第30話 悪女が席を外したあと、王宮は初めて沈黙した
セレスティアが小会議室を出ていったあと、扉は静かに閉じられた。
大きな音ではなかった。
けれど、その場に残った者たちには、まるで重い蓋が落とされたように聞こえた。
資料台の上には、開かれた箱がある。
母エレナの手紙。
双生契約の原本。
王太子府教育調整記録。
王妃宮内部覚書。
ダーネス侯爵家の私印が押された書簡。
そして、セレスティアをどう扱うかという、冷たい選択肢。
王妃宮補佐として残す。
修道院へ送る。
北方辺境伯家との連携に用いる。
そこに本人の意思はない。
セレスティアは、最後までそれを読んでいた。
涙を流し、怒りを言葉にし、それでも礼を失わず、自分が壊れる前に席を外した。
そのあとに残った沈黙は、誰のものでもなかった。
いや。
正確には、セレスティアがこれまで一人で背負ってきた沈黙が、ようやく部屋全体に広がったのかもしれない。
「……続けましょう」
最初に口を開いたのは、グレゴールだった。
その声は、いつものように低く、硬い。
自分が動揺していることを悟られまいとしている声だった。
「セレスティアが席を外した以上、今後の扱いについて」
「お父様」
リリアナが遮った。
部屋の視線が、彼女へ集まる。
リリアナは泣いていた。
頬には涙の跡が残り、目元も赤い。
手元の記録用紙には、何度も滲んだ文字が並んでいる。
それでも、ペンは置いていなかった。
「何だ」
グレゴールの声は不機嫌だった。
「お姉様がいないところで、お姉様の扱いを決めないでください」
はっきりとした言葉だった。
アデルが顔を上げる。
マルタの目がわずかに動いた。
グレゴールは眉をひそめる。
「これは家の問題だ」
「いいえ」
リリアナは首を振った。
「今、ここに出ている記録は、王妃宮、王太子府、レイノルド公爵家、すべてに関わっています。そして何より、お姉様ご本人に関わることです」
「お前に判断できる話ではない」
「判断できないことが多いのは分かっています」
リリアナは、震える声で認めた。
「だから、記録しています。だから、聞いています。だから、分からないことを分からないまま、お父様の言葉だけで進めたくありません」
グレゴールの顔が強張った。
以前のリリアナなら、この顔を見ただけで黙った。
父に失望されるのが怖かった。
父に叱られるのが怖かった。
父の後ろで姉が小さく息を吐くのを見るのが、何より怖かった。
だが今、その姉はいない。
代わりに、姉の言葉が手紙として胸元にある。
泣いても構いません。
ただし、泣いた後に記録を閉じないでください。
だから、閉じない。
「王妃陛下」
リリアナは王妃へ向き直った。
「今の発言も、記録してよろしいでしょうか」
王妃エレオノーラは静かに頷いた。
「記録しなさい」
リリアナはペンを走らせた。
『セレスティア様が席を外した後、レイノルド公爵が今後の扱いについて協議を進めようとしたため、本人不在で処遇を決めるべきではないと発言』
文字は少し震えていた。
でも、逃げなかった。
書き終えたあと、リリアナは紙から顔を上げた。
「私は、今までお姉様のいないところで、お姉様のことを決められる側にいました」
声が小さくなる。
「お姉様は怖い。お姉様は冷たい。お姉様は私を見下している。そう言われるたび、私は確かめずに頷いていました。殿下がそう言えばそうだと思い、お父様がそう言えばそうなのだと思いました」
アデルが目を伏せた。
グレゴールは無言だった。
「でも、それが間違いでした」
リリアナは、涙を拭った。
「お姉様のことは、お姉様がいるところで聞くべきでした。お姉様の処遇は、お姉様に聞くべきでした。お姉様が何を背負っていたのか、私たちは本人なしで勝手に決めすぎました」
部屋は静まり返った。
リリアナの言葉は、幼い反抗ではなかった。
それは、自分の罪も含めて差し出す言葉だった。
王妃が静かに息を吐いた。
「その通りです」
それだけで、リリアナの肩が少し震えた。
責められるよりも、認められる方が痛いときがある。
今がそうだった。
アデルは、資料台の上に置かれた書簡を見つめていた。
セレスティアが席を外した途端、グレゴールは「今後の扱い」と言った。
そのことが、ひどく引っかかっている。
扱い。
また、その言葉。
自分も使っていなかったか。
セレスティアをどう扱うか。
リリアナをどう守るか。
王宮の混乱をどう収めるか。
人の気持ちを考えているつもりで、結局は配置と処理の話をしていた。
王太子府の会議では、それが当たり前だった。
だが今、その当たり前が吐き気を催すほど冷たく見える。
「公爵」
アデルは言った。
グレゴールが顔を向ける。
「セレスティアの“扱い”について、本人不在で決めることはしない」
「殿下」
「私も、それに加わるべきではなかった」
アデルは、ゆっくりと言った。
言葉を選びながら。
「昨日までの私は、彼女を呼び戻し、説明させ、必要なら処分を決めるつもりでいた。だが……今は、その前提が間違っていたと分かる」
グレゴールは不満げに唇を結ぶ。
「殿下は、あの娘に同情なさっているのですか」
「同情ではない」
アデルは即座に返した。
その声に、自分でも少し驚いた。
「記録を見た」
リリアナが小さく息を呑む。
アデルは続けた。
「私は、記録を見た。彼女が何をしていたのか。何を背負わされていたのか。私がどれほど整えられたものだけを見ていたのか」
その言葉を口にするのは、苦しかった。
王太子としての自尊心が、内側から削られるようだった。
それでも言う。
言わなければ、またセレスティアに整えてもらうだけになる。
「だから、本人不在で処遇は決めない」
アデルは王妃を見た。
「母上。それを正式に記録してください」
王妃は少しだけ目を細めた。
「よいのですね」
「はい」
「あなた自身が、王太子として記録に残すのですね」
アデルは一瞬だけ躊躇した。
だが、頷いた。
「残します」
書記局長がペンを取る。
『王太子アデル・ヴァレンティア、セレスティア様本人不在で今後の処遇を決定しないと発言』
ペンの音が響く。
グレゴールは、面白くなさそうにその音を聞いていた。
王妃は静かに彼を見た。
「公爵」
「はい」
「あなたも、ここで選びなさい」
「何をでしょうか」
「娘を所有物として扱い続けるのか、それとも一人の当事者として認めるのか」
グレゴールの目が鋭くなる。
「王妃陛下。それは父親に対してあまりに」
「あなたは父親として、娘の手紙を封じ、教育を歪め、婚約破棄の場で沈黙し、修道院へ送ろうとしました」
王妃の声は弱い。
だが、その言葉は切れ味を失っていなかった。
「父親という言葉を盾にするには、あまりに多くのものを踏み越えています」
グレゴールは答えなかった。
沈黙。
その沈黙に、リリアナはもう怯えなかった。
いや、怖い。
怖いけれど、怯えて止まることはなかった。
「お父様」
リリアナが言った。
「私からも、お願いします」
グレゴールは娘を見た。
リリアナは涙を流したまま、まっすぐに父を見る。
「お姉様を、家の静けさのために使わないでください」
「リリアナ」
「私も、もう使われたくありません」
その言葉に、グレゴールの表情が一瞬だけ揺れた。
リリアナは続ける。
「私は今まで、お父様に守られていると思っていました。でも、守られるだけの娘として置かれていたことも分かりました。殿下の心的安定のため。家の配置のため。お姉様から役割を移すため」
声が崩れそうになる。
でも、持ち直す。
「私は、もうそのままではいたくありません」
グレゴールは、低く言った。
「では、お前は何になりたい」
その問いは、責めるようだった。
けれどリリアナは、初めてその問いを自分のものとして受け取った。
何になりたいのか。
王太子妃。
姉に守られる妹。
愛される花。
どれも、誰かが用意した言葉だった。
リリアナは手元の記録を見た。
滲んだ文字。
震えた線。
それでも閉じなかった紙。
「まだ、分かりません」
彼女は正直に答えた。
「でも、分からないからといって、お父様や殿下に決めてもらうのはやめます」
グレゴールは口を閉じた。
その横顔に、ほんの少しだけ疲れが見えた。
強固な父。
絶対の家長。
そう思っていた男も、こうして見れば一人の老い始めた貴族だった。
ただ、その弱さは娘たちを傷つけてきた。
だから、同情だけでは終わらせられない。
王妃は、箱の中の文書をすべて並べ終えた。
「今日、箱は開かれました」
王妃は言った。
「そして、双生契約がどれほど歪められたかも明らかになりました」
部屋にいる全員が、箱を見た。
もう中身を隠す力はない。
空に近い箱は、かえって重く見えた。
「ですが、今日この場で全ての裁定は下しません」
王妃の声に、アデルが顔を上げる。
「母上」
「理由は二つあります。一つ、セレスティア本人が席を外していること。もう一つ、私の体力が限界です」
その言葉に、マルタがすぐ動いた。
「陛下」
「分かっています。もう少しだけ」
王妃は片手を上げて制した。
「本日の記録は、王妃宮、財務局、書記局、北方辺境伯家に写しを保全します。王太子府、レイノルド公爵家にも写しを渡します。ただし、改変防止のため封印付きとします」
書記局長が頷く。
「承知しました」
「次回の場には、セレスティア本人の同席を必須とします。本人が望まない議題は、その場では扱いません」
グレゴールが眉を動かす。
「王妃陛下、それでは」
「公爵。あなたは今日、十分に発言しました」
王妃は静かに言った。
「次は、娘の話を聞きなさい」
グレゴールは黙った。
それ以上、何も言えなかった。
アデルは、机の上の自分の記録を見つめていた。
そこには、彼が婚約破棄の夜に十分な調査なくセレスティアを断罪したことが残されている。
取り消せない。
だが、取り消せないからこそ意味がある。
アデルは、リリアナへ視線を向けた。
彼女はまだ泣いている。
けれど、泣きながら記録を閉じなかった。
セレスティアは席を外した。
けれど、壊れる前に自分を守るために出た。
二人とも、アデルが知っている少女たちではなくなっていた。
いや、違う。
自分が今まで知らなかっただけだ。
「リリアナ」
アデルが呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「はい」
「君の記録も、写しを取るべきだ」
リリアナは驚いた顔をした。
「私の字は、乱れています」
「それでもだ」
アデルは静かに言った。
「今日、君が見たことも必要だ」
リリアナの目に、また涙が浮かぶ。
でも、彼女は頷いた。
「はい」
その返事には、依存の甘さはなかった。
ただ、受け止める重さがあった。
小会議室の扉の外では、セレスティアがようやく呼吸を整えていた。
ノアは隣に立っている。
廊下には誰もいない。
マルタが配慮したのだろう。
セレスティアは、壁から手を離した。
「戻るべきでしょうか」
「まだ戻らなくていい」
ノアは言った。
「王妃陛下が場を区切るはずです」
「分かるのですか」
「あなたの限界を見て、続ける方ではないでしょう」
セレスティアは少しだけ笑った。
「そうですね」
笑ったあと、胸の奥がまた痛んだ。
「王妃陛下にも、私はずいぶん複雑な感情を持つことになりそうです」
「当然です」
「助けてくださった方でもあり、利用していた側でもある」
「はい」
「父ほど単純に怒れません」
「単純に怒れなくても、怒っていい」
セレスティアは目を伏せた。
「私は、怒っているのでしょうか」
「怒っています」
ノアは即答した。
「分かるのですか」
「分かります」
「どこで」
「声が冷静すぎる」
セレスティアは少し驚き、それから小さく息を漏らした。
「なるほど」
「怒鳴るだけが怒りではありません」
「では、私はとても怒っているのですね」
「はい」
セレスティアは、ゆっくり頷いた。
「そうですか」
その事実を、胸の中で認める。
悲しい。
痛い。
怖い。
そして、怒っている。
自分は怒っていい。
誰かに使われたことを。
母の手紙を隠されたことを。
役割の名で人生を配置されたことを。
怒っていい。
「閣下」
「はい」
「私は、王妃宮に残るべきでしょうか」
ノアはすぐには答えなかった。
その沈黙は、いつもの考える沈黙だった。
「今は、決めない方がいい」
「そうですね」
「決めるには、今日の傷が新しすぎる」
「傷が新しい」
セレスティアは繰り返す。
そうだ。
今日、傷ついた。
過去の傷を見つけたのではなく、今日あらためて傷ついた。
母の手紙で泣き、父の沈黙で傷つき、王妃宮の記録で怒り、アデルの仕組まれた椅子を見て、リリアナの涙を見た。
これを一日で処理できるはずがない。
「私は、決めることを急ぎすぎていたのかもしれません」
「ずっと急がされてきたのでしょう」
ノアの言葉に、セレスティアは目を閉じた。
急がされてきた。
王妃の薬が必要。
救貧院の支払いが必要。
殿下の資料が必要。
リリアナの失敗を早く直さなければ。
父の顔を潰してはいけない。
王宮の予定を止めてはいけない。
いつも急いでいた。
自分の気持ちだけが、置き去りだった。
「今日は、急がないでおきます」
「はい」
そのとき、小会議室の扉が開いた。
マルタが出てくる。
彼女はセレスティアを見ると、深く頭を下げた。
「本日の場は、王妃陛下のご判断で一度区切られました」
「そうですか」
「記録は保全されます。次回以降、セレスティア様ご本人の同席と同意なしに、あなたの処遇に関する議題は扱いません」
セレスティアは、ゆっくり息を吐いた。
知らないところで決められない。
それだけのことが、こんなにも重い。
「ありがとうございます」
マルタは少しだけ目を伏せた。
「私は、礼を受け取る前に、まだお詫びすべきことが多くございます」
セレスティアはしばらくマルタを見た。
「今は、その言葉も保留させてください」
「はい」
「でも、今日記録してくださったことは、受け取ります」
マルタは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その声は、少しだけ震えていた。
部屋の中から、リリアナが出てきた。
目元は赤い。
でも、手には記録用紙を抱えている。
彼女はセレスティアの前で立ち止まった。
「お姉様」
セレスティアは、妹を見る。
「リリアナ」
「記録を、閉じませんでした」
その一言に、セレスティアの胸が揺れた。
「見れば分かります」
セレスティアは言った。
「字が、ずいぶん大変なことになっていましたから」
リリアナは涙目のまま、少しだけ笑った。
「はい。ひどい字です」
「でも、あなたの字です」
リリアナの顔が歪む。
泣きそうになる。
けれど、堪えた。
「次も、書きます」
「無理はしすぎないでください」
「お姉様に言われると、説得力が」
「ありませんね」
セレスティアが先に言うと、リリアナは驚いたあと、少しだけ笑った。
小さな笑いだった。
でも、姉妹の間に落ちた初めての柔らかい音だった。
許しではない。
和解でもない。
ただ、ほんの一瞬、同じ場所で息ができただけ。
それでも、二人には十分すぎるほど大きかった。
その日の記録は、厳重に封印された。
王妃宮。
財務局。
書記局。
北方辺境伯家。
四つの写しが作られ、それぞれ別の封蝋で閉じられた。
王太子府とレイノルド公爵家にも、改変防止印付きの写しが渡される。
箱は再び閉じられたが、もう秘密を守るための箱ではない。
次に開く日まで、記録を保つための箱だった。
王宮の古い鎖は、姿を現した。
けれど、まだ外れていない。
父は沈黙し、王太子は謝罪の言葉を持てず、王妃宮は自らの罪を記録し始め、リリアナは泣きながら書き続けた。
そしてセレスティアは、初めて自分の限界を口にして席を外した。
誰かのために壊れる前に。
自分を守るために。
その一歩は、誰にも見えにくい。
けれど、彼女にとっては王宮の門をくぐるよりも、箱を開けるよりも、ずっと難しい一歩だった。




