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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第27話 王太子の椅子もまた、誰かに支えられていた

 箱の底に残っていた文書は、他のものよりも古びていなかった。


 それは、契約書の原本ほど重々しくもなく、母エレナの手紙ほど柔らかくもない。


 事務的な紙だった。


 王宮で何度も見た、あの冷たい紙。


 余白が広く、項目ごとに線が引かれ、署名欄と承認印の位置まで決められている。

 感情が入る余地のない、整いすぎた文書。


 セレスティアは、その紙を見た瞬間、嫌な予感がした。


 人を傷つけるのは、怒鳴り声だけではない。

 泣き声だけでもない。


 時には、整いすぎた書類が一番深く人を傷つける。


 王妃エレオノーラは、書記局長へ目を向けた。


「読み上げなさい」


「承知しました」


 書記局長は文書を両手で持ち、ゆっくりと読み始めた。


「王太子府教育調整記録。対象、アデル・ヴァレンティア王太子殿下。ならびに王太子妃候補セレスティア・レイノルド嬢」


 アデルの顔が、はっきりと強張った。


 自分の名が出たからだ。


 さきほどまで、彼はセレスティアとリリアナの話を聞いているつもりだった。


 レイノルド公爵家の古い契約。

 双生契約。

 姉妹の役割。

 グレゴール公爵の判断。


 もちろん自分にも関わりはある。

 だが、どこかで一歩外側から見ていたはずだ。


 それが、いきなり自分の名を呼ばれた。


 セレスティアは、涙の残る目でアデルを見た。


 彼は、初めて逃げ場のない顔をしていた。


 書記局長は続ける。


「王太子殿下は、政務理解において要点整理後の資料への適応は良好。ただし、未整理の原資料に対する集中継続に難あり」


 アデルの唇がわずかに開いた。


 言い返そうとしたのかもしれない。


 だが、声は出なかった。


 書記局長の声は淡々としている。


「会議前資料については、王太子府教育官の判断により、三枚以内の要約資料を基本とする。重要質問に対する想定回答は、事前に王太子妃候補側で整えることが望ましい」


 セレスティアの胸の奥で、何かが重く沈んだ。


 三枚以内の要約資料。


 想定回答。


 それは、彼女がずっと作ってきたものだった。


 アデルが会議で言葉に詰まらないように。

 財務卿から数字を問われても答えられるように。

 外務卿が条約の細部を出しても、要点だけで返せるように。


 セレスティアは、自分が支えているのだと思っていた。


 婚約者として。

 王太子妃候補として。

 国のために。


 だが、この文書は違うことを言っている。


 それは、彼女に求められた役割だった。


 アデルが未整理の現実に触れなくてもよいように。


 セレスティアが整える。


 そういう仕組みが、最初から作られていた。


 書記局長の声が続いた。


「なお、王太子殿下の自尊心および統治者としての自信形成を損なわぬよう、候補者側の補佐内容は表に出さず、殿下ご自身の判断として会議記録に残すこと」


 部屋が凍った。


 リリアナのペンが止まる。


 財務卿バルツァーは目を閉じた。


 マルタは唇を引き結んだ。


 ノアの表情は変わらない。

 だが、彼の沈黙はいつもより冷たかった。


 アデルは、顔から血の気を失っていた。


「私の……判断として?」


 声はかすれていた。


 誰も答えない。


 答えは文書にある。


 セレスティアが整えたものを、アデル自身の判断として残す。


 それは、彼を支えるためだったのだろう。

 王太子の威厳を守るため。

 若い王太子に自信を持たせるため。


 だが同時に、それは彼から現実を見る機会を奪っていた。


 そしてセレスティアからは、功績を奪っていた。


 書記局長は一度、王妃を見た。


 王妃は小さく頷く。


 続けよ、という合図だった。


「教育官署名、ハーランド伯爵オスヴァルド。承認、王太子府長官代理。王妃宮確認、当時の代理印」


 アデルが顔を上げる。


「ハーランド伯……」


 その名には聞き覚えがあった。


 アデルの少年期からの教育官。


 厳しいが忠実な男。

 アデルの失敗を決して表に出さず、いつもこう言っていた。


 殿下は統治者としての大局をご覧ください。

 細かな整理は、周囲の者がいたします。


 アデルは、それを自分への敬意だと思っていた。


 王太子とは、そういうものだと。


 だが違った。


 自分は、大局を見ていたのではない。


 整えられたものだけを見せられていた。


 そして、その整える役をセレスティアが担っていた。


 王妃が静かに口を開いた。


「ハーランド伯はすでに引退しています。ですが、この仕組みは残りました」


 アデルは母を見る。


「母上は、知っていたのですか」


 その問いには、怒りよりも縋るような響きがあった。


 王妃は目を伏せた。


「一部は」


「なぜ止めなかったのです」


「止めようとしました」


 王妃の声は弱かった。


 だが、逃げてはいなかった。


「けれど私も病に伏し、王妃宮はセレスティアの働きに頼りすぎた。王太子府は、あなたの成長を守るという名目でこの仕組みを続けた。レイノルド公爵家は、セレスティアが耐えることで家の均衡を保った」


 王妃はセレスティアを見た。


「そして私は、あの子なら耐えられると、どこかで思ってしまった」


 セレスティアの胸が痛んだ。


 王妃の言葉は、謝罪に近かった。


 けれど今は、それを受け取る余裕がなかった。


 あの子なら耐えられる。


 父も、王宮も、王太子府も、王妃宮も。


 皆、そう思った。


 セレスティアなら。


 強いから。

 正しいから。

 泣かないから。

 乱れないから。


 その結果が、あの夜だった。


 王太子の前で、妹の前で、貴族たちの前で、悪女と呼ばれた。


 書記局長が、さらに下の文書を開く。


「こちらは、王太子府教育官からレイノルド公爵家への連絡書です」


 グレゴールが低く言った。


「それ以上は必要ない」


 王妃は即座に返した。


「必要です」


「王妃陛下」


「公爵。あなたは二十年、必要ないと言い続けてきたのでしょう」


 グレゴールは口を閉ざした。


 書記局長は読み上げる。


「リリアナ嬢については、当面、王妃宮補佐教育から外すことを了承。王太子殿下の情緒的安定に資する可能性があるため、社交および親密交流を優先する」


 リリアナの顔が真っ白になった。


「情緒的……安定?」


 声が震えている。


 セレスティアも、喉の奥が冷えた。


 リリアナがアデルのそばに置かれた理由。


 優しい妹だから。

 可愛らしいから。

 殿下を癒やすから。


 そういう言葉の裏にあったもの。


 王太子の情緒的安定。


 リリアナは、一人の王妃宮補佐候補ではなく、王太子を安心させる存在として扱われた。


 そしてセレスティアは、その裏側を整える存在として扱われた。


 リリアナは唇を震わせた。


「私は……殿下を慰めるための花だったのですか」


 アデルがすぐに言う。


「違う、リリアナ」


 だが、その声には力がなかった。


 リリアナはアデルを見た。


 涙が流れている。


 けれど、記録用のペンは手にある。


「殿下は、知っていたのですか」


「知らない」


 アデルは即答した。


「私は知らなかった」


 それは本当だろう。


 リリアナにも、それは分かった。


 けれど、だからといって何も傷つかないわけではない。


 リリアナは小さく頷いた。


「はい。私も、知りませんでした」


 そして、震える手で記録に書いた。


『リリアナ・レイノルド、王太子殿下の情緒的安定に資する存在として扱われた記録あり。本人、知らなかったと発言』


 自分で自分のことを書く。


 それは、とてもつらいことだった。


 けれど書いた。


 姉が言ったからではない。


 自分が、もう閉じないと決めたから。


 アデルはリリアナの文字を見ていた。


 その姿が、胸に刺さる。


 彼女はもう、自分の隣でただ泣く少女ではなかった。


 泣きながら、自分が道具のように扱われていた事実を記録している。


 それをさせているのは、誰か。


 王宮か。

 レイノルド公爵か。

 ハーランド伯か。

 それとも、何も知らずにその環境を当然として受け取ってきた自分か。


 アデルは唇を噛んだ。


「セレスティア」


 彼は、思わず彼女の名を呼んだ。


 セレスティアは、ゆっくりと彼を見る。


 涙の跡が残っている。


 だが、その目はもう下を向いていない。


「私は……」


 何を言えばよいのか分からなかった。


 すまなかった。


 それを言うべきなのだろう。


 でも、今この場でその一言を出すのは、逃げのように思えた。


 母の手紙の言葉が頭をよぎる。


 謝罪とは、自分の体面を守るための儀礼ではありません。


 相手の痛みを、自分の言葉で認めることです。


 アデルには、まだそれができない。


 自分の痛みで精一杯だった。


 セレスティアは、静かに言った。


「殿下。今は、謝罪より記録を」


 その言葉で、アデルは胸を刺された。


 彼女は分かっている。


 アデルが謝罪の言葉を探していることも。

 それがまだ自分のためのものになりかけていることも。


 だから、止めた。


 謝罪より記録。


 それは厳しかった。


 でも、正しかった。


 アデルは、ゆっくり頷いた。


「……分かった」


 それだけ言うのが、精一杯だった。


 王妃は、グレゴールへ視線を向けた。


「公爵。あなたはこの連絡書を受け取り、承認していますね」


 グレゴールは、長く沈黙した。


 そして、ようやく言った。


「家のために必要でした」


 その言葉に、セレスティアの中で怒りが動いた。


 さきほどまでは、悲しみが大きかった。


 母の手紙。

 役割の檻。

 奪われたもの。


 けれど今、怒りがはっきりと形を持った。


「家のため」


 セレスティアは繰り返した。


 グレゴールを見る。


「父上にとって、家とは何ですか」


 グレゴールの顔が険しくなる。


「何を」


「私でも、リリアナでも、母上でもなく。いったい何を守っておられたのですか」


「名だ」


 グレゴールは言った。


「レイノルド公爵家の名だ」


「その名のためなら、娘は道具でよかったのですか」


「道具などと」


「文書にはそう書かれています」


 セレスティアの声は静かだったが、冷たかった。


「私は殿下の判断を整える者として。リリアナは殿下の情緒的安定に資する者として。父上は、それを承認なさいました」


「貴族の娘には、役割がある」


「役割と道具は違います」


 セレスティアは一歩、父へ向けて進んだ。


 ノアは止めなかった。


 王妃も止めなかった。


「私は役割から逃げたいのではありません。王宮を支えることも、王妃宮を守ることも、救貧院の記録を読むことも、必要ならやります。けれど」


 声が震えた。


 怒りで。


「それを私自身の意志ではなく、誰かの都合で背負わされ、功績を隠され、最後には悪女と呼ばれるのなら、それは役割ではありません」


 部屋は静まり返った。


「搾取です」


 その言葉が、はっきりと響いた。


 搾取。


 誰もすぐには動けなかった。


 アデルは、その言葉に目を伏せた。


 リリアナは涙を流しながら記録した。


『セレスティア様、役割ではなく搾取であると発言』


 グレゴールの顔が赤くなる。


「娘が父に向かって」


「父なら」


 セレスティアは遮った。


「娘の名誉より家の静けさを選ぶべきではありませんでした」


 グレゴールは言葉を失った。


 それは、第15話で彼が選んだものそのものだった。


 セレスティアを修道院へ入れ、帳簿を回収し、家の騒ぎを静める。


 娘の名誉ではなく、家の静けさ。


 今、その選択が本人の前で言葉になった。


 王妃は、静かに目を閉じた。


 マルタは表情を変えない。


 だが、その目には深い痛みがあった。


 ノアは、セレスティアの横に立っている。


 何も言わない。


 セレスティア自身が言葉を持ったからだ。


 セレスティアは、父から視線を外し、王妃へ向き直った。


「王妃陛下。記録の続きをお願いいたします」


 王妃は頷いた。


「書記局長」


「はい」


 書記局長は、箱の底から最後の文書束を取り出した。


 そこには、王太子府教育官ハーランド伯の署名だけでなく、王宮側の承認印がいくつも並んでいた。


 王妃は、その文書を見て静かに告げる。


「次は、王宮側でこの仕組みを維持した者たちの名です」


 アデルの肩が強張る。


 リリアナのペンが止まりかける。


 セレスティアは、母の手紙を胸元に置いたまま、資料台を見た。


 まだ終わらない。


 父だけではない。


 王太子府だけでもない。


 王宮そのものが、彼女たち姉妹を役割の檻に入れ続けた。


 その名が、今から読まれる。


 王妃は、最初の名を見た。


 そして、わずかに苦しげに息を吐いた。


「最初の承認者は――先王妃付き女官長、オルフェリア・ダーネス侯爵夫人」


 マルタの顔が、初めて大きく変わった。


 セレスティアは、その反応を見逃さなかった。


 オルフェリア・ダーネス。


 その名は、マルタの前任者。


 そして、王妃宮の古い権力そのものと呼ばれた女性だった。


 マルタが低く呟いた。


「……あの方まで」


 王妃は目を伏せる。


「ええ。王妃宮もまた、罪から逃れられません」


 箱の中の文書は、まだ数枚残っている。


 その一枚一枚に、王宮の名がある。


 セレスティアは、静かに息を吸った。


 涙は止まっていた。


 代わりに、胸の奥に冷たい火が灯っている。


 自分を守るための火。


 リリアナもまた、泣きながらペンを握り直した。


 アデルは、椅子の上で動けずにいた。


 そしてグレゴールは、初めて本当に孤立した顔をしていた。


 箱は開いた。


 けれど、まだ底は見えていない。


 古い鎖は、思ったよりも長く、王宮の奥深くまで伸びていた。

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