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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第39話 彼女の名前は、もう勝手に語れない

セレスティア・レイノルドの声明は、翌朝には王都の貴族街に広がっていた。


 広めたのは北方辺境伯家ではない。


 もちろん、正式な写しは王妃宮と書記局へ届けられた。

 しかし、噂というものは、封蝋を待たない。


 王妃宮へ出入りする仕立屋。

 書記局の若い書記官の親族。

 王都の茶会に出入りする商人。

 公爵家の馬車係と顔見知りの馭者。


 誰がどこで聞き、誰へ伝えたのかは分からない。


 けれど昼前には、王都の社交界でその一文がひそひそと囁かれていた。


『私は、悪女でも、公爵家の飾りでも、王妃宮の器でもありません』


 その一文は、強かった。


 強すぎるほどだった。


 ある老侯爵夫人は扇の陰で眉をひそめた。


「まあ、令嬢が自らあのような声明を出すなんて」


 隣の伯爵夫人は、声を潜めて答える。


「けれど、言わなければまた勝手に言われてしまいますわ」


「それはそうですけれど……」


「悪女と言われた次の日には才女。王都の口は軽すぎますもの」


 別の茶会では、若い令嬢たちが目を輝かせていた。


「わたくし、少し胸がすっとしました」


「分かります。自分の名前は自分が書く、でしょう?」


「ええ。でも、お父様に知られたら叱られそう」


「叱られるからこそ、余計にすごいのではなくて?」


 その一方で、男たちの集まるクラブでは、別の反応があった。


「面倒な令嬢だな」


「だが、王妃宮と王太子府の記録に名があるなら、ただの感情論ではない」


「北方辺境伯が後ろについているのが厄介だ」


「いや、むしろ辺境伯がついているから、ここまで言えるのだろう」


「では結局、男の庇護ではないか」


「そう言っている時点で、君は何も読んでいないな」


 声明は、静かに王都を割った。


 セレスティアを生意気だと言う者。

 よく言ったと見る者。

 北方辺境伯の影を疑う者。

 王妃宮の弱体化を心配する者。

 レイノルド公爵家の面子を案じる者。


 誰もが勝手に語った。


 だが、今までとは一つだけ違っていた。


 語られている中心に、セレスティア本人の言葉があった。


 それは小さいようで、大きな違いだった。


 王妃宮では、声明の正式写しを前に、リリアナがじっと紙を見つめていた。


「お姉様らしいです」


 彼女は小さく言った。


 マルタが隣で問う。


「どのあたりが?」


「綺麗に怒っています」


 マルタは一瞬黙り、それからわずかに口元を緩めた。


「良い表現ですね」


「怒っているのに、崩れていない。でも、冷たくはありません。ちゃんと痛いです」


 リリアナは声明の一文を指でなぞらないよう、そっと見つめるだけにした。


『功績のみを誰かの名誉として扱うことも、負担のみを私個人の責任として扱うことも、どちらも望みません』


「これ、お父様への返事でもありますよね」


「ええ」


「そして、王妃宮への返事でもありますね」


 マルタは頷いた。


「その通りです」


「王太子府へも」


「ええ」


 リリアナは深く息を吐いた。


「お姉様は、一文で三か所刺しますね」


「刺された側に自覚があれば、ですが」


「私には刺さりました」


 リリアナは素直に言った。


「私は、お姉様の負担だけでなく、功績も見ていませんでした。お姉様がすごい人だと知っていたのに、それが何でできているのかは見ていませんでした」


 マルタは、少しだけ表情を柔らかくした。


「それを書きますか」


「はい」


 リリアナは記録帳を開いた。


『セレスティア様声明受領。功績のみを称えることも、負担のみを押しつけることも拒否する内容。リリアナ、過去に姉の功績の中身を見ていなかったことを自覚』


 書き終えて、彼女は少し顔を赤くした。


「自分の恥を書くのは、慣れません」


「慣れすぎても困ります」


「そうなのですか?」


「恥を恥と感じなくなれば、それは別の問題です」


 マルタの返しに、リリアナは小さく笑った。


 そのとき、扉が叩かれた。


 入ってきたのはアデルだった。


 手には、同じ声明の写しがある。


「読んだか」


「はい」


 リリアナは頷いた。


「殿下も?」


「ああ」


 アデルは机のそばに立ち、しばらく声明を見つめた。


「強い文だ」


「はい」


「そして、痛い」


 その言葉に、リリアナは顔を上げた。


 アデルは、もう以前のようにセレスティアの言葉を「冷たい」とは言わなかった。


 痛い、と言った。


 その違いが、リリアナには分かった。


「王太子府として、何か出されるのですか」


 マルタが尋ねる。


 アデルは頷いた。


「出すつもりだった」


「だった?」


「ああ。だが、文面を見直している」


 彼は持っていた別紙を机に置いた。


 そこには、王太子府の声明草案が書かれていた。


『王太子府は、セレスティア・レイノルド嬢の実務貢献を認め、過去の記録訂正に誠実に取り組む』


 そこまではよかった。


 だが、その次の行にリリアナは引っかかった。


『王太子府は、彼女の名誉回復に協力する』


 リリアナは眉を寄せた。


「殿下」


「分かっている」


 アデルは苦い顔で言った。


「ここが違う」


「名誉回復に協力、ですか」


「ああ。最初は正しいと思った。だが、彼女の声明を読んだら違う気がした」


 マルタが静かに言う。


「どのように?」


「名誉回復、という言葉をこちらが使うと、私たちが彼女の名誉を戻してやるように見える」


 アデルは、自分で言って顔をしかめた。


「実際は、私たちが傷つけた名誉を、彼女自身が取り戻そうとしている。私たちがすべきなのは、協力というより、記録の訂正と誤った断罪の認定だ」


 リリアナは小さく頷いた。


「お姉様は、また誰かに飾り直されたいわけではないと思います」


「ああ」


 アデルは紙を取り上げ、問題の一文に線を引いた。


「では、こうする」


 彼はその場で書き直した。


『王太子府は、セレスティア・レイノルド嬢本人の確認を経ない形で、彼女の功績および処遇について発表しない。過去の断罪および記録処理については、本人の名誉を回復するという表現に留めず、王太子府側の確認不足と記録不備を含めて訂正する』


 リリアナはそれを読み、少しだけ息を吐いた。


「こちらの方が、お姉様の文に近いです」


「近いだけでは足りないがな」


 アデルは言った。


「これは、私たちの責任の文だ。彼女の文ではない」


 マルタは静かに頷いた。


「よろしいかと」


 リリアナは、アデルの横顔を見た。


 彼はまだ謝罪を完成させていない。


 けれど、少なくとも自分の言葉を点検するようになっている。


 前なら、王太子府の威厳を守る文章が先だった。


 今は、セレスティアをまた利用しない文章を探している。


 遅い。


 とても遅い。


 でも、始まっている。


 リリアナは、それも記録した。


 一方、レイノルド公爵邸では、グレゴールが激怒していた。


 机の上には、セレスティアの声明の写しがある。


『私は、悪女でも、公爵家の飾りでも、王妃宮の器でもありません』


 その一文に、彼は強い不快感を覚えた。


 公爵家の飾り。


 まるで、自分が娘を飾りとして扱っていたようではないか。


 いや、そう受け取られる。


 これは家への反抗だ。


「旦那様」


 家令が恐る恐る声をかける。


「社交界では、すでに声明の話が」


「分かっている」


 グレゴールは低く答えた。


「王妃宮は?」


「本人確認なしの発表は認めないとの立場を」


「王太子府は」


「同様に、記録訂正を優先する意向かと」


 グレゴールは拳を握った。


 王妃宮も王太子府も、急にセレスティア本人の意思などと言い始めた。


 今まで誰もそんなことを言わなかったのに。


 今になって。


 それが、彼にはひどく苛立たしかった。


「娘一人の言葉に、王宮が振り回されている」


 家令は黙っていた。


 振り回されているのか。

 それとも、今まで振り回してきた娘が初めて足を止めただけなのか。


 そんな考えが浮かんだが、口には出さない。


 グレゴールは立ち上がった。


「こちらも声明を出す」


「旦那様」


「セレスティアは現在、心身ともに混乱し、北方辺境伯家の影響下にある。公爵家は父として娘の保護と名誉回復を望む。そう出せ」


 家令の顔が青ざめた。


「それは……お嬢様の声明と正面から」


「親として当然のことだ」


「しかし、王妃宮と王太子府が本人確認を重視する中で、心身の混乱と書くのは」


 グレゴールが鋭く睨む。


「何が言いたい」


 家令は一度口を閉じた。


 だが、ここで黙ればまた同じだと思った。


 公爵家の中にも、何十年も同じ沈黙があった。


 それがセレスティアを追い詰めた。


 家令は、深く頭を下げたまま言った。


「失礼を承知で申し上げます。今その文を出せば、公爵家はセレスティア様の言葉をまた奪おうとしていると見られます」


 部屋が静まった。


 グレゴールの顔が、ゆっくりと険しくなる。


「お前まで、あれの肩を持つのか」


「肩を持つのではなく、状況を申し上げております」


「状況?」


「はい。今の王都は、以前とは違います。お嬢様の声明が出た以上、本人の意思を無視する形は不利になります」


 グレゴールは黙った。


 不利。


 その言葉には反応した。


 道義ではなく、家の利害としてなら届く。


 家令は悲しくなったが、それでも続けた。


「家の名誉を守るためにも、ここは一方的な発表を避けるべきです」


「では、黙っていろと?」


「いいえ。お嬢様本人を含めた協議に応じる、と出すべきです」


 グレゴールは、机の上の声明を見た。


 娘の文字。


 震えているようで、はっきり読める文字。


 私の名前は、私が書く。


 その言葉が紙にはないのに、なぜか見える気がした。


 彼は長い沈黙のあと、言った。


「……草案を持ってこい」


「はい」


「ただし、父として娘を案じていることは入れろ」


「承知しました」


 家令は頭を下げた。


 完全に止められたわけではない。


 だが、最悪の文面は避けられた。


 それだけでも、今日は一歩だった。


 北方辺境伯家の屋敷では、セレスティアが王太子府の修正文を読んでいた。


 アデルからではなく、王太子府正式文書として届いたものだ。


 ノアも同席している。


 読み終えたあと、セレスティアは静かに紙を置いた。


「殿下は、言葉を選び直したのですね」


「そのようです」


「名誉回復に協力、ではなく、王太子府側の確認不足と記録不備を訂正する」


「はい」


「……痛かったでしょうね」


 思わず出た言葉だった。


 ノアが彼女を見る。


 セレスティアは、自分で苦笑した。


「また、相手の痛みを考えています」


「考えることは悪くありません」


「でも、背負わない」


「はい」


 セレスティアは頷いた。


 アデルが傷つくこと。


 それは、アデル自身のものだ。


 自分が和らげる必要はない。


 だが、彼がようやくその痛みを自分で持ち始めたことは、記録してもいい。


「王太子府の文は、受け取ります」


 セレスティアは言った。


「返事は?」


「短くします」


 彼女は紙を取り、書いた。


『王太子府の記録訂正方針、受領しました。

 確認不足と記録不備を明記する方針については、必要な一歩として受け取ります。

 今後も本人確認を経ない発表は認めません。

 セレスティア・レイノルド』


 短い。


 だが、それで十分だった。


 次に、リリアナからの手紙があった。


 こちらは正式文書ではない。


 少し乱れた字で、保管場所一覧作成の進捗と、アデルと台帳を見たことが書かれている。


 最後に、こうあった。


『お姉様の声明を読みました。

 私は、またお姉様を“すごい人”という言葉だけで片づけないようにします。

 お姉様が何をしたのか、何を奪われたのか、両方を見ます。

 まだ字は汚いです。でも、閉じません』


 セレスティアは、その一文を見て少しだけ笑った。


 字は本当に汚い。


 でも、読める。


 そして、嘘がない。


「リリアナへの返事は?」


 ノアが尋ねる。


「書きます」


 セレスティアは少し考え、ペンを取った。


『リリアナへ。

 声明を読んでくれてありがとう。

 “すごい人”という言葉は、ときどき人の苦しさを隠します。あなたが両方を見ると言ってくれたことを、受け取ります。

 字はまだ汚いですが、前より読めます。

 閉じないこと。

 セレスティア』


 書いてから、セレスティアは少し悩んだ。


 厳しすぎるだろうか。


 でも、リリアナならきっと笑う。


 泣くかもしれないが、たぶん笑う。


 そう思えた。


 夕方、王都には新たな噂が流れた。


 王太子府がセレスティア本人の確認を重視する方針を出したらしい。


 王妃宮も同じらしい。


 レイノルド公爵家は、声明を少し遅らせているらしい。


 セレスティア本人の声明が、王宮の言葉を変えたらしい。


 もちろん、すべてが好意的ではなかった。


 生意気だ。

 北方辺境伯が書かせたのだろう。

 令嬢が政治文書のような声明を出すとは。

 王妃宮の混乱に便乗している。


 そう言う者もいた。


 だが、別の声もあった。


 悪女と呼ばれた令嬢が、自分の名で反論した。

 公爵家の才女として飾られることも拒んだ。

 王太子府にまで文面を変えさせた。


 これは、ただの婚約破棄騒動ではない。


 王宮の記録と、令嬢の名前を巡る事件だ。


 その見方が、少しずつ広がり始めていた。


 夜、セレスティアは自分の声明の控えを読み返した。


『私は、悪女でも、公爵家の飾りでも、王妃宮の器でもありません』


 書いたときは震えていた。


 今読んでも、少し震える。


 けれど、後悔はなかった。


 ノアが静かに言った。


「今日は、あなたの言葉が王宮を動かしました」


 セレスティアは首を振る。


「少しだけです」


「少しで十分です」


「明日にはまた、違う噂が出るでしょう」


「出るでしょうね」


「そのたびに、私は書き続けなければならないのでしょうか」


 少し疲れた声になった。


 ノアは答えた。


「毎回すべてに答える必要はありません」


「でも、黙るとまた」


「黙ることと、反応しないことは違います」


 セレスティアは目を上げる。


「また、別ですか」


「はい」


 ノアは少しだけ口元を緩めた。


「あなたが選んで黙るなら、それもあなたの言葉です」


 セレスティアは、その言葉をゆっくり受け取った。


 黙らされる沈黙ではなく。


 選ぶ沈黙。


 そんなものが、自分にも持てるだろうか。


「今日は、もう書きません」


 セレスティアは言った。


「はい」


「明日また必要なら、考えます」


「はい」


「今夜は、閉じます」


 ノアが頷いた。


「焦らないこと」


 セレスティアは少し笑った。


「ただし、閉じないこと」


「今日は閉じていい」


 その返しに、セレスティアは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。


 そうだ。


 記録は閉じない。


 けれど、一日の終わりに帳面を閉じることは悪ではない。


 明日また開けばいい。


 セレスティアは声明の控えを丁寧に畳み、机の引き出しへしまった。


 今夜はもう、誰の名前にもならない。


 悪女でも、才女でも、器でもなく。


 ただ、セレスティアとして眠る。


 その小さな選択を、彼女は初めて少しだけ贅沢だと思った。

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