第32話 古い女官長は、まだ沈黙していなかった
北方辺境伯家の王都屋敷は、王宮から少し離れた静かな通りにあった。
派手な屋敷ではない。
王都の中心にある貴族邸のように、金箔の門や大理石の柱で通行人を威圧することもない。
石造りの壁は頑丈で、門番の立ち姿は無駄がなく、窓の灯りは控えめだった。
セレスティアは馬車を降りた瞬間、少しだけ息を吐いた。
王宮とは空気が違う。
王宮の空気は、いつも誰かの視線を含んでいた。
壁の模様、廊下の角、香炉の煙の向こうにまで、人の思惑が潜んでいる気がした。
ここは違う。
静かだ。
無関心ではない。
ただ、踏み込みすぎない静けさだった。
「お疲れでしょう」
ノアが言った。
「はい」
セレスティアは正直に答えた。
隠す必要はない。
今日はもう、隠せるほどの余力もなかった。
屋敷の玄関では、年配の執事が待っていた。
「お帰りなさいませ、閣下。セレスティア様のお部屋も整えております」
「ありがとう」
ノアが短く答える。
執事はセレスティアへ向き直り、深く礼をした。
「ご滞在中、何か必要なものがございましたら遠慮なくお申しつけください」
「ありがとうございます」
「今夜は、王宮からの来客はお通ししないよう申しつけられております」
セレスティアは、思わずノアを見た。
ノアは平然としている。
「必要だと思いました」
「……ありがとうございます」
「受け取ります」
いつもの返事。
それだけで、ほんの少し肩の力が抜けた。
部屋に案内されると、そこには余計なものがなかった。
寝台。
小さな机。
暖炉。
水差し。
温かい茶。
花も香炉もない。
王宮の客室なら、必ず豪華な花瓶や香が置かれる。
来客を歓迎していると示すために。
だが、今のセレスティアには香りがないことの方がありがたかった。
今日は、あまりにも多くのものを見すぎた。
母の手紙。
父の沈黙。
王妃宮の罪。
王太子府の記録。
自分の名前が消され、利用され、配置されてきた証拠。
そこへさらに強い花の香りなどあれば、息が詰まってしまっただろう。
ノアは扉の外で立ち止まった。
「今夜は休んでください」
「はい」
「書類は明日でいい」
「……はい」
少し間が空いた。
ノアが、わずかに目を細める。
「今の返事は怪しい」
セレスティアは目を逸らした。
「少しだけ、確認を」
「明日でいい」
「ですが」
「明日でいい」
二度言われ、セレスティアは観念した。
「分かりました」
「本当に?」
「本当に」
「では、机の上に鞄を置かない方がいい」
見抜かれていた。
セレスティアは、鞄を机ではなく寝台脇の低い棚へ置いた。
それでも、少し気になる。
鞄の中には記録がある。
母の手紙の写しもある。
リリアナの記録もある。
だが今夜は触れない。
触れれば、また読み返してしまう。
読み返せば、考えてしまう。
考えれば、眠れなくなる。
「では、おやすみなさい」
ノアが言った。
「おやすみなさい」
扉が閉まる。
部屋に一人になる。
その瞬間、セレスティアは深く息を吐いた。
足元から力が抜ける。
椅子に座るつもりが、そのまま寝台の端へ腰を下ろしてしまった。
疲れていた。
体だけではない。
心が、骨の奥まで疲れている。
母の手紙を読んだときに流れた涙は、まだ頬のどこかに残っている気がした。
泣いた。
自分は、今日泣いた。
そのことが不思議だった。
泣く場所が分からないと思っていた。
泣き方を忘れたと思っていた。
けれど、母の字を見た瞬間、涙は勝手に落ちた。
あれは悲しみだったのか。
安堵だったのか。
怒りだったのか。
まだ分からない。
ただ、一つだけ分かる。
母は、自分を道具ではないと書いていた。
それだけで、今日の自分は少しだけ救われた。
セレスティアは胸元に手を当てた。
鍵は、もうそこにはない。
王妃宮で箱を開けたあと、鍵は再び彼女の手元に戻された。
今は鞄の中にある。
箱は王宮に残った。
鍵はセレスティアが持つ。
まだ繋がっている。
王宮と自分が。
そのことが、少し重かった。
けれど、以前のように縛られている感覚ではない。
自分が次に開けるかどうかを決められる。
それだけで違う。
セレスティアは寝台に横になった。
まだ着替えてもいない。
だが少しだけ目を閉じたかった。
そのとき、廊下の向こうで小さな足音がした。
すぐに止まる。
扉は叩かれない。
屋敷の者が、何か用事を思い出して引き返したのかもしれない。
セレスティアは目を閉じた。
眠れそうな気がした。
しかし、眠りに落ちる直前、頭の片隅で一つの名前が浮かんだ。
オルフェリア・ダーネス。
王妃宮の古い女官長。
表舞台を退いたはずの女。
彼女は、まだ何も語っていない。
そのことが、薄い棘のように意識に残った。
同じころ、王妃宮では一通の書簡を前に、マルタが顔を曇らせていた。
封蝋は三本の枝を絡めた紋。
ダーネス侯爵家。
宛名は王妃エレオノーラ。
そして表書きの端に添えられた一文。
『セレスティア・レイノルド嬢が箱を開けたなら、私にも話す権利がございます』
マルタは、封書を手にしたまましばらく動かなかった。
夜番侍女は不安そうに立っている。
「侍女長……」
「この件を誰に話しましたか」
「まだ誰にも。すぐに侍女長へと」
「よろしい。今夜はこのことを口にしないように」
「はい」
侍女が下がる。
マルタは封書を見下ろした。
オルフェリア様。
その名を心の中で呼ぶだけで、若いころの緊張が蘇る。
オルフェリア・ダーネス侯爵夫人は、優雅な人だった。
声を荒げることはない。
微笑みを崩すこともない。
侍女が失敗しても、その場で叱りつけることはしない。
ただ、翌日には配置が変わっている。
気づけば、重要な仕事から外される。
王妃宮の中心から遠ざけられる。
彼女は怒鳴らずに人を動かす人だった。
そして、王妃宮を守るためなら、人の人生を静かに配置できる人だった。
マルタはその怖さを知っている。
知っていて、若いころは逆らえなかった。
今も、封書一つで指先が冷える。
それが腹立たしかった。
「マルタ」
背後から声がした。
王妃だった。
寝室の扉が少し開き、エレオノーラがマルタを見ている。
顔色は悪い。
だが目は覚めていた。
「陛下。お休みでは」
「眠れると思いますか」
王妃は小さく苦笑した。
マルタは封書を持って近づく。
「ダーネス侯爵家より書簡が」
「オルフェリアですね」
「はい」
王妃は封書を受け取った。
封蝋を見ただけで、わずかに目を細める。
「まだ、その印を使うのですね」
「お開けになりますか」
「ええ」
マルタが封を切る手を支える。
中の文面は短かった。
王妃はそれを読み、しばらく黙った。
「何と」
マルタが尋ねる。
王妃は便箋を渡した。
そこには、流れるような筆跡でこう書かれていた。
『王妃陛下。
双生契約の箱が開かれたと聞き及びました。
あの箱に収められた文書のみで過去を裁くならば、王妃宮は大きな誤りを犯します。
セレスティア嬢が被害者であることは否定いたしません。
ただし、彼女は同時に王妃宮が育てた最も完成された器でもあります。
器を割るか、使うか。
王妃陛下は、その選択を誤ってはなりません。
明朝、参上いたします。
オルフェリア・ダーネス』
マルタは読み終えた瞬間、奥歯を噛んだ。
「器……」
その一語に、抑えきれない怒りが滲んだ。
王妃は目を閉じた。
「相変わらずですね」
「陛下。お会いになる必要は」
「あります」
王妃は即答した。
「彼女は、箱の外にある記憶を持っています」
「ですが」
「分かっています。セレスティアには、今夜知らせません」
マルタは少しだけ安堵しかけた。
だが王妃の次の言葉で、表情を戻す。
「ただし、明日以降は隠せません」
「セレスティア様は、今夜ようやく休まれているはずです」
「ええ」
王妃の声は柔らかくなった。
「あの子に、今夜だけは眠ってほしい」
その言葉には、後悔が混じっていた。
王妃宮は、ずっとセレスティアの眠りを奪ってきた。
薬草の確認。
救貧院の支払い。
王太子府の資料。
リリアナの失敗。
夜中に呼び出したことも一度や二度ではない。
それを思えば、今夜だけは静かに眠らせたい。
だが、オルフェリアは明朝来る。
古い王妃宮が、再び扉を叩く。
「マルタ」
「はい」
「明日の面会には、あなたも同席しなさい」
「もちろんです」
「それから、リリアナにも知らせます」
マルタは少し驚いた。
「リリアナ様に?」
「ええ。あの子は、もう守られるだけの妹ではありません。王妃宮補佐教育を受け直すなら、王妃宮の醜さも知らなければならない」
「厳しいですね」
「そうですね」
王妃は疲れたように微笑んだ。
「ですが、優しさだけで隠した結果が、今日の箱です」
マルタは何も言えなかった。
王妃は便箋を机に置く。
「オルフェリアは、おそらくセレスティアを“戻す”つもりで来ます」
「王妃宮へ、ですか」
「ええ。彼女にとって、セレスティアは失敗作ではありません。むしろ成功作です」
「成功作……」
マルタの声に怒りが混じる。
王妃は静かに頷いた。
「だから危険なのです。責める者より、褒めて使おうとする者の方が、あの子には深く刺さるかもしれない」
セレスティアは、必要とされることに弱い。
王妃は、それを知っている。
マルタも知っている。
そしてオルフェリアなら、もっと前から知っていたはずだ。
王妃宮が必要としている。
あなたの力がなければ救えない人がいる。
あなたほど適した者はいない。
そう言われれば、セレスティアは揺れる。
今日、自分を守ると言ったばかりでも。
だからこそ、明日の火種は危うい。
「セレスティア様を、また器と呼ばせるわけにはいきません」
マルタは低く言った。
王妃は頷く。
「ええ」
そのころ、王太子府では、アデルがまだ起きていた。
机の上には、未完成の書簡が置かれている。
何度も書き始め、何度も止めた跡がある。
すまなかった。
その一文だけなら書ける。
だが、その後が続かない。
何に対して謝るのか。
証拠もなく断罪したこと。
彼女の功績を見なかったこと。
彼女の正しさを冷たさと呼んだこと。
リリアナの涙に逃げ込んだこと。
自分が整えられた椅子に座っていたと知らなかったこと。
数えればきりがない。
そして、どれも「すまなかった」の一言では足りない。
アデルはペンを置いた。
今日は書けない。
それを認めるしかなかった。
そのとき、側近ではなく、王妃宮の若い侍従が控えめに扉を叩いた。
「殿下。王妃宮より、明朝の件でご連絡が」
「明朝?」
「ダーネス侯爵夫人が参上されるとのことです」
アデルの眉が動いた。
「オルフェリア・ダーネスが?」
その名は、アデルにとっても重かった。
幼いころ、彼女は王妃宮の奥にいた。
いつも上品に微笑み、アデルを見るとこう言った。
殿下は大局をご覧になるお方です。
細事は、ふさわしい者に任せればよいのです。
当時は、それが心地よかった。
自分は大きなものを見る王太子なのだと思えた。
しかし今、その言葉の意味が変わって聞こえる。
細事。
その細事を、誰が背負っていたのか。
セレスティアだ。
「何のために来る」
「詳細は。ただ、双生契約の箱に関して、話す権利があると」
アデルは深く息を吐いた。
またか。
箱を開けたら終わりではなかった。
むしろ、箱を開けたからこそ、古い者たちが動き始めた。
「母上は」
「お会いになるご意向です」
「……分かった。私も同席する」
侍従は頭を下げた。
彼が下がったあと、アデルは未完成の謝罪文を見た。
明日、オルフェリアが来る。
王妃宮の古い権力。
自分を“整えられた王太子”に育てた一端を担った者。
彼女は何を言うのか。
そして、セレスティアをまたどんな言葉で縛ろうとするのか。
アデルは、初めて思った。
今度は、自分が止めなければならないのではないか。
だが、その資格が自分にあるのかは分からない。
セレスティアを傷つけた自分が、彼女を守るなどと言えるのか。
リリアナなら、きっと記録すると言うだろう。
守る前に、見る。
感情の前に、事実。
アデルは新しい紙を取り出した。
謝罪文ではない。
明日の記録用に、自分が確認すべきことを書いた。
『オルフェリア・ダーネス侯爵夫人への確認事項』
一、双生契約の運用意図。
二、セレスティアを王妃宮補佐へ移した理由。
三、リリアナを王太子の情緒的安定要素として扱った理由。
四、婚約破棄時の移行案との関係。
五、セレスティア本人の意思をどの時点で確認したか。
最後の行を書いて、アデルは手を止めた。
本人の意思。
その言葉を、自分は今までどれほど軽く扱ってきたのだろう。
呼べば来る。
命じれば従う。
婚約者だから支える。
そこに意思があるかどうかを、尋ねたことがなかった。
アデルは、紙を畳まずに机に置いた。
明日は、これを持っていく。
謝罪ではなく、記録として。
北方辺境伯家の王都屋敷では、セレスティアが短い眠りから目を覚ました。
まだ夜半だった。
暖炉の火は小さくなっている。
部屋は静かだ。
彼女は寝台の上でしばらく天井を見つめた。
夢を見た気がする。
母がいた。
青い縁取りの便箋を持っていた。
何かを言っていた。
けれど、言葉は思い出せない。
セレスティアはゆっくり起き上がった。
鞄には手を伸ばさなかった。
代わりに、窓辺へ行く。
王都の夜景が見えた。
遠くに王宮の灯りもある。
あそこでは、まだ誰かが動いているのだろう。
王妃宮。
王太子府。
公爵家。
考え始めると、また眠れなくなる。
セレスティアは窓枠に手を置いた。
「今夜は、休む」
小さく声に出した。
誰に言うでもない。
自分への命令ではなく、自分への許可として。
「今夜だけは、休む」
そう言って、寝台へ戻った。
再び横になる。
目を閉じる。
今度は、少しだけ眠れそうだった。
その眠りを邪魔するように、王妃宮ではオルフェリアの書簡が封印され、明朝の面会準備が進められていた。
古い女官長は、まだ沈黙していない。
そして彼女が持ってくる言葉は、セレスティアを責めるものではないかもしれない。
むしろ、必要とする言葉かもしれない。
だからこそ、危険だった。
人は、責められるよりも。
必要とされることで、深く縛られることがある。




