第38話 返された名前を、父はまた家のものにしようとした
翌朝、セレスティアはいつもより遅く起きた。
それでも王宮にいたころなら、完全に遅刻だと思っただろう時刻だった。
窓の外には、王都の朝が広がっている。
北方辺境伯家の王都屋敷は大通りから少し奥まっているため、馬車の音も遠い。
静かだった。
静かすぎて、少し落ち着かない。
王宮の朝は、もっと慌ただしかった。
廊下を歩く侍女の足音。
書記官が紙束を運ぶ音。
王妃の薬湯の時間を告げる小さな鐘。
王太子府から届く急ぎの伝言。
何かが常に動いていた。
そしてセレスティアは、その動きに合わせて自分を動かしていた。
今は、誰も急かさない。
それがありがたくて、怖かった。
支度を終えて食堂へ向かうと、ノアがすでにいた。
彼は手紙を一通、机の上に置いている。
封蝋を見ただけで、セレスティアは足を止めた。
レイノルド公爵家。
父からだ。
「読まなくてもいい」
ノアが先に言った。
セレスティアは、少しだけ笑った。
「閣下は最近、私の逃げ道を先に置いてくださいますね」
「必要なので」
「ありがとうございます」
彼女は椅子に座った。
食卓には温かいパンと卵料理、薄いスープが用意されている。
昨日の自分なら、手紙を先に開けていた。
食事より、父からの書簡。
それが当然だった。
けれど今日は、しばらく手紙を見つめたあと、スープに手を伸ばした。
「先に食べます」
ノアは頷いた。
「はい」
それだけのことだった。
しかし、セレスティアには大きなことだった。
父の封書より、自分の朝食を先にする。
そんな選択を、自分がする日が来るとは思わなかった。
食事を終え、茶を一口飲んでから、セレスティアは封書を手に取った。
「読みます」
「はい」
封を切る。
中の紙は、公爵家の正式文書だった。
父の筆跡はいつも通り硬く、乱れがない。
『セレスティア。
王妃宮より、お前の過去の実務記録が確認されたと聞いた。
これはレイノルド公爵家の教育が王宮に大きく寄与した証であり、家としても適切な形で名誉回復を図る必要がある。
ついては速やかに公爵家へ戻り、今後の公表方針について協議せよ。
王妃宮、王太子府、レイノルド公爵家の三者で調整し、お前の功績を公爵家令嬢として正式に扱う。
これ以上、北方辺境伯家の庇護下に留まることは、家の対面上望ましくない』
セレスティアは、手紙を読み終えてしばらく黙った。
怒りはすぐには来なかった。
代わりに、ひどく乾いた感覚が胸に広がった。
まただ。
また、そうなのだ。
自分の功績が戻ってきたと思ったら、今度はそれを家の名誉回復に使おうとする。
悪女とされたときは、家の騒ぎを鎮めるために修道院へ送ろうとした。
功績が確認されたら、家の教育の成果として公表しようとする。
父にとって、自分の中身はやはり問題ではない。
汚名なら遠ざける。
功績なら取り込む。
ただ、それだけだ。
「何と?」
ノアが尋ねた。
セレスティアは手紙を渡した。
ノアは読み、表情を変えなかった。
だが、読み終えたあと、ほんの少しだけ沈黙が長かった。
「公爵家へ戻るつもりは?」
「ありません」
セレスティアは即答した。
自分でも驚くほど、迷いがなかった。
「ただ」
「ただ?」
「功績の公表は、必要かもしれません」
ノアは静かに頷いた。
「はい」
「私が何をしてきたのか。王妃宮と王太子府がどのように記録を訂正するのか。それは、曖昧にしない方がいい」
「その通りです」
「ですが、それを公爵家の名誉回復として扱われるのは違います」
「ええ」
「私の功績は、公爵家の教育成果だけではありません」
セレスティアは、自分の声が少しずつ硬くなるのを感じた。
「私が耐えたことも、覚えたことも、失った時間も、私のものです」
ノアは、彼女を見ていた。
「返事を書きますか」
「書きます」
セレスティアは机に向かった。
白紙を前にして、一度だけ目を閉じる。
父に返事を書く。
それは今でも少し怖い。
幼いころから、父への手紙は間違えてはならないものだった。
文面は礼儀正しく。
感情は挟まず。
家の恥にならないように。
だが今は、家のためではなく、自分のために書く。
『レイノルド公爵閣下』
父上、とは書かなかった。
手が少し震えた。
それでも続ける。
『ご書簡、拝読いたしました。
まず、私はレイノルド公爵家へ戻る意思はございません。
また、私の過去の実務記録について、公爵家の教育成果として一括して扱うことには同意いたしかねます』
そこで一度、ペンを止める。
同意いたしかねます。
王太子府に初めて返したときも、この言葉を書いた。
あのときより、少しだけ手が軽い。
『王妃宮および王太子府での記録訂正は、私個人の実務関与、王妃宮の運用上の問題、王太子府の記録処理、ならびにレイノルド公爵家による教育方針の歪みを含めて、事実に基づき行われるべきです。
功績のみを公爵家の名誉として扱い、負担や搾取の構造を伏せることは認めません』
搾取。
父への書簡に、その言葉を書く日が来るとは思わなかった。
胸が鳴る。
怖い。
けれど、消さない。
『今後、私の処遇、功績、公表方針に関する協議は、私本人の同席と同意を必須条件とします。
本人不在での決定、ならびに公爵家名義での一方的な発表は拒否いたします』
最後に署名する。
『セレスティア・レイノルド』
ペンを置いたあと、しばらく紙を見つめた。
レイノルドの名を書くことにも、まだ痛みがある。
だが、今は消さない。
この名を父だけのものにしないために。
「読んでいただけますか」
セレスティアが差し出すと、ノアは受け取った。
読み終え、静かに言った。
「よいと思います」
「強すぎませんか」
「必要な強さです」
「父は怒るでしょう」
「でしょうね」
「少し怖いです」
「当然です」
その言葉に、セレスティアは小さく笑った。
「閣下の当然は、最近少し安心します」
「それはよかった」
手紙はすぐに送られた。
同時に、王妃宮と書記局にも写しを送ることにした。
父が文面を曲げて扱わないように。
もう、書簡を一か所だけに置くことはしない。
同じころ、王妃宮にもグレゴールからの書簡が届いていた。
宛先は王妃エレオノーラ。
文面は、セレスティアへ送ったものより少し丁寧だった。
『セレスティアの功績記録について、レイノルド公爵家としても王宮への貢献を正式に整理したく存じます。
つきましては、当家令嬢としての名誉回復を速やかに進め、王宮内外の混乱を収めるべく――』
そこまで読んだ王妃は、手紙を机に置いた。
「早いですね」
マルタが低く言う。
「功績が出た瞬間、家の名誉回復ですか」
リリアナは隣で顔を白くしていた。
「お父様は……お姉様を守ろうとしているのではないのですか」
自分で言ってから、声が小さくなった。
分かっている。
違う。
これは姉を守るためではなく、家の名誉を守るためだ。
アデルも同席していた。
王妃宮の業務分解試案を確認しに来ていたところだったが、グレゴールの手紙を見て表情を曇らせる。
「公爵は、セレスティアの名誉回復と言いながら、自分の家の名誉を先に置いている」
リリアナは、手元の記録帳を握った。
「記録します」
マルタが頷く。
「お願いします」
リリアナは書いた。
『レイノルド公爵、セレスティア様の功績記録を公爵家の王宮貢献として整理する意向を表明。本人の意思確認について記載なし』
本人の意思確認について記載なし。
それを書いた瞬間、リリアナの胸が痛んだ。
まただ。
また姉抜きで、姉のことが決められそうになっている。
「王妃陛下」
リリアナは顔を上げた。
「この件、お姉様に伝わっていますか」
「おそらく、同じような書簡が届いているでしょう」
王妃が答えると、アデルが言った。
「確認した方がいい。公爵が先に公爵家名義で何かを出す前に」
「王太子府として止められますか」
マルタが問うと、アデルは少し苦い顔をした。
「直接は難しい。公爵家内部の名誉回復という形を取られれば、口を挟みにくい」
「でも、お姉様の功績です」
リリアナが言う。
アデルは頷いた。
「ああ。だから、王妃宮と書記局の記録訂正を先に進める必要がある。公爵家が独自に物語を作る前に」
「物語……」
リリアナは、その言葉にぞっとした。
姉は悪女だった。
そういう物語を作られた。
今度は、姉は公爵家が育てた優秀な令嬢だった、という物語に作り替えられようとしている。
どちらにも、姉本人の痛みはない。
「私、嫌です」
リリアナは言った。
声は小さいが、震えていなかった。
「お姉様が悪女の物語にされたのも嫌でした。でも、今度は立派な公爵令嬢の物語にされるのも嫌です」
アデルは静かに頷いた。
「私もだ」
リリアナは少し驚いて彼を見る。
アデルは、机の上の公爵の手紙を見た。
「私も、彼女を冷たい婚約者という物語にしていた。リリアナを守る自分という物語も作っていた」
声が重い。
「物語にすれば、相手を見なくて済む。私は、それをした」
リリアナは何も言えなかった。
自分もしていたからだ。
怖い姉。
冷たい姉。
でも本当は何でもしてくれる姉。
都合のよい物語を、いくつも持っていた。
王妃は、静かに言った。
「では、今回は物語ではなく記録で返しましょう」
マルタがすぐに紙を用意する。
「王妃宮としての正式回答ですか」
「ええ」
王妃は少し息を整えた。
「セレスティア個人の実務関与を確認中であり、本人の同意なく公爵家名義で一括発表することは、王妃宮として認めない。そう書きなさい」
リリアナの顔に、かすかな安堵が浮かぶ。
アデルも言った。
「王太子府も同様の文を出します。私の判断として記録されていた部分の訂正がある以上、公爵家だけで扱えるものではない」
マルタは頷いた。
「では、三者ではなく、本人を含めた四者協議として扱います」
「四者?」
リリアナが尋ねる。
マルタは答えた。
「セレスティア様ご本人、王妃宮、王太子府、レイノルド公爵家。さらに必要なら第三者立会人として北方辺境伯閣下」
「はい。それがよいです」
リリアナは頷いた。
「お姉様抜きでは、もう進めないでください」
その言葉も、記録に残された。
一方、レイノルド公爵邸では、グレゴールがセレスティアからの返書を受け取っていた。
読み進めるうちに、彼の眉間には深い皺が刻まれた。
『私の過去の実務記録について、公爵家の教育成果として一括して扱うことには同意いたしかねます』
その一文で、彼は紙を握りしめた。
「……セレスティア」
低い声だった。
怒りとも、困惑ともつかない。
傍らに控えていた家令が慎重に尋ねる。
「お嬢様は、何と?」
「戻らないそうだ」
「それは」
「功績を家のものとして扱うことも認めないと」
グレゴールは吐き捨てるように言った。
「誰のおかげで、あれが王宮に出られたと思っている」
家令は答えなかった。
答えられなかった。
だが、沈黙の中に小さな疑問があった。
本当に、誰のおかげなのか。
王宮へ出たのは公爵家の力かもしれない。
だが、そこで十年耐え、実務を覚え、王妃宮を支えたのはセレスティア本人ではないのか。
家令はそれを口には出せない。
グレゴールは机を指で叩いた。
「王妃宮と王太子府に先を越されるわけにはいかない」
「と、おっしゃいますと」
「社交界に流す」
家令の顔が強張った。
「何を、でございますか」
「セレスティアは、レイノルド公爵家が王妃宮のために育て上げた才女であった。現在の混乱は、王太子府と王妃宮の記録処理の不備によるもの。公爵家は娘の名誉回復に尽力している、と」
「しかし、お嬢様ご本人が」
「本人は一時的に混乱している」
グレゴールの声は冷たかった。
「北方辺境伯の影響もある」
また、それだ。
娘本人の意思ではなく、誰かの影響。
家令は背筋に寒いものを感じた。
「旦那様。それは、王妃宮の記録と食い違う恐れが」
「先に空気を作る」
グレゴールは言った。
「記録より先に、人は噂を信じる」
その言葉は、正しかった。
そして、恐ろしかった。
セレスティアは一度、噂で悪女にされた。
今度は噂で才女に戻されようとしている。
どちらも、本人の意思とは関係なく。
その日の夕方、王都の一部貴族の間で、奇妙な噂が流れ始めた。
セレスティア・レイノルドは、やはり稀代の才女だったらしい。
王妃宮は彼女の力に頼りすぎていたらしい。
レイノルド公爵家の教育は、王宮の奥深くまで貢献していたらしい。
婚約破棄の件は、どうやら王太子府側の誤解もあったらしい。
公爵家は娘の名誉回復に動いているらしい。
その噂は、悪意だけではなかった。
むしろ、多くは好意的だった。
悪女だと思っていたが、実は有能だったのか。
やはり公爵家の令嬢は違う。
王太子殿下も惜しいことをした。
北方辺境伯が保護したのも、才を見抜いたからでは。
だが、そのどれもがセレスティアを苦しめるものだった。
夜、北方辺境伯家の屋敷にその噂の報告が届いた。
ノアは報告書を読み、静かにセレスティアへ渡した。
セレスティアは目を通し、しばらく動かなかった。
「……今度は、才女ですか」
声は静かだった。
「昨日まで悪女だったのに」
紙を持つ手が震える。
怒りが湧いた。
悲しみもあった。
笑いたくなるほど馬鹿らしい気持ちもあった。
「私は、どうしていつも誰かの言葉で形を変えられるのでしょう」
ノアは答えなかった。
セレスティアは報告書を机に置く。
「悪女。才女。公爵家の教育成果。王妃宮の器。王太子府を支えた影」
言葉を一つずつ並べる。
どれも自分で選んだ名ではない。
「私は、私の名前がほしいです」
声が震えた。
ノアが静かに言った。
「取り戻しましょう」
「どうやって」
「あなたの言葉で出す」
セレスティアは顔を上げた。
「私の言葉で?」
「はい。王妃宮や王太子府や公爵家より先にではなくてもいい。ですが、あなた自身の声明が必要です」
声明。
その言葉は重い。
社交界へ向けて、自分の言葉を出す。
今までなら考えられなかった。
令嬢が自分の名誉について直接語るなど、はしたないと言われるかもしれない。
だが、黙っていればまた物語を作られる。
悪女の次は才女。
どちらも、誰かが便利に使うための名前だ。
「書きます」
セレスティアは言った。
「今?」
「今、書かないと、また誰かの言葉が先に広がります」
ノアは少しだけ考えた。
「では、短く」
「はい」
セレスティアは紙を取った。
何を書くべきか。
私は悪女ではありません?
私は才女です?
どちらも違う。
彼女はしばらくペンを握り、それから書き始めた。
『セレスティア・レイノルドより』
その一文だけで、胸が鳴る。
『現在、私の過去の王妃宮および王太子府における実務関与について、さまざまな噂が流れていると聞いております。
私は、悪女でも、公爵家の飾りでも、王妃宮の器でもありません。
私は、私が担った仕事について、事実に基づく記録訂正を求めております。
功績のみを誰かの名誉として扱うことも、負担のみを私個人の責任として扱うことも、どちらも望みません。
今後の発表は、私本人の確認を経たもののみを正式なものとしてください』
書き終えたあと、セレスティアは息を吐いた。
短い。
けれど、これ以上は今の自分には書けない。
ノアが読み、頷いた。
「よいです」
「震えていませんか」
「少し」
「では」
「それでいい」
ノアは言った。
「震えた字でも、あなたの言葉です」
その言葉に、セレスティアは目を閉じた。
震えた字でも、自分の言葉。
リリアナの記録にも、同じことを言った気がする。
今度は自分の番だった。
その声明は、北方辺境伯家の証人印、書記局への写し、王妃宮への通知付きで翌朝には王都へ出された。
王都の噂は、さらに揺れるだろう。
悪女でも才女でもないと言った令嬢。
本人確認なしの発表を認めないと言った元王太子妃候補。
その強さを、生意気と取る者もいる。
痛快だと見る者もいる。
また何か裏があると勘ぐる者もいるだろう。
けれど少なくとも、その言葉は彼女自身のものだった。
セレスティアは、机の上に声明の控えを置いた。
そして自分の記録に、一行を書き足した。
『私の名前は、私が書く』
その文字は少し震えていた。
だが、はっきり読めた。




