第3話 お姉様なら、分かってくださると思っていました
リリアナ・レイノルドは、祝福されていた。
少なくとも、周囲からはそう見えた。
「リリアナ様、おめでとうございます」
「王太子殿下にあれほど想われるなんて」
「お可哀想に。これまでずいぶんお辛かったでしょう」
「もう大丈夫ですわ。殿下が守ってくださいますもの」
次々とかけられる言葉に、リリアナは小さく頷いた。
涙の残る目元を伏せ、控えめに微笑む。
すると周囲の令嬢たちは、さらに優しい声を出した。
守られている。
望まれている。
選ばれた。
そのはずなのに、リリアナの胸の奥には、冷たい小石のようなものが沈んでいた。
姉が、怒らなかったからだ。
泣き叫ばなかった。
取り乱さなかった。
リリアナを罵らなかった。
王太子殿下に縋らなかった。
ただ、静かに立っていた。
あの青銀の瞳で、リリアナを一度だけ見た。
その目が、頭から離れない。
「リリアナ?」
隣から呼ばれて、リリアナははっと顔を上げた。
アデルが心配そうにこちらを見ている。
王太子としての威厳をまといながらも、自分にだけは柔らかく微笑んでくれる人。
今夜、彼はリリアナを選んだ。
姉ではなく、自分を。
「大丈夫かい。顔色が悪い」
「……少し、驚いてしまって」
「無理もない。君は優しいから」
アデルは当然のようにそう言った。
優しい。
その言葉を聞くたび、リリアナはほっとする。
自分が悪いことをしたのではないと、誰かが言ってくれている気がするから。
けれど今夜は、その言葉が少しだけ重かった。
「お姉様は……」
言いかけて、リリアナは口をつぐんだ。
何を言うつもりだったのだろう。
お姉様は本当に怒っていないのでしょうか。
お姉様はなぜ、あんな顔をしたのでしょうか。
お姉様は私を憎んでいるのでしょうか。
どれも、今ここで口にすべきではない。
周囲にはまだ、聞き耳を立てている者がいる。
リリアナは幼いころから、社交の場での振る舞いを姉ほど完璧にはできなかった。
だが、何を言えば自分が可哀想に見えるかだけは、いつの間にか覚えていた。
それは計算というより、身を守るための癖だった。
姉の横に立つと、いつも比べられたから。
セレスティア様はもう古語の詩集を読めるのに。
セレスティア様は王妃陛下に褒められたのに。
セレスティア様は殿下の資料作りまで手伝っているのに。
リリアナは、いつもその後ろにいた。
花のように可愛いと褒められることはあった。
だが、頼られるのは姉だった。
相談されるのも、任されるのも、叱られたあとに許されるのも、結局は姉だった。
リリアナが泣けば、周囲は慰めてくれる。
けれど大切な話になると、皆が姉の方を見る。
それが悔しかった。
姉はいつも正しかった。
間違えない。乱れない。怒鳴らない。
だから余計に苦しかった。
リリアナがどれほど頑張っても、姉の隣に立てない。
姉のようになれない。
父も、教師も、王宮の人間も、結局は姉を必要としている。
だったら。
姉の席に座れば、自分も同じになれるのではないか。
姉の婚約者に選ばれれば、自分も認められるのではないか。
そう思ってしまった。
「今日はもう休むといい」
アデルが優しく言った。
「殿下……でも、夜会は」
「君は十分に耐えた。後のことは私に任せて」
その言葉に、周囲の令嬢たちが羨ましそうに息を漏らす。
リリアナは小さく頷いた。
「ありがとうございます、殿下」
守られるのは、心地よい。
けれど、不思議だった。
姉は、守られたことがあるのだろうか。
ふと浮かんだその疑問を、リリアナはすぐに打ち消した。
あるに決まっている。
姉は公爵家の長女で、王太子の婚約者だった。
誰よりも立場があり、誰よりも尊重されていた。
だから自分より恵まれていたはずだ。
そうでなければ、困る。
自分が姉から奪ったものが、ただの椅子ではなく、何かもっと重いものだったことになってしまう。
それは、嫌だった。
リリアナはアデルに支えられながら、大広間を出た。
廊下に出ると、夜会の音楽が少し遠ざかる。
そこに、父が立っていた。
グレゴール公爵は、いつも通り厳しい顔をしていた。
だが今夜は、どこか疲れているようにも見えた。
「お父様」
「リリアナ。殿下のご厚意に感謝しなさい」
「はい」
父はアデルに向かって頭を下げる。
「殿下、娘がご迷惑をおかけいたしました」
「迷惑など。リリアナは被害者です」
アデルの声はきっぱりしていた。
リリアナはその言葉に胸を撫で下ろしかけた。
けれど父の目を見て、少しだけ不安になる。
父は、リリアナを見ていなかった。
どこか別のものを見ているようだった。
「セレスティアは?」
気づけば、リリアナはそう尋ねていた。
父の視線が戻る。
「気にする必要はない」
「でも」
「お前は殿下のお側にいればよい」
それは、望んでいた言葉のはずだった。
姉ではなく自分が選ばれた。
ならば、姉のことなど気にしなくていい。
それなのに、胸の小石はますます冷たくなる。
「お父様、お姉様は……私を恨んでいるでしょうか」
父は少し苛立ったように眉を寄せた。
「リリアナ」
「はい」
「お前はもう、セレスティアの顔色を窺う必要はない。これからは殿下の婚約者として振る舞いなさい」
婚約者。
その言葉に、リリアナの頬が熱くなった。
ずっと欲しかった言葉だ。
姉のものだった場所。
そこに、自分が立つ。
リリアナは両手を握りしめた。
「はい。頑張ります」
父は頷いた。
だが、アデルは嬉しそうに微笑む。
「君ならできる」
その言葉が、リリアナを支えた。
今はまだ不安でも、きっと大丈夫だ。
殿下がそう言ってくれるのだから。
姉ができたことなら、自分にもできるはずだ。
そう思おうとした。
しかし翌朝。
リリアナは、初めてセレスティアの執務室へ案内された。
王宮の東棟、王妃の私室と書記局の間にある、小さな部屋だった。
小さい、とリリアナは最初に思った。
王太子の婚約者が使っていた部屋なのだから、もっと華やかで広い場所を想像していた。
花が飾られ、茶器が並び、柔らかな長椅子が置かれた、優雅な部屋。
だが、そこにあったのは大きな机と本棚、書類棚、壁一面の予定表だった。
窓辺には花瓶が一つだけ。
花はすでに水を吸い尽くし、少し首を傾げている。
部屋には、甘い香水の匂いなどなかった。
インク。紙。乾いた薬草。
そして、夜遅くまで灯されていた蝋の匂い。
「こちらが、セレスティア様がお使いになっていた執務室です」
案内役の書記官が言った。
若い男だった。
彼はリリアナに丁寧に頭を下げているが、表情は硬い。
緊張しているのだろうか。
それとも、困っているのだろうか。
「ここを、私が?」
「はい。殿下より、今後はリリアナ様に一部をご確認いただくようにと」
一部。
そう聞いて、リリアナは少し安心した。
全部ではない。
姉がしていた仕事の一部なら、きっとできる。
アデルも父も、君ならできると言ってくれた。
リリアナは机に近づいた。
そこには、整然と書類が並べられていた。
表紙には、姉の筆跡で見出しがつけられている。
『王妃陛下・療養日程』
『救貧院支援金・春期配分』
『南方大使弔問関連』
『隣国返答期限一覧』
『リリアナ用・王宮業務引き継ぎ』
最後の一冊を見た瞬間、リリアナは手を止めた。
「私用……?」
「はい。セレスティア様が数日前からご用意されていたようです」
「数日前から?」
「おそらく、リリアナ様が王宮業務に関わられることを見越して」
書記官の声には、ほんのわずかな棘があった。
リリアナは気づかないふりをした。
冊子を開く。
一枚目には、姉の字でこう書かれていた。
『リリアナへ。最初からすべてを覚える必要はありません。分からないことがあれば、各担当者に必ず確認すること。急ぎの書類には赤、確認のみでよい書類には青の印をつけています』
リリアナは、唇を噛んだ。
次のページには、王妃の一日の体調変化について記されていた。
朝は比較的安定。
午後二刻以降は熱が上がりやすい。
南方香は避ける。
薬湯は体調により半量。
葡萄酒を使った菓子は不可。
さらに次のページ。
『王太子殿下の会議資料について。殿下は長文を読む時間が限られるため、要点は冒頭三行にまとめること。反対派の質問は先に想定しておく。特に財務卿は数字の根拠を問うため、別紙を必ず用意』
次。
『救貧院への支援金は遅れると食糧配給に響きます。春期は病人が増えるため、薬草費を削らないこと』
次。
『南方大使夫人は、昨年ご子息を亡くされています。弔問に関する色と花の扱いには注意』
リリアナの手が止まった。
明るい桃色のドレス。
昨夜、姉が言った言葉が蘇る。
南方大使の弔問日に、明るい桃色は避けた方がよいと申し上げました。
あれは、侮辱ではなかったのか。
リリアナの胸が、いやな音を立てた。
「……お姉様は」
声が小さくなる。
「これを、私のために?」
書記官は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
リリアナはさらにページをめくった。
そこには、社交界でリリアナが困らないよう、貴族ごとの簡単な注意点まで書かれていた。
『ローゼン侯爵夫人は初対面では厳しいが、孤児院支援の話には耳を傾けてくださる』
『マルティナ伯爵令嬢は噂好き。不用意な発言を避けること』
『ルシェル子爵は殿下の失言を記録する癖があるため、同席時は議題を絞ること』
細かい。
あまりにも細かい。
そして、どこにもリリアナを責める言葉はなかった。
できないだろうとも、愚かだとも、奪った女だとも書かれていない。
ただ、困らないように。
失敗しないように。
守るように。
姉の文字が並んでいた。
「……どうして」
リリアナは呟いた。
もし姉が自分を憎んでいたなら、こんなものを残すはずがない。
いや、違う。
姉はきっと、最後まで自分が正しいと思っていただけだ。
そう考えようとする。
けれど、ページの端に小さな書き込みを見つけた。
『リリアナは焦ると早口になります。返答に困ったときは、一度扇を閉じ、相手の言葉を繰り返すとよいでしょう』
リリアナは息を止めた。
それは、幼いころからの癖だった。
家庭教師に叱られたとき。
父に失望されたとき。
姉と比べられたとき。
リリアナは焦ると早口になる。
姉は、それを知っていた。
そして直せと叱るのではなく、困らない方法を書いていた。
胸の小石が、さらに冷たく沈んだ。
「リリアナ様」
書記官が遠慮がちに声をかける。
「本日は、まず赤印の書類からご確認を」
「赤印……」
リリアナは机の右側を見た。
赤い紐でまとめられた書類が、五束。
いや、その後ろにもある。
本棚の下段にも、赤い札が差し込まれている。
「これは、全部今日中に?」
「できれば午前中に。午後には王妃陛下の薬草納入確認と、隣国大使館への返答文の下書きがございます」
「午前中……」
リリアナは椅子に座った。
姉の椅子。
座面は硬かった。
想像していたような、優雅な椅子ではなかった。
長く座るための椅子。
仕事をするための椅子。
座った瞬間、机の高さが合わないことに気づく。
姉はリリアナより背が高い。
ペンを取ろうとして、少し肩に力が入った。
それだけで、なぜか不安になった。
「まず、こちらです」
書記官が一枚目の書類を差し出す。
数字が並んでいた。
救貧院支援金。
薬草費。
食糧配給。
昨年比。
不足分。
予備費からの振替。
リリアナは目で追った。
意味が、分からない。
文字は読める。
数字も見える。
けれど、何を判断すればよいのか分からない。
「これは……どうすれば」
「セレスティア様は例年、こちらの欄に不足分の調整案を書き込まれていました」
「調整案」
「はい」
「去年のものは?」
「こちらです」
書記官が別の帳簿を開く。
そこには、姉の筆跡がぎっしりと詰まっていた。
どこから削り、どこに足すか。
どの商会に掛け合うか。
誰に先に根回しするか。
ただ数字を移すだけではない。
人の顔が見えている書類だった。
リリアナは、ペンを握った。
けれど、何も書けなかった。
手が震える。
そのとき、扉が開いた。
「リリアナ」
アデルだった。
朝の光を背に、王太子は明るく微笑んでいた。
「どうだい。困っていないか」
リリアナは反射的に笑顔を作ろうとした。
だが、うまくいかなかった。
「殿下……」
アデルは机の上の書類を見て、少しだけ眉を上げる。
「ずいぶんあるな」
「はい。でも、あの、これは……」
「大丈夫だ」
アデルは軽やかに言った。
「君ならできる」
その言葉は、昨夜はあれほど心強かった。
今は、なぜか胸を押し潰す。
「セレスティアができたのだから、君にもできるさ」
リリアナの指から、ペンが滑り落ちた。
乾いた音が、机の上に響く。
アデルは気づかなかった。
「彼女は何でも大げさに抱え込む性格だった。君はもっと周囲を頼ればいい。ねえ、君たちもそう思うだろう?」
書記官たちは曖昧に頭を下げた。
誰も、はいとは言わなかった。
リリアナはそれを見てしまった。
姉の椅子に座っているのは自分なのに。
この部屋の誰も、自分を頼れる人間として見ていない。
守られるべき少女としては見てくれる。
可哀想な被害者としては扱ってくれる。
王太子に選ばれた娘としては頭を下げてくれる。
けれど、この山のような書類を前にしたとき。
彼らの目が求めているのは、姉だった。
「……殿下」
「うん?」
「お姉様は、毎日これを?」
「さあ。細かいことは知らないな」
アデルは何気なく言った。
「だが、君が無理をする必要はない。分からないものは後回しにすればいい」
後回し。
リリアナは赤印の書類を見た。
救貧院。
王妃の薬。
隣国大使への返答。
後回しにしていいものが、どれなのか分からない。
分からないことが、怖い。
姉はこれを知っていたのだろうか。
だから赤と青に分けていたのか。
だから担当者名を書いていたのか。
だから、リリアナが焦ったときの対処法まで残していたのか。
姉は、自分を陥れるつもりではなかった。
その考えが浮かんだ瞬間、リリアナは慌てて首を振った。
違う。
違うはずだ。
お姉様は冷たかった。
いつも正しくて、いつも上から見ていて、いつも自分を子ども扱いしていた。
だから自分は苦しかったのだ。
なのに。
机の上の引き継ぎ書は、リリアナを子ども扱いしていなかった。
失敗しないように、仕事を任せるために書かれていた。
「リリアナ?」
アデルが顔を覗き込む。
「本当に顔色が悪い。今日はもう休むかい?」
休む。
その言葉に、少しだけ救われそうになる。
でも、机の上には赤印の書類がある。
姉なら、休まなかったのだろう。
そう思った瞬間、リリアナは唇を噛んだ。
また姉だ。
ここにいないのに、姉がいる。
書類の字に。
椅子の硬さに。
書記官たちの沈黙に。
王妃の薬の時間に。
自分の手の震えに。
どこを見ても、姉がいる。
「……聞いてない」
小さく漏れた声に、アデルが首を傾げた。
「何を?」
リリアナは答えられなかった。
こんなの、聞いていない。
姉の席に座れば、認められると思っていた。
王太子に選ばれれば、姉より愛されると思っていた。
周囲が守ってくれれば、自分はきっと幸せになれると思っていた。
でも、姉の席は。
座った者を祝福する場所ではなかった。
誰にも気づかれず、誰にも褒められず、誰かの失敗を先に拾い続ける場所だった。
リリアナは震える指で、引き継ぎ書の一ページ目に触れた。
そこには、姉の整った文字がある。
『最初からすべてを覚える必要はありません』
優しい言葉だった。
今のリリアナには、責められるよりも苦しかった。
「……こんなの、聞いてない」
今度は、はっきりと声になった。
アデルは困ったように笑った。
「リリアナ、大丈夫だよ。君は一人じゃない」
その言葉に、リリアナは泣きそうになった。
嬉しかったからではない。
姉は、きっと。
ずっと一人だったのだと、気づきかけてしまったから。




