表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/35

第5話 辺境伯だけが、悪女の噂を信じなかった

 王都の朝は、王宮の外に出ても騒がしい。


 馬車の車輪が石畳を叩き、商人の声が飛び、焼きたてのパンの匂いが路地に流れる。

 昨日の夜、王宮の大広間で一人の令嬢が婚約破棄を告げられたことなど、街の暮らしには何の関係もない。


 少なくとも、そう見えた。


 けれどセレスティアは、宿屋の帳場で静かに断られた。


「申し訳ございません、お部屋はすべて埋まっておりまして」


 主人は目を合わせなかった。


 店の奥には、空いた鍵がいくつも掛かっていた。


「そうですか」


 セレスティアはそれ以上問わなかった。


 問えば、相手を困らせる。

 困らせれば、嘘を重ねさせる。


 彼女はそういうことに慣れていた。


 外へ出ると、荷物を持っていた御者が気まずそうに視線を落とした。


「別の宿へ向かいますか」


「ええ。お願いします」


 その声は、まだ落ち着いていた。


 だが、三軒目で同じように断られたとき、さすがにセレスティアも理解した。


 王都に、彼女の泊まる場所はない。


 いや、部屋がないのではない。

 泊めてはいけないのだ。


 レイノルド公爵家から先に手が回っているのか。

 あるいは王太子殿下の不興を恐れているのか。


 どちらでも同じだった。


 悪役令嬢という噂は、一晩で十分に広がる。


 セレスティアは馬車の中で、膝の上の手を見下ろした。


 王太子の婚約指輪も、公爵家の指輪も、もうない。


 指に残る跡だけが、やけに白く見えた。


「お嬢様」


 御者が遠慮がちに声をかける。


 公爵家から連れてきた者ではない。

 裏門で手配されていた貸し馬車の御者だった。


「南区の宿なら、もしかすると」


「いいえ」


 セレスティアは首を振った。


「これ以上、あなたに迷惑をかけるわけにはいきません」


「迷惑だなんて」


 御者は慌てて言ったが、声には不安が混じっていた。


 無理もない。


 王太子に捨てられ、公爵家にも戻らず、王宮から出てきた令嬢を乗せている。

 下手をすれば、御者まで目をつけられる。


 セレスティアは小さく微笑んだ。


「ここで結構です」


「しかし」


「荷物を下ろしてください」


 御者はしばらく迷ったあと、馬車を止めた。


 王都の北門に近い広場だった。

 旅人や商人の馬車が行き交い、遠方へ向かう乗合馬車の呼び込みが声を張っている。


 ここなら、王都を出ることはできる。


 どこへ行くかは、決まっていない。


 御者が荷物を下ろす。

 セレスティアの私物は多くなかった。


 大きな旅行鞄が一つ。

 王妃から預かった封書を入れた小箱。

 それから、数冊の帳面。


 十年いた場所を去るにしては、あまりにも少ない。


「お嬢様、本当に」


「ありがとう」


 セレスティアは代金に少し上乗せして渡した。


 御者は困った顔をした。


「こんなには」


「今朝のことは、誰にも話さなくて構いません。話しても構いません。あなたの安全を優先してください」


 御者は目を見開いた。


 セレスティアは荷物の持ち手を握る。


 思ったより重かった。


 王宮で書類の束を抱えることには慣れていたが、旅鞄は別の重さがある。


 持ち上げようとした瞬間、後ろから声がした。


「その荷は、あなたが持つには重い」


 低い声だった。


 振り返ると、黒い外套の男が立っていた。


 背が高い。

 王都の貴族たちが好む華やかな装飾はなく、外套の留め具も実用的な銀だけ。


 だが、立っているだけで周囲の空気が少し引き締まるような男だった。


 ノア・ヴァレンティア辺境伯。


 北方の領地を治める若き当主。

 王宮では、野蛮な辺境貴族と陰で呼ばれている。


 昨夜、断罪の場にもいた。


 誰にも同調せず、誰も庇わず、ただ静かに見ていた男。


「ノア辺境伯閣下」


 セレスティアは礼を取ろうとした。


 しかし荷物が邪魔で、少し体勢が崩れる。


 その前に、ノアが歩み寄り、鞄の持ち手を取った。


「礼は不要です。今のあなたは荷物を持っている」


「ですが」


「転ぶ方が面倒だ」


 無愛想な言い方だった。


 けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。


 セレスティアは、そっと手を離した。


 ノアは鞄の重さを確かめるように一度だけ持ち上げると、表情を変えずに自分の従者へ渡した。


「馬車を」


「はい」


 控えていた従者がすぐに動く。


 セレスティアは慌てて言った。


「お待ちください。私は閣下にご迷惑を」


「すでに王都の宿を三軒断られている」


 セレスティアは言葉を失った。


 ノアは淡々と続ける。


「北門の広場に一人で立っている公爵令嬢を見れば、事情を知らずとも分かる」


「……今の私は、公爵令嬢ではありません」


「では、セレスティア殿」


 呼び方をすぐに変えた。


 そのことに、セレスティアはわずかに目を伏せた。


 昨日から今日にかけて、彼女は多くの呼び名を失った。


 王太子殿下の婚約者。

 レイノルド公爵家の長女。

 次期王太子妃。

 お姉様。


 けれど今、ノアはそのどれでもなく、ただ彼女の名を呼んだ。


「私の領地へ来る気はありませんか」


「北方へ、ですか」


「ええ」


「なぜ」


 問いは短かった。


 ノアは少しだけ沈黙した。


 通りを行く馬車の音が、二人の間を過ぎていく。


「昨夜のあなたは、罪を認めた顔をしていなかった」


 セレスティアの指先が、外套の内側で小さく動いた。


「罪なら、ございます」


 ノアの灰色の瞳が、静かに彼女を見る。


「何の罪です」


「黙っていた罪です」


 自分で言って、胸が痛んだ。


 王妃のこと。

 王宮の財務のこと。

 父のこと。

 リリアナのこと。


 言えることはいくつもあった。

 だが、言ってよいことは一つもなかった。


 ノアは追及しなかった。


 それが意外だった。


 王宮の者たちは、セレスティアが沈黙すると都合よく解釈した。

 罪を認めたのだと。

 反論できないのだと。

 冷たい女だから何も感じていないのだと。


 けれどノアは、沈黙の中に別のものを見ている。


「では、その罪を裁く権利は、少なくとも昨夜の広間にいた者たちにはない」


「閣下は、私を信じるとおっしゃるのですか」


「いいえ」


 即答だった。


 セレスティアは目を上げた。


 ノアはまったく表情を変えずに言う。


「私はあなたの事情を知らない。知らないまま信じると言えば、それはただの慰めです」


 その言葉は、甘くなかった。


 だからこそ、胸のどこかにまっすぐ届いた。


「ただ、昨夜の断罪は雑だった」


「雑……」


「証拠がない。時系列が合わない。あなたを悪女にしたい者たちの話だけで組まれていた。あれを見て疑わない方が難しい」


 セレスティアは思わず、ほんの少しだけ笑ってしまった。


 笑い声というほどではない。

 息が漏れた程度だ。


 それでもノアは、わずかに眉を上げた。


「おかしなことを言いましたか」


「いいえ。ただ、雑という言葉があまりに的確でしたので」


「北方では、雑な柵から魔獣が入る」


「王宮でも、雑な理屈から噂が入ります」


 言ってから、セレスティアは少し驚いた。


 こんな返しがまだ自分にできるとは思っていなかった。


 ノアも、ほんのわずかに口元を緩めたように見えた。


 だがそれは一瞬だった。


「あなたに北方へ来る意思がないなら、別の安全な場所を探します」


「なぜ、そこまで」


「昨夜、あなたは誰も巻き込まなかった」


 セレスティアは黙った。


「反論すれば、場をひっくり返せたはずです。少なくとも、王太子殿下を動揺させる材料はあった。だが、あなたは使わなかった」


「買いかぶりです」


「そうかもしれません」


 ノアはあっさり認めた。


「それでも、あなたが何かを守って黙ったことは分かる」


 胸元の小箱が、急に重く感じられた。


 セレスティアは視線を落とす。


「……私は、守りたかったのかもしれません」


「はい」


「でも、守った結果、捨てられました」


「はい」


 否定しない。


 慰めない。


 それが、かえって苦しかった。


 セレスティアは、少しだけ唇を噛んだ。


「閣下。私は今、噂の渦中におります。私を馬車に乗せれば、あなたにも悪評が及びます」


「北方では王都の噂より、冬の備蓄の方が重要です」


「ですが、王太子殿下の不興を」


「すでに買っています」


 セレスティアは思わずノアを見た。


 ノアは淡々としている。


「昨年、北方防衛費を削られそうになったとき、私は殿下の案に反対した。王宮ではそれ以来、野蛮な辺境伯です」


「それは……存じております」


「でしょうね。あの時、私の反論資料に不足していた数字を、会議前日に誰かが補ってくれた」


 セレスティアの呼吸が、ほんの少しだけ止まった。


 ノアの視線は鋭くない。

 だが、逃げ場のない静けさがあった。


「あれは、あなたでは?」


「……王宮の記録に不備があれば、議論が感情論になります」


「やはり」


「閣下のためではありません。北方防衛費が削られれば、国境の村が危険にさらされます」


「それを分かっていた者は、王宮に多くなかった」


 ノアの声は低かった。


「礼を言う機会を逃していました」


「礼など」


「必要です」


 きっぱりと言われ、セレスティアは言葉を止めた。


「働いた者に礼を言うのは、当然です」


 当然。


 その言葉は、父がよく使うものとはまったく違って聞こえた。


 父の当然は、セレスティアが耐えることだった。

 ノアの当然は、誰かの働きを認めることだった。


 たったそれだけなのに、胸の奥がじわりと熱くなる。


 セレスティアは、それを悟られないように目を伏せた。


「……ありがとうございます」


「こちらの台詞です」


 そのとき、北方辺境伯家の馬車が広場に入ってきた。


 黒塗りの頑丈な馬車。

 王都貴族の華やかな馬車とは違い、長距離を走るための作りだった。


 従者が扉を開ける。


 セレスティアは一歩、足を踏み出しかけて止まった。


「閣下」


「はい」


「私は、まだ行き先を決められる立場なのでしょうか」


 その問いは、自分でも情けないほど弱かった。


 昨日まで、彼女は多くのことを決めてきた。

 誰に手紙を出すか。

 どの書類を先に通すか。

 どの失敗を隠し、どの問題を表に出すか。


 けれど自分自身の行き先となると、途端に分からなくなる。


 父が決める。

 王太子が命じる。

 王宮が許す。

 公爵家が用意する。


 そういう生き方しかしてこなかった。


 ノアは、少しだけ考えてから答えた。


「決められます」


「……本当に?」


「少なくとも、私の馬車に乗るかどうかは、あなたが決めることです」


 セレスティアは息を吸った。


 たったそれだけのことが、ひどく難しい。


 だが、同時に奇妙でもあった。


 王宮では、国の財務や外交に関わる判断を任されていた。

 なのに、自分がどこへ行くかを決めるのは怖い。


「北方へ行けば、私は何をすればよろしいのですか」


「まず休む」


 あまりに短い答えだった。


 セレスティアは聞き返してしまう。


「休む、ですか」


「はい」


「仕事は」


「必要になれば頼みます」


「私は、何もしないでいることに慣れておりません」


「なら、慣れればいい」


 簡単に言われ、セレスティアは困った。


 ノアは扉の前に立ち、待っている。


 急かさない。

 手を取らない。

 同情の言葉もかけない。


 ただ、選ぶ時間を与えている。


 それが、今のセレスティアにはひどく贅沢なものに思えた。


 広場の向こうで、誰かがこちらを見ている。


 王都の者だろうか。

 すでに噂は広がっている。

 悪役令嬢が、辺境伯の馬車に乗ったと。


 明日には、また新しい噂になる。


 それでも。


 ここに残っても、行く場所はない。


 公爵家には戻らない。

 王宮にも戻れない。

 修道院に押し込められるつもりもない。


 ならば。


「……お世話になります」


 セレスティアは静かに言った。


 ノアは頷いた。


「では、北へ」


 その言葉とともに、彼は少しだけ横へ退いた。


 セレスティアは馬車に乗る。


 座席は硬めだったが、不思議と落ち着いた。

 華美な香料の匂いがしない。

 木と革と、乾いた風の匂いがした。


 ノアが向かいに座る。


 従者が扉を閉めた。


 馬車が動き出す。


 王都の北門へ向かって。


 窓の外では、街の人々が忙しなく行き交っている。

 昨日までのセレスティアなら、その中に混じる書簡の流れや商会の動きまで気にしていただろう。


 今はただ、流れていく景色を見ていた。


「セレスティア殿」


 ノアが口を開く。


「はい」


「眠れるなら、眠ってください。北方までは時間がかかる」


「眠る……」


 セレスティアは少し困ったように笑った。


「今眠れば、起きたときに王妃陛下の薬の時間を逃してしまいそうで」


 言ってから、自分で気づいた。


 もう、自分が確認する必要はないのだ。


 王妃の寝室には、ミーナが行った。

 侍女長もいる。

 医師もいる。

 リリアナも、引き継ぎ書を見ているはずだ。


 それでも、胸の奥がざわつく。


 ノアは責めなかった。


「それほど長く、気を張っていたのですね」


 ただ、そう言った。


 セレスティアは窓の外を見たまま答えた。


「気を張っていたつもりはありませんでした」


「では、何と?」


「それが普通なのだと」


 馬車の車輪が石畳から土の道へ変わる。


 揺れが少し柔らかくなった。


 王都の城壁が、遠ざかっていく。


「普通ではありません」


 ノアの声が静かに落ちる。


「倒れるまで誰かを支えることは、普通ではない」


 セレスティアは返事をしなかった。


 返事をすれば、何かが崩れそうだった。


 だから窓の外だけを見ていた。


 王都の塔が小さくなる。

 王宮の尖塔も、やがて屋根の向こうに隠れていく。


 十年いた場所が、こんなにも簡単に遠ざかる。


 それが悲しいのか、ほっとしているのか、自分でも分からなかった。


 やがて馬車は北街道へ入った。


 セレスティアは外套の内側にある小箱へ手を添える。


 王妃から預かった鍵と封書。


 まだ開けてはならない。


 だが、王都を離れた今、その封書は以前よりも重くなった気がした。


 ノアは、その仕草に気づいたかもしれない。


 けれど何も聞かなかった。


 その沈黙が、ありがたかった。


 馬車は北へ進む。


 悪女と呼ばれた令嬢を乗せて。


 王都が彼女を失ったことに、まだ本当の意味では気づかないまま。


 そしてセレスティア自身も、まだ知らなかった。


 自分を信じると言わなかった男が、誰よりも先に彼女の沈黙を疑い、守ろうとしていることを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ