第2話 悪役令嬢と呼ばれた私は、最後まで礼を崩さなかった
控室の扉が閉まった瞬間、音楽が遠くなった。
ほんの扉一枚隔てただけで、世界は別物になる。
大広間では、まだ舞踏会が続いている。
王太子の婚約破棄という醜聞さえ、貴族たちにとっては今夜の話題を彩る香辛料に過ぎないのだろう。
誰かが扇の陰で囁き、誰かがわざとらしく溜息をつき、誰かがリリアナの涙を美しいと褒める。
セレスティアには、それが容易に想像できた。
十年も王宮にいれば分かる。
ここでは、人の傷さえも社交の飾りになる。
「セレスティア様……」
控室に控えていた侍女が、青ざめた顔で頭を下げた。
年若い侍女だった。
たしか名はミーナ。最近、王妃付きの侍女見習いから夜会補助へ移ったばかりの娘だ。
彼女の手は震えていた。
盆の上の水差しが、かすかに音を立てている。
「お水を」
「は、はい」
ミーナは慌てて杯に水を注ごうとした。
しかし指が震えすぎて、銀の杯が盆の縁に当たる。
澄んだ音が、妙に大きく響いた。
「落ち着いて」
セレスティアは静かに言った。
「私は怒っていません」
「ですが……」
「水差しは両手で持ちなさい。重いでしょう」
ミーナは泣きそうな顔になった。
この娘は、きっと見たのだ。
先ほどの広間を。
あるいは聞いたのだ。
セレスティアが王太子に捨てられ、妹を虐げた悪女として断罪されたことを。
ならば、今ここで一番怯えているのはミーナかもしれない。
悪女と二人きりにされたのだから。
セレスティアは杯を受け取り、一口だけ水を飲んだ。
喉は乾いていた。
けれど、何かを飲み込めた気がしなかった。
「私の外套を用意して」
「え……」
「今夜は、もう失礼します」
「お、お待ちください。あの、どなたかに確認を」
「確認は必要ありません。殿下より、下がれとのお言葉をいただきました」
ミーナは唇を噛んだ。
それでも動けない。
この場でセレスティアに従ってよいのか。
それとも新たな王太子妃候補となったリリアナ側へ確認すべきなのか。
若い侍女には判断できないのだろう。
かわいそうに、とセレスティアは思った。
今夜から、王宮の者たちは皆、こうして迷うことになる。
誰に従うべきか。
どこまで過去の慣例を守るべきか。
セレスティアが握っていた細かな決裁と調整を、誰が代わりに担うのか。
「ミーナ」
「はい」
「あなたは王妃陛下付きの侍女見習いでしたね」
「は、はい。三か月だけですが」
「なら、今夜は王妃陛下のお部屋へ戻りなさい。夜会補助は侍女長に任せて構いません。陛下は人の多い夜のあと、熱を出しやすい。寝室の香炉には南方香を使わないように」
「……セレスティア様」
「それから、薬湯はいつもの半量で。今夜は気分が悪くなられる可能性があります」
ミーナは涙をこらえるように目を伏せた。
「なぜ、まだ……」
その先は言葉にならなかった。
なぜ、まだ王妃の心配をするのか。
なぜ、今そんなことを言えるのか。
なぜ、自分を追い出した王宮のために。
問われなくても、意味は分かった。
セレスティアは杯を机に置いた。
「王妃陛下に罪はありません」
ミーナが息を呑む。
そのときだった。
控室の扉が、重く叩かれた。
侍女が返事をするより早く、扉が開く。
入ってきたのは、父だった。
グレゴール・レイノルド公爵。
その姿を見た瞬間、ミーナは慌てて頭を下げ、部屋の隅へ下がった。
父は侍女を一瞥した。
「外せ」
短い命令。
ミーナはセレスティアを見た。
どうすればよいか分からない顔だった。
セレスティアは小さく頷く。
「行きなさい。王妃陛下のもとへ」
「……はい」
ミーナは震える声で答え、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
父娘だけが残された。
控室は、急に冷えたように感じられた。
「座りなさい」
父が言った。
ここはセレスティアの部屋ではない。
父の屋敷でもない。
それでも彼は、当然のように命じる。
セレスティアは座らなかった。
「このまま失礼いたします。用件をお聞かせください」
父の眉がかすかに動いた。
「先ほどの態度は何だ」
「先ほど、とは」
「殿下への態度だ。謝罪を拒むなど、余計に話をこじらせるだけだと分からんのか」
謝罪。
セレスティアは、少しだけ視線を伏せた。
「私は、していない罪について謝ることはできません」
「まだそのようなことを」
「お父様は、私がリリアナを虐げたとお考えですか」
父はすぐには答えなかった。
その沈黙の短さで、セレスティアには十分だった。
「お考えではないのですね」
「事実など、この際どうでもよい」
その言葉は、静かに落ちた。
あまりにも自然に。
あまりにも当然のように。
セレスティアは、父を見た。
「どうでもよい、ですか」
「王太子殿下がそうお決めになった。リリアナが殿下の隣に立つ。ならば我が家は、それに従うしかない」
「私は、娘ではなく道具だったのですね」
「感傷で物を言うな」
父は苛立ったように言った。
「お前はレイノルド公爵家の長女だ。家のため、王家のために動くのは当然だろう」
「それで、私は何をすればよろしいのですか」
「しばらく静かにしていろ。王宮には近づくな。リリアナに余計なことを吹き込むな。社交界で被害者面もするな」
被害者面。
胸の奥で、何かがきしんだ。
だがセレスティアは表情を変えなかった。
変えれば、父はきっと言う。
見苦しい、と。
「それから、王妃陛下に近づくことも禁じる」
その言葉にだけ、セレスティアの指先が動いた。
「王妃陛下は病床です」
「だからだ。お前が何かを言えば、陛下のお心を乱す」
「陛下の薬と食事制限を把握しているのは、私です」
「医師がいる」
「医師は薬を出します。ですが、陛下がそれを飲めるか、どの香で気分を悪くされるか、どの食材で熱が上がるかまでは――」
「セレスティア」
父の声が低くなった。
「自分がいなければ王宮が回らないとでも思っているのか」
その問いに、セレスティアは答えなかった。
思ってはいない。
王宮は回る。
王宮とは、そういう場所だ。
誰か一人がいなくなっても、別の誰かが椅子に座る。
ただ、その椅子の下にどれほどの書類と約束と借りが積もっているかを知らなければ、いずれ傾く。
けれど、それを父に言っても意味はない。
父は、分かっていて言っているのだから。
「お前は賢い娘だ」
父は少し声を和らげた。
その言い方を、セレスティアはよく知っていた。
褒めているのではない。
従わせるための前置きだ。
「今は耐えろ。いずれ落ち着けば、お前にも相応の道を用意する」
「相応の道」
「修道院だ」
セレスティアは、ゆっくり瞬きをした。
舞踏会で断罪され、婚約破棄を受け、妹に立場を奪われた女。
社交界で悪女と呼ばれた公爵令嬢。
その行き先として、修道院はとても都合がよい。
静かで、遠くて、口を閉ざすにはちょうどよい場所。
「リリアナが王太子妃になれば、我が家の立場は守られる。お前も公爵家の娘として、それを支えなければならん」
「私は、まだ支えるのですか」
「当然だ」
当然。
その言葉が、奇妙に可笑しかった。
十年、支えてきた。
殿下を。
リリアナを。
父を。
王宮を。
王妃を。
公爵家を。
捨てられたあとも、まだ支えろと言う。
「お父様」
「何だ」
「一度だけ、お尋ねします」
セレスティアは父の目を見た。
「今夜、私は傷ついていないとお思いですか」
父は黙った。
眉間に深い皺が刻まれる。
答えに迷っているのではない。
その問いを不快に思っている顔だった。
「お前は昔から、そういうところがある」
「そういうところ、とは」
「自分の感情を盾にして、相手に罪悪感を持たせようとする」
セレスティアは、息を忘れた。
短い沈黙が落ちる。
部屋の外から、遠い音楽が聞こえている。
明るい曲だった。
誰かが笑っている。
セレスティアは、自分の手が冷えていくのを感じた。
「……そうですか」
やはり、訊かなければよかった。
期待していたつもりはなかった。
それでも心のどこかで、父が一言だけでも言ってくれることを望んでいたのかもしれない。
つらかったな、と。
すまなかった、と。
お前だけに背負わせた、と。
そんな言葉を。
だが、なかった。
「お話は以上ですか」
「セレスティア」
「私は今夜、王宮を出ます」
「勝手なことをするな」
「殿下より、下がれとのお言葉をいただきました」
「屋敷へ戻れ。明日以降の処遇は私が決める」
「戻りません」
父の顔色が変わった。
「何?」
「レイノルド公爵家には戻りません」
「誰の許しを得て言っている」
「許しをいただく必要があるとは存じませんでした」
セレスティアは左手を上げた。
王太子の婚約指輪は、すでに外してある。
だがもう一つ、彼女の指にはめられた指輪があった。
レイノルド公爵家の紋章が刻まれた、長女の指輪。
父の視線がそこへ落ちる。
「セレスティア、やめろ」
初めて、父の声に焦りが混じった。
王太子の婚約指輪を外すよりも、公爵家の指輪を外すことの方が、父には重いのだろう。
セレスティアは指輪に触れた。
幼いころ、この指輪を渡された日を覚えている。
お前は長女だ。
この家を支える者だ。
リリアナを守り、家名を汚すな。
父はそう言った。
母はすでに病で伏せがちで、その場にいなかった。
リリアナは庭で花冠を作っていた。
セレスティアだけが、幼い指に重すぎる指輪をはめられた。
あの日から、ずっと重かった。
「お返しいたします」
指輪は、思ったより簡単に外れた。
長くはめていたせいで、指には白い跡が残った。
婚約指輪の跡と重なるように。
セレスティアはそれを父の前の机に置いた。
硬い音がした。
「お前は、自分が何をしているのか分かっているのか」
「はい」
「公爵家を捨てる気か」
「いいえ」
セレスティアは静かに首を振った。
「捨てられたのは、私の方です」
父の顔が強張った。
「言葉を慎め」
「最後ですので」
セレスティアは一歩下がり、深く礼をした。
王太子に向けたものと同じ、完璧な礼。
「これまで、お育ていただきありがとうございました。レイノルド公爵閣下」
父が息を呑んだ。
お父様、ではなく。
公爵閣下。
その呼び方が、何を意味するか分からない父ではない。
「セレスティア」
父の声が低く揺れた。
怒りか。
焦りか。
あるいは、ほんのわずかな後悔か。
セレスティアにはもう、確かめる気力がなかった。
「失礼いたします」
彼女は扉へ向かった。
「待て」
命令の声が背中に届く。
だが足を止めなかった。
「セレスティア!」
父が名を呼ぶ。
その声を、幼いころの自分なら振り返っただろう。
父に認められたくて。
父に褒められたくて。
父に、娘として見てほしくて。
でも今のセレスティアは、扉の取っ手に手をかけるだけだった。
開ける直前、胸元の小さな鍵が服の内側で揺れた。
王妃から預かった鍵。
それに触れた瞬間、セレスティアは思い出す。
王妃の細い手。
熱で潤んだ瞳。
震える声。
『セレスティア。もし私が何も言えなくなったら、あなたがこれを守って』
『陛下、それは』
『まだ開けてはなりません。あなたが本当に、誰のためでもなく自分のために選ぶ日まで』
あのときの王妃は、すべてを知っているような顔をしていた。
セレスティアがいつか、王宮から追い出されることさえ。
父には言わなかった。
王太子にも言わなかった。
リリアナにも、もちろん言えなかった。
この鍵と封書は、セレスティアが沈黙を選ぶ理由の一つだった。
だが、今夜。
その沈黙が、ひどく重い。
「セレスティア、今戻ればまだ間に合う」
父の声が追ってきた。
戻る。
どこへ。
王太子の隣へは、もう戻れない。
公爵家の娘にも、戻れない。
妹を守る姉にも、戻れない。
戻る場所など、最初からなかったのかもしれない。
「いいえ、公爵閣下」
セレスティアは振り返らずに言った。
「もう、遅いのです」
そして扉を開けた。
廊下には、先ほどの侍女ミーナが立っていた。
どうやら戻ってきたらしい。
手には外套を抱えている。
彼女は泣きそうな顔で、けれどしっかりと頭を下げた。
「ご用意、いたしました」
「ありがとう」
セレスティアは外套を受け取った。
その温かさに、ほんの少しだけ喉が詰まりそうになる。
だが、泣かなかった。
ミーナが小さな声で言う。
「王妃陛下のお部屋には、これから参ります。南方香は、使わせません」
「お願いします」
「それから……」
ミーナは周囲を見回し、声を落とした。
「侍女長が、裏門の馬車を使うようにと」
セレスティアは目を見開いた。
侍女長。
今夜の花を整えるために三日前から奔走していた、厳格で口うるさい女性。
彼女は、広間で何も言わなかった。
言える立場ではなかったのだろう。
だが、見ていてくれたのか。
「そうですか」
セレスティアは微笑んだ。
今度は、少しだけ本物に近い笑みだった。
「礼を伝えてください」
「はい」
ミーナは涙をこらえきれず、一粒だけこぼした。
「セレスティア様は、悪女ではありません」
その言葉は、あまりにも小さかった。
廊下の端までは届かない。
父にも、王太子にも、社交界にも届かない。
けれどセレスティアには届いた。
だから十分だった。
「ありがとう」
セレスティアはそれだけ答えた。
長く言えば、崩れてしまいそうだった。
外套を羽織り、歩き出す。
控室の扉の向こうでは、父がまだ何かを言っていた。
だがもう、言葉は聞こえなかった。
王宮の廊下は長い。
十年歩いた道だ。
王妃の寝室へ向かう道。
書記局へ向かう道。
アデルの執務室へ向かう道。
リリアナが迷って泣いたとき、迎えに行った道。
そのすべてを、今夜は逆に歩いている。
出ていくために。
途中、窓の外に春の庭が見えた。
夜会用の灯りが、花壇を白く照らしている。
明日の朝には、庭師たちが散った花びらを片づけるだろう。
何事もなかったように。
セレスティアという女が、この王宮に十年いたことも、やがて花びらのように掃き清められるのだろうか。
そう思ったとき、胸元の封書がかすかに鳴った。
セレスティアは足を止めず、そっと外套の内側を押さえた。
まだ開けてはならない。
王妃の言葉が蘇る。
だが、その封書がいつか開かれる日が来るのなら。
そのとき、王宮は何を失ったのかを知るのだろう。
裏門の馬車は、静かに用意されていた。
御者は顔を伏せ、何も尋ねなかった。
それもまた、誰かの配慮だった。
セレスティアは馬車に乗る前に、一度だけ王宮を振り返った。
大広間の灯りが遠くに見える。
音楽はまだ続いている。
妹は今ごろ、王太子の隣で慰められているのだろう。
父はきっと、怒りをこらえながら指輪を見つめている。
王妃は熱を出しているかもしれない。
そして王宮の誰も、まだ気づいていない。
明日の朝、最初に困るのが誰なのかを。
セレスティアは馬車に乗った。
扉が閉まる。
車輪が動き出す。
王宮の灯りが、少しずつ遠ざかっていく。
その暗い窓硝子に映る自分の顔は、やはり泣いていなかった。
悪役令嬢と呼ばれた女は、最後まで礼を崩さず、最後まで涙を見せなかった。
けれど、机の上に残された公爵家の指輪だけが。
彼女が確かに、家族を失ったことを知っていた。




