第26話 箱の中には、母の筆跡があった
鍵が回った音は、思ったよりも小さかった。
けれど、その場にいた全員が聞いた。
かちり、と。
長く閉ざされていたものが、ようやく許可を得たような音だった。
セレスティアは、鍵から手を離さなかった。
開けると決めた。
そう口にしたわけではない。
けれど、鍵を回した瞬間、もう決めていたのだと思った。
父に止められても。
王太子に見られていても。
リリアナが泣きそうな顔で立っていても。
王妃が静かに見守っていても。
これは、自分が開ける箱だ。
「セレスティア」
グレゴールの声が、低く響いた。
「今なら、まだ閉じられる」
その声には、命令の響きがあった。
幼いころから何度も聞いた声。
泣くな。
立ちなさい。
お前は姉なのだから。
リリアナを困らせるな。
殿下の前で恥をかかせるな。
家のために。
セレスティアは、箱に視線を落としたまま答えた。
「閉じません」
父の息が、わずかに乱れた。
「お前は、自分が何をしているのか分かっているのか」
「分かりません」
その答えに、グレゴールの眉が動いた。
セレスティアは続けた。
「だから、開けます」
部屋の空気が、さらに重くなった。
以前なら、分からないものには触れなかった。
王宮の許可がないもの。
父が口を閉ざすもの。
王妃がまだ早いと言ったもの。
それらを、セレスティアは遠ざけてきた。
けれど今は違う。
分からないからこそ、知る。
知らないまま背負わされることには、もう疲れた。
セレスティアは小箱の蓋に指をかけた。
銀細工の蓋は、見た目より重かった。
ゆっくり持ち上げる。
古い紙の匂いがした。
乾いた羊皮紙。
長く封じられていたインク。
微かに、薬草のような香り。
箱の中には、数通の文書が重ねられていた。
一番上には、王家の百合紋とレイノルド公爵家の紋章が並んだ契約書。
その下に、療養記録。
出産記録。
封蝋された手紙。
そして、薄い青いリボンで束ねられた便箋。
セレスティアの指は、自然とその便箋へ向かった。
見覚えがあった。
字ではなく、紙の選び方に。
上質すぎない、柔らかな紙。
淡い青の縁取り。
香りはほとんどない。
母エレナが好んでいた紙だった。
胸の奥が、急に痛んだ。
「それは」
グレゴールが一歩踏み出しかける。
ノアが、静かにその前へ視線を向けた。
剣に手をかけたわけではない。
ただ、立っているだけ。
それでも、グレゴールは足を止めた。
王妃が言った。
「セレスティア。最初に契約書を読みなさい」
セレスティアは母の便箋から手を離した。
まだ触れたい。
すぐに読みたい。
けれど、王妃の声には理由があった。
彼女は契約書を取り上げた。
書記局長が隣へ進み出る。
「読み上げますか」
セレスティアは一瞬迷った。
自分で読むべきだと思った。
けれど、全員の前で読み上げるには手が震えるかもしれない。
今は、自分一人で耐える必要はない。
「お願いします」
書記局長は頷き、契約書を受け取った。
王家の古い形式で書かれた文書だった。
言い回しは硬く、時代がかったものだが、内容は明確だった。
「――レイノルド公爵家に二人の娘が生まれた場合、王妃宮はその資質を見極め、一人を表の王太子妃候補、一人を奥の王妃宮補佐候補として教育する」
リリアナの指が、ペンの上で止まった。
アデルが、息を呑む。
書記局長は読み続けた。
「両名は互いの役割を補い、王太子府と王妃宮の断絶を防ぐものとする。表に立つ者は民と貴族の心を受け、奥を支える者は財務、慈善、療養、外交儀礼の実務を担う。いずれも優劣ではなく、双生の役割である」
双生の役割。
セレスティアは、その言葉を心の中で繰り返した。
優劣ではなく。
双生。
姉と妹。
上と下。
強い者と弱い者。
支える者と守られる者。
そうではなかった。
本来は、二つで一つ。
互いに補うための役割だった。
リリアナが、震える声で呟いた。
「私にも……役割があった」
誰もすぐには答えなかった。
リリアナの声は、部屋の隅に落ちた。
弱く育てられた少女が、自分に本来あったはずの重さを初めて声にしたようだった。
書記局長は、契約書の次のページへ移る。
「続いて、対象者の教育割当案です」
セレスティアの胸が鳴った。
「セレスティア・レイノルド。王太子妃候補。礼法、外交、社交、王太子府補佐、王族会議基礎。
リリアナ・レイノルド。王妃宮補佐候補。王妃宮予備費、救貧院支援、療養記録、薬草契約、慈善基金監査補助」
リリアナのペンが、紙の上に落ちた。
小さな音だった。
けれどセレスティアには、やけに大きく聞こえた。
王妃宮予備費。
救貧院支援。
療養記録。
薬草契約。
今、セレスティアが背負っていたもの。
本来は、リリアナの教育項目だった。
その事実が、部屋の中央に置かれた。
リリアナは、顔を真っ白にしていた。
「私が……?」
声にならないほど小さい。
マルタが彼女のそばに立った。
慰めるためではない。
倒れないよう、ただそこにいるためだった。
王妃は、静かに言った。
「そうです。あなたは、守られるだけの妹として育てられるはずではありませんでした」
リリアナの目から、涙が一粒落ちる。
それでも彼女は、手を伸ばしてペンを拾った。
泣いている。
だが、記録を閉じない。
セレスティアはそれを見て、胸が締めつけられた。
リリアナが悪くないとは思えない。
だが、リリアナだけが悪いとも、もう思えなかった。
書記局長は、次の文書を開いた。
「こちらは、変更申請書です。提出者は、レイノルド公爵グレゴール閣下」
部屋の空気が変わった。
グレゴールの顔から、わずかに色が消える。
セレスティアは父を見た。
父は口を閉ざしている。
いつもの沈黙。
だが、今日はその沈黙だけでは済まない。
「内容を読み上げます」
書記局長の声は、あくまで平静だった。
「リリアナ・レイノルドは体質虚弱、情緒不安定の傾向があり、王妃宮補佐教育に耐え得ないものと判断。よって当面の間、該当教育を停止し、セレスティア・レイノルドに王太子妃候補教育と王妃宮補佐教育の一部を兼任させることを願う」
当面の間。
その言葉が、セレスティアの胸に刺さった。
当面の間だった。
それが、何年続いたのか。
一年。
三年。
五年。
十年。
気づけば、セレスティアの生活そのものになっていた。
誰も戻さなかった。
父も。
王宮も。
そして自分自身も。
アデルが低く言った。
「当面……」
その声には、呆然とした響きがあった。
彼もまた、初めて知ったのだろう。
セレスティアが実務に入り込みすぎていたのではない。
入り込むよう変更され、そのまま放置されていた。
王妃がグレゴールを見た。
「公爵。これはあなたの申請ですね」
グレゴールはしばらく黙っていた。
やがて、重い声で答えた。
「当時は、必要な判断でした」
リリアナが小さく震えた。
「必要……?」
グレゴールは娘を見なかった。
「リリアナは幼く、体も弱かった。王妃宮の実務など、とても」
「私は」
リリアナは涙を流したまま言った。
「学ぶ機会も、いただけませんでした」
グレゴールの眉が動く。
「お前を守るためだ」
その言葉に、セレスティアの中で何かが静かに冷えた。
守るため。
また、その言葉。
王太子府もそうだった。
リリアナを守るため。
王宮を守るため。
家を守るため。
そのたびに、誰かがセレスティアを押し込めた。
「父上」
セレスティアは言った。
その呼び方をするのは、ひどく久しぶりな気がした。
グレゴールが、ようやく彼女を見る。
「何だ」
「リリアナを守るために、私には何をさせたのですか」
グレゴールは答えなかった。
「王太子妃教育と王妃宮補佐教育。殿下の資料。王妃陛下の療養。救貧院支援。リリアナの失敗の後始末。父上は、それを当面の間とおっしゃった」
声は静かだった。
自分でも驚くほど。
「その当面は、いつ終わる予定でしたか」
グレゴールは口を閉ざした。
沈黙。
また沈黙。
だが、今度は部屋中がその沈黙を見ていた。
アデルも。
リリアナも。
王妃も。
ノアも。
書記局長も。
財務卿も。
沈黙は、もう力ではなかった。
答えられないことの証明だった。
セレスティアは目を伏せた。
「終わる予定は、なかったのですね」
グレゴールの顔が強張る。
「家を守るためには」
「私も家の者でした」
その一言は、セレスティア自身の胸にも刺さった。
私は家の道具ではない。
そう言えればよかった。
だが、出てきた言葉はそれだった。
私も家の者でした。
娘でした。
それだけの言葉が、長い年月の重みを連れて部屋に落ちた。
リリアナが、声を殺して泣いた。
泣きながらも、記録用紙に何かを書いている。
セレスティアは見ないようにした。
見れば、自分も崩れる気がした。
王妃が、次の文書へ視線を向けた。
「書記局長。エレナの手紙を」
その名が出た瞬間、グレゴールがはっきりと動揺した。
「王妃陛下。それは私信です」
「違います」
王妃の声は静かだった。
「王妃宮へ正式に預けられた抗議書です」
「妻は病で判断が」
「病で字が震えていても、意思は明確です」
王妃の目が、鋭くなった。
「あなたは、それを二十年近く病のせいにして封じてきた」
セレスティアは、息が止まりそうになった。
母の手紙。
抗議書。
王妃宮に預けられた。
母は、何かを訴えていた。
それを、父が封じた。
書記局長が、青いリボンで束ねられた便箋を開いた。
紙は古い。
端が少し変色している。
しかし、文字は読めた。
母エレナの筆跡。
セレスティアの記憶より少し弱く、震えた字。
書記局長は、静かに読み上げた。
「王妃陛下へ。
夫グレゴールは、リリアナの教育停止を一時的なものと申しております。けれど私は、これがセレスティア一人に長く背負わせるための口実になることを恐れております」
セレスティアは、思わず指を握った。
母は、知っていた。
予感していた。
「セレスティアは強い子です。けれど、強い子は壊れない子ではありません。
リリアナは弱い子です。けれど、弱い子として扱い続ければ、本当に立てなくなります」
リリアナが、嗚咽を漏らしかけて口元を押さえた。
マルタが、静かに彼女の横へ立つ。
書記局長は続ける。
「どうか、二人を役割の檻に閉じ込めないでください。
セレスティアを姉という名の小さな王妃にしないでください。
リリアナを守られるだけの花にしないでください。
二人は、私の娘です。家の道具ではありません」
セレスティアの視界が揺れた。
母の声が聞こえた気がした。
遠い記憶の中の、柔らかな声。
セレスティア。
あなたは、我慢が上手ね。
そう言って母は、少し悲しそうに笑っていた。
あれは褒め言葉ではなかったのかもしれない。
気づいていたのだ。
母は。
セレスティアが我慢を覚えすぎていることに。
書記局長の声が少しだけ低くなる。
「もし私がこの先、二人を守る力を失うなら、この手紙を王妃宮に預けます。
いつか、二人のどちらかが自分の役割に苦しみ、真実を求めたときに開いてください」
そこで、書記局長は一度言葉を切った。
セレスティアは、手紙から目を離せなかった。
母は、自分たちのために残していた。
何年も前に。
自分が悪女と呼ばれるより、ずっと前に。
王妃の薬草を気にするより、救貧院支援金を読むより、王太子の資料を整えるより前に。
母は、二人が壊れる未来を恐れていた。
そして、書いていた。
家の道具ではありません、と。
グレゴールは黙っていた。
その沈黙には、もう威厳がなかった。
セレスティアは、母の手紙へ手を伸ばした。
書記局長が、そっと渡す。
指が震える。
紙は軽い。
なのに、重かった。
母の字を指でなぞる。
セレスティアを姉という名の小さな王妃にしないでください。
その一文で、喉の奥が熱くなった。
小さな王妃。
それは、自分がずっと演じてきたものだった。
泣かず。
乱れず。
妹を守り。
王太子を支え。
王妃宮を回し。
家の体面を保つ。
少女でありながら、王妃のように振る舞うことを求められていた。
母は、それを恐れていた。
なのに、誰も止めなかった。
「……お母様」
声が漏れた。
その瞬間、セレスティアの目から涙が落ちた。
一粒だけ。
彼女自身も驚いた。
涙。
ずっと出なかったもの。
泣き方を忘れたと思っていたもの。
それが、母の字を見た瞬間、静かにこぼれた。
リリアナが息を呑む。
アデルが言葉を失う。
グレゴールが顔を強張らせる。
ノアは何も言わなかった。
ただ、セレスティアの隣にいた。
セレスティアは涙を拭わなかった。
流れたままにした。
もう、誰かの前で泣いてはいけないとは思わなかった。
王妃が静かに言った。
「エレナは、最後まで二人を娘として見ていました」
セレスティアは、手紙を胸に抱いた。
「私は……知らなかった」
「ええ」
「お母様が、こんなことを」
「あなたに届く前に、止められました」
王妃の視線がグレゴールへ向く。
グレゴールは、初めて目を逸らした。
セレスティアは父を見た。
涙はまだ止まらない。
けれど声は出た。
「父上」
グレゴールは答えない。
「なぜ、隠したのですか」
沈黙。
また、沈黙。
だが今度は、その沈黙を許す気にはなれなかった。
「答えてください」
セレスティアの声は震えていた。
だが、部屋に響いた。
「お母様が私たちを家の道具ではないと書いていたことを、なぜ隠したのですか」
グレゴールは、長い沈黙の末に言った。
「家には、守るべきものがある」
それだけだった。
セレスティアは、静かに目を閉じた。
その答えで、十分だった。
父は、母の言葉より家を選んだ。
娘の痛みより、家の形を選んだ。
そして今も、それを守ると言う。
「そうですか」
セレスティアは、目を開けた。
「では私は、私を守ります」
その言葉に、グレゴールが初めてはっきりと彼女を見た。
セレスティアは母の手紙を胸に抱いたまま、まっすぐ父を見る。
「家ではなく、父上の沈黙でもなく、殿下の体面でもなく、リリアナの涙でもなく」
声が震える。
涙も流れている。
それでも、言った。
「私自身を、守ります」
部屋は静まり返った。
その沈黙の中で、書記局長のペンが動く音だけが響いた。
リリアナもまた、泣きながら記録していた。
アデルは、セレスティアを見ていた。
彼女が泣いているところを、初めて見た。
けれど、その涙は自分に向けられたものではない。
許しを乞う涙でも、縋る涙でもない。
母の言葉を受け取り、自分自身を守ると決めた涙だった。
その姿を見て、アデルはようやく理解し始めた。
自分は、この人の何を見ていたのだろう。
冷たい女。
正しすぎる婚約者。
リリアナを傷つける姉。
そのどれも、彼女の一部ですらなかったのかもしれない。
王妃が、静かに息を吐いた。
「今日、箱は開かれました」
その声で、全員が王妃を見る。
「けれど、これは始まりです。双生契約の全記録は、まだ半分しか読まれていません」
半分。
セレスティアは顔を上げた。
王妃は箱の底へ視線を向ける。
「残りには、契約変更を承認した王宮側の名が記されています」
部屋の空気が、また変わった。
グレゴールだけではない。
王宮側にも、名がある。
アデルが息を止める。
リリアナのペンが止まる。
セレスティアは、母の手紙を握りしめた。
王妃は、静かに告げた。
「次に読む名は、アデル。あなたにも関わります」
アデルの顔から血の気が引いた。
箱の底には、まだ文書が残っている。
古い鎖は、一本だけではなかった。
セレスティアは涙を拭わず、箱を見た。
もう逃げない。
だが、すべてを知るには、まだ痛みが足りないのかもしれなかった。




