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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第1話 妹に婚約者を譲ったのではありません

 王宮の大広間には、白い花が飾られていた。


 春の夜会にふさわしい、清らかで、華やかで、どこか夢のような香りのする花だった。


 だがセレスティア・レイノルドは、その花を見るたびに、今夜の装飾を決めた侍女長が三日前から頭を抱えていたことを思い出していた。


 花の納入が遅れた。

 南方から届くはずだった絹布の色が違った。

 隣国大使の夫人が好まない香料が一部に使われていた。

 王妃陛下の体調を考えれば、窓際の席順は変えなければならなかった。


 小さな問題は、いくつもあった。


 それらを一つずつ直し、誰にも気づかれないように今夜を整えたのは、セレスティアだった。


 もちろん、誰もそれを知らない。


 知る必要もない。


 夜会とは、そういうものだ。

 誰かが整えたものを、誰も気づかず楽しむためにある。


「セレスティア」


 名を呼ばれ、彼女は顔を上げた。


 王太子アデル・ヴァレンティアが、広間の中央に立っていた。


 金の髪に、晴れやかな笑み。

 その隣には、淡い桃色のドレスをまとった妹リリアナがいる。


 リリアナの手は、アデルの袖を頼るように掴んでいた。

 薄く震える指先。潤んだ瞳。守られることに慣れた少女の顔。


 広間のざわめきが、少しずつ静まっていく。


 セレスティアは、周囲の視線が自分に集まっていることに気づいていた。


 驚き。好奇心。

 そして、待ち望んでいた醜聞をようやく見つけた者たちの、隠しきれない期待。


 ああ。


 今夜なのだ。


 セレスティアは、胸の奥で静かに理解した。


「君との婚約を、ここに破棄する」


 アデルの声はよく通った。


 音楽が止まる。

 杯を持つ手が止まる。

 花の香りだけが、場違いなほど甘く漂っていた。


 セレスティアは瞬きを一度だけした。


 驚かなかった。


 その兆しはあった。

 リリアナが王宮に出入りする回数が増えたこと。

 アデルが執務の相談をしなくなったこと。

 父が最近、妙にセレスティアと目を合わせなくなったこと。


 すべて、今この瞬間へ向かっていた。


「理由を、お聞かせいただけますか」


 自分でも驚くほど、声は乱れなかった。


 アデルは一瞬、不満そうに眉を動かした。

 泣き崩れるか、怒るか、取り乱すか。

 彼はおそらく、そういう反応を想像していたのだろう。


 だがセレスティアは、ただ立っていた。


 王太子の婚約者として教え込まれた姿勢のまま。


「君は、リリアナを長く苦しめてきた」


 アデルが言った。


 リリアナの肩がぴくりと揺れる。


「私が、リリアナを?」


「そうだ。彼女の侍女を遠ざけ、王宮での発言を妨げ、社交界で悪評を流した。さらに王妃陛下のご病状を利用し、王宮の実務に過度に介入した」


 広間に小さなどよめきが走った。


 過度に介入。


 その言葉を聞いた瞬間、セレスティアはほんの少しだけ指先を握った。


 王妃の薬の時間を確認したこと。

 外交文書の誤字を直したこと。

 支払いが滞っていた救貧院への書類を整えたこと。

 アデルの会議資料を、彼が読みやすいよう夜更けまでまとめたこと。


 それらは、過度な介入だったのだろうか。


「お姉様を責めないでください、殿下」


 リリアナが、か細い声で言った。


 それは、絶妙なタイミングだった。


 庇うようでいて、セレスティアに罪があることを前提にした言葉。


「私が至らなかったのです。お姉様は、きっと私のためを思って……」


「リリアナ。君は優しすぎる」


 アデルは妹の手に自分の手を重ねた。


 その光景に、周囲の令嬢たちが息を呑む。

 美しい恋の場面のように見えたのだろう。


 婚約者を断罪する男と、その隣で涙ぐむ妹。


 そして、黙って立つ姉。


 舞台としては、あまりによくできていた。


「セレスティア」


 アデルが一歩近づく。


「君には失望した。王太子妃にふさわしいのは、冷たい野心を持つ女ではない。人を思いやれる、優しい女性だ」


 冷たい。


 野心。


 セレスティアは心の中で、その二つの言葉をゆっくり繰り返した。


 眠れない夜に、王妃の熱を測った。

 リリアナが失敗した招待状の名簿を徹夜で直した。

 アデルが議会で恥をかかないよう、反対派の質問まで予測して資料を作った。


 そのどれも、野心だったのだろうか。


「……殿下」


 セレスティアは静かに尋ねた。


「私は、リリアナに何をしたのでしょう」


「まだ白を切るのか」


「いいえ。確認したいのです。私が何をしたと、殿下はお聞きになったのかを」


 リリアナの指が、アデルの袖をさらに強く掴んだ。


 アデルはその震えを見て、表情を険しくする。


「君は、彼女が王妃陛下の見舞いに伺うことを妨げた」


「王妃陛下は、午後には発熱されることが多くございます。見舞いの時間を午前に改めていただくよう、お願いしました」


「彼女が王宮の書類に触れることを禁じた」


「未決裁の外交文書でした。誤って扱えば、隣国との交渉に支障が出ます」


「彼女のドレスを地味だと侮辱した」


「……南方大使の弔問日に、明るい桃色は避けた方がよいと申し上げました」


 ざわめきが、少し変わった。


 だがすぐに、誰かが囁く。


「言い訳がお上手ね」


「だから怖いのよ」


「正しいことを言っているように見せるのが、あの方のやり方なのでしょう」


 セレスティアは、その声の方を見なかった。


 見れば、きっと覚えてしまう。

 誰が何を言ったのか。

 誰が笑い、誰が目を逸らしたのか。


 覚えてしまえば、憎んでしまう。


 憎むことに、もう疲れていた。


「お姉様」


 リリアナが涙をこぼした。


「私、そんなつもりでは……ただ、殿下のお役に立ちたかっただけなのです」


「分かっている、リリアナ」


 アデルは彼女を庇うように前に出る。


「セレスティア。君のそういうところだ。自分が正しいと言葉で相手を追い詰める。リリアナは君の妹だろう。なぜ、もっと優しくできない」


 なぜ。


 その問いが、胸に落ちた。


 セレスティアは、ゆっくりと父を見た。


 グレゴール・レイノルド公爵。


 広間の端に立つ父は、いつも通り厳格な顔をしていた。

 王家に忠実で、家名を重んじ、感情よりも体面を選ぶ男。


 幼いころから、父はセレスティアに言っていた。


 お前は姉なのだから。

 お前は公爵家の長女なのだから。

 お前は王太子妃となる身なのだから。


 耐えなさい。

 譲りなさい。

 リリアナを守りなさい。


 だから守った。


 失敗を隠した。

 噂を抑えた。

 王宮で軽んじられないよう、妹の立場を整えた。


 だが父は、今夜も何も言わなかった。


 セレスティアと目が合った瞬間、父はわずかに視線を逸らした。


 それだけだった。


 たったそれだけで、十分だった。


 胸の奥で、何かが音もなく切れた。


「お父様」


 声に出したつもりはなかった。


 だが、父には届いたらしい。


 グレゴールは唇を結び、低く言った。


「セレスティア。殿下の御前だ。見苦しい振る舞いは慎め」


 見苦しい。


 セレスティアは、ほんの少しだけ笑いそうになった。


 泣き叫んでもいない。

 怒鳴ってもいない。

 誰かを責めてもいない。


 ただ、立っているだけだ。


 それでも父には、見苦しいのだ。


「そう、ですか」


 セレスティアは小さく呟いた。


 アデルが勝ち誇ったように顎を上げる。


「君には、しばらく王宮への出入りを禁じる。正式な処遇は追って沙汰する。リリアナへの謝罪は――」


「必要ありません」


 その言葉に、広間が静まり返った。


 アデルの眉が跳ねる。


「何?」


「謝罪はいたしません」


 セレスティアは、初めてアデルをまっすぐ見た。


 彼の瞳には怒りがあった。

 だが、その奥には困惑もあった。


 セレスティアが従わないことなど、彼は想像していなかったのだろう。


「私は、リリアナを虐げてはおりません。ですから、その罪について謝罪はいたしません」


「君はまだ――」


「ただ」


 セレスティアは言葉を重ねた。


「王太子殿下のご不興を買い、レイノルド公爵家の名を騒がせ、夜会の場を乱したことについては、お詫び申し上げます」


 彼女は深く礼をした。


 完璧な礼だった。


 角度も、所作も、間も。

 王太子妃教育の成果そのもの。


 その礼があまりに美しかったせいで、誰もすぐには声を出せなかった。


 リリアナのすすり泣きだけが聞こえた。


「お姉様……」


 セレスティアは妹を見た。


 泣き濡れた顔。

 幼いころ、転んで膝をすりむいたときと同じ顔。


 セレスティアは、何度もその顔を見てきた。

 そしてそのたびに、手を差し伸べてきた。


 けれど今夜、差し伸べる手はなかった。


「リリアナ」


 妹の名を呼ぶと、リリアナがびくりと震えた。


「殿下を大切になさい」


「……え?」


「王太子妃となる方は、殿下のお側に立つだけでは務まりません。殿下が見落とされたものを拾い、殿下が言えないことを言い、殿下が守れないものを守る必要があります」


「お姉様、何を……」


「あなたなら、きっと皆様が助けてくださいます」


 皮肉ではなかった。


 本心だった。


 リリアナは、セレスティアとは違う。

 彼女が泣けば、誰かが助ける。

 彼女が震えれば、誰かが手を取る。

 彼女が間違えれば、誰かが許す。


 そういう娘として育てられた。


 ならばきっと、大丈夫なのだろう。


 セレスティア一人が支えていたものなど、本当は最初から必要なかったのかもしれない。


「セレスティア、話は終わりだ」


 アデルが冷たく言った。


「下がれ」


「承知いたしました」


 セレスティアはもう一度礼をした。


 そのとき、胸元に忍ばせた小さな鍵が、肌に触れた。


 王妃から預かった鍵。


 まだ開けてはならないと言われた封書。


 誰にも知られてはならない、王宮の奥に眠る真実。


 それを思い出して、セレスティアは唇を閉じた。


 言えばよかったのかもしれない。


 リリアナが失敗した書類を誰が直していたのか。

 アデルの会議資料を誰が作っていたのか。

 王妃の病状を誰が管理していたのか。

 王宮の財務に空いた穴を誰が塞いでいたのか。

 父が何を隠し、王家が何を恐れているのか。


 すべてを言えば、この場はひっくり返ったかもしれない。


 けれど、それをすれば王妃が傷つく。

 王家が揺らぐ。

 救貧院への支援が止まる。

 隣国との交渉が壊れる。


 何より。


 彼女はもう、誰かに信じてほしいと願うことに疲れていた。


 セレスティアは背を向けた。


 背後で、誰かが安堵の息を吐く。

 誰かが小さく笑う。

 誰かが「最後まで可愛げのない方」と囁く。


 足は止めなかった。


 大広間の扉へ向かう途中、窓硝子に自分の姿が映った。


 青銀の髪。

 白い肌。

 感情の見えない顔。

 冷たい令嬢。

 悪役令嬢。


 社交界がそう呼ぶ女が、そこにいた。


 けれど、セレスティア自身は知っている。


 冷たかったのではない。


 冷たくならなければ、立っていられなかっただけだ。


 扉の前で、老執事が深々と頭を下げた。

 彼だけは、ほんのわずかに唇を震わせていた。


「セレスティア様……」


「皆に迷惑をかけないよう、私物は明朝までに引き取ります」


「そのようなことを申し上げたいのでは……」


「いいのです」


 セレスティアは微笑んだ。


 微笑むことはできた。

 王宮で教えられた通りに。


「今夜の花は、よく整っていました。侍女長に、そう伝えてください」


 老執事は言葉を失った。


 セレスティアはその横を通り過ぎる。


 廊下は広間よりも暗かった。

 夜会の音楽が、扉の向こうで再び始まる。


 何事もなかったかのように。


 王太子の婚約者が捨てられた夜でさえ、王宮は踊りを止めない。


 それが、この場所だった。


 曲がり角を抜けたところで、ようやく足を止める。


 誰もいない。


 セレスティアは手袋の上から、自分の左手を見た。


 そこには、王太子の婚約者である証の指輪があった。


 十年。


 十年、身につけてきた。


 重いと思ったことは何度もあった。

 けれど、外したいと思ったことはなかった。


 いつか報われると信じていたからではない。


 ただ、自分が選ばれた役目なのだと思っていた。


 セレスティアは指輪を外した。


 指に薄く跡が残っていた。


 その跡を見た瞬間、なぜか胸が痛んだ。


 愛されていた証ではない。

 けれど、確かにそこにあった時間の跡だった。


「……譲ったのではありません」


 誰に向けた言葉でもなかった。


 妹にではない。

 王太子にではない。

 父にでもない。


 自分自身に、言い聞かせるための言葉だった。


「あなた方が、私を要らないと言ったのです」


 声は震えなかった。


 涙も出なかった。


 ただ、廊下の冷たい空気が、胸の奥にゆっくりと入り込んでくる。


 その夜、セレスティア・レイノルドは悪役令嬢として王宮を去ることになった。


 だが王宮の誰も、まだ知らない。


 彼女が沈黙したことで守られたものが、どれほど多かったのかを。


 そして、彼女が去ったことで失われるものが、どれほど大きいのかを。


 広間では、春の花がまだ美しく香っていた。


 その花を誰が整えたのかなど、誰一人気に留めないまま。

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