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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第36話 功績を返された彼女は、また求められた

 功績の記録は、思っていたよりも重かった。


 紙の束としての重さではない。

 そこに書かれている年月の重さだった。


 北方辺境伯家の王都屋敷へ戻ったセレスティアは、机の上に写しを置いたまま、しばらく触れられずにいた。


 黒檀の文箱から出された記録の写し。

 王妃宮療養記録。

 救貧院支援金遅延防止。

 薬師ギルドとの臨時契約。

 王太子府会議資料整理。

 慈善基金監査補助。


 そこには、彼女が確かにいた。


 消されていたと思っていた場所に。

 名を残さなかった仕事の奥に。

 王宮の誰も見ていないと思っていた夜の書類に。


 セレスティア・レイノルド関与。


 その小さな文字が、今は目に痛い。


「読まないのですか」


 向かいに座るノアが尋ねた。


 責める声ではない。

 ただ、確認する声だった。


「読みたいです」


 セレスティアは答えた。


「ですが、読むのが怖いです」


「なぜ?」


「嬉しくなってしまうからです」


 口にしてから、胸が詰まった。


 嬉しい。


 そうだ。


 嬉しいのだ。


 自分の名前が残っていたことが。

 誰かが見ていたことが。

 自分の仕事が、完全には消されていなかったことが。


 その嬉しさが、悔しかった。


「こんな記録を残していたのなら、なぜ今まで出してくれなかったのかと思います。でも同時に、残っていてよかったとも思ってしまう」


 セレスティアは、記録束を見つめた。


「自分の痛みを利用されたような気がするのに、認められたようで嬉しい。そんなふうに思う自分が、嫌になります」


 ノアは少しだけ間を置いてから言った。


「嬉しさまで、彼らに奪われる必要はありません」


 セレスティアは顔を上げた。


「嬉しいと思ってよいのですか」


「はい」


「でも、これはオルフェリア様が私を戻すために差し出したものです」


「それでも、記録にあなたの名があることは事実です」


 ノアは静かに続けた。


「その事実を喜ぶことと、彼女の意図に従うことは別です」


「また、別ですね」


「はい」


 セレスティアは、小さく息を吐いた。


 この数日、自分は何度もその言葉に救われている。


 別。


 受け取ることと許すことは別。

 必要とされることと戻る義務は別。

 功績を喜ぶことと、利用されることは別。


 そう分けて考えなければ、すぐに呑み込まれてしまう。


「では、一つだけ読みます」


 セレスティアは、最初の束を手に取った。


 王妃宮療養記録。


 若いころの自分の字が残っている。


 今より少し硬い。

 整ってはいるが、余白の取り方に迷いがある。


『夜間咳嗽増加。香炉使用時間と一致する可能性。花香を止め、薬草香へ変更願い』


 その一文を読んだだけで、当時の部屋の空気が蘇った。


 王妃が咳き込み、侍女たちが慌て、侍医が薬を増やそうとしていた夜。


 セレスティアは、香炉の匂いが強すぎると思った。


 誰もそれを重要視しなかった。


 だが、止めた。


 王妃は少し眠れるようになった。


 それだけのこと。


 けれど、ここには残っている。


「私、確かにいました」


 セレスティアは小さく言った。


 ノアは頷いた。


「はい」


「消えていませんでした」


「はい」


「……それが、こんなに嬉しいとは思いませんでした」


 声が震えた。


 涙は出なかった。


 でも、喉の奥が熱かった。


 ノアは何も言わなかった。


 その沈黙がありがたかった。


 慰められたら、たぶん崩れていた。


 同じころ、王妃宮ではリリアナが机に向かっていた。


 前には救貧院支援金の台帳がある。


 これまでは補助として日付を写すだけだったが、今日は違った。


 支払い経路の確認。

 遅延理由の分類。

 担当者への確認欄。


 ほんの少し難しくなっただけで、額に汗がにじむ。


「ここ、前月の未処理分と合算されているのですね」


 リリアナが言うと、隣の書記官エルンが頷いた。


「はい。ですから、今月だけを見ると数字が合いません」


「怖いです」


「何がですか」


「今までの私なら、今月の欄だけ見て『合っていません』と騒いでいたと思います」


 エルンは少しだけ笑った。


「気づけたなら進歩です」


「お姉様なら、もっと早く気づいたのでしょうね」


 言ってから、リリアナはペンを止めた。


 また姉を基準にしている。


 悪い癖だ。


 だがエルンは、穏やかに言った。


「セレスティア様は、長くそれをなさっていました。今のリリアナ様が同じ速度でできる必要はありません」


「でも、遅いと誰かが困ります」


「だから、一人で抱えない仕組みに変えるのです」


 その言葉に、リリアナは顔を上げた。


 昨日から何度も聞いている言葉だった。


 一人に戻さない。

 仕組みを分ける。

 確認を増やす。


 それは姉を救うためだけではない。


 王妃宮を壊さないためでもある。


「エルン様」


「はい」


「私が遅くて、王妃宮が困ることはありますか」


「あります」


 即答だった。


 リリアナは胸を押さえた。


「ですよね」


「ですが、あなた一人が遅いことで止まる仕組みなら、その仕組みが悪いのです」


「……それ、私には少し優しすぎる言葉です」


「優しさではありません。業務設計です」


 淡々と言われて、リリアナは少しだけ笑った。


「業務設計」


「はい」


「お姉様なら、好きそうな言葉です」


「そうですね」


 エルンも小さく頷いた。


 リリアナは、再び台帳へ向き合った。


「では、私は遅くても閉じません。分からないところには印をつけます」


「それでよろしいです」


 ペンを走らせる。


 字はまだ美しくない。


 でも、昨日より少しだけ線が落ち着いている気がした。


 そのとき、マルタが部屋に入ってきた。


「リリアナ様。王太子殿下がお見えです」


「殿下が?」


 リリアナが立ち上がると、アデルが控えめに入ってきた。


 以前なら、彼が部屋に入るだけで侍女たちは一斉に空気を変えた。


 王太子のために椅子を引き、茶を用意し、リリアナは少し頬を染めた。


 だが今日は違った。


 アデルは、自分から言った。


「椅子はいい。少しだけ、作業を見せてもらいたい」


 リリアナは瞬いた。


「作業を、ですか」


「ああ」


 彼は視線を台帳へ落とした。


「王妃宮と王太子府の連絡が、どこで詰まっていたのか知りたい」


 マルタが静かに見ている。


 リリアナは少し迷い、それから頷いた。


「では、こちらを」


 彼女は台帳を差し出した。


 アデルは受け取り、眉を寄せる。


「……思ったより細かいな」


「はい」


「これは、毎月?」


「はい。救貧院だけでなく、療養所や薬草契約もあります」


 アデルは、黙ってページをめくった。


 以前なら、三枚に要約された資料で見ていたものだ。


 今、原本を見る。


 数字が多い。

 但し書きが多い。

 担当者の名前が多い。


 そこには、大局という言葉で片づけられない現実があった。


「これを、セレスティアは読んでいたのか」


 アデルが呟く。


 リリアナは静かに答えた。


「はい」


「そして、私には要点だけ渡していた」


「たぶん」


「私は、それを自分が理解していると思っていた」


 アデルは苦笑した。


 苦さのある笑いだった。


「ずいぶん傲慢だったな」


 リリアナは、すぐには慰めなかった。


 少し前なら、きっと言っていた。


 殿下は悪くありません、と。


 でも今は、言わない。


「私も、ずいぶん何も見ていませんでした」


 リリアナは言った。


「だから、一緒に見ますか」


 アデルは顔を上げた。


「一緒に?」


「はい。私も分からないところが多いです。殿下も、分からないところがあるのですよね」


「ああ」


「では、エルン様に聞きながら」


 エルンが驚いた顔をした。


「私にですか」


 リリアナは真面目に頷いた。


「はい。私たち二人とも、分からないので」


 アデルは一瞬だけ恥ずかしそうな顔をした。


 だが、逃げなかった。


「頼む」


 王太子が、書記官に頭を下げるほどではないが、はっきり頼んだ。


 エルンは慌てながらも、説明を始めた。


 マルタはその様子を静かに見ていた。


 王太子とリリアナが、同じ台帳を覗き込み、同じ場所で首を傾げている。


 それは、王宮の常識から見れば不格好だった。


 だが、セレスティア一人が夜中に整え続けていたころより、ずっとましだった。


 一方、北方辺境伯家の王都屋敷では、セレスティアが功績記録の二束目を読み終えていた。


 救貧院支援金の記録。


 自分の字。

 自分の判断。

 自分の署名ではなく、端に小さく記された関与印。


 読むたびに、胸が揺れる。


 嬉しい。

 悔しい。

 腹立たしい。

 懐かしい。


 感情がいくつも重なって、名付けにくい。


「疲れました」


 セレスティアが言うと、ノアはすぐに記録束を閉じた。


「休みましょう」


「でも、まだ半分も」


「半分も読まなくていい」


「ですが、これは私の功績で」


「だからこそ、急がなくていい」


 ノアの言葉に、セレスティアは口を閉じた。


 功績だから、急がない。


 それは不思議な考え方だった。


 王宮では、重要なものほど急がされた。


 必要だから急いで。

 あなたにしかできないから急いで。

 皆が待っているから急いで。


 だが、自分の功績なら。


 自分の速度で読んでよいのか。


「一日一束にします」


 セレスティアは言った。


「よいと思います」


「読み終えたら、王妃宮へ戻るかどうかを考えます」


「それも、急がなくていい」


「はい」


 セレスティアは、記録束に布をかけた。


 そのとき、執事が扉を叩いた。


「閣下。王妃宮より書簡が届いております」


 ノアが受け取り、封を確認する。


 王妃宮の正式な封蝋。


 セレスティアへ向けたものだった。


 彼女は受け取り、封を切る。


 中には、マルタの字で短く書かれていた。


『本日、王太子殿下とリリアナ様が救貧院支援金台帳の確認に参加されました。両名とも、分からない点を担当書記官に確認しています。

 セレスティア様の復帰を前提とせず、業務分解の試案を作成中です。

 ただし、現場は混乱しております。事実として報告いたします』


 セレスティアは、何度か読み返した。


 アデルとリリアナが、台帳を。


 分からない点を確認している。


 王妃宮は混乱している。


 正直な報告だった。


 良いことだけではない。


 混乱している。


 それを隠さず書いている。


「……混乱しているそうです」


「でしょうね」


 ノアは答えた。


「私が戻れば早いのに、と思ってしまいました」


「それも当然です」


「でも、戻りません」


 セレスティアは、はっきり言った。


「少なくとも、今すぐには」


 ノアは頷いた。


「はい」


「混乱は、私一人が戻らない理由ではなく、仕組みを変える理由です」


「その通りです」


 セレスティアは書簡を畳んだ。


 胸は痛む。


 王妃宮が混乱していると聞けば、今でも立ち上がりそうになる。


 だが、立ち上がらなかった。


 座ったまま、深く息を吸う。


 心配と背負うことは別。


 必要とされることと従うことは別。


 混乱していることと、自分が戻る義務は別。


 何度も、何度も胸の中で繰り返した。


 その夜、王妃宮ではアデルが疲れた顔で台帳を閉じた。


「一日で分かるものではないな」


 リリアナが隣で頷く。


「はい。私も、まだほとんど分かりません」


「でも、前よりは分かった」


「はい」


 エルンが控えめに言う。


「明日も続けるなら、午前の方がよいかと。午後は療養所関連が入ります」


 アデルは一瞬、昔の癖で「要点だけでいい」と言いかけた。


 だが、止めた。


「午前に来る」


 そう答えた。


 リリアナも頷く。


「私も来ます」


 二人は、以前のように見つめ合って頬を染めることはなかった。


 恋だったのか。

 配置だったのか。

 依存だったのか。


 まだ分からない。


 けれど今は、同じ台帳を見る者同士として隣にいた。


 それが少し不思議で、少しだけ救いだった。


 マルタは、その姿を記録に残した。


 王妃宮業務分解試案、第一日目。


 王太子殿下、リリアナ様、ともに救貧院支援台帳を確認。


 理解不十分。

 継続確認必要。


 厳しいが、正しい記録だった。


 そして、北方辺境伯家の屋敷では、セレスティアが机に向かって短い返書を書いていた。


『混乱しているとの報告、受け取りました。

 私が即時復帰することはありません。

 ただし、業務分解試案について、質問事項があれば文書で受けます。

 回答可否と時期は、私が判断します』


 書き終えたあと、少し迷う。


 冷たすぎるだろうか。


 でも、これでいい。


 自分を守るには、このくらいの線が必要だ。


 最後に一文を足した。


『リリアナへ。台帳は一日で分かるものではありません。焦らないこと。ただし、閉じないこと』


 書いてから、セレスティアは少しだけ笑った。


 姉らしいのか、事務的なのか。


 自分でも分からない。


 だが、それが今の自分の精一杯だった。


 封をして、届けるよう頼む。


 窓の外には、王都の夜が広がっていた。


 功績の記録は、彼女を救い始めている。


 同時に、彼女を呼び戻そうともしている。


 その両方を抱えたまま、セレスティアはもう一度自分に言い聞かせた。


 私は、必要とされても、自分を失わない。


 まだ完全には信じられない。


 けれど、その言葉を今日の記録として残すことはできた。

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