第37話 焦らないこと。ただし閉じないこと
王妃宮に届いたセレスティアからの返書を、リリアナは三度読んだ。
『リリアナへ。台帳は一日で分かるものではありません。焦らないこと。ただし、閉じないこと』
たったそれだけの短い一文。
けれど、リリアナには十分すぎた。
許されたわけではない。
慰められたわけでもない。
優しい姉が戻ってきたわけでもない。
それでも、その一文はまぎれもなく自分に向けられていた。
「……お姉様、相変わらず厳しいです」
リリアナが小さく言うと、隣で台帳を確認していたエルンが顔を上げた。
「そうでしょうか」
「焦るな。でも閉じるな、ですよ? 優しいのか厳しいのか分かりません」
「両方では」
「両方……」
リリアナは手紙を胸元に当てた。
たしかにそうかもしれない。
セレスティアの言葉は、いつもそうだった。
甘くはない。
でも、突き放しきるわけでもない。
以前の自分は、その厳しさを冷たさだと思っていた。
姉は自分に優しくない。
姉は完璧だから、できない自分を見下している。
そう思う方が楽だった。
けれど今は少しだけ分かる。
姉の厳しさは、誰かを立たせるためのものだったのかもしれない。
少なくとも、今のリリアナはその一文で、もう一度台帳に向かうことができた。
「閉じません」
リリアナは自分に言い聞かせるように言った。
エルンが少し笑う。
「では、続けましょう。昨日の未処理分の続きです」
「はい」
そのとき、扉が開き、アデルが入ってきた。
昨日と同じく、供は最小限だった。
王太子が王妃宮の実務机に来ること自体、まだ侍女たちには落ち着かない出来事らしい。部屋の隅で数人が視線を伏せている。
だがアデルは、今日はそれに気づいても何も言わなかった。
「遅れた」
「殿下。まだ開始前です」
リリアナが立とうとすると、アデルは手で制した。
「そのままでいい。今日は、私も台帳を見る側だ」
そう言って、彼はリリアナの向かいに座った。
昨日までなら、王太子のために上座が用意されただろう。
今日は、台帳を中心に席が組まれている。
中央にあるのは人ではなく記録。
その配置に、アデル自身がまだ慣れていないのが分かった。
彼は台帳を開き、すぐに眉を寄せた。
「……この赤い印は?」
エルンが説明する。
「支払い予定日を過ぎたものです」
「では、この青い印は」
「支払いは済んでいますが、受領確認が戻っていないものです」
「緑は?」
「翌月補填予定です」
アデルは黙った。
しばらく台帳を見つめ、やがて小さく呟いた。
「色が多い」
リリアナは思わず笑いそうになった。
だが、すぐに真面目な顔に戻る。
「私も昨日、同じことを思いました」
「セレスティアは、これを見ていたのか」
「はい」
「これを見て、私に三行で説明していたのか」
「たぶん」
アデルは額に手を当てた。
「……私は何を聞いていたのだろうな」
リリアナは、すぐには慰めなかった。
ただ、台帳を指さす。
「殿下。ここ、私も分かりません」
「どこだ」
「この青い印の受領確認が戻っていないのに、翌月の欄では完了扱いになっています」
アデルは目を細める。
「確かに」
「エルン様、これは?」
エルンは台帳を覗き込んだ。
「おそらく、受領確認の写しが別綴じになっています。確認します」
エルンが棚へ向かおうとしたとき、隣の年配女官が口を挟んだ。
「その件でしたら、セレスティア様がいつも処理されていましたわ」
部屋が静まった。
何気ない一言だったのだろう。
年配女官は悪意のない顔をしていた。
だが、リリアナの指は止まった。
アデルも顔を上げる。
エルンは気まずそうに目を伏せた。
リリアナは、ゆっくり言った。
「今は、お姉様はいません」
「ええ、ですから困っているのです」
年配女官は困惑したように答えた。
「セレスティア様なら、どの綴じにあるかすぐにお分かりでした。確認も早くて、こちらが何も言わずとも」
「だから、今その仕組みを変えています」
リリアナの声は震えていた。
でも、引かなかった。
「お姉様がいないと分からない状態がおかしいのです」
年配女官は、少しむっとした顔をした。
「ですが、現場は動いております。理想ばかり言われましても」
その言葉は、オルフェリアの言葉に似ていた。
現実。
現場。
動かさなければならない。
その言葉で、セレスティアはずっと戻されてきた。
リリアナはペンを握る。
「では、現実として記録します」
「え?」
「受領確認の保管場所がセレスティア様個人の記憶に依存しており、担当者間で共有されていない。これを問題として記録します」
年配女官の顔が変わった。
「問題、などと」
「問題です」
アデルが静かに言った。
リリアナが驚いて彼を見る。
アデルは年配女官へ視線を向けた。
「セレスティアがいなければ分からないなら、それは王妃宮の仕組みではなく、セレスティア個人への依存だ」
「殿下……」
「私も、同じことをしていた。だから、今直す」
年配女官は口を閉ざした。
リリアナは記録した。
『受領確認保管場所、セレスティア様個人の記憶に依存。共有化必要。王太子殿下、問題として認定』
字は震えた。
だが、昨日よりはまっすぐだった。
エルンが棚の前で小さく息を吐く。
「実は、私も何度か困っていました」
リリアナが顔を上げる。
「エルン様も?」
「はい。セレスティア様に聞けばすぐでしたから、改善を後回しにしていました」
「後回し……」
「申し訳ありません」
エルンは素直に頭を下げた。
リリアナは戸惑った。
責めたいわけではない。
でも、記録しなければならない。
「では、それも記録します。セレスティア様に聞けばすぐ分かるため、改善が後回しになっていた、と」
「お願いします」
エルンは言った。
その声には、恥ずかしさと安堵が混じっていた。
自分の怠りを認めるのは苦しい。
だが、認めなければずっとセレスティア一人に戻ってしまう。
その場にいた数人の侍女たちも、少しずつ顔を伏せた。
皆、心当たりがあるのだ。
セレスティア様に聞けばいい。
その便利な言葉に。
リリアナは、姉からの手紙を思い出した。
焦らないこと。
ただし、閉じないこと。
焦らず、でも閉じない。
「まず、保管場所一覧を作りましょう」
リリアナは言った。
「私が書きます。エルン様、分かる範囲で教えてください。分からないところは、分からないと記します」
アデルが頷く。
「私も書く。王太子府側の綴じも照合する必要がある」
「殿下が?」
「必要だろう」
アデルは少し苦く笑った。
「私が知らずに済んでいたものを、今さら知るだけだ」
リリアナは小さく頷いた。
「はい」
そうして、王太子とリリアナは並んで保管場所一覧を作り始めた。
不格好だった。
遅かった。
何度もエルンに聞き返し、年配女官に確認し、棚から違う綴じを出してしまう。
だが、少なくともその場で「セレスティア様なら」と言って終わらせる者はいなくなった。
一方、北方辺境伯家の王都屋敷では、セレスティアが功績記録の三束目を開いていた。
今日は一束だけ。
そう決めていた。
だが、昨日の返書を出したあと、彼女の中で少しだけ読む覚悟が変わった。
これは鎖でもある。
でも、証でもある。
ならば、自分の速度で読めばいい。
今日の束は、王太子府会議資料整理。
セレスティアは、しばらく表題を見ただけで手を止めた。
この束は、王妃宮の記録よりも読みづらい。
王妃の療養や救貧院支援は、まだ自分の仕事として誇りを持てる。
だが王太子府の資料は、アデルの椅子を整えるためのものだった。
彼が自分を見ずにリリアナを見ていたころも、セレスティアは彼の言葉を整えていた。
それを読むのは、痛い。
「今日は別の束にしてもいい」
ノアが言った。
セレスティアは首を振る。
「いえ、読みます」
「無理をしていませんか」
「しています」
正直に答えると、ノアが眉を少し上げた。
セレスティアは続けた。
「でも、壊れるほどではありません。たぶん」
「たぶんは危険です」
「では、一枚だけ」
ノアは少し考え、頷いた。
「一枚だけなら」
セレスティアは一枚目を開いた。
王太子府財務政策会議、想定問答。
アデルが財務卿から問われる可能性のある質問。
答えるべき数字。
避けるべき言い回し。
知らない場合の確認先。
すべて自分の字だった。
横にオルフェリアの控え書きがある。
『王太子殿下の発言安定に大きく寄与。候補者本人の名は出さず』
セレスティアは、思わず目を閉じた。
名は出さず。
何度も出てくる。
自分がやったこと。
でも、名は出さない。
その代わり、失敗したときだけ名前が出る。
「腹が立ちます」
セレスティアは言った。
「はい」
「とても」
「はい」
「殿下にも、オルフェリア様にも、当時の自分にも」
「自分にも?」
「はい。なぜ、これを当然だと思っていたのかと」
ノアは少し間を置いた。
「当然だと思わされていたのでしょう」
「それでも」
「それでも腹は立つ」
「はい」
「なら、怒っていい」
セレスティアは目を開けた。
怒っていい。
何度聞いても、まだ慣れない。
だが、少しずつ受け取れるようになってきた。
「この記録も、訂正に使います」
「はい」
「殿下に見せるべきでしょうか」
「見せるかどうかは、あなたが決めることです」
「見せたい気もします」
セレスティアは紙を見た。
「殿下に、自分が何に座っていたのか見てほしい」
「それは自然なことです」
「でも、見せたら殿下が傷つくとも思います」
「それをあなたが先に背負う必要はない」
ノアの声は静かだった。
セレスティアは、ゆっくり頷いた。
「そうですね」
アデルが傷つくかもしれない。
でも、それは彼自身が引き受けるべき傷だ。
自分が先回りして和らげるものではない。
セレスティアは記録を閉じた。
「今日は一枚だけにします」
「よい判断です」
「褒められましたか」
「はい」
「……少し嬉しいです」
「受け取ってください」
ノアが真面目に言うので、セレスティアは小さく笑った。
その笑いは、以前より自然だった。
夕方、王妃宮から新たな報告が届いた。
保管場所一覧の作成が始まったこと。
複数の記録がセレスティア個人の記憶に依存していたこと。
年配女官や書記官が、その改善を後回しにしていたことを認めたこと。
アデルとリリアナが、共同で一覧作成に参加したこと。
セレスティアは報告を読み、しばらく黙った。
「どうしました」
ノアが尋ねる。
「少し、変な気分です」
「変?」
「私がいなくても、分からないことを分からないと記録し始めた」
「よいことです」
「はい。よいことです」
セレスティアは報告書を置いた。
「でも、寂しいのです」
「寂しい」
「私がいなくても、少しずつ回り始める。それは望んでいたことです。なのに、胸が痛い」
ノアは静かに聞いていた。
「私は、王妃宮に必要とされないことも怖いのかもしれません」
言ってしまうと、胸が軽くなった。
必要とされることが怖い。
だが、必要とされなくなることも怖い。
なんて面倒なのだろう。
自分でそう思った。
ノアは、当然のように言った。
「どちらも自然です」
「自然ですか」
「はい。ずっと必要とされることで居場所を作ってきたなら、必要とされなくなることも怖いでしょう」
「では、私はどうすれば」
「必要とされる以外の居場所を作る」
セレスティアは黙った。
必要とされる以外の居場所。
それは、まだ想像しづらかった。
だが、この屋敷の食卓や、静かな部屋や、鞄を持ってくれる手を思い出す。
役に立つから置かれているのではない場所。
それが少しずつ、形を持ち始めているのかもしれない。
「難しいですね」
「はい」
「でも、少し考えます」
「それで十分です」
夜、リリアナは王妃宮の机でセレスティアへの報告文を書いていた。
隣ではアデルが、王太子府側の保管一覧を写している。
不思議な光景だった。
少し前なら、二人は恋の言葉を交わしていたかもしれない。
今は、棚番号と綴じ名を確認している。
「殿下」
「何だ」
「私たち、ずいぶん色気のないことをしていますね」
リリアナがぽつりと言うと、アデルは一瞬固まり、それから小さく笑った。
「そうだな」
「でも、たぶん今はこれが必要です」
「ああ」
アデルはペンを置いた。
「リリアナ」
「はい」
「君への気持ちが、全部誰かに作られたものだったとは思わない」
リリアナは動きを止めた。
アデルは続ける。
「でも、作られた環境の中で育ったものだったとは思う」
「……はい」
「だから、今すぐ結論を出すのは違う気がしている」
リリアナは胸が痛んだ。
けれど、逃げなかった。
「私もです」
「君を大切に思っている」
「はい」
「でも、それが恋なのか、守りたいと思う癖なのか、まだ分からない」
「私も、殿下をお慕いしていた気持ちが、恋なのか、守られる場所への憧れだったのか、まだ分かりません」
二人は、しばらく黙った。
痛い沈黙だった。
でも、嘘のない沈黙だった。
やがてリリアナは、小さく言った。
「では、今は台帳を見ましょう」
アデルは苦笑した。
「そうだな」
「恋より台帳ですね」
「王宮らしくない言葉だ」
「お姉様なら、少し笑ってくださるでしょうか」
「分からないが……たぶん、呆れる」
「それは想像できます」
二人はほんの少し笑った。
甘い笑いではない。
だが、依存から少し離れた笑いだった。
その会話も、リリアナは後で短く記録した。
『王太子殿下とリリアナ、互いの感情について即時結論を出さず、当面は記録確認を優先することで一致』
書いてから、リリアナは少し顔を赤くした。
「これは、記録に残すには恥ずかしいです」
アデルが横から覗き込み、同じく少し気まずそうな顔をする。
「……だが、残した方がいいのだろうな」
「はい。たぶん」
二人は、また台帳へ戻った。
その夜遅く、王妃はリリアナの記録を読み、静かに微笑んだ。
「恋より台帳、ですか」
マルタが横で咳払いをする。
「若い方々には、少し味気ないかもしれません」
「いいえ」
王妃は記録を閉じた。
「今のあの子たちには、甘い言葉よりずっと健全です」
マルタも、少しだけ口元を緩めた。
「セレスティア様にも、お伝えしますか」
「ええ。ただし、からかわないように」
「承知しました」
王妃は窓の外を見た。
王宮はまだ混乱している。
だが、少しずつ人が自分の分を持ち始めている。
遅すぎる。
それでも、始まっている。
そして北方辺境伯家の屋敷では、セレスティアがその日の最後に自分の記録へ一文を書いていた。
『必要とされなくなることも、怖い。だが、それは戻る理由ではない』
書いた文字を見つめる。
まだ揺れている。
けれど、書けた。
それで今日の分は十分だった。




