第31話 謝罪は、まだ彼女に届かない
王宮の廊下は、夕方の光を受けて淡く赤く染まっていた。
小会議室から出たあと、セレスティアはしばらく王妃宮の控室に通された。
大きすぎない部屋だった。
壁には花模様の織物が掛けられ、窓辺には香炉ではなく小さな薬草の束が吊るされている。
以前なら、こうした部屋に入ると、すぐに何をすべきか考えた。
王妃陛下の休憩時間を調整するべきか。
記録の写しを確認するべきか。
財務局へ伝達を回すべきか。
リリアナが泣き崩れていないか見に行くべきか。
だが今、セレスティアは何もしなかった。
椅子に座り、膝の上で手を重ね、ただ窓の外を見ていた。
王宮の庭は相変わらず美しい。
木々は丁寧に刈り込まれ、白い花が小道に沿って植えられている。
けれど、そこに漂う整いすぎた静けさが、今は少し怖かった。
この美しさの下に、どれほどの書類が隠れていたのか。
当面。
暫定。
移行。
心的安定。
自ら退く形。
人の人生を動かすには、恐ろしいほど柔らかい言葉ばかりだった。
「お茶をお持ちしました」
マルタが部屋に入ってきた。
盆の上には、湯気の立つ茶と、小さな焼き菓子がある。
セレスティアは立ち上がろうとしたが、マルタがすぐに首を振った。
「そのままで」
「ですが」
「今日は、立たなくてよろしいです」
その言い方が少しだけ強かったので、セレスティアは座ったまま頭を下げた。
「ありがとうございます」
マルタは茶を置いたあと、少し離れた場所に立った。
以前なら、ここで報告が始まっただろう。
王妃陛下のご体調。
本日の記録保全状況。
財務局との照合予定。
次回会議の日程案。
けれど、マルタは何も言わなかった。
その沈黙が、逆に落ち着かなかった。
「マルタ侍女長」
「はい」
「今、何か仕事をしなくてもよいのですか」
自分で言ってから、セレスティアは小さく苦笑した。
「……おかしな質問ですね」
「いいえ。セレスティア様らしい質問です」
マルタは真面目に答えた。
「ですが、今は不要です」
「不要」
「はい。記録の保全は書記局長が進めています。王妃陛下はお休みになりました。リリアナ様も別室で休ませています。財務局への写しは、バルツァー卿が責任を持って運びました」
「そうですか」
セレスティアは茶へ視線を落とした。
自分が動かなくても、物事が進んでいる。
それは当然のことのはずなのに、胸の奥が妙に落ち着かない。
王妃宮は、自分がいなくても動く。
そうでなければならない。
そう思う一方で、どこかに小さな痛みもあった。
自分が十年近く支えてきたものが、自分なしでも動き始める。
それは解放であり、喪失でもあった。
「セレスティア様」
マルタが静かに言った。
「今夜のお部屋ですが、王妃宮の客室を用意しております」
セレスティアの指が止まった。
今夜。
そうだ。
今日、どこで眠るのかを決めなければならない。
公爵家には戻らない。
それは、すでに決めた。
では王妃宮に泊まるのか。
ここは自分が長く働いた場所だ。
王妃もいる。
マルタもいる。
リリアナもいる。
安全と言えば、安全だろう。
だが、胸の奥が少し苦しくなる。
王妃宮に泊まれば、またそのまま吸い込まれてしまう気がした。
気づけば朝になり、机の上の記録を確認し、王妃の薬湯を気にし、リリアナの補助を始めている。
そんな自分が、簡単に想像できてしまう。
セレスティアは、ゆっくり首を振った。
「お気遣い、ありがとうございます。ですが、今夜は王妃宮には泊まりません」
マルタは、少しだけ目を伏せた。
「承知しました」
引き止めなかった。
そのことに、セレスティアは少し救われた。
「北方辺境伯家の王都屋敷へ参ります」
「ノア閣下の?」
「はい。すでに、そう申し出を受けています」
「そうですか」
マルタは一礼した。
「王妃陛下には、私からお伝えします」
「申し訳ありません」
「謝ることではありません」
その言葉は、どこかで何度も聞いた気がした。
セレスティアは、茶を一口飲んだ。
温かい。
王宮の茶なのに、今日は少しだけ味が違った。
「マルタ侍女長」
「はい」
「王妃宮に泊まらないことは、王妃陛下への不信ではありません」
言ってから、自分でもなぜそんな説明をしたのか分からなかった。
マルタは少しだけ表情を和らげた。
「分かっております」
「でも、今ここに泊まると、私はまた仕事を探してしまいます」
「ええ」
「それが怖いのです」
マルタは深く頷いた。
「正しい恐れです」
正しい恐れ。
そんな言い方をされるとは思わなかった。
「逃げではないでしょうか」
「逃げるべき場所から離れることは、逃げではありません」
マルタの声は静かだった。
「少なくとも今日は、王妃宮から距離を取ってください」
セレスティアは、小さく頷いた。
「はい」
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのは、リリアナだった。
目元は赤い。
しかし、泣き崩れた様子ではなかった。
手には一冊の記録用帳面を抱えている。
セレスティアは、思わずその帳面を見た。
リリアナも気づいたのだろう。少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「まだ、字は汚いです」
「読めれば十分です」
セレスティアは答えた。
リリアナは小さく頷く。
「王妃陛下がお休みになったので、ご挨拶だけでもと思って」
「はい」
短い会話。
姉妹なのに、ずいぶん遠い。
けれど、その遠さを無理に埋めようとは思わなかった。
リリアナは、膝の前で帳面を握りしめた。
「お姉様は、今夜こちらに?」
「泊まりません」
リリアナの顔に、一瞬だけ寂しさが浮かんだ。
だが、すぐに頷いた。
「そうですか」
「北方辺境伯家の王都屋敷へ行きます」
「……その方が、よいと思います」
セレスティアは少し驚いた。
「よいのですか」
「本当は、いてほしいです」
リリアナは正直に言った。
声が震える。
「でも、それは私が安心したいだけです。お姉様がここにいれば、また私はお姉様の顔を見て、許されたような気になってしまうかもしれません」
セレスティアは黙って聞いた。
「だから、今夜は行ってください」
リリアナは、涙をこらえた顔で笑おうとした。
うまく笑えていない。
それでも、言葉は逃げなかった。
「私は、記録を続けます」
「無理をしすぎないで」
「はい。でも、逃げすぎもしません」
セレスティアは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「それは難しいですね」
「はい。とても」
二人の間に、また小さな笑いが落ちた。
ぎこちない。
けれど、嘘ではない。
マルタは何も言わず、その場から少し離れた。
姉妹に、短い時間を渡すためだった。
リリアナは、そっと帳面を差し出した。
「これ、写しです」
「何の?」
「今日、私が書いた記録です。全部ではありません。私の分だけ」
セレスティアは受け取った。
帳面は軽い。
けれど、リリアナにとってはとても重いもののはずだった。
「私に?」
「はい。お姉様の記録と並べてほしくて」
リリアナはすぐに慌てて付け足した。
「いえ、押しつけるつもりではなくて。いらなければ、王妃宮で保管します。ただ、私が閉じなかったことを……」
言葉が詰まる。
セレスティアは帳面を開いた。
字は確かに乱れていた。
線が震え、インクが濃くなり、ところどころ涙の跡のような滲みもある。
だが、書かれていた。
セレスティアが席を外したあと、本人不在で処遇を決めるべきではないとリリアナが発言したこと。
アデルが、それに同意したこと。
王妃が、次回以降は本人の同席と同意を必須にすると決めたこと。
セレスティアは、ゆっくりページを閉じた。
「受け取ります」
リリアナの目に涙が浮かぶ。
「はい」
「ただし、これは私があなたを許した証ではありません」
「分かっています」
「あなたが今日、逃げなかった記録として受け取ります」
リリアナは深く頷いた。
「はい」
セレスティアは帳面を鞄に入れた。
母の手紙の写し。
王妃の手紙。
自分の記録。
そして、リリアナの記録。
少しずつ、重さの種類が増えていく。
それは苦しい。
でも、以前のように全部を一人で抱える重さではなかった。
廊下へ出ると、アデルが待っていた。
彼は控室の前に立っていたが、入ることはしなかったらしい。
リリアナが少し身を固くする。
セレスティアも足を止めた。
アデルは、以前よりも疲れて見えた。
王太子らしい衣装は乱れていない。
髪も整っている。
だが、顔色は悪い。
目の奥に、眠れていない者の陰があった。
「セレスティア」
彼は名前を呼んだ。
それだけで、セレスティアの胸が小さく痛んだ。
昔なら、その声にすぐ反応した。
資料が必要なのか。
予定の確認か。
リリアナのことか。
王妃陛下のことか。
今は違う。
返事を急ぐ必要はない。
「殿下」
セレスティアは礼をした。
深すぎず、浅すぎず。
臣下としての礼。
婚約者としてではない。
アデルも、それを理解したのだろう。表情がわずかに曇った。
「少し、話せるだろうか」
セレスティアはすぐには答えなかった。
話すべきか。
今は疲れている。
箱を開け、母の手紙を読み、父と向き合い、王妃宮の罪を知り、自分を駒として扱う文書まで読んだ。
これ以上、アデルの未整理な言葉まで受け止める余裕があるだろうか。
ない。
そう思った。
「長くは無理です」
セレスティアは言った。
「少しだけなら」
アデルは頷いた。
「分かった」
リリアナが一歩引こうとする。
だがセレスティアが言った。
「リリアナ、いてください」
リリアナは驚いた顔をした。
「私が?」
「はい。あなたにも関係することです」
アデルの表情が少し複雑になる。
以前なら、リリアナには聞かせたくないと言ったかもしれない。
だが今は、何も言わなかった。
マルタも廊下の少し離れた場所に控える。
ノアは、すでにセレスティアの隣にいた。
アデルはそのことにも何かを思ったようだったが、口には出さなかった。
「まず」
アデルは言葉を探した。
「今日の記録は、すべて保全する」
「承知しています」
「王太子府の記録訂正も行う。君が作っていた資料、想定回答、王妃宮や財務局との調整についても、可能な範囲で」
「はい」
「君の功績が、私の判断として残っていた部分についても」
そこで、アデルの声がわずかに詰まった。
「訂正する」
セレスティアは、静かに頷いた。
「必要なことです」
「……ああ」
必要なこと。
それだけ。
褒めるわけでも、感謝するわけでもない。
ただ、必要なこと。
アデルは、その距離を痛感した。
自分は今、彼女に何を期待していたのか。
少しは安堵してほしかったのか。
ありがとうと言ってほしかったのか。
自分が変わり始めたことを認めてほしかったのか。
どれも、自分のためだ。
アデルは唇を噛んだ。
「謝罪を」
言いかけた瞬間、セレスティアの目が静かに動いた。
アデルは言葉を止めた。
王妃の手紙。
リリアナの言葉。
セレスティア自身の視線。
すべてが、彼に問いかけてくる。
その謝罪は、誰のためか。
アデルは目を伏せた。
「……まだ、言葉にならない」
セレスティアは黙っていた。
「すまない、と言うことはできる。だが、それが君に届く言葉なのか、私が楽になるための言葉なのか、まだ分からない」
リリアナが小さく息を呑んだ。
アデルは続けた。
「だから今は、謝罪の代わりに記録を残す」
セレスティアは、少しだけ目を伏せた。
「それでよいと思います」
アデルは顔を上げる。
「よい?」
「はい。今の殿下の謝罪は、私は受け取れません」
はっきりした言葉だった。
アデルの顔が強張る。
リリアナも涙を浮かべる。
だが、セレスティアは続けた。
「ですが、記録の訂正と、殿下ご自身が何を見ていなかったのかを確認する作業は、受け取ります」
アデルは、長く息を吐いた。
救われたわけではない。
許されたわけでもない。
だが、道は示された。
謝罪ではなく、記録。
感情の前に、事実。
「分かった」
アデルは言った。
「私は、記録を続ける」
リリアナが静かに頷いた。
「私も、続けます」
セレスティアは妹を見た。
それからアデルへ視線を戻す。
「私も、自分の記録を続けます」
それぞれが、別の場所で記録を続ける。
かつては、セレスティア一人がすべてを書いていた。
今は違う。
それが、ほんの少しだけ部屋の外の空気を変えた。
しかし、アデルはもう一つ言わなければならないことがあった。
「セレスティア」
「はい」
「公爵家へ戻らないという君の意向は、王太子府としても尊重する」
セレスティアの指がわずかに動いた。
「殿下が、それを?」
「今日の記録を見た以上、グレゴール公爵の管理下に戻すのは適切ではない」
アデルは苦々しく言った。
「少なくとも、今は」
「ありがとうございます」
セレスティアは礼をした。
形式的な礼だった。
だが、それでよかった。
アデルは、少しだけ寂しそうに笑った。
「君は、もう私に優しい言葉をくれないのだな」
言った瞬間、リリアナの顔が強張った。
セレスティアも、静かにアデルを見る。
アデルはすぐに気づいた。
今の言葉もまた、彼女へ何かを求めている。
優しい言葉をくれ。
以前のように、自分を整えてくれ。
そういう甘えだ。
「……今のは、忘れてくれ」
アデルは自分で言い直した。
「いや、忘れなくていい。記録しなくていいが、私がまた君に何かを求めたことは、自分で覚えておく」
セレスティアは、少しだけ驚いた。
そして、静かに言った。
「覚えておいてください」
「ああ」
アデルは頷いた。
その会話は、謝罪ではない。
和解でもない。
だが、アデルが自分の甘えに気づき、その場で止めた最初の瞬間だった。
それだけは、セレスティアにも分かった。
王妃宮の外へ出ると、日が暮れかけていた。
ノアの馬車が待っている。
王宮に入ったときと同じ馬車。
だが、乗るときのセレスティアは、少し違っていた。
鞄の中には、さらに記録が増えている。
母の手紙の写し。
リリアナの記録。
今日の箱の記録。
重い。
けれど、王宮に入る前とは違う重さだった。
ノアが手を差し出す。
セレスティアは、迷わずその手を取った。
馬車に乗る前に、一度だけ王宮を振り返る。
白い石壁。
金の百合紋。
整えられた庭。
もう、美しいだけの場所には見えない。
けれど、恐ろしいだけの場所でもなかった。
そこには、王妃がいる。
リリアナがいる。
記録を始めたアデルがいる。
そして、まだ沈黙を守ろうとする父がいる。
全部が、そこにある。
「行きましょう」
ノアが言った。
「はい」
セレスティアは馬車に乗った。
王宮を出る。
今度は追い出されるのではない。
自分で席を外し、自分で宿を選び、自分で次を決めるために。
馬車が動き出す。
窓の外で、王宮の灯りが少しずつ遠ざかっていく。
そのころ、小会議室には一人だけ残った者がいた。
グレゴール・レイノルド公爵。
彼は、空になった箱を見つめていた。
王妃も去り、アデルも去り、リリアナも記録を抱えて去った。
箱の中に残っているものはない。
それなのに、彼はまだそこから目を離せなかった。
やがて、彼は低く呟いた。
「……エレナ」
亡き妻の名。
その声には、怒りとも後悔ともつかないものが混じっていた。
だが、それを聞く者は誰もいない。
沈黙で守ってきた男は、初めて沈黙の中に置き去りにされた。
そしてその夜、王妃宮の外門に一通の書簡が届いた。
差出人は、ダーネス侯爵家。
封蝋には三本の枝を絡めた紋。
宛名は王妃エレオノーラ。
ただし、表書きの端に古い筆跡で一文が添えられていた。
『セレスティア・レイノルド嬢が箱を開けたなら、私にも話す権利がございます』
王妃宮の夜番侍女は、その封書を持つ手を震わせた。
オルフェリア・ダーネス侯爵夫人。
すでに表舞台を退いたはずの古い女官長が、まだ沈黙していなかった。




