第4話 王宮は、彼女の沈黙に甘えていた
王宮の朝は、いつも同じように始まる。
鐘が鳴り、侍女たちが廊下を磨き、厨房では湯気が上がり、書記局では一番若い書記が窓を開ける。
そのはずだった。
けれど、その朝の書記局には、いつもより少しだけ長い沈黙があった。
「……本日の決裁箱は?」
年配の書記官バルトが、机の前で眉をひそめた。
若い書記のエルンが慌てて書類棚を探る。
「こちらに……いえ、これは昨日の控えです」
「昨日の控えは昨日の箱に戻せ。今日の決裁箱だ」
「はい。ただ、昨日まではセレスティア様が朝一番に仕分けを」
その名が出た瞬間、部屋の空気が止まった。
誰もエルンを叱らなかった。
だが、誰も続きを言わなかった。
セレスティア様がいたら。
そう思った者は、一人ではなかった。
しかし、それを口にすれば、昨夜の断罪を疑うことになる。
王太子殿下が悪女と断じた令嬢を、王宮実務に必要な方だったなどと言える者はいない。
バルトは咳払いをした。
「……仕分けくらい、我々でできる」
「はい」
「赤印の書類からだ。急ぎのものは赤だと、セレスティア様が――」
また言ってしまった。
バルトは自分の言葉を飲み込むように口を閉じた。
エルンも気まずそうに目を伏せる。
机の上には、書類が山のように積まれていた。
赤印。
青印。
緑の付箋。
黒い封蝋。
王妃付き医師の印。
財務局からの督促。
救貧院からの願書。
それぞれに意味がある。
だが、その意味を全体として把握していた者は、今ここにいない。
「まずは王妃陛下の療養記録から確認を」
バルトが言うと、別の書記が首を横に振った。
「それは王妃宮の侍女長が持っているはずです」
「昨日、こちらに返されたはずだ」
「いえ、セレスティア様が確認されるために一度お預かりしただけで」
「では、今どこにある」
誰も答えなかった。
エルンが小さく言う。
「リリアナ様の執務室かもしれません」
また沈黙。
リリアナ様。
今後、王太子妃となるかもしれない令嬢。
王太子殿下が守ると宣言した少女。
その名を出すと、誰も強く言えなくなる。
彼女はまだ慣れていない。
昨日まで王宮の実務に深く関わっていなかった。
だから仕方がない。
仕方がない。
その言葉は、とても便利だった。
「では、誰かリリアナ様のもとへ確認に」
「私が参ります」
エルンが立ち上がった。
そのとき、扉が開いた。
入ってきたのは、王妃付き侍女長のマルタだった。
いつも背筋を伸ばし、無駄な言葉を嫌う女性である。
だが今朝の彼女は、明らかに苛立っていた。
「王妃陛下の薬草納入記録をお持ちではありませんか」
書記官たちは顔を見合わせた。
バルトが立ち上がる。
「こちらでも探しているところです」
「探している?」
マルタの声が低くなった。
「本日の朝の薬湯は、配合を半量にする日です。確認が取れなければ出せません」
「医師に確認を」
「医師は昨夜の夜会後、王弟殿下の急患で西棟へ向かわれています。午前までは戻れません」
「では、いつもの配合で」
「いつもの配合では熱が上がります」
その場が静まり返った。
エルンが、思わず口を開く。
「セレスティア様なら」
バルトが鋭く睨んだ。
エルンは慌てて口を閉じる。
しかし、マルタは責めなかった。
むしろ、ひどく疲れた顔で言った。
「ええ。セレスティア様なら、昨夜のうちに書き置きを残しておられたでしょうね」
誰も何も言えなかった。
マルタは深く息を吐く。
「リリアナ様の執務室を確認します」
「お待ちください。あちらにはまだ」
「まだ、何です」
マルタの声が冷たくなる。
「王妃陛下の薬より優先される慣れとは、何でしょう」
バルトは黙った。
マルタは返事を待たずに背を向けた。
その背中を見送りながら、エルンがぽつりと言う。
「昨日まで、こんなことで迷ったことはありませんでした」
バルトは叱ろうとして、できなかった。
彼自身も、同じことを思っていたからだ。
昨日まで、王宮は動いていた。
誰がどの書類を見るか。
どの薬草がいつ届くか。
どの貴族へ先に返事を出すか。
どの支払いが遅れると現場が困るか。
それらは誰かが考え、整え、先回りしていた。
それを、王宮の者たちは便利に使っていた。
当たり前のように。
そして昨夜、その誰かを悪女と呼んで追い出した。
「大げさに考えるな」
バルトは自分に言い聞かせるように言った。
「一日二日の混乱だ。すぐに整う」
「はい」
エルンは頷いた。
だが、机の上の赤印の山は、少しも減っていなかった。
その頃、王宮の厨房でも小さな混乱が起きていた。
「王妃陛下の朝食に葡萄酒漬けの果実を出すなと言ったのは誰だ!」
料理長の声が飛ぶ。
若い料理人が震えながら皿を持つ。
「昨日の献立表には、そのように」
「昨日の献立表は夜会用だ! 王妃陛下には別紙があっただろう!」
「別紙が見当たりません!」
「見当たらないで済むか!」
厨房の奥で、別の料理人が小声で言う。
「セレスティア様は、いつも前日に確認に来てくださったのに」
「今その名を出すな」
「でも」
「でもではない。殿下が」
そこで言葉が止まる。
殿下が悪女と断じた。
だから、その名を出してはいけない。
けれど皿の上の葡萄酒漬け果実は、王妃の体には合わない。
その事実だけは、王太子の言葉では変わらない。
料理長は歯を食いしばった。
「白粥に変えろ。薬草塩は使うな。蜂蜜は少量。早くしろ」
「ですが、確認は」
「確認を待っていたら朝食が昼食になる!」
怒鳴りながらも、料理長の額には汗が浮いていた。
彼は料理を知っている。
だが王妃の体調の細かな変化までは知らない。
知っていたのは、あの静かな令嬢だった。
厨房にまで顔を出し、料理人の邪魔にならぬよう端に立ち、必要なことだけを告げて帰る令嬢。
礼を言えば、彼女はいつもこう言った。
「王妃陛下がお召し上がりになれるなら、それが何よりです」
料理長は皿を下げながら、低く呟いた。
「……何が悪女だ」
誰も聞かなかったふりをした。
一方、財務局では救貧院への支援金をめぐって、別の問題が起きていた。
「この支払いは来週でよいのでは?」
若い財務官が言った。
隣の官吏が顔をしかめる。
「来週では遅い。春風邪が流行っている地区だ。薬草費が先に必要になる」
「しかし、決裁印がない」
「仮承認の手順があったはずだ」
「どこに?」
「……セレスティア様の控えに」
また、その名。
財務官たちは互いに顔を見る。
「リリアナ様に確認を取るか」
「今朝から書記局も王妃宮もあちらへ人を出している。順番待ちだそうだ」
「順番待ち?」
「リリアナ様はまだ書類の確認中で」
「救貧院への支払いが順番待ちでいいのか」
「では、誰が責任を取る」
誰も手を上げなかった。
支払いが遅れれば救貧院が困る。
だが、勝手に動かせば責任問題になる。
昨日までなら、セレスティアが事前に根回しをしていた。
財務卿の承認が遅れそうなら、前日には予備費使用の下書きが届いた。
反対されそうなら、反対理由への返答まで添えてあった。
あれは、親切だったのか。
それとも単に、王宮実務に過度に介入していたのか。
財務官の一人が、苦々しく言った。
「セレスティア様は細かすぎたからな」
誰かがすぐに頷く。
「そうだ。あの方が全部抱え込んでいたのが悪い」
「引き継ぎが不十分だった」
「我々の仕事を取り上げていたとも言える」
言葉にすれば、少しだけ楽になった。
今の混乱は、自分たちのせいではない。
去った彼女のせいだ。
そう思えば、責任を負わずに済む。
だが、部屋の隅で黙っていた老官吏が、低く言った。
「取り上げられていた仕事なら、戻ってきて喜ぶべきだろう」
財務局が静まり返る。
老官吏は帳簿から目を上げなかった。
「なぜ誰も喜ばん」
誰も答えなかった。
答えれば、自分たちが何に甘えていたのか認めることになる。
王宮は、その日の午前だけでいくつもの小さな躓きを重ねた。
王妃の薬湯は遅れた。
救貧院への支払いは保留になった。
南方大使への弔問返礼品は、花の色を間違えたまま準備されかけた。
地方貴族への招待状は、古い敬称のまま封がされそうになった。
どれも、大事件ではない。
王宮が崩れるほどの問題ではない。
ただ、ほんの少し遅れる。
ほんの少し相手を不快にする。
ほんの少し誰かを困らせる。
ほんの少し信用を削る。
そういう小さな傷が、見えない場所に増えていった。
昼前、書記局に一通の封書が届いた。
黒に近い深緑の封蝋。
隣国アルヴァーン大使館の紋章。
受け取ったエルンは、思わず背筋を伸ばした。
「バルト様」
「何だ」
「大使館からです」
バルトは封蝋を見た瞬間、表情を変えた。
「親書か」
「はい。急ぎの印が」
「昨日、返答期限の確認をしたはずだ」
エルンは言葉に詰まった。
確認するはずだった。
だが昨夜、セレスティアが断罪された。
リリアナの執務室へ書類が移された。
王妃の薬で侍女長が来た。
財務局から催促が来た。
その混乱の中で、隣国への返答は誰も最終確認していなかった。
バルトは封書を開いた。
文面に目を走らせるにつれ、彼の顔から血の気が引いていく。
「……何と?」
エルンが尋ねる。
バルトは答えなかった。
もう一度読み返す。
だが文字は変わらない。
そこには、丁寧な文体でこう記されていた。
昨夜までに届くはずだった王宮からの正式回答が確認できないこと。
先日の南方大使弔問日における礼法上の不備について説明を求めること。
そして、王太子殿下との次回会談について、日程の再考を申し入れること。
最後の一文に、バルトの指が止まった。
『なお、先年まで貴国窓口を務めておられたセレスティア・レイノルド公爵令嬢のご不在についても、併せて事情を伺いたく存じます』
部屋の空気が凍った。
エルンが小さく呟く。
「大使館が……セレスティア様の不在を?」
バルトは封書を握りしめた。
たった一日。
まだ、たった一日だ。
それなのに、王宮の外はもう気づき始めている。
自分たちが、何を失ったのかを。
窓の外では、春の陽が明るく庭を照らしていた。
昨日の夜会で使われた白い花が、朝の光の中で少しずつ萎れ始めている。
その花を誰が整えたのか。
王宮の者たちは、ようやく思い出しかけていた。
だが、思い出したところで。
彼女はもう、ここにはいなかった。




