第28話 王妃宮もまた、彼女を利用していた
オルフェリア・ダーネス侯爵夫人。
その名が読み上げられた瞬間、小会議室の空気は明らかに変わった。
レイノルド公爵グレゴールが責められていたときとは違う。
王太子府のガレオン卿の名が出たときとも違う。
王妃宮。
その奥にある古い権威の名が、ついに箱の中から出てきたのだ。
マルタは、しばらく何も言わなかった。
いつもなら、即座に必要な指示を出す人だった。
王妃の薬湯、侍女の配置、記録の保全、来客の導線。
何かが起きれば、誰よりも早く動く。
そのマルタが、動かなかった。
セレスティアは、それを見ていた。
マルタの顔に浮かんだものは、驚きだけではない。
悔しさ。
苦さ。
そして、どこかで予感していたことが形になってしまった人の顔。
「マルタ」
王妃が静かに呼んだ。
「はい」
マルタは、いつものように答えた。
けれど、その声はほんの少しだけ低かった。
「あなたは、オルフェリアの下にいましたね」
「若いころ、数年だけ」
「知っていましたか」
王妃の問いに、マルタはすぐには答えなかった。
部屋中の視線が、彼女へ向く。
マルタは、逃げなかった。
「双生契約の原本については、存じませんでした」
まず、そう言った。
「ただし、セレスティア様が本来の王太子妃候補教育を超えた実務を担っていることは、当時から承知しておりました」
セレスティアの胸が、静かに痛んだ。
マルタは知っていた。
少なくとも、セレスティアが背負いすぎていたことを。
「止めようとは」
リリアナが小さく尋ねた。
責める声ではなかった。
だが、問いは鋭かった。
マルタはリリアナを見た。
「止めきれませんでした」
「止めようとは、したのですか」
もう一度、リリアナは聞いた。
その声は震えている。
昨日までなら、きっと聞けなかった問いだ。
マルタは、ゆっくりと目を伏せた。
「何度か、王妃陛下へ報告しました。けれど私は、王妃宮の仕組みそのものへ踏み込むことを恐れました」
部屋が静まる。
「オルフェリア様は、王妃宮の絶対でした。あの方の決めたことに逆らえば、侍女一人の職など簡単に失われます。私は、セレスティア様を気の毒に思いながら……職を失うほどには動きませんでした」
言い訳ではなかった。
だからこそ重かった。
マルタは顔を上げ、セレスティアを見た。
「申し訳ございません」
セレスティアは、すぐに答えられなかった。
マルタを責めたいのか。
分からない。
彼女は確かに、セレスティアを助けてくれた。
王妃の療養記録を守り、帳簿を受け取り、リリアナを立たせ、今日の席にも配慮してくれた。
だが同時に、昔は止めきれなかった。
セレスティアが王妃宮実務を背負いすぎていることを知りながら、その仕組みを壊すほどには動かなかった。
どちらも事実だ。
セレスティアは、ゆっくり息を吸った。
「マルタ侍女長」
「はい」
「今の謝罪を、すぐに受け取れるほど、私はまだ整っていません」
マルタは深く頭を下げた。
「当然です」
「ですが、今日ここで言ってくださったことは、記録してください」
書記局長がすぐにペンを取る。
マルタはもう一度、頭を下げた。
「はい」
セレスティアは、胸の奥が少し痛んだまま、資料台へ視線を戻した。
オルフェリア・ダーネス。
彼女の署名がある文書。
そこには、王妃宮の古い理屈が並んでいた。
書記局長が読み上げる。
「王妃宮補佐教育の調整について。リリアナ・レイノルド嬢の教育停止により、王妃宮の実務継承に空白が生じる恐れあり。よってセレスティア・レイノルド嬢を暫定補佐として扱い、王太子妃候補教育の範囲内という名目で実務を段階的に移す」
暫定。
また、その言葉。
当面。
暫定。
一時的。
その柔らかい言葉たちが、セレスティアの十年を飲み込んでいた。
「暫定とは、いつまでだったのですか」
セレスティアは、静かに言った。
書記局長は文書を確認する。
「期限の記載はありません」
分かっていた。
それでも、言葉にされると痛い。
期限のない暫定。
終わらない当面。
それはもう、仮の処置ではない。
人生だ。
王妃が苦しげに目を閉じた。
「オルフェリアは、王妃宮を守ることを最優先にした人でした」
その声は、弁護ではなかった。
説明だった。
「王妃宮の実務が止まれば、救貧院、療養施設、慈善基金、貴族女性たちの庇護、すべてに影響が出る。彼女は、それを恐れました」
「だから、私に?」
セレスティアの声は、思ったより冷たかった。
王妃は逃げなかった。
「ええ」
短く認めた。
「あなたが優秀だったから。あなたが泣かなかったから。あなたが一度覚えた仕事を、次から完璧にこなしてしまったから」
王妃は、ゆっくり息を吐く。
「王妃宮は、あなたを必要としました。そして、必要としていることを正当化しました」
セレスティアは目を伏せた。
必要とされたかった。
ずっと、そうだったのかもしれない。
父に認められたかった。
王太子の役に立ちたかった。
王妃の力になりたかった。
リリアナを守りたかった。
必要とされれば、そこにいてよい気がした。
だが、必要とされることと、消費されることは違う。
ノアの言葉が、ふと胸に戻る。
あなたが有用だから置いているのではありません。
あの言葉は、今になってさらに重く感じられた。
王妃宮は、彼女を有用だから使った。
父は、彼女を強いから使った。
王太子府は、彼女を正確だから使った。
誰も、セレスティア自身を見ていなかった。
リリアナは泣きながらペンを走らせていた。
その文字は乱れている。
けれど、止まらない。
『王妃宮、セレスティア様を暫定補佐として扱い、期限を定めず実務を移した記録あり』
リリアナの涙が紙に落ちそうになり、彼女は慌てて顔を上げた。
マルタが布を差し出す。
リリアナは受け取り、涙を拭く。
それからまた書く。
セレスティアは、その姿を見ていた。
ああ。
この子は本当に、逃げていない。
その事実が、嬉しくもあり、ひどく苦しくもあった。
書記局長が次の文書を開いた。
「続いて、王妃宮内部覚書です。署名はオルフェリア・ダーネス侯爵夫人。写し確認として、当時の王太子府教育官ハーランド伯の印があります」
アデルの肩が、また強張った。
ハーランド伯の名が出るたび、彼は少しずつ追い詰められているように見えた。
書記局長は読み上げる。
「王太子殿下は、未整備の実務情報に接した場合、過度な負担を覚える傾向あり。王太子妃候補セレスティア嬢により、情報を整理した状態で伝達することが望ましい」
アデルは目を伏せた。
「また、リリアナ嬢は殿下の心的安定に良好な影響を及ぼすため、王妃宮実務の負荷をかけず、社交上の交流を優先する」
リリアナのペンが止まりかける。
けれど、彼女はまた書いた。
自分が、王太子を慰める存在として扱われていた記録を。
それは痛々しいほどの強さだった。
書記局長は続ける。
「以上の配置により、王太子府、王妃宮、レイノルド公爵家の三者に利益あり」
三者に利益あり。
セレスティアは、その一文に息が止まりそうになった。
利益。
誰の利益か。
王太子府は、アデルの弱さを隠せた。
王妃宮は、実務の空白を埋められた。
レイノルド公爵家は、姉妹二人を王宮に食い込ませることができた。
では、セレスティアの利益は?
リリアナの利益は?
二人の娘は、利益の計算に入っていない。
セレスティアは、静かに手を握った。
怒りがある。
今度は、はっきりと。
涙の後に来た怒りは、燃え上がるようなものではなかった。
冷たい。
でも、確かに火だった。
「王妃陛下」
セレスティアは言った。
「はい」
「王妃宮は、私の働きに救われたことがありますか」
王妃は、すぐに答えた。
「あります」
「何度も?」
「何度も」
「では、私の名で記録されていますか」
部屋が静まった。
王妃は答えなかった。
それが答えだった。
セレスティアは、小さく頷いた。
「そうですか」
アデルが顔を上げる。
リリアナが唇を噛む。
セレスティアは続けた。
「王太子府でも、王妃宮でも、私は名前を残さず働いてきました。殿下の判断として、王妃宮の運営として、父上の家の体面として」
彼女の声は震えていない。
「けれど、問題が起きたときだけ、私の名が出るのですね」
誰もすぐには話せなかった。
あまりにも正確だった。
功績は消される。
責任だけは残る。
それが、セレスティアに起きていたことだった。
「私は」
セレスティアは、ゆっくり言った。
「もう、その仕組みには戻りません」
グレゴールが目を細める。
「王妃宮を見捨てるつもりか」
「見捨てません」
セレスティアはすぐに答えた。
「ですが、私一人に戻すことは認めません」
その言葉に、リリアナが顔を上げた。
セレスティアは妹を見た。
「リリアナ」
「はい」
「あなたにも、役割があったことが分かりました」
リリアナの目に涙が浮かぶ。
「はい」
「でも、今すぐ私の代わりになろうとしないでください」
リリアナは、驚いた顔をした。
「でも、私は」
「それをすれば、また誰かが一人で背負うだけです」
セレスティアの声は静かだった。
「あなたが背負うべきなのは、私の十年分ではありません。これからの自分の分です」
リリアナは唇を震わせた。
涙が頬を伝う。
「はい」
「分からないことは、分からないと言ってください」
「はい」
「泣いてもいいです。でも、泣いた後に」
「記録を閉じません」
リリアナが答えた。
セレスティアは、小さく頷いた。
それだけのやり取りだった。
だが、その場の空気が少し変わった。
姉が妹を一方的に守る関係ではない。
妹が姉の代わりになろうとする関係でもない。
二人が、それぞれ自分の分を持とうとしている。
まだ危うい。
けれど、初めてそこへ向かっていた。
アデルは、そのやり取りを黙って見ていた。
胸の奥が、ひどく痛かった。
リリアナは変わった。
セレスティアも変わった。
いや、変わったのではない。
自分が見ていなかったものが、今、目の前に現れているだけなのかもしれない。
王妃が口を開いた。
「王妃宮は、正式に記録を訂正します」
全員が王妃を見る。
「過去、セレスティアが王妃宮補佐として行った実務について、可能な限り遡って記録を整えます。功績を王妃宮の名で吸収したものは、注記を入れる」
マルタが深く頭を下げる。
「承知いたしました」
「また、リリアナについては、王妃宮補佐教育を本人の意思確認の上で再設計します」
リリアナが顔を上げた。
「本人の、意思」
「ええ」
王妃は少しだけ微笑む。
「今度は、あなたが選びなさい」
リリアナは泣きながら頷いた。
「はい」
グレゴールが低く言う。
「王妃陛下。それはレイノルド公爵家の教育方針にも関わります」
「公爵」
王妃の声は冷たかった。
「あなたの教育方針の結果が、この箱です」
グレゴールは黙った。
「これ以上、娘たちの役割を父親一人が決めることは認めません」
その言葉は、王妃としての宣言だった。
書記局長が記録する。
ペンの音が、部屋に響く。
アデルは、ゆっくりと息を吸った。
「母上」
「何です」
「王太子府も、記録を訂正する必要がありますか」
その問いに、王妃は少しだけ目を細めた。
「当然です」
当然。
その言葉を聞いて、アデルは小さく頷いた。
「分かりました」
完全に受け入れたわけではない。
だが、逃げ道を塞がれたことは分かった。
王太子府でセレスティアが整えた資料。
彼女の想定回答。
彼女が陰で修正した会議の流れ。
それらを、すべて自分の判断として残してきた。
その記録を訂正する。
それは、王太子としての面子を傷つけることだった。
だが、しなければならない。
そう思える程度には、アデルも現実を見始めていた。
セレスティアは、アデルを見た。
彼が本当に変わるかどうかは、まだ分からない。
謝罪もまだない。
あったとしても、すぐに受け取れるかは分からない。
だが、彼が初めて自分の椅子が誰かに支えられていたことを見た。
それだけは、事実だった。
そのとき、書記局長が最後の文書束に手を伸ばした。
「王妃陛下。箱の底に、まだ一通封印された書簡がございます」
王妃の表情が変わった。
「封蝋は?」
「王家の百合紋ではありません」
書記局長は、慎重に書簡を持ち上げる。
古い封蝋には、見慣れない紋章が押されていた。
三本の枝を絡めた紋。
マルタが息を呑む。
「それは……ダーネス侯爵家の私印です」
オルフェリア・ダーネスの私印。
セレスティアの胸に、また不穏なものが広がった。
王妃が低く言う。
「開けなさい」
書記局長が封を切る。
中の紙は短かった。
読み上げられた一文で、部屋の空気が完全に凍った。
「――将来、セレスティア嬢が王太子妃候補として不都合となった場合、リリアナ嬢への移行は可能。ただし、その際はセレスティア嬢が自ら退く形を取らせることが望ましい」
リリアナの顔から血の気が消えた。
アデルが椅子から立ち上がりかける。
グレゴールは目を逸らした。
セレスティアは、動けなかった。
将来。
移行。
自ら退く形。
それは、まるで。
あの婚約破棄の夜を、ずっと前から想定していたような文言だった。
書記局長の声も、わずかに硬くなった。
「追記。王太子殿下がリリアナ嬢へ強い情を示した場合、移行はより自然に進むものと考えられる」
部屋の音が消えた。
セレスティアは、ゆっくりとグレゴールを見た。
父は、まだ黙っている。
その沈黙が、今までで一番重かった。
王妃が、震える声で言った。
「公爵。あなたは、これを知っていましたか」
答えはなかった。
だが、その沈黙が。
すべてを物語っていた。




