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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第47話 父と古参側近は、彼女を“北方の傀儡”にしたかった

 レイノルド公爵邸の応接室は、昼間でも薄暗かった。


 厚いカーテンが半分だけ引かれ、壁には先祖の肖像画が並んでいる。

 磨かれた銀器。

 重厚な机。

 古い革張りの椅子。


 そこは、家の歴史を客に見せるための部屋だった。


 だが今日、その部屋に漂っているのは誇りではなく、焦りだった。


 グレゴール・レイノルド公爵は、暖炉の前に立っていた。


 火は入っていない。


 それでも彼は、そこから動かなかった。


 目の前の机には、いくつもの写しが置かれている。


 セレスティアの声明。

 王太子府の訂正文。

 王妃宮からの本人確認重視の通達。

 王都に出回った噂の記録。


 悪女ではない。

 才女でもない。

 王妃宮の器でもない。

 反乱の旗でもない。

 慎ましく忠実な令嬢としての名誉回復も望まない。


 そのすべてを、セレスティアは拒んだ。


 父である自分の手の届かない場所で。


「旦那様。王太子府より、ディラン卿がお見えです」


 家令が告げた。


 グレゴールは振り返らずに言った。


「通せ」


 しばらくして、ディランが入室した。


 王太子府の古参側近らしく、礼は整っている。

 だが顔色は硬い。


 彼もまた、焦っていた。


 セレスティアが変えたのは王宮の外だけではない。

 王太子府の中まで、静かに変わり始めている。


 記録を見せろ。

 原本を確認しろ。

 誰が何を知っているのか一覧にしろ。


 王太子府でそんな言葉が日常的に交わされるなど、少し前なら考えられなかった。


「レイノルド公爵閣下」


 ディランは深く礼をした。


「よく来た」


 グレゴールは、ようやく彼を見た。


「王太子府は、ずいぶん賑やかなようだな」


「お恥ずかしい限りです」


「殿下は、まだ台帳を読んでおられるのか」


「はい」


 ディランの声に、隠しきれない苦みが混じった。


「原資料確認、未共有事項一覧、記録訂正。王太子府の通常業務にまで影響が出ております」


「影響、か」


 グレゴールは机の上の紙を一枚取った。


 セレスティアの声明だった。


「この娘は、いつから王宮を動かすほどの言葉を持つようになったのだろうな」


 ディランは答えなかった。


 代わりに、慎重に言った。


「公爵閣下。率直に申し上げます。今のセレスティア嬢の声明は、あまりに政治的に整いすぎています」


 グレゴールの目が細くなった。


「何が言いたい」


「彼女お一人の言葉でしょうか」


 部屋の空気が、少し変わった。


 グレゴールは沈黙した。


 その沈黙は、怒りではない。


 考えている沈黙だった。


 ディランは続ける。


「北方辺境伯家の確認印。書記局への同時送付。王妃宮、王太子府、公爵家への写し。あの手順は、実に隙がありません」


「セレスティアは、もともと手順にはうるさい」


「存じております。ですが、今の彼女は北方辺境伯家の庇護下にあります」


 庇護。


 その言葉は便利だった。


 保護にも聞こえる。

 支配にも聞こえる。


 グレゴールは紙を机に置いた。


「ノア・ヴァレンティア」


「はい」


「あの男は、表向きはセレスティアを代弁しない姿勢を取っています」


「そこが巧妙だと言いたいのか」


「少なくとも、そう見る者はいます」


 ディランは言葉を選んでいる。


 だが、その選び方はすでに方向を持っていた。


 セレスティア本人の言葉を否定するのは難しい。


 彼女の声明は、強い。


 感情だけではない。

 記録があり、筋がある。


 だから、その言葉自体を疑う。


 それは本当に彼女の言葉なのか。


 北方辺境伯が書かせているのではないか。


 傷心の令嬢が、冷静な判断を失っているのではないか。


 その物語なら、彼女の言葉を無力化できる。


 グレゴールは、低く言った。


「お前は、セレスティアが北方辺境伯に操られていると?」


「断定はいたしません」


「便利な言い方だ」


「疑義を呈するだけでも、効果はあります」


 ディランの声は冷静だった。


「今、彼女の言葉は強すぎます。ならば、その言葉の出所に疑いを向ける。彼女が本当に自由意思で発しているのか。北方辺境伯家の政治的意図が混じっていないのか」


 グレゴールは、しばらく無言でディランを見ていた。


 その表情には、嫌悪もあった。


 だが、それ以上に計算があった。


 娘の言葉を疑う。


 父としては、あまりに醜い手だ。


 だが、家長としては使える手でもある。


 セレスティアの言葉がセレスティアのものではないとなれば、本人確認を重んじる王妃宮や王太子府の主張も揺らぐ。


 北方辺境伯家から彼女を離す理由にもなる。


「……娘は、もともと頑固だ」


 グレゴールは言った。


「一度こうと決めれば、容易には曲げない」


「では、なおさら危険です」


「何?」


「傷ついた頑固さに、外部の政治的知恵が与えられれば、王宮にとって非常に扱いづらい存在になります」


 グレゴールは、苦い笑みを浮かべた。


「扱いづらい、か」


 その言葉には、父としての情よりも、支配しきれないものへの苛立ちが滲んでいた。


 ディランは一歩踏み込んだ。


「公爵閣下。セレスティア嬢を公爵家へ戻すことは、今や家の問題だけではありません。王太子府、王妃宮、そして北方辺境伯家の力関係にも関わります」


「北方辺境伯家から引き離せ、と?」


「少なくとも、彼女の発言が北方辺境伯家の影響下にないことを確認する必要がある、という形にはできます」


 グレゴールは机に手を置いた。


「確認」


「はい。強制ではありません。保護確認、判断能力確認、家族との面談。名目はいくつもあります」


「お前は、なかなか嫌なことを考える」


「王太子府に仕える者として、必要なことを考えております」


 その言葉に、グレゴールは少しだけ笑った。


「王太子府に、か。殿下はそれを望むまい」


「殿下は、今は判断が揺れておられます」


「セレスティアの影響で?」


「はい」


 ディランは、初めてはっきりと言った。


「殿下は、セレスティア嬢と北方辺境伯の影響を受けすぎておられます」


 グレゴールは返事をしなかった。


 しかし、その沈黙は同意に近かった。


 王太子府とレイノルド公爵家。


 二つの古い場所が、同じ方向を向き始めていた。


 セレスティアの言葉を奪い返すために。


 いや、奪い返すのではない。


 彼女自身の言葉など、最初から存在しないことにするために。


 その日の夕方、王都に新しい囁きが流れ始めた。


 セレスティア・レイノルドの声明は、本当に彼女自身のものなのか。


 北方辺境伯家の文官が整えているのではないか。


 傷ついた令嬢が、冷静な判断を失い、ノア・ヴァレンティアの政治的駒にされているのではないか。


 最初は、慎重な言い方だった。


 疑問。

 懸念。

 心配。


 悪意は、いつもその顔でやって来るとは限らない。


 時には、心配そうな声をしている。


「セレスティア様、おかわいそうに」


 ある茶会で、侯爵夫人が扇の陰から言った。


「北方辺境伯閣下は立派な方ですけれど、あまりに政治的ですもの」


「でも、セレスティア様ご本人が書かれたのでは?」


「もちろん、そうでしょう。ただ……あのように整った声明を、傷心の令嬢がお一人で次々と出せるものかしら」


「セレスティア様は、もともと実務に長けた方ですわ」


「ええ。でも、今はお疲れでしょう?」


 疲れている。

 傷ついている。

 保護されている。


 それらは事実だった。


 だからこそ、噂は滑らかに広がった。


 事実の周りに、疑いが巻きついていく。


 王妃宮には、その噂がすぐに届いた。


 リリアナは報告を読んだ瞬間、顔を真っ赤にした。


「今度は、お姉様の言葉まで閣下のものにするのですか」


 怒りで声が震えている。


 マルタは静かに報告書を受け取った。


「北方辺境伯家の影響下、ですか」


「お姉様は、自分で書いています」


「ええ」


「閣下が助言しているとしても、それはお姉様の言葉です」


「ええ」


「どうして、そうやってすぐに誰かのものにするのですか」


 リリアナは、記録帳を開いた。


 だが、ペンがなかなか動かない。


 怒りが先に来て、言葉が追いつかなかった。


 アデルも同席していた。


 報告を読んだ彼の表情は、冷えていた。


「ディランだな」


 低い声だった。


 リリアナが顔を上げる。


「殿下?」


「この言い回しは王太子府の古い者が好む。強制ではなく、懸念。否定ではなく、確認。そういう形で相手の言葉を弱める」


 アデルは報告書を机に置いた。


「私にも覚えがある」


 リリアナは、怒りの中で少しだけ痛みを覚えた。


 アデルもまた、そのやり方の中にいた。


 守るため。

 確認するため。

 冷静にするため。


 そう言いながら、誰かの言葉を取り上げる。


「殿下は、どうなさいますか」


 マルタが尋ねた。


 アデルは即答しなかった。


 ここで王太子府として強く否定すれば、またセレスティアを庇護する形になるかもしれない。


 だが黙れば、この噂は広がる。


 セレスティアの言葉が、ノアのものにされる。


 それは、彼女が最も嫌がることだ。


「まず、王太子府内を調べる」


 アデルは言った。


「この噂が王太子府関係者から出たものなら、記録する」


「記録だけでよろしいのですか」


「処分も必要だ」


 アデルの声は硬い。


「ただし、対外的には私がセレスティアの代弁をしてはならない」


 リリアナは、そこで顔を上げた。


「では、私が」


 言いかけて、止まった。


 自分も代弁してはいけない。


 姉の言葉を守りたい。


 だが、守るために自分が姉の言葉を上書きしてしまっては同じだ。


 リリアナは唇を噛む。


「私も、代弁はできません」


 アデルは頷いた。


「そうだ」


「でも、私は見たことなら言えます」


 リリアナの声は震えていた。


 だが、今度は迷いだけではない。


「お姉様がご自分で書いているところを、私は何度も見たわけではありません。でも、王宮で記録を書き、声明に署名し、自分の条件を出したお姉様を見ました」


 マルタが静かに目を向ける。


 リリアナは続けた。


「私は、お姉様を代弁しません。ただ、お姉様の言葉を他人のものにしないでくださいと、自分の言葉で言うことはできます」


 アデルは少しだけ目を伏せた。


「それは、君が決めることだ」


「はい」


「ただ、君もまた巻き込まれる」


「もう巻き込まれています」


 リリアナは苦く笑った。


「それに、私は以前、お姉様の言葉を聞きませんでした。だから今度は、聞いたことだけは曲げたくありません」


 マルタは静かに頷いた。


「では、書きましょう。感情ではなく、見た事実を」


「はい」


 リリアナは、ようやくペンを動かした。


『私は、姉を代弁しません。

 ただ、姉が自分の言葉で条件を出し、記録を確認し、声明に署名している姿を見ました。

 姉の言葉を、北方辺境伯閣下のものとして扱うことも、姉の意思を消す行為です。

 私は過去に姉の言葉を聞かず、傷つけました。だから今度は、姉の言葉を他人のものにしないでください』


 書き終えると、リリアナは肩で息をしていた。


 短い文章なのに、ひどく疲れた。


 アデルはそれを読み、静かに言った。


「強い文だ」


「怖いです」


「出すかどうかは」


「出します」


 リリアナは即答した。


「怖いですが、出します」


 そのころ、北方辺境伯家の王都屋敷にも噂は届いていた。


 セレスティアは報告書を読み、しばらく動けなかった。


 悪女と言われたとき。

 才女と言われたとき。

 器と言われたとき。

 反乱と言われたとき。

 毒と言われたとき。


 そのたびに傷ついた。


 だが、今回の傷は少し違った。


 自分の言葉が、自分のものではないと言われている。


 それは、これまで取り戻そうとしてきたものの中心を、直接踏まれたような痛みだった。


「……今度は、私の言葉まで閣下のものにされました」


 セレスティアの声は小さかった。


 ノアは報告書を読み終え、静かに置いた。


「私が否定しましょう」


 セレスティアは、すぐに首を振った。


「いいえ」


「セレスティア殿」


「閣下が否定すれば、それすら“庇護者の発言”になります」


 ノアは黙った。


 セレスティアは続けた。


「あなたが私を操っていないと、あなたが言う。彼らはきっと、それも計算だと言うでしょう」


「その可能性はあります」


「なら、私が言います」


 手が震えている。


 それでも、彼女は机へ向かった。


「これは、私が言わなければいけません」


 ノアは少しだけ苦しそうな顔をした。


「守らせてください、と言いたくなります」


 その言葉に、セレスティアは顔を上げた。


 ノアがそんなふうに言うのは珍しい。


「閣下」


「ですが、言いません」


 彼は静かに続けた。


「あなたの言葉ですから」


 胸の奥が、少しだけ熱くなった。


 守ってほしい気持ちもある。


 代わりに怒ってほしい気持ちもある。


 でも、それをされた瞬間、自分の言葉はまた誰かの庇護の下に置かれる。


 ノアは、それを分かっている。


 だから、言わない。


 セレスティアは深く息を吸った。


 そして白紙に書いた。


『私の声明は、私自身が書きました。

 助言を受けることと、言葉を奪われることは違います。

 私が北方辺境伯家に滞在していることを理由に、私の言葉を他者のものとして扱うことは、私の意思を消す行為です。

 私を守る名目でも、私を疑う名目でも、私の言葉を私から切り離さないでください』


 短く。


 強く。


 それ以上は書かなかった。


 書き終えたあと、セレスティアは手が震えていることに気づいた。


 ノアがそっと茶を置く。


「飲んでから、もう一度読みましょう」


「はい」


 茶を飲む。


 温かい。


 喉が少しだけ楽になる。


 読み返す。


 言葉は、乱れていない。


 怒りはある。


 痛みもある。


 だが、これは自分の言葉だ。


「出します」


 セレスティアは言った。


「はい」


 その声明は、すぐに出された。


 そして同じ頃、リリアナの文も王妃宮から正式記録の写しとして流れた。


 姉を代弁しない。

 ただ、姉の言葉を他人のものにしないでほしい。


 二つの文は、王都に同時に広がった。


 反応は早かった。


 若い令嬢たちは、リリアナの文に強く反応した。


「妹君が、自分の過ちまで書いているわ」


「姉を代弁しない、というのがいい」


「わたくしも、友人を勝手に代弁したことがあるかもしれない」


 一方、保守派は苛立った。


「妹まで完全に感化されている」


「リリアナ嬢は王太子妃候補として不安定すぎる」


「やはりレイノルド姉妹は、王宮に混乱を持ち込む」


 ディランはその反応を聞き、唇を引き結んだ。


 狙いの一部は成功した。


 セレスティアの言葉の出所に疑問を投げたことで、北方辺境伯家も巻き込まれた。


 しかし、予想外だったのはリリアナだ。


 彼女があれほど早く、自分の言葉で出てくるとは思っていなかった。


 しかも、姉を代弁しないという形で。


 それは反論しづらい。


 レイノルド公爵邸にも、リリアナの文は届いた。


 グレゴールはそれを読み、顔を険しくした。


「リリアナまで」


 声には怒りより、困惑があった。


 リリアナは泣いていればよかった。


 優しく、可憐で、守られる娘でいればよかった。


 その娘が、父の知らぬ場所で言葉を持ち始めている。


 セレスティアだけではない。


 リリアナまで。


 家の中で、何かが確実に崩れていた。


 いや、崩れたのではない。


 今まで見えなかった亀裂が、露わになっているだけなのかもしれない。


 だがグレゴールは、まだそれを認められなかった。


 夜、北方辺境伯家の屋敷では、セレスティアがリリアナの文を読んでいた。


 何度も。


 同じ一文で、指が止まる。


『私は過去に姉の言葉を聞かず、傷つけました。だから今度は、姉の言葉を他人のものにしないでください』


 セレスティアは、目を伏せた。


 胸が痛い。


 リリアナが自分の過ちを書いている。


 それは痛々しい。


 でも、そこには逃げがなかった。


「リリアナは、変わりましたね」


 セレスティアが言うと、ノアは頷いた。


「はい」


「私は、少し嬉しいです」


「はい」


「でも、あの子が責められると思うと怖いです」


「それも自然です」


「自然ばかりですね」


「人の感情は、だいたい自然です」


 セレスティアは小さく笑った。


「そういう言い方、嫌いではありません」


 彼女はリリアナへの返事を書いた。


『リリアナへ。

 あなたの文を読みました。

 私を代弁しない、と書いてくれたことを受け取ります。

 あなたが自分の過ちを書いたことは、きっと苦しかったと思います。

 ただし、私を守るためにあなた自身を過度に罰しないでください。

 記録は、罰ではなく、次に同じことをしないために使ってください。

 セレスティア』


 書き終えて、少し考える。


 そして一文を足した。


『字は読みやすくなってきました』


 少しだけ迷った。


 甘いだろうか。


 でも、これくらいはいい。


 封をして、セレスティアは深く息を吐いた。


「私の言葉は、私のものです」


 小さく呟く。


 ノアは静かに答えた。


「はい」


「誰かに助けられても」


「はい」


「誰かに影響を受けても」


「はい」


「私が書いたなら、私のものです」


「その通りです」


 その言葉を、セレスティアは胸の中に置いた。


 だが王都の噂は、まだ止まらない。


 今度は、北方辺境伯をめぐる別の声が広がり始めていた。


 ノア・ヴァレンティアは、なぜ何も言わないのか。


 セレスティアを利用しているのか。

 それとも、彼女を守る気がないのか。

 あれほど近くにいながら、なぜ沈黙しているのか。


 セレスティアの言葉を取り戻すための沈黙が、今度はノア自身を刺し始めていた。

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