。
けれど、その笑いは甘い逃避ではなかった。
距離を測るための笑いだった。
そのころ、北方辺境伯家の王都屋敷では、セレスティアがリリアナの文を読んでいた。
何度読んでも、同じところで胸が痛む。
『私は過去に姉の言葉を聞かず、傷つけました。だから今度は、姉の言葉を他人のものにしないでください』
セレスティアは、紙を膝の上に置いた。
「リリアナが、また自分を責めすぎないとよいのですが」
向かいのノアが静かに言う。
「返事を書きますか」
「はい」
「今度は止めません」
「なぜですか」
「これは、あなたが返したい言葉でしょう」
セレスティアは、少しだけ驚き、そして頷いた。
「はい」
白紙を出す。
ペンを持つ。
『リリアナへ。
あなたの文を読みました。
私を代弁しない、と書いてくれたことを受け取ります。
あなたが自分の過ちを書いたことは、きっと苦しかったと思います。
ただし、私を守るために、あなた自身を過度に罰しないでください。
記録は、罰ではなく、次に同じことをしないために使ってください』
ここまでは、昨夜考えた言葉に近い。
最後に少し迷った。
姉として何を言えるだろう。
許す、とはまだ書けない。
大丈夫、とも違う。
セレスティアは、少し考えた末に書き足した。
『あなたがあなたの言葉で書いたことを、私は覚えておきます』
そして、さらに一文。
『字は読みやすくなってきました』
書き終えると、ノアが少しだけ口元を緩めた。
「最後の一文は、効きそうですね」
「厳しいですか」
「嬉しいと思います」
「そうでしょうか」
「はい」
セレスティアは封をした。
妹への手紙。
少し前なら、こんな手紙を書く日が来るとは思わなかった。
同じ日の夕方、リリアナはその返事を受け取った。
読み終えた瞬間、涙が落ちた。
「字は読みやすくなってきました……」
そこか、とマルタは思ったが、口には出さなかった。
リリアナは手紙を胸に抱きかけて、途中で止めた。
そして、そっと机に置く。
「抱きしめてもよろしいのでは?」
マルタが言うと、リリアナは涙目で首を振った。
「今抱きしめたら、泣きすぎて読めなくなります」
「なるほど」
「でも、嬉しいです」
「記録しますか」
「はい」
リリアナは泣きながら帳面を開いた。
『姉より返書。私を代弁しないと書いたことを受け取る、と。過度に自分を罰しないように、と。字は読みやすくなってきた、と。嬉しい。泣いた』
最後の二文字を書いてから、リリアナは顔を赤くした。
「これは記録としてどうなのでしょう」
マルタは真面目に答えた。
「大変よろしいと思います」
「本当ですか」
「感情の記録も必要です」
リリアナは、少しだけ笑った。
しかし、その静かなやり取りの外では、噂がさらに濁っていた。
リリアナの文に対して、保守派は早速反応した。
妹まで姉に感化された。
リリアナ嬢は情緒が不安定だ。
王太子妃候補として、このように公に姉の騒動へ関わるのはいかがなものか。
王太子府にも、その声は届いた。
アデルは報告書を読み、机の上に置いた。
表情は険しい。
ディランの件もまだ終わっていない。
セレスティアの言葉を疑う噂も続いている。
そこへ今度はリリアナだ。
「殿下」
側近の一人が言った。
「リリアナ様については、少し距離を置かれた方がよろしいかと」
アデルは顔を上げた。
「距離?」
「はい。王太子妃候補としての立場がある中で、セレスティア嬢をめぐる発言を続けられるのは危険です。殿下が近くにおられると、王太子府の見解と誤解される恐れが」
アデルはしばらく黙った。
言っていることには、一理ある。
リリアナの文は彼女自身のものだ。
だが、王太子妃候補である以上、王太子府と完全に切り離されるわけではない。
彼女の言葉も、また誰かに利用される。
それを考えれば、慎重になる必要はある。
だが。
アデルは低く言った。
「彼女の言葉を危険だから黙らせる、という方向には進まない」
「しかし」
「必要なのは距離を置くことではなく、彼女の言葉が彼女のものだと明確にすることだ」
側近は口を閉ざした。
アデルは窓の外を見た。
王宮の庭は静かだ。
だが、あの静けさの下で、どれだけの言葉が押し込められてきたのだろう。
セレスティアだけではない。
リリアナも。
自分も。
多くの者が、役割に合う言葉だけを許されていた。
「リリアナを守るために黙らせることはしない」
アデルは言った。
「ただし、彼女を王太子府の代弁者にもしない。その線引きを文書化する」
側近は不満そうだった。
だが、もう以前のように簡単には反論しなかった。
王太子府もまた、変わり始めていた。
その夜、王都のある集まりでは、リリアナの名が冷たく語られていた。
「リリアナ嬢まで、姉と同じようなことを」
「王太子妃候補としては、あまりに不安定ですな」
「姉妹そろって、王宮に波風を立てる」
「やはり王太子殿下の婚約は、見直しが必要では?」
その言葉は、まだ小さな囁きだった。
だが、確実に広がる気配を持っていた。
リリアナは、まだ知らない。
自分が姉の隣に立とうとしたことで、今度は自分の椅子が揺れ始めていることを。
そしてアデルも、まだ知らない。
リリアナを守るために怒る日が、すぐそこまで来ていることを。




