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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第34話 功績の記録は、彼女を救う鎖にもなる

朝食のスープは、王宮のものより素朴な味がした。


 澄んだ野菜の甘み。

 少し強めの塩。

 硬めに焼いたパン。


 華やかではない。

 けれど、胃に落ちると温かい。


 セレスティアは、匙を置かずに最後まで食べた。


 それだけのことが、少しだけ自分を褒めてもよいことのように思えた。


 昨日までなら、食事の途中でも書類が気になった。

 王妃の薬湯の時間。

 救貧院支援金の承認欄。

 王太子府への返答草案。

 リリアナが泣いていないか。


 そういうものが頭に浮かぶと、食事の味は消えた。


 今朝も、完全に消えたわけではない。


 王妃宮のことは気になる。

 箱を開けた後の王宮がどう動くのかも、気になる。


 けれど、セレスティアは朝食を食べた。


 最後まで。


 その小さな事実を、彼女は心のどこかにそっと置いた。


「顔色が昨日より良い」


 向かいに座るノアが言った。


 セレスティアは少しだけ目を伏せる。


「眠れましたので」


「よかった」


「ただ、少し罪悪感があります」


「なぜ」


「私が休んでいるあいだに、王妃宮では何か起きているかもしれません」


「起きているでしょうね」


 ノアはあっさり言った。


 セレスティアは思わず顔を上げた。


「否定してくださらないのですね」


「否定しても、たぶん嘘になります」


「確かに」


 苦笑が漏れた。


 王宮で何も起きていないはずがない。


 箱が開き、双生契約の記録が明らかになり、オルフェリア・ダーネスの私印が出た。


 静かに収まる方がおかしい。


「ですが」


 ノアは続けた。


「何か起きていることと、あなたが今すぐ駆けつけるべきことは別です」


「……はい」


「王妃宮には王妃陛下がいる。マルタ侍女長もいる。リリアナ嬢も記録を続けている。王太子も、少なくとも今は記録を見る姿勢を見せている」


「殿下も」


「完璧ではないでしょうが」


「はい」


 セレスティアは、少しだけ息を吐いた。


 完璧ではない。


 それでも、以前とは違う。


 アデルが謝罪を急がず、記録を残すと言ったことを思い出す。


 あの言葉を信じてよいかは分からない。


 だが、彼が少なくとも自分の未完成な謝罪を飲み込んだことは事実だ。


 それもまた、記録してよい変化なのかもしれない。


「セレスティア殿」


「はい」


「王宮からの報告があります」


 やはり。


 セレスティアの指が、杯の縁に触れた。


 ノアは急かさなかった。


「朝食を終えてから聞くと、さきほどご自分で決めていました」


「はい」


 セレスティアは、残っていた茶を飲んだ。


 温かい液体が喉を通る。


 それから、杯を置いた。


「聞きます」


 ノアは封書を取り出した。


 王妃宮からのものではない。

 北方辺境伯家の情報係がまとめた報告だった。


「今朝、オルフェリア・ダーネス侯爵夫人が王妃宮を訪れました」


 予想していた名なのに、胸が冷えた。


「……やはり」


「彼女は、あなたが王妃宮で担ってきた実務の控えを持っているそうです」


 セレスティアは、息を止めた。


「私の……実務の控え?」


「はい。救貧院支援、王妃宮療養記録、王太子府資料整理、慈善基金の監査補助など。あなたが関わった実務を、オルフェリアが独自に記録していた可能性があります」


 セレスティアは、しばらく言葉が出なかった。


 記録がある。


 自分の功績の記録が。


 王妃宮の名で吸収され、王太子の判断として残り、公爵家の体面に使われ、どこにも自分の名がないと思っていた仕事。


 その記録が、ある。


 それは、救いのはずだった。


 胸が熱くなってもよいはずだった。


 けれど、同時に背筋が冷えた。


 なぜ持っているのか。


 なぜ今まで出さなかったのか。


 何のために残していたのか。


「彼女は、その記録を提出すると?」


「条件付きで」


「条件」


 嫌な響きだった。


 ノアは報告書へ視線を落とす。


「次の場に、あなた本人を呼ぶこと。そして、あなたへ直接伝えたいことがあるそうです」


「伝えたいこと」


「あなたは王妃宮に必要な方だ、と」


 その言葉は、静かにセレスティアの胸へ入ってきた。


 必要。


 たった二文字。


 なのに、それは今でも彼女の奥深くへ届いてしまう。


 必要とされること。


 ずっと、それを求めていたのかもしれない。


 父に必要とされる娘でいたかった。

 王妃に必要とされる補佐でいたかった。

 アデルに必要とされる婚約者でいたかった。

 リリアナに必要とされる姉でいたかった。


 必要とされれば、そこにいてよい気がした。


 だから、その言葉は危険だった。


 セレスティアは自分の手を見た。


 指先が少し冷えている。


「私は、まだ揺れますね」


 小さく言った。


 ノアはすぐに答えなかった。


 否定しない。


 それがありがたかった。


「揺れるでしょう」


「はい」


「必要だと言われることと、あなたが戻る義務があることは別です」


「別」


「はい」


 何度も聞いた形の言葉だった。


 心配と背負うことは別。

 受け取ることと許すことは別。

 必要とされることと戻る義務は別。


 セレスティアは、その一つ一つを胸の中で確かめた。


「功績の記録は、見たいです」


「当然です」


「私の名が、そこにあるのなら」


「あるでしょう」


「でも、そのために王妃宮へ戻れと言われるなら」


 言葉が止まった。


 怖い。


 記録を見たい。


 自分が何をしてきたのか、誰かが見ていたと知りたい。


 けれど、それが鎖になるなら。


 あなたはこれほどのことをした。

 だから戻るべきだ。

 あなたにしかできない。

 あなたがいなければ困る人がいる。


 そう言われたら。


 自分は、まだ断れるだろうか。


「断れますか」


 セレスティアは、思わず尋ねていた。


 ノアは、彼女を見た。


「あなたは断れます」


「本当に?」


「はい」


「でも、私は必要とされることに弱いです」


「知っています」


 あまりにあっさり言われたので、セレスティアは一瞬だけ固まった。


「……知っているのですか」


「見ていれば分かります」


「隠せていませんか」


「かなり」


 セレスティアは、少しだけ肩を落とした。


「そうですか」


「ですが、弱いことと負けることは違います」


 ノアは言った。


「揺れるなら、揺れると認めた上で条件を決めればいい」


「条件」


「一人で会わない。即答しない。必要という言葉だけで決めない。記録を見せてもらうことと、王妃宮へ戻ることを同じ議題にしない」


 セレスティアは、ゆっくり瞬きをした。


 条件を決める。


 確かに、それならできるかもしれない。


 感情が揺れないようにするのではなく、揺れたときに流されない仕組みを先に置く。


 それは、彼女がずっと王宮でやってきたことに近かった。


 ただし、今度は他人のためではない。


 自分を守るための仕組みだ。


「書きます」


 セレスティアは言った。


 ノアは少しだけ口元を緩めた。


「朝食後ならいいでしょう」


「はい。朝食後です」


 セレスティアは新しい紙を取った。


 表題を書く。


『オルフェリア・ダーネス侯爵夫人との面会条件』


 一、面会には第三者立会人を置くこと。

 二、功績記録の提出と、王妃宮復帰の是非を同一議題にしないこと。

 三、必要性を理由とした即時回答を求めないこと。

 四、本人の意思確認なく処遇案を作成しないこと。

 五、会話は記録されること。


 書き終えてから、セレスティアは紙を見た。


 自分で自分のために条件を書いている。


 数日前なら、考えられなかった。


「これを王妃宮へ?」


 ノアが尋ねる。


「はい」


「よいと思います」


「強すぎませんか」


「弱すぎません」


 セレスティアは少し笑った。


「その言い方、気に入りました」


「それはよかった」


 しかし笑いは、すぐに静まった。


 オルフェリア。


 王妃宮の古い女官長。


 彼女は、セレスティアを褒めるだろう。


 必要だと言うだろう。


 あなたほど王妃宮を理解する者はいないと。


 その言葉に、自分はきっと傷つく。


 それでも、会わなければならないのだろう。


 自分の功績の記録を見るために。


 そして、王妃宮が自分をどう見ていたのかを知るために。


 同じころ、王妃宮では、オルフェリアが持参した文箱を開けていた。


 文箱は黒檀でできている。

 小ぶりだが重厚で、角には銀の補強が施されていた。


 中から出てきたのは、丁寧に束ねられた記録の数々だった。


 リリアナは、その量を見て息を呑んだ。


 こんなに。


 姉の名前が、こんなに。


 オルフェリアは、白い手袋をはめた手で最初の束を取り上げる。


「王妃宮療養記録、補佐欄。セレスティア様の初期対応記録です」


 書記局長が受け取り、確認する。


「確かに、セレスティア様の関与が記されています」


 リリアナの胸が痛んだ。


 記されていた。


 なら、なぜ表に出なかったのか。


 なぜ姉だけが、いつも陰の働きにされたのか。


 オルフェリアは、まるで美しい刺繍でも見せるように次々と記録を示す。


「こちらは救貧院支援金の遅延防止対応。こちらは東区薬師ギルドとの臨時契約。こちらは南方大使夫人の療養滞在に関する調整。こちらは王太子府会議前の資料整理」


 アデルの顔が、少しずつ重くなっていく。


 王太子府会議前の資料整理。


 自分が読んでいたものだ。


 彼女の手で整理されたもの。


 オルフェリアは言った。


「ご覧の通り、セレスティア様はただの被害者ではありません。王妃宮の機能そのものを支えた方です」


 リリアナは、そこで顔を上げた。


「ただの被害者ではない、とはどういう意味ですか」


 オルフェリアは微笑む。


「そのままの意味です。彼女は奪われただけの可哀想な令嬢ではありません。力を持ち、成果を残し、王妃宮を動かした。だからこそ、王妃宮に必要なのです」


「必要だから、戻すのですか」


「戻す、という言い方は強いですね」


「では?」


「ふさわしい場所へ立っていただくのです」


 リリアナは、記録帳を握った。


 言葉が美しい。


 だから危険だ。


 ふさわしい場所。

 必要な方。

 完成された器。


 そのすべてが、姉をまた同じ場所へ連れていこうとしている。


「お姉様が望まなければ?」


 リリアナが尋ねると、オルフェリアは少しだけ目を細めた。


「望まない理由を、丁寧にほどく必要がございます」


「ほどく?」


「ええ。人は傷つけば、自分の役割まで憎むことがあります。けれど、セレスティア様が王妃宮で輝いていた事実は消えません」


 輝いていた。


 リリアナは、怒りに近いものを感じた。


 姉は輝いていたのか。


 それとも、燃やされて明るく見えていただけなのか。


 どちらだったのか。


 自分にはまだ分からない。


 でも、少なくともオルフェリアの言葉だけで決めてはいけない。


「その言葉は、本人の前で記録されるべきです」


 リリアナは言った。


 オルフェリアが彼女を見る。


「もちろん」


「ただし、お姉様がすぐ答える必要はありません」


「リリアナ様も、ずいぶん慎重になられましたね」


「はい」


 リリアナは涙をこらえた。


「遅すぎましたが」


 オルフェリアは小さく笑った。


「遅すぎると分かっているなら、急ぐべきです」


「違います」


 リリアナは首を振った。


「遅すぎたからこそ、もう急がせてはいけないのだと思います」


 その言葉に、王妃が静かに目を伏せた。


 マルタはリリアナを見た。


 アデルも、少し驚いたように彼女を見ている。


 オルフェリアだけが、読みにくい微笑を浮かべていた。


「では、セレスティア様に決めていただきましょう」


 彼女は言った。


「王妃宮に戻るか否かを」


「いいえ」


 今度はアデルが口を開いた。


「その問いの立て方が違う」


 オルフェリアが振り向く。


「殿下」


「王妃宮に戻るか否か、という問いだけを置けば、彼女はまた責任を背負うか、見捨てるかの二択に追い込まれる」


 アデルの声は、まだ少し硬い。


 だが、自分の言葉だった。


「問うべきは、王妃宮が彼女をどう扱ってきたのか。記録をどう訂正するのか。職務をどう分解するのか。その上で、彼女が関わるなら、どの範囲を本人が選ぶのかだ」


 リリアナは、思わず兄を見るような目でアデルを見た。


 いや、兄ではない。


 王太子だ。


 でも今、彼は初めてセレスティアのためではなく、構造のために言葉を出したように見えた。


 オルフェリアは、アデルを静かに見つめた。


「殿下も、セレスティア様に教育されすぎたようですね」


 嫌味だった。


 しかしアデルは、少しだけ苦く笑った。


「そうかもしれない」


 それから、真っ直ぐに言った。


「だが、今度は彼女に代わりに整えてもらうのではなく、自分で考える」


 オルフェリアの微笑が、わずかに薄くなった。


 王妃が、そこで口を開いた。


「セレスティアから、面会条件が届きました」


 マルタが封書を開き、読み上げる。


 一、面会には第三者立会人を置くこと。

 二、功績記録の提出と、王妃宮復帰の是非を同一議題にしないこと。

 三、必要性を理由とした即時回答を求めないこと。

 四、本人の意思確認なく処遇案を作成しないこと。

 五、会話は記録されること。


 読み終えると、部屋に沈黙が落ちた。


 リリアナは、胸の奥で小さく安堵した。


 姉は、もう条件を書ける。


 自分を守るための条件を。


 オルフェリアは、しばらく黙っていた。


 そして、ゆっくりと笑った。


「見事です」


 その言葉は、本心に聞こえた。


「やはり、あの方は王妃宮に必要な方です」


 リリアナの胸がまた冷える。


 称賛すら、鎖になる。


 王妃は静かに言った。


「オルフェリア。条件を呑みますか」


「呑みましょう」


 オルフェリアはあっさり答えた。


「記録も、立会人も、即答不要も構いません」


「本当に?」


 マルタが警戒を隠さず言う。


「ええ。私はあの方を説得しに行くのではありません」


 オルフェリアは、文箱の上に手を置いた。


「思い出していただきに行くのです。ご自分が何を成し遂げた方なのかを」


 その言葉は、また甘い毒だった。


 リリアナは、記録帳に書いた。


『ダーネス侯爵夫人、説得ではなく、セレスティア様に自身の功績を思い出してもらうためと発言』


 書きながら、思う。


 功績を思い出すことは、悪いことではない。


 姉の名が取り戻されるなら、それは必要なことだ。


 でも、それを誰が、何のために差し出すのか。


 そこを見誤れば、また姉は鎖につながれる。


 王妃は疲れたように椅子へ身体を預けた。


「面会は明日。場所は王妃宮ではなく、中立の部屋にします」


「なぜです」


 オルフェリアが尋ねる。


「王妃宮は、あなたにも私にも近すぎる場所です」


 王妃は答えた。


「セレスティアには、少しでも息ができる場所が必要です」


 オルフェリアは、それ以上反論しなかった。


 北方辺境伯家の屋敷では、セレスティアが自分で書いた面会条件の控えを見つめていた。


 ノアが隣で言う。


「すべて呑んだそうです」


「呑んだのですか」


「はい」


 セレスティアは意外だった。


 もっと揉めると思っていた。


 だが、すぐに別の不安が来る。


「呑めるということは、条件があっても言える自信があるのですね」


「でしょうね」


「強い方なのですね」


「そのようです」


 セレスティアは紙を畳んだ。


 明日、オルフェリアと会う。


 自分の功績の記録を見る。


 必要だと言われる。


 きっと、揺れる。


 でも、条件はある。


 ノアがいる。

 記録がある。

 即答しなくていい。


 セレスティアは、自分に言い聞かせるように呟いた。


「功績を受け取ることと、戻ることは別」


「はい」


「必要だと言われることと、従うことは別」


「はい」


「私は、私の意思で決める」


「はい」


 ノアは、同じ調子で答えた。


 その声に支えられながら、セレスティアは窓の外を見た。


 王都の空は、薄く曇っている。


 明日はまた、古い王妃宮と向き合う。


 責められるのではない。


 褒められる。


 必要だと言われる。


 それが、こんなにも怖い。


 人は、罵倒よりも称賛で縛られることがある。


 セレスティアは今、その鎖の形をようやく知り始めていた。

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