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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第46話 王太子府の男たちは、初めて要約されない現実に怒った

 王太子府の朝は、いつも整っていた。


 磨かれた床。

 同じ間隔で置かれた燭台。

 時間ぴったりに運ばれる茶。

 王太子の机に置かれる、三枚にまとめられた報告書。


 アデル・ヴァレンティアは、その整い方を長いあいだ当然だと思っていた。


 王太子には膨大な情報が集まる。

 だから側近が選び、要点をまとめ、必要な判断だけを示す。


 それが統治というものだと思っていた。


 だが今、彼の机には三枚どころではない紙が積まれていた。


 王妃宮から回された未共有事項一覧。

 救貧院支援金台帳の写し。

 王太子府会議資料の原本。

 セレスティアが過去に作成した想定問答の控え。

 そして、王太子府内で誰が何を知っていて、誰が何を知らなかったのかを洗い出すための空欄だらけの表。


 美しくない。


 見出しも揃っていない。

 同じ案件なのに呼び名が違うものもある。

 誰かの走り書き、古い訂正線、意味の分からない略号。


 以前のアデルなら、眉をひそめて言っただろう。


 要点だけにしてくれ、と。


 今は言わなかった。


 言えなかった。


 その要点だけの世界の下に、セレスティアがいたことを知ってしまったからだ。


「殿下」


 古参側近のディランが、少し硬い声で言った。


「本日の政務前に、こちらの確認をすべてなさるおつもりですか」


「すべては無理だ」


 アデルは答えた。


「だが、少なくともこの一覧の作成方針は今日決める」


「未共有事項一覧、でございますか」


 ディランの声音には、わずかな抵抗がある。


 アデルは気づいていた。


 昨日の修正前文案流出について、ディランへの正式処分はまだ決まっていない。

 その状態で彼を会議に出し続けることへの反発もある。


 だが、彼を今すぐ外せば、王太子府の古い構造が見えなくなる。


 ディランは個人として責任を負うべきだ。

 しかし、問題は彼一人ではない。


 王太子府全体が、セレスティアのような誰かに「整えてもらう」ことに慣れすぎている。


 それを見なければならなかった。


「そうだ」


 アデルは言った。


「誰が何を知っているのか。どの資料が誰か一人の記憶に依存しているのか。どの判断が私の名で記録されながら、実際には誰の下準備によるものだったのか。それを洗い出す」


 側近の一人が、明らかに顔をしかめた。


 名はラウル。財務系の調整を担当する男だ。


「恐れながら殿下。そのような細かな洗い出しは、王太子府の権威を損ないます」


「なぜだ」


「王太子府とは、最終判断を下す場所です。細部の作業経路をあえて露わにすれば、周囲に不要な疑念を与えます」


「不要な疑念か」


 アデルは、机の上の想定問答控えを一枚取った。


 そこには、セレスティアの字があった。


 王太子殿下が問われた場合、以下の順で回答。

 詳細数値を求められた場合、財務卿へ確認を回す。

 断定を避けるべき項目。

 未確認事項。


 そして端に、小さく書かれている。


 殿下には会議前夜までに三点のみ伝達。


 三点のみ。


 それを読んだとき、アデルはしばらく動けなかった。


 自分は理解していたのではない。

 理解できる形に削られたものを渡されていた。


「私は今まで、不要な疑念を持たずに済んでいた」


 アデルは言った。


「だが、その代わりに何を見落としていた?」


 誰も答えなかった。


 ディランも、ラウルも、若い書記官たちも。


 アデルは続けた。


「この帳簿の端に、人がいると知った。救貧院の薪代、療養所の薬草、王妃宮の夜番、書類を整える者の眠れない時間。私はそれを、三枚の要約で見ていた」


「殿下」


 ラウルが言う。


「王太子がすべての原資料に目を通していては、政務が回りません」


「すべてを見るとは言っていない」


「では」


「見ないものを、誰に背負わせているのかを知る」


 会議室が静まり返った。


 アデル自身、その言葉の重さに少し息が詰まった。


 見ないものを、誰に背負わせているのか。


 今まで考えなかった。


 王太子が大局を見るために、誰かが細部を見る。


 それは当然だ。


 だが、その誰かがいつも同じ人間なら。

 その名が記録に残らないなら。

 その者が倒れたときだけ責任を負わされるなら。


 それは仕組みではない。


 押しつけだ。


「殿下は」


 ディランが低く言った。


「セレスティア嬢の件以来、ご自身を責めすぎておられます」


 アデルは彼を見る。


「責めすぎ?」


「はい。彼女が多くを担っていたことは事実でしょう。しかし、それは彼女が有能だったからです。王太子府は常に最適な人材を使います」


「使います、か」


 アデルの声が冷えた。


 ディランは少しだけ口を閉じる。


 アデルは机に置かれた紙を見た。


 有能だったから使った。


 オルフェリアも似たようなことを言った。


 担える方だったから担わせた。


 その言葉が、どれほど滑らかに人を道具へ変えるのか。


 今なら分かる。


「有能な者に仕事を任せることは悪ではない」


 アデルは言った。


「だが、その有能さに依存し、名を消し、逃げ道を塞ぎ、最後に責任だけを残すなら、それは任用ではない」


 彼は一度言葉を切った。


 そして、はっきりと言った。


「搾取だ」


 その言葉に、会議室が揺れた。


 王太子府で、王太子がその言葉を使った。


 自分たちの仕事のあり方に対して。


 古参側近たちの顔が硬くなる。


 若い書記官の一人は、手元の紙へ何かを書きつけた。

 おそらく、今の発言を記録している。


 アデルは止めなかった。


「本日の議題は三つだ」


 彼は机を軽く叩いた。


「一つ。セレスティア・レイノルドが作成、整理、補助した王太子府資料の洗い出し。二つ。その功績が私の判断として記録されたものの訂正方針。三つ。今後、誰か一人の記憶や善意に依存しないための未共有事項一覧の作成」


 ラウルが、なおも食い下がる。


「それは王太子府内部の弱みを晒す行為です」


「違う」


 アデルは即座に返した。


「弱みを放置していたことを、これから晒される前に知る行為だ」


「殿下」


「そして、これはセレスティアのためだけではない」


 その言葉で、側近たちの表情が少し変わった。


 セレスティアのため。


 そう言えば、彼らは反発する。


 王太子が元婚約者に引きずられている、と。


 だから、アデルは言葉を選び直した。


「王太子府のためだ。私が要約された現実だけを見て判断し続ければ、いずれまた同じことが起きる。今度はセレスティアではない誰かに」


 若い書記官が、小さく頷いた。


 ディランはそれを見逃さなかった。


「若い者たちまで、妙な空気に」


「妙な空気とは何だ」


 アデルが問う。


 ディランは一瞬迷い、言った。


「記録を盾に、上に問いを返す空気です」


「問いを返されることが問題か」


「組織には序列がございます」


「序列があることと、問いを封じることは別だ」


 その言葉は、セレスティアやノアの言い回しに似ていた。


 アデル自身も気づいた。


 だが、もう恥じなかった。


 影響を受けた。


 それは事実だ。


 そして、悪いことではない。


「始める」


 アデルは言った。


「まず、財務政策会議の資料からだ」


 王太子府の男たちは、不満と戸惑いを抱えたまま原本を開いた。


 その瞬間、会議室の空気がさらに悪くなった。


 理由はすぐに分かった。


 資料が、整っていなかったからだ。


 原本には、財務局からの数字、王妃宮からの補足、外交儀礼費の前年度比較、支出保留の理由、貴族院質問想定が別々の形で挟まれている。


 同じ「南方大使関連費」でも、財務局では「南方接遇」、王太子府では「大使儀礼」、王妃宮では「夫人療養接遇」と呼ばれていた。


 セレスティアは、それを一枚の流れにまとめていた。


 アデルにも分かる形に。


 いや、アデルだけではない。


 側近たちが会議で迷わないように。


「……これは、同じ案件なのか?」


 ラウルが思わず呟いた。


 若い書記官エドが答える。


「はい。おそらく」


「おそらく?」


「セレスティア様の整理済み資料では、一つの項目に統合されています。ただ、原資料では呼称が違うため」


 ラウルは黙った。


 アデルは、原資料と整理済み資料を並べた。


「彼女がいなければ、我々は会議前にこの呼称違いで詰まっていた可能性がある」


 エドが小さく言う。


「実際、詰まっていたことがあります」


 全員の視線が彼へ向く。


 エドは少し怯えたが、続けた。


「二年前、南方大使夫人の療養滞在費の件です。財務局、王妃宮、王太子府で呼称が違い、照合に時間がかかりました。そのとき、セレスティア様が用語対応表を作られました」


「その表はどこにある」


 アデルが問う。


 エドは目を伏せた。


「セレスティア様の控えにはあると思います。王太子府内では、正式保管されていません」


「なぜ」


「その場の補助資料扱いだったためです」


 その場の補助資料。


 便利な言葉だ。


 その場で救われ、その場が終われば消える。


 セレスティアの仕事は、何度もそう扱われてきた。


 アデルは記録係へ言った。


「未共有事項一覧に加えろ。用語対応表、正式保管なし。作成者セレスティア・レイノルド。再作成および王太子府内共有が必要」


「承知しました」


 ディランが口を挟む。


「殿下、そのように一つ一つ記録していては膨大になります」


「膨大だろう」


「ですが」


「膨大なものを、一人に圧縮させていた」


 ディランは黙った。


 アデルは、ようやく理解し始めていた。


 セレスティアの有能さとは、単に頭がいいことではなかった。


 散らばったものを拾い、違う言葉で呼ばれているものを結び、誰が何を知らないのかを先に見つける力。


 その作業が見えなかった。


 見えないから、軽く扱われた。


 王太子府の男たちは、初めて要約されない現実に苛立ち始めていた。


「これでは時間が足りない」


「呼称を統一するだけで半日かかる」


「この照合は財務局の仕事では」


「王妃宮から来た補足が古い」


 文句が増える。


 アデルは、それを聞いていた。


 腹立たしさもある。


 だが同時に、妙な納得もあった。


 彼らは今、初めてセレスティアの仕事の入り口に立っている。


 そして、怒っている。


 面倒だから。

 複雑だから。

 誰かが整えてくれないから。


 その怒りこそ、今までセレスティアに押し込めていたものではないか。


「殿下」


 ラウルが耐えきれず言った。


「これを全て王太子府で処理するのは非効率です。やはり、こうした整理に適した者を一人置くべきでは」


 部屋が静まった。


 一人置くべき。


 その言葉は、危険だった。


 アデルは彼を見た。


「誰を?」


 ラウルは言葉に詰まる。


「それは……専門の書記官を」


「一人か」


「まずは」


「また一人にするのか」


 ラウルは顔を強張らせた。


「殿下、私はセレスティア嬢を戻せと言っているのではありません」


「分かっている」


 アデルは言った。


「だが、発想が同じだ。複雑なものを一人に集めようとしている」


「では、どうすれば」


「分ける」


 アデルは、机の上の資料を指さした。


「呼称対応は書記局と共有。財務照合は財務担当二名。王妃宮関連は王妃宮側確認者を置く。王太子府内では、最終要約前に原本確認者を二名置く」


 ディランが苦い顔をする。


「人手が足りません」


「足りないなら、足りないと記録する」


 アデルは言った。


「これまで足りない分を誰か一人で埋めていた。その事実を、まず書く」


 若い書記官エドが、少し震える声で言った。


「殿下。私、書きます」


「何を」


「足りないところを。今までセレスティア様に聞いていたところも」


 ディランがエドを睨む。


「軽々しく」


「軽々しくありません」


 エドは顔を青くしながらも言った。


「私も、何度も聞いていました。セレスティア様なら分かるので。自分で確認先を作ろうとしなかった。だから、書きます」


 会議室に沈黙が落ちる。


 アデルは、静かに頷いた。


「頼む」


 エドは深く頭を下げた。


 その日の王太子府の作業は、予定の半分も進まなかった。


 だが、未共有事項一覧の最初の一枚が埋まった。


 そこには、恥ずかしいほど初歩的な項目が並んだ。


 用語対応表が正式保管されていない。

 王妃宮補足資料の最新版保管場所が不明。

 セレスティア作成の想定問答が殿下判断記録に吸収されている。

 会議前資料の原本確認者が固定されていない。

 不明点をセレスティアへ個別確認していたため、府内共有なし。


 アデルは、その一覧を見て深く息を吐いた。


 情けない。


 だが、見えた。


 それが今日の成果だった。


 夕刻、リリアナが王妃宮からやって来た。


 王太子府の作業記録を受け取るためだ。


 彼女は一覧を読み、目を丸くした。


「こちらも、ずいぶん大変ですね」


 アデルは苦笑した。


「王妃宮のことを言えなかった」


「はい。言えませんね」


 あまりにはっきり言われ、アデルは一瞬黙ったあと、少し笑った。


「君は最近、容赦がない」


「お姉様ほどではありません」


「それはそうだ」


 二人は少しだけ笑った。


 だが、リリアナはすぐに真面目な顔になる。


「この一覧、お姉様へ送りますか」


 アデルは迷った。


 見せるべきだ。


 だが、これを見ればセレスティアはまた傷つくだろう。


 自分がどれほど王太子府に依存されていたのか、改めて見せられるのだから。


 以前なら、アデルは迷った末に隠したかもしれない。


 彼女を傷つけないために。


 だが今は、違う。


「送る」


 アデルは言った。


「ただし、即時対応は求めないと明記する。これは報告であって、彼女に処理を求めるものではない」


 リリアナは頷いた。


「その一文、大切です」


「ああ」


「お姉様、見た瞬間に直したくなるかもしれません」


「だろうな」


「だから、直さなくていいと書いてください」


 アデルは少しだけ目を伏せた。


 セレスティアが、見た瞬間に直したくなる。


 その姿が目に浮かぶ。


 眉をわずかに寄せ、ペンを取り、ここは分類が違う、こちらは財務局に確認、これは王妃宮へ差し戻し、と静かに処理し始める。


 それを自分たちは当たり前にしていた。


「書く」


 アデルは言った。


「これは、あなたの仕事ではない、と」


 リリアナは、少しだけ安心した顔をした。


 その夜、北方辺境伯家の王都屋敷に、王太子府からの報告が届いた。


 セレスティアは封を開き、まず添えられた一文を読んだ。


『これは王太子府内の未共有事項一覧の報告です。セレスティア・レイノルド殿に修正、補助、助言を求めるものではありません』


 その一文を読んだだけで、セレスティアはしばらく動けなくなった。


 求めるものではありません。


 その一文が、こんなにも必要だったのかと思う。


 以前なら、報告を受け取った瞬間に作業へ入っていた。


 直すべき場所が見える。

 放っておけば混乱する。

 自分なら早い。


 そう思い、手を伸ばしていた。


 だが、その前に止める言葉がある。


 これは、あなたの仕事ではない。


 セレスティアは、ゆっくり息を吐いた。


 ノアが向かいから尋ねる。


「読みますか」


「読みます。でも、直しません」


「はい」


「たぶん、直したくなります」


「でしょうね」


「そのときは、止めてください」


「分かりました」


 セレスティアは一覧を読み始めた。


 用語対応表が正式保管されていない。

 王妃宮補足資料の最新版保管場所が不明。

 会議前資料の原本確認者が固定されていない。


 読み進めるたびに、頭の中で解決案が浮かぶ。


 これは書記局で統一すべき。

 これは王妃宮側の写しが古い。

 これは財務局の分類と合わせればいい。


 ペンを取りたくなる。


 手が動きそうになる。


 セレスティアは、両手を膝の上で重ねた。


「直したいです」


「はい」


「とても」


「はい」


「でも、直しません」


「はい」


「これは、私の仕事ではありません」


 言葉にすると、胸が痛んだ。


 寂しさもある。


 自分ならできるのに、という悔しさもある。


 でも、それ以上に、少しだけ解放感があった。


 王太子府の混乱を見ても、すぐに飛び込まなくていい。


 セレスティアは最後まで読み終え、紙を閉じた。


「殿下は、かなり苦労したでしょうね」


「そうでしょう」


「王太子府の方々も、怒ったでしょう」


「おそらく」


「要約されない現実は、怒りたくなるものです」


 セレスティアは、少しだけ笑った。


「私は、ずっとあの現実を見ていたのですね」


 ノアは静かに言った。


「はい」


「でも、もう一人では見ません」


「はい」


 そのころ、王太子府ではディランとラウルが別室で向かい合っていた。


 机の上には、未共有事項一覧の写しがある。


 ラウルが低く言った。


「殿下は、本気でこの作業を続けるおつもりだ」


 ディランは答えない。


「王太子府の権威が落ちる」


「それだけではない」


 ディランはようやく口を開いた。


「殿下は変わられた。セレスティア嬢と北方辺境伯の影響だ」


「どうする」


 ディランは、しばらく黙った。


 そして、静かに言った。


「公爵閣下に話を通す」


「レイノルド公爵に?」


「このままでは、王太子殿下がセレスティア嬢の記録に縛られる。王太子府も、レイノルド公爵家も、彼女一人に振り回される」


 ラウルは頷いた。


「彼女本人より、北方辺境伯が問題かもしれん」


「ええ」


 ディランの目が冷える。


「セレスティア嬢の声明も、あの屋敷から出ている。彼女の言葉が本当に彼女だけのものか、疑う余地はある」


 部屋の中に、新しい悪意が形を持った。


 セレスティアを悪女にするのは失敗した。


 慎ましい令嬢に戻すことも失敗した。


 ならば、彼女の言葉そのものを疑えばいい。


 北方辺境伯の傀儡。


 その物語が、まだ誰の口にも出されないまま、静かに芽を出した。

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