第44話 王太子は、彼女を守る言葉すら間違える
王太子府に届いた報告書は、いつもより薄かった。
だが、アデル・ヴァレンティアはその薄さに騙されなかった。
紙の枚数が少ないからといって、問題が小さいとは限らない。
むしろ最近は、短い一文ほど厄介だった。
『セレスティア・レイノルド嬢の声明により、王都内複数家門にて令嬢・夫人による帳簿、持参金、婚約契約書確認要求が発生』
『一部保守派貴族、同嬢の言動を“家内秩序を乱す影響”として問題視』
『“女たちの反乱”なる俗称が広まりつつあり』
アデルは、最後の一文の上で指を止めた。
女たちの反乱。
セレスティアは、そんなことを望んでいない。
彼女が求めているのは、記録だ。
本人の意思だ。
名前を勝手に使われないことだ。
それなのに、王都は彼女をまた名前にする。
悪女。
才女。
器。
星。
毒。
反乱の旗。
そして今度は、影響責任。
アデルは報告書を閉じ、目を伏せた。
少し前の自分なら、どうしただろう。
おそらく、すぐに命じた。
セレスティアは危険思想の持ち主ではない。
彼女は本来、慎ましく、王宮に尽くしてきた令嬢である。
過激な動きとは無関係である。
そんな声明を出していただろう。
それが彼女を守ることだと信じて。
だが今は、その文がもう危ういと分かる。
慎ましく。
尽くしてきた。
過激ではない。
それは一見、弁護の言葉だ。
しかし同時に、セレスティアをまた都合のよい淑女像へ押し込める言葉でもある。
彼女は慎ましかったから正しいのではない。
尽くしてきたから傷つけてよいわけでもない。
過激ではないから認められるのでもない。
アデルは、机の上の白紙を見た。
最近、白紙が怖い。
何を書いても、また誰かを傷つけるのではないかと思う。
けれど、何も書かなければ別の誰かが勝手に書く。
その怖さも、今は知っていた。
「殿下」
側近のディランが入ってきた。
王太子府に長く仕える古参の一人である。年齢は四十代半ば。礼儀正しく、仕事は速い。ただし、古い王太子府の空気を色濃く持っている男でもあった。
「声明案をお持ちしました」
「もう作ったのか」
「急を要しますので」
ディランは書面を差し出した。
アデルは受け取り、目を通す。
最初の数行は無難だった。
『王太子府は、セレスティア・レイノルド嬢に関する一連の噂について、事実確認なき過剰な言説を控えるよう求める』
ここまではいい。
だが、その次でアデルの指が止まった。
『同嬢は、過激な思想を持つ者ではなく、本来は慎ましく忠実な令嬢であり、王宮に対して長く誠実に尽くしてきた人物である』
アデルは、静かに紙を置いた。
「違う」
ディランは少し驚いた顔をした。
「どの部分でしょうか」
「ここだ」
アデルは問題の一文を指した。
「慎ましく忠実な令嬢、という部分」
「ですが、殿下」
ディランは困惑したように眉を寄せる。
「今、保守派はセレスティア嬢を反乱の旗印のように扱っています。彼女が本来、王宮に忠実な令嬢であると示すことは、彼女を守ることにも」
「守っているように見えて、また閉じ込めている」
アデルの声は低かった。
ディランは黙った。
アデルは、紙を見下ろす。
「彼女が慎ましいから危険ではない、では駄目だ」
「では、何と?」
「彼女は、本人の意思と実務記録が消されないことを求めている。王太子府としては、その主張を反乱扇動とは見なさない。そう書けばいい」
「それでは弱くありませんか」
「弱くていい」
アデルは顔を上げた。
「強い装飾をつけると、また彼女ではなくなる」
ディランは、一瞬返事に詰まった。
その顔には、理解しきれないという色があった。
無理もない。
アデル自身、少し前まで理解していなかった。
王宮の言葉は、いつも誰かを飾る。
忠実な令嬢。
可憐な妹。
頼れる補佐。
冷静な婚約者。
飾っている間に、その人本人の輪郭が見えなくなる。
セレスティアは、それを拒んでいる。
ならば、守る言葉も飾ってはならない。
「しかし殿下」
ディランは慎重に言葉を選んだ。
「保守派を納得させるには、彼女が王宮秩序の敵ではないと強く示す必要があります」
「秩序の敵ではないと示すために、彼女を秩序に従順な令嬢として描くのか」
「それが最も通りやすいかと」
「通りやすい言葉でまた彼女を失う」
アデルの声に、わずかに苛立ちが混じった。
ディランは目を伏せる。
アデルは深く息を吐いた。
怒鳴ってはいけない。
怒鳴れば、また以前の自分に戻る。
強い言葉で周囲を従わせれば、その場は収まる。
けれど、それは記録を変えることにはならない。
「ディラン」
「はい」
「私は、セレスティアを守りたいのではない」
自分で言って、胸が痛んだ。
守りたくないわけではない。
だが、その言葉は危うい。
リリアナを守ると言いながら、セレスティアを傷つけた。
同じことを、もう繰り返したくない。
「では、何を?」
「事実を歪めないようにしたい」
アデルは言った。
「彼女を反乱の旗にするのも違う。慎ましい忠臣にするのも違う。彼女は、記録と本人意思を求めている。それ以上でも以下でもない」
「……承知しました」
ディランは頭を下げた。
だが、その声にまだ納得はなかった。
アデルはそれを感じ取った。
「納得していないな」
「恐れながら」
ディランは顔を上げた。
「王太子府の声明は、政治的効果を持たねばなりません。正確さだけでは、噂に勝てないこともあります」
「その通りだ」
アデルは認めた。
ディランは意外そうにする。
「だが、正確さを捨てて勝った結果が今だ」
アデルは机の上に置かれた過去の会議資料へ視線を向けた。
セレスティアが整えたもの。
自分の判断として残されたもの。
美しく、通りやすく、王太子府に都合がよかったもの。
正確さより、通りやすさが優先された結果。
セレスティアの名は消えた。
「今度は、通りにくくても正確に書く」
「殿下」
「修正しろ」
ディランは、しばらく黙っていた。
そして、深く頭を下げた。
「承知しました」
彼が退出したあと、アデルは椅子に背を預けた。
疲れた。
たった一文を直すだけで、これほど疲れる。
セレスティアは、これを何年もやっていたのか。
言葉を選び、角を取り、責任を曖昧にせず、それでいて王宮が動く形に整える。
それを自分は、ただ受け取っていた。
アデルは目を閉じた。
今さら気づくことばかりだ。
その日の午後、リリアナが王太子府へ呼ばれた。
呼ばれた、と言っても以前のような甘い招待ではない。
王妃宮記録補助者として、声明案の確認に同席するためだった。
リリアナは、王太子府の会議室に入る前に深く息を吸った。
ここは苦手だ。
以前は、殿下のそばにいられる場所として好きだった。
けれど今は、自分が何も知らないまま可憐な妹として置かれていた場所にも見える。
扉の前で立ち止まっていると、後ろからマルタが声をかけた。
「怖いですか」
「はい」
「戻りますか」
「いいえ」
「では、入りましょう」
「はい」
リリアナは記録帳を抱え直した。
中に入ると、アデルと数人の側近がいた。
机の上には声明案が置かれている。
アデルが立ち上がった。
「来てくれてありがとう」
「王妃宮記録補助として参りました」
リリアナがそう言うと、アデルは少しだけ苦く笑った。
「そうだったな」
以前なら、リリアナはその笑みに胸を高鳴らせただろう。
今も、少し揺れる。
けれど、その揺れを自分で見つめられるようになっていた。
好きなのか。
依存なのか。
守られる場所への名残なのか。
まだ分からない。
分からないまま、記録帳を開く。
「声明案を拝見します」
アデルが紙を差し出した。
修正後の文だった。
『王太子府は、セレスティア・レイノルド嬢の声明を、反乱または家内秩序破壊の呼びかけとは認識しない。
同嬢が求めているのは、本人の意思および実務記録が消されないことであり、王太子府は過去の記録処理について訂正作業を継続する。
同嬢の名を用いた過剰な政治的主張、または同嬢を従順な令嬢像へ押し込める擁護のいずれも、本人の意思確認なきものとして慎重に扱うべきである』
リリアナは最後まで読み、目を瞬いた。
「殿下」
「何だ」
「だいぶ、気をつけて書かれましたね」
側近の一人が眉をひそめたが、アデルは少しだけ笑った。
「褒めているのか?」
「はい。かなり」
「それはありがたい」
リリアナは、しかしすぐに真面目な顔に戻った。
「でも、一つ気になります」
「どこだ」
「“慎重に扱うべき”というところです」
アデルは紙を見る。
「弱いか」
「少し曖昧です。誰が、どう慎重に扱うのか分かりません。お姉様なら、ここで実務が止まると言うかもしれません」
アデルは小さく息を吐いた。
「セレスティアなら、たしかに言いそうだ」
リリアナは少しだけ照れた。
「私も、少しだけ分かるようになってきました」
「では、どう直す」
リリアナは考えた。
すぐに答えは出ない。
以前なら、ここで黙っただろう。
でも、今は分からないことを分からないと言う。
「少し時間をください」
「ああ」
会議室に沈黙が落ちる。
側近たちは落ち着かなさそうだ。
王太子が、リリアナの考える時間を待っている。
それ自体が、以前ならあり得なかったのかもしれない。
やがて、リリアナは言った。
「“王太子府は、本人確認なき表現を公式見解として採用しない”ではどうでしょうか」
アデルは目を細める。
「公式見解として採用しない」
「はい。社交界の噂を全部止めることはできません。でも、王太子府がそれを使わないことは決められます」
アデルはゆっくり頷いた。
「いい」
ディランが口を挟む。
「しかし殿下、それでは王太子府の対応範囲が狭くなります。貴族間の過激な言説に対して」
「狭くていい」
アデルは言った。
「王太子府ができることを正確に書く」
リリアナは、その言葉を記録した。
『王太子殿下、王太子府ができることを正確に書くと発言』
字は、前より少しだけ整っていた。
ディランは静かに頭を下げた。
納得したのか、諦めたのかは分からない。
声明案はその場で修正された。
リリアナは修正後の文を読み、頷いた。
「これなら、お姉様の名前をまた別の形にしにくいと思います」
アデルは静かに言った。
「しにくい、か」
「完全には防げません」
「そうだな」
「でも、王太子府が間違えないことは大切です」
アデルは、その言葉を受け止めた。
重い。
だが、必要な重さだった。
その夜、王太子府の声明が出された。
文面は地味だった。
強い擁護でも、華やかな謝罪でもない。
セレスティアの声明は反乱の呼びかけではない。
王太子府は本人確認なき表現を公式見解として採用しない。
過去の記録処理について訂正作業を続ける。
ただ、それだけ。
しかし、その地味さがかえって一部の者には不気味だった。
王太子府が、セレスティアを飾らなかった。
かばいすぎもしなかった。
貶めもしなかった。
正確さに逃げ込むのではなく、正確さを選んだ。
それは、王都の社交界に新しい違和感を残した。
もちろん、全員が好意的に受け止めたわけではない。
保守派のヴァルム侯爵は、声明の写しを読んで鼻で笑った。
「王太子殿下は、ずいぶん彼女に気を遣うようになられた」
傍らの男が言う。
「ですが、文面上は慎重です。セレスティア嬢を強く支持しているわけではありません」
「だから問題なのです」
侯爵は紙を置いた。
「以前の殿下なら、もっと分かりやすく守った。可憐なリリアナ嬢を庇ったときのように」
「今は違う、と」
「ええ。セレスティア嬢は、王太子府の言葉遣いまで変え始めている」
彼は低く言った。
「毒は、もう効き始めている」
そのころ、北方辺境伯家の王都屋敷では、セレスティアが王太子府声明の写しを読んでいた。
ノアは向かいで茶を飲んでいる。
セレスティアは、最後まで読み終えて、しばらく黙った。
「殿下が書いたのですね」
「おそらく、かなり関与しているでしょう」
「リリアナの手も入っています」
「分かりますか」
「この“公式見解として採用しない”という表現は、リリアナが考えた気がします」
ノアが少し意外そうにする。
「なぜ?」
「最近のあの子は、できることとできないことを分けようとしています。王太子府が噂を全部止めることはできない。でも、公式見解にしないことはできる。そう考えたのではないかと」
「よく見ていますね」
「妹ですから」
自然に出た言葉だった。
セレスティア自身、そのあと少しだけ驚いた。
妹ですから。
まだ許したわけではない。
傷は残っている。
でも、リリアナを妹と呼ぶことが、今日はそれほど苦しくなかった。
ノアは何も言わなかった。
その沈黙が優しかった。
「王太子府の文は、受け取れます」
セレスティアは言った。
「返事を書きますか」
「短く」
彼女は白紙を取り、書いた。
『王太子府声明、受領しました。
本人確認なき表現を公式見解として採用しないとの方針を確認しました。
記録訂正作業の継続を求めます。
セレスティア・レイノルド』
淡々とした文。
それでいい。
アデルを褒めすぎない。
過剰に感謝しない。
ただ、必要な一歩として受け取る。
その距離が、今は必要だった。
返書を封じたあと、セレスティアはふと窓の外を見た。
王都の夜は静かに見える。
だが、その下では言葉が動き続けている。
毒。
反乱。
影響責任。
公式見解。
名前が、言葉が、記録が、人を動かす。
「言葉は怖いですね」
セレスティアが呟くと、ノアは静かに答えた。
「はい」
「でも、言葉を諦めたら、また誰かの言葉だけが残る」
「ええ」
「なら、怖くても書くしかないのですね」
「休みながら」
ノアが付け加える。
セレスティアは少しだけ笑った。
「はい。休みながら」
そのころ、王太子府ではディランが修正前の声明案を自室の机に置いていた。
慎ましく忠実な令嬢。
その言葉に、彼はまだ間違いを感じていなかった。
むしろ、殿下はセレスティア嬢に配慮しすぎていると思っている。
王宮には分かりやすい物語が必要だ。
民にも貴族にも、分かりやすく示さなければならない。
反乱令嬢ではない。
慎ましく忠実な令嬢だ。
その方が、ずっと収まりがいい。
ディランは、修正前の案を捨てなかった。
彼はそれを折り畳み、別の封筒に入れた。
宛先は書かれていない。
だが、彼には心当たりがあった。
王太子府の中にも、アデルの変化を快く思わない者はいる。
保守派貴族たちも、この文なら使いやすいだろう。
セレスティアを守るため。
王太子府の威厳を守るため。
そう自分に言い聞かせながら、彼は封をした。
アデルがようやく避けたはずの言葉が、別の手から外へ出ようとしていた。
王都の夜は、まだ終わらない。




