第48話 ノア・ヴァレンティアは、彼女を守らないと決めた
ノア・ヴァレンティアが何も言わないことは、王都の人々にとって都合が悪かった。
誰かを噂にするとき、人は分かりやすい役を求める。
悪役。
庇護者。
恋人。
利用者。
救世主。
セレスティア・レイノルドのそばにいる北方辺境伯は、そのどれにも簡単には収まらなかった。
彼は彼女を自邸に置いている。
けれど、彼女を代弁しない。
王宮へ出入りする手続きを整えている。
けれど、彼女の名で声明を出さない。
彼女の書簡に確認印を添える。
けれど、その内容は彼女自身のものだと言い続ける。
その沈黙が、王都の人々を苛立たせた。
「北方辺境伯閣下は、結局どちらなのかしら」
ある茶会で、伯爵夫人が扇の陰で囁いた。
「セレスティア様を守っているの? それとも利用しているの?」
「本当に守っているなら、もっとはっきり否定なさればよいのに」
「でも、否定なさらないということは、やはり何かあるのでは?」
「逆に、何も言わないことでセレスティア様だけを矢面に立たせているようにも見えますわ」
そこへ、若い令嬢が小さく口を挟んだ。
「でも、セレスティア様はご自分の言葉で書きたいのではありませんか」
年配の夫人たちの視線が、すっと彼女へ向く。
令嬢は慌ててカップへ視線を落とした。
「いえ、ただ……ノア閣下が代わりに語れば、それはそれでまた、セレスティア様の言葉が消えてしまうのではと」
夫人の一人が、薄く笑った。
「若い方は、最近すぐそういうことをおっしゃるのね」
それだけで会話は終わった。
けれど、その令嬢の言葉は、茶会の隅で小さく残った。
ノアの沈黙は、冷たさなのか。
それとも、彼女の言葉を守るための距離なのか。
王都は答えを欲しがった。
そして、答えがないとき、人は勝手に答えを作る。
その日の午後、北方辺境伯家の王都屋敷にも報告が届いた。
セレスティアは、机の前でその紙を読んでいた。
内容は、今度は自分ではなくノアに関するものだった。
『ノア・ヴァレンティア辺境伯は、セレスティア嬢を庇護下に置きながら公の場で強い擁護を行っていない。
一部では、同嬢を政治的に利用しているのではとの声あり。
また別の一部では、彼女を矢面に立たせている冷淡な保護者との批判あり』
セレスティアは、読み終えてからゆっくり顔を上げた。
ノアは向かいで別の報告書を読んでいる。
いつも通りの表情だった。
けれど、いつも通りに見えることと、何も感じていないことは同じではないと、最近のセレスティアは知り始めていた。
「閣下」
「はい」
「今度は、閣下が言われています」
「そのようですね」
あまりに静かな返事だった。
セレスティアは、少しだけ苛立ちにも似た感情を覚えた。
「そのようですね、で済ませるのですか」
「怒った方がよいですか」
「……いえ、そういうことではありません」
彼女は報告書を机に置いた。
「私のために沈黙してくださっているのに、その沈黙まで悪く言われるのは」
「想定していました」
「想定していたのですか」
「はい」
ノアは紙を閉じた。
「私があなたを代弁しないと決めた時点で、こういう見方は出ると思っていました」
セレスティアは言葉に詰まった。
想定していた。
なら、彼は分かっていてその位置に立ったのだ。
自分の言葉を奪わないために。
けれど、その代償として自分が冷たい男、あるいは利用者として語られることを引き受けた。
「どうして言わなかったのですか」
「言えば、あなたが気にすると思ったので」
「今、とても気にしています」
「でしょうね」
「閣下」
思わず声が強くなる。
ノアは、少しだけ目を伏せた。
「すみません」
その謝罪は短かった。
だが、誤魔化しではなかった。
「あなたを守るためだと言えば、またあなたに重さを渡す気がしました」
「でも、知らないまま守られるのも嫌です」
セレスティアは言った。
自分で言ってから、胸が痛んだ。
守られる。
守られること自体が嫌なのではない。
ただ、知らないうちに守られ、知らないうちに誰かが傷つき、あとでそれを知るのは嫌だった。
それは、リリアナを守るために自分が背負わされていた構図と、どこかで似てしまう。
ノアも、それに気づいたのだろう。
彼は静かに頷いた。
「今後は、私に向く批判も共有します」
「お願いします」
「はい」
会話はそこで一度途切れた。
セレスティアは、報告書を見つめる。
利用している。
守る気がない。
冷淡な保護者。
どれも腹立たしい。
だが同時に、少しだけ分かるところもあるのが嫌だった。
外から見れば、確かにそう見えるかもしれない。
彼女は北方辺境伯家に滞在している。
声明には北方辺境伯家の確認印がある。
ノアは代弁しない。
事情を知らない者にとっては、沈黙は何色にも見える。
「閣下は、弁明なさらないのですか」
セレスティアが尋ねると、ノアは少し考えた。
「弁明はできます」
「では」
「ただ、私が“彼女は私に操られていない”と強く言えば言うほど、あなたの言葉を私が保証する形になる」
セレスティアは黙った。
その通りだった。
ノアが保証する。
それは一見、助けになる。
だが同時に、セレスティアの言葉はノアの信用の下に置かれる。
彼が認めたから本物。
彼が保証したから彼女は自由。
それでは、また違う。
「では、どうなさるのですか」
「必要な場で聞かれたら答えます」
「何と?」
ノアは、淡々と答えた。
「私は彼女を守るために発言しません、と」
セレスティアは眉を寄せた。
「それは……かなり誤解されませんか」
「されるでしょう」
「閣下」
「続きがあります」
「続き?」
「彼女の言葉を、私の庇護の下に置かないためです。必要なら私は証人になりますが、代弁者にはなりません」
セレスティアは、その言葉を胸の中で繰り返した。
証人にはなる。
代弁者にはならない。
それは冷たくもあり、優しくもあった。
いや、優しいというより、正確だった。
正確だから、痛い。
「守らない、という言葉に、一瞬傷つきました」
セレスティアは正直に言った。
ノアは、すぐに頷いた。
「そうだと思いました」
「なら、なぜ」
「あなたを私の庇護物にしたくなかった」
静かな言葉だった。
だが、まっすぐ胸に届いた。
庇護物。
守られるもの。
誰かの手の中に置かれるもの。
自分の言葉を、庇護者の名で保証されるもの。
それは、セレスティアが必死に抜け出そうとしている場所だった。
「……ありがとうございます」
彼女は言った。
「少し痛かったですが、たぶん必要でした」
「痛いことを言いました」
「はい」
「すみません」
「謝罪は受け取ります」
そう答えてから、セレスティアは少しだけ驚いた。
自然に言えた。
ノアの謝罪は受け取れる。
それは、傷つけ方が違うからかもしれない。
彼は彼女を自分の都合の形に押し込めようとしない。
間違えたときも、言い訳を長くしない。
だから、受け取れる。
アデルや父の謝罪とは、まだ違う。
その違いに気づいて、胸が少しだけ苦しくなった。
「セレスティア殿」
「はい」
「私の噂について、あなたが何か書く必要はありません」
「なぜ先に言うのですか」
「書こうとする顔をしているので」
セレスティアは目を逸らした。
「……少しだけ」
「書かなくていい」
「でも」
「私の名誉は私が扱います」
その言葉に、セレスティアは口を閉ざした。
私の名誉は私が扱う。
それは、彼女が言い続けてきたことに近い。
セレスティアの名はセレスティアが扱う。
なら、ノアの名はノアが扱うべきだ。
「そうですね」
彼女は小さく言った。
「閣下の名誉は、閣下のものです」
「はい」
「でも、心配はします」
「それは受け取ります」
「心配することと、代わりに背負うことは別、ですね」
ノアの口元がわずかに緩んだ。
「はい」
「最近、私はずっと別ばかり学んでいます」
「大事なことです」
セレスティアは、少しだけ笑った。
同じころ、王宮の廊下では、ノア本人が数人の貴族に囲まれていた。
彼は王妃宮に記録写しの確認で訪れていた帰りだった。
相手はヴァルム侯爵と、その周辺の貴族たち。
明らかに待っていたのだろう。
「辺境伯閣下」
ヴァルム侯爵が穏やかに声をかけた。
「少しよろしいでしょうか」
「長くなければ」
ノアは立ち止まった。
表情は変わらない。
侯爵は微笑んだ。
「近頃、セレスティア・レイノルド嬢について、さまざまな噂が出ております」
「そのようですね」
「閣下もお困りでしょう。庇護している令嬢が、王都中を騒がせている」
「彼女は騒がせようとしているわけではありません」
「もちろん。ですが、影響は出ております」
影響。
また、その言葉。
ノアは黙って侯爵を見る。
侯爵は続けた。
「そこで伺いたい。セレスティア嬢の一連の声明に、閣下はどれほど関与されているのですか」
「確認印は押しています」
「文面には?」
「助言を求められた場合は答えます」
「では、やはり助言を」
「助言を受けることと、言葉を奪われることは違います」
ノアは、セレスティアが書いた言葉をそのまま返した。
侯爵の目がわずかに細くなる。
「それはセレスティア嬢の文にもありましたな」
「ええ。正確な表現です」
「閣下は、彼女を守るおつもりがあるのですか」
周囲の空気が、少し張りつめた。
聞きたかったのはそこなのだろう。
守るのか。
守らないのか。
利用するのか。
手放すのか。
ノアは、少しも迷わなかった。
「私は彼女を守るために発言しません」
周囲がざわめいた。
ヴァルム侯爵の眉が上がる。
「それはまた、冷たいお言葉だ」
「彼女の言葉を、私の庇護の下に置かないためです」
ノアは続けた。
「必要なら私は証人になります。彼女が自分で文を書き、確認し、署名している場にいた者として。しかし、代弁者にはなりません」
「庇護者でありながら、代弁しないと」
「はい」
「では、彼女が傷ついたときも?」
ノアは、少しだけ間を置いた。
「傷つくことを全て代わりに受けることはできません」
「やはり冷たい」
「冷たく見えるでしょう」
「認めるのですか」
「はい」
ノアは静かに言った。
「ですが、彼女を守るという名で彼女の口を塞ぐ方が、私には冷たいことに思えます」
ヴァルム侯爵の表情から、微笑みがわずかに消えた。
周囲の貴族たちは、判断に迷っている顔をしている。
ノアは頭を下げた。
「失礼します。これ以上は、彼女本人の言葉をご確認ください」
「閣下は、最後まで彼女の後ろに隠れるおつもりですか」
侯爵の声が少し鋭くなる。
ノアは振り返った。
「いいえ」
静かな声。
「私は、彼女の前に立って隠すこともしません」
それだけ言って、ノアは廊下を去った。
そのやり取りは、すぐに王宮内へ広がった。
北方辺境伯は、セレスティアを守らないと言った。
いや、彼女の言葉を守るために代弁しないと言った。
冷たい。
誠実だ。
分かりにくい。
面倒だ。
あれでは令嬢が可哀想。
いや、あれこそ対等ではないか。
意見は割れた。
そして当然、その噂は王妃宮にも届いた。
リリアナは、報告を読んでしばらく考え込んだ。
「守らない、という言葉だけ聞いたら傷つきますね」
マルタが頷く。
「ええ」
「でも、続きまで聞くと……少し分かります」
「どのあたりが?」
「私、ずっと守られる側でした。でも、守られることで何も知らされませんでした」
リリアナは記録帳の表紙を撫でた。
「守ると言われると、嬉しいです。でも、その言葉で見せてもらえないものが増えるなら、それは怖いです」
「よく分かっています」
「はい」
リリアナは少しだけ笑った。
「分かるようになってしまいました」
「良いことです」
「痛いですけど」
「ええ」
そこへアデルが入ってきた。
彼も報告を読んだのだろう。表情が複雑だった。
「ノア閣下は、私には言えなかったことを言った」
リリアナが顔を上げる。
「殿下には?」
「私は、守るという言葉で君を囲っていた」
アデルは静かに言った。
「リリアナを守る。そう言いながら、君が何を知らないのかを見なかった。セレスティアを傷つけても、その言葉で自分を正当化した」
リリアナは何も言えなかった。
アデルは苦笑する。
「だから、ノア閣下の言葉は痛い」
「殿下」
「だが、必要な痛みだ」
リリアナは少し考えてから言った。
「殿下も、最近痛いものばかり見ていますね」
「ああ」
「大丈夫ですか」
その問いに、アデルは一瞬だけ驚いた顔をした。
リリアナが自分を心配した。
依存ではなく、顔色をうかがうのでもなく、ただ人として。
「大丈夫ではない」
アデルは正直に答えた。
「だが、前よりは見えている」
「それなら、記録できます」
「君は本当に記録の人になったな」
「お姉様式です」
リリアナは少しだけ得意げに言った。
二人は、少しだけ笑った。
その笑いは、以前よりずっと静かだった。
同じ夜、北方辺境伯家の屋敷で、セレスティアは王宮でのノアの発言記録を読んでいた。
『私は彼女を守るために発言しません』
やはり、その一文だけ見ると胸が痛む。
けれど続きがある。
『彼女の言葉を、私の庇護の下に置かないためです。必要なら私は証人になりますが、代弁者にはなりません』
セレスティアは、紙をゆっくり畳んだ。
ノアは向かいに座っている。
「傷つきましたか」
ノアが尋ねた。
「少し」
「すみません」
「でも、分かりました」
「はい」
「閣下は、私を守らなかったのではなく、私の言葉の場所を空けてくださったのですね」
ノアは、ほんの少し目を伏せた。
「そうできていればいい」
「できています」
セレスティアは言った。
その声は、思ったよりはっきりしていた。
「少なくとも、私はそう受け取りました」
ノアは静かに息を吐いた。
安堵したようにも見えた。
それが少しだけ、セレスティアには意外だった。
ノアも、不安になるのだ。
自分の言葉が彼女を傷つけることを。
「閣下」
「はい」
「私は、閣下のために声明を書きません」
「はい」
「でも、私の記録には書きます」
「それは?」
「私が、あなたの沈黙をどう受け取ったか」
ノアは少しだけ黙った。
「読ませてもらえますか」
「いつか」
「分かりました」
セレスティアは帳面を開いた。
少し迷ってから、書き始める。
『ノア・ヴァレンティアは、私を守らないと言った。
その言葉は痛かった。
けれど、彼は私を自分の庇護物にしないために、代弁しないことを選んだ。
証人にはなるが、代弁者にはならない。
その距離は寂しく、同時に息ができる』
最後の一文で、手が止まった。
寂しい。
そう感じたのだ。
守られたい気持ちも、確かにある。
でも、息ができる。
この矛盾を、今は消さないでおこうと思った。
セレスティアは帳面を閉じた。
「今日は、もう書きません」
「はい」
「閣下も、今日はもう報告を読まないでください」
ノアが少しだけ眉を上げた。
「私も?」
「はい。閣下の名誉は閣下のものですが、休むことも必要です」
「……分かりました」
「本当に?」
「本当に」
セレスティアは少しだけ笑った。
そして、机の上の報告書を二人分、そっと脇へ寄せた。
その夜、王都ではまだ噂が渦巻いていた。
北方辺境伯は冷たい。
いや、誠実だ。
セレスティア嬢は守られていない。
いや、初めて対等に扱われている。
誰もが勝手に語る。
だが、セレスティアはその夜だけは、新しい声明を書かなかった。
ノアもまた、何も書かなかった。
二人はただ、それぞれの沈黙を選んだ。
黙らされたのではなく。
選んで、黙った。
王都にはまだ、その違いを知る者は少なかった。




