第45話 慎ましく忠実な令嬢など、もうどこにもいなかった
その噂が最初に届いたとき、セレスティアは一瞬だけ意味が分からなかった。
北方辺境伯家の王都屋敷。
朝の食卓には、焼きたてのパンと卵、薄いスープが並んでいた。
最近、彼女は朝食を途中で残すことが減っていた。
それは小さな進歩だった。
王宮にいたころは、朝食の時間にも頭の中で書類がめくれていた。王妃の薬湯、救貧院への支払い、王太子府の会議資料、リリアナの社交予定。
食べるという行為は、いつも何かの合間だった。
今は違う。
少なくとも、食べる時間を食べる時間として扱おうとしている。
その最中に、執事が一通の報告書を運んできた。
ノアが受け取り、封を確認する。
北方辺境伯家の情報係からのものだった。
彼は読み進めるうち、わずかに眉を動かした。
「何かありましたか」
セレスティアが尋ねると、ノアは少しだけ間を置いた。
その間で、良くない報告なのだと分かった。
「王太子府のものと思われる文案が、一部貴族の間に流れています」
「王太子府の?」
「正式発表ではありません」
「では、草案ですか」
「その可能性が高い」
ノアは報告書を彼女へ渡した。
セレスティアは受け取り、目を通す。
最初の数行は、昨日読んだ正式声明とは違っていた。
『セレスティア・レイノルド嬢は、過激な思想を持つ者ではなく、本来は慎ましく忠実な令嬢であり、王宮に対して長く誠実に尽くしてきた人物である』
慎ましく忠実な令嬢。
その言葉を見た瞬間、セレスティアは息を止めた。
怒りはすぐには来ない。
まず、呆然とした。
昨日、王太子府の正式声明は違っていたはずだ。
本人確認なき表現を公式見解として採用しない。
記録訂正を継続する。
そういう文だった。
それを読んで、彼女は必要な一歩として受け取った。
なのに。
その裏で、また別の言葉が流れている。
反乱令嬢ではない。
過激ではない。
慎ましく忠実な令嬢。
守っているように見える。
だが違う。
これは、別の箱だ。
悪女という箱から出したと思ったら、今度は慎ましい淑女という箱に入れようとしている。
「……私、慎ましかったのでしょうか」
セレスティアはぽつりと言った。
ノアは答えなかった。
セレスティアは報告書を見つめたまま続ける。
「忠実だったのでしょうか」
「あなたは、たくさん働いていた」
ノアは静かに言った。
「それを忠実と呼びたい人がいるのでしょう」
「拒めなかったことを、忠実と言い換えられるのですね」
声が冷えた。
自分でも分かる。
これは怒っている声だ。
昨日までなら、この報告を見ても、まず王太子府の立場を考えただろう。
保守派を落ち着かせるためには、こういう言葉も必要なのかもしれない。
反乱扱いされるよりは、慎ましい令嬢とされた方がまだ傷は少ないのかもしれない。
そうやって、自分で自分の怒りを薄めた。
けれど今は違う。
慎ましく忠実。
その言葉が、どうしようもなく腹立たしかった。
「私は、黙って従っていたのではありません」
セレスティアは言った。
「黙らなければならない場所に置かれていただけです」
「はい」
「忠実だったのではありません。拒む方法を知らなかっただけです」
「はい」
「それを美しい言葉にしないでほしい」
ノアは、彼女の言葉が終わるまで待った。
「返事を書きますか」
「書きます」
セレスティアは即答した。
「これは、かなり腹が立っています」
「よいことです」
「腹が立つのが?」
「怒りの所在が分かっている」
その言い方に、セレスティアは一瞬だけ呼吸を忘れた。
怒りの所在。
そうだ。
今、自分ははっきり怒っている。
反乱と言われたときの混乱とも、毒と言われたときの恐怖とも違う。
これは違う、と分かる怒り。
「では、怒ったまま書いても?」
「書いたあと、読み直せばいい」
「……はい」
セレスティアは席を立ち、執務机へ向かった。
パンはまだ少し残っていた。
以前なら、食事を残して書類へ向かう自分を責めただろう。
今は、これは必要な返答だと分かる。
ただし、書き終えたら戻って食べる。
それも自分に約束した。
白紙を前にして、彼女はしばらくペンを握ったまま動かなかった。
何を書けばいい。
王太子府へ抗議するのか。
流した者を探せと求めるのか。
慎ましく忠実ではないと否定するのか。
どれも必要だ。
だが、彼女がまず書きたいのはそれではなかった。
自分が何でなかったのか。
そして、何を消されたくないのか。
セレスティアは、ゆっくりと書き始めた。
『私を“慎ましく忠実な令嬢”として擁護する文言が流れていると聞きました。
私は、その表現を受け取りません。
私は黙って従っていたのではなく、拒めない構造の中で働いていました。
誠実に務めたことと、都合よく沈黙させられていたことは同じではありません。
その違いを消さないでください』
ペン先が少し震えた。
けれど、止めない。
『反乱の旗印にされることも望みません。
同時に、慎ましく忠実な令嬢として名誉回復されることも望みません。
私は、事実に基づく記録訂正を求めています。
私を守るためという名目で、私の言葉を別の形に変えないでください』
最後の一文を書き終えたとき、胸の奥が熱かった。
泣きたいのではない。
怒っている。
でも、その怒りは乱れていなかった。
セレスティアは紙をノアへ差し出した。
「読んでください」
ノアは受け取り、最後まで読んだ。
「よいと思います」
「強すぎませんか」
「必要な強さです」
「王太子府は困るでしょう」
「困るべきです」
淡々とした返事に、セレスティアは少しだけ笑ってしまった。
「閣下は、ときどき容赦がありません」
「あなたに容赦が必要な相手と、そうでない相手があります」
「殿下は?」
「今は、容赦より正確さが必要でしょう」
セレスティアは頷いた。
「写しを王妃宮と書記局へ。王太子府にも正式に送ります」
「はい」
「それから」
彼女は少し迷った。
「この文は、公にも出します」
ノアの目がわずかに動く。
「よいのですか」
「はい。すでに噂として広がっているなら、王太子府だけに返しても遅いです」
「分かりました」
セレスティアは、最後に署名した。
『セレスティア・レイノルド』
この名が、また勝手に書き換えられないように。
同じころ、王太子府ではアデルがその噂を聞いた瞬間、机に手をついた。
「どこから流れた」
声は低かった。
怒鳴ってはいない。
だが、部屋にいた側近たちは一斉に背筋を伸ばした。
ディランだけが、少し遅れて頭を下げた。
「確認中でございます」
「修正前の案だ」
アデルは机の上に置かれた写しを見た。
慎ましく忠実な令嬢。
昨日、自分が明確に退けた文言。
それが外に出ている。
偶然ではない。
「ディラン」
「はい」
「この文案を保管していたのは誰だ」
「私でございます」
「誰かに渡したか」
「……王太子府内の確認用に、数名へ」
「保守派貴族にも流れている」
ディランは黙った。
その沈黙で、アデルは悟った。
怒りが込み上げる。
しかし、同時にひどい疲労もあった。
まただ。
また、自分の府からセレスティアの言葉が変えられた。
しかも、守るためという顔で。
「なぜだ」
アデルは問うた。
ディランは顔を上げた。
「殿下をお守りするためです」
その言葉に、部屋が静まった。
「私を?」
「はい。殿下は最近、セレスティア嬢への配慮に偏りすぎておられます。王太子府としては、彼女を反乱の象徴にしない形で収める必要がある。そのためには、彼女が本来は王宮に忠実な令嬢であると示すのが最も効果的です」
「私は、その文を退けた」
「ですが、政治的には必要です」
「彼女本人が望まない表現でも?」
「本人の感情より、王宮の安定が優先される場合もございます」
以前なら、納得したかもしれない。
王宮の安定。
政治的効果。
通りやすい物語。
そういう言葉に、アデルは慣れていた。
だが今は、その言葉の下に誰が敷かれるのか見えてしまう。
「ディラン」
アデルはゆっくり言った。
「王宮の安定のために、誰かの言葉を変えることを、私はもう認めない」
「殿下」
「それを続けてきた結果が、今の混乱だ」
ディランの表情が険しくなる。
「恐れながら、殿下はセレスティア嬢の影響を受けすぎておられます」
その言葉に、リリアナが息を呑んだ。
彼女も会議室にいた。
記録係として。
アデルはディランから目を逸らさなかった。
「影響を受けた」
彼は認めた。
「私は、彼女の記録を見た。彼女が何を背負っていたのか知った。ならば影響を受けるのは当然だ」
「それでは王太子府が」
「王太子府のために、また彼女を消すのか」
ディランは黙った。
アデルは続けた。
「処分は後ほど正式に決める。まず、王太子府として修正前文案の流出を認める声明を出す」
側近たちがざわめいた。
「殿下、それは」
「隠せばさらに悪くなる」
アデルは言った。
「王太子府が、本人の意思を確認しない表現を外へ出した。正式文書ではないにせよ、府内管理の不備だ。記録する」
リリアナは、震えながらペンを走らせた。
『王太子殿下、修正前文案流出を王太子府内管理不備として認定。隠蔽せず記録すると発言』
書きながら、リリアナの胸は痛かった。
また姉が傷ついた。
でも、今アデルは隠そうとしていない。
それは小さくない。
アデルはリリアナを見た。
「リリアナ」
「はい」
「この件も、君の記録を王妃宮に送ってほしい」
「分かりました」
「それから……セレスティアにも」
リリアナは少しだけ迷った。
「お姉様は、もうご存じかもしれません」
「ああ」
アデルは目を伏せた。
「なら、なおさらだ。こちらから隠していないことを伝えなければならない」
リリアナは静かに頷いた。
その日の午後、セレスティアの文が公に出た。
『私は、慎ましく忠実な令嬢として名誉回復されることも望みません』
その一文は、王都にまた新しいざわめきを起こした。
保守派は眉をひそめた。
「慎ましいと言われることすら拒むのか」
若い令嬢たちは息を呑んだ。
「拒めない構造の中で働いていた……」
年配の夫人たちは複雑な顔をした。
「分かるわ。分かるけれど、それを言ってしまうのね」
王妃宮では、マルタがその写しを読み、深く息を吐いた。
「よく書かれました」
リリアナは何度も読み返していた。
「お姉様、怒っていますね」
「ええ」
「でも、綺麗に怒っています」
「そうですね」
「私、少し嬉しいです」
マルタがリリアナを見る。
リリアナは自分でも戸惑った顔をした。
「怒っているお姉様を見て嬉しいなんて、変でしょうか」
「いいえ」
「お姉様が、怒っていいと言えるようになった気がして」
リリアナは写しを胸に抱きそうになり、すぐにやめた。
これは記録だ。
自分の感情で抱きしめるものではない。
でも、胸の奥では確かに抱きしめたかった。
その後、王太子府からも声明が出た。
修正前の文案が府内管理不備により外部へ流れたこと。
その文案は王太子府の正式見解ではないこと。
セレスティア本人の意思に反する表現であったことを認めること。
今後、関連文書の外部共有には本人確認欄を設けること。
異例の声明だった。
王太子府が、自分の不備を認めた。
王都はさらに騒いだ。
そして、アデルは夜になって、自室で一人、セレスティアへ手紙を書いていた。
謝罪ではない。
まだ、その言葉は完成していない。
けれど、今回の件は自分の府の不備だ。
黙ってはいられなかった。
『セレスティア。
修正前の文案が外部へ流れた件について、王太子府の管理不備として記録し、公表した。
君を“慎ましく忠実な令嬢”として扱う表現を、私は退けたにもかかわらず、止めきれなかった。
これは私の府の責任であり、私の責任でもある。
君の言葉をまた変えたことについて、今ここで許しを求めるつもりはない。
ただ、記録として伝える』
書き終えたあと、アデルはしばらく紙を見つめた。
これで足りるわけではない。
だが、足りないからといって書かないよりはいい。
彼は封をした。
その頃、北方辺境伯家の屋敷では、セレスティアが王太子府の声明と、リリアナの記録写しを読んでいた。
ノアはそばにいる。
セレスティアは、アデルが修正前文案を退けていたことを初めて知った。
そして、それでも流れたことも。
「殿下が書いたのではなかったのですね」
「そのようです」
「でも、王太子府から出ました」
「はい」
「殿下は、責任を認めています」
「はい」
セレスティアは紙を置いた。
胸の中で、複数の感情がぶつかる。
アデル本人があの文を書いたわけではない。
むしろ避けようとしていた。
それは、少しだけ安堵する事実だった。
だが、傷つかなかったわけではない。
王太子府という場所が、また自分を都合よく整えようとした。
その事実は消えない。
「私は、殿下を少しだけ見直しました」
セレスティアは言った。
「はい」
「でも、王太子府には腹が立っています」
「はい」
「両方です」
「両方でいい」
ノアがいつものように答える。
セレスティアは、少しだけ笑った。
「本当に、最近の私は両方ばかりですね」
「人はだいたいそうです」
「物語の中の人なら、もっと綺麗に割り切るのでしょうか」
「あなたは物語ではありません」
その言葉に、セレスティアは目を伏せた。
物語ではない。
悪女の物語でも、才女の物語でも、反乱の物語でも、慎ましい令嬢の物語でもない。
自分は、ただ自分の記録を書いている。
その夜、セレスティアは帳面を開いた。
『慎ましく忠実な令嬢など、もうどこにもいない。いたのは、拒めない場所で働いていた私だった』
書いてから、少しだけ手が止まる。
そして、もう一行足した。
『それでも私は、誠実であろうとしていた。その誠実さまで、彼らに渡さない』
その一文を書いたとき、胸の奥が少しだけ静かになった。
慎ましく忠実ではない。
でも、誠実ではあった。
その違いを、自分だけは消さずにいようと思った。




