第25話 悪女は、王宮の門をくぐった
王宮の門は、以前と何も変わっていなかった。
白い石で積まれた高い外壁。
金の百合紋が飾られた鉄門。
朝の光を受けて眩しく輝く尖塔。
幼いころから何度も通った門だ。
王太子妃教育のために。
王妃宮の手伝いのために。
夜会のために。
リリアナの失敗を取り繕うために。
アデルの会議資料を届けるために。
そして最後に通ったのは、追い出されるように王宮を去った夜だった。
あの夜、王宮の灯りは遠ざかっていった。
今は、その門へ向かって馬車が進んでいる。
セレスティアは、膝の上で手を重ねた。
指先は冷えている。
けれど、震えてはいなかった。
隣にはノアが座っている。
向かいには、彼の従者が帳簿の入った鞄を抱えていた。
小さな鍵は、セレスティアの胸元にある。
重い。
だが、以前のように息が詰まる重さではない。
自分だけが背負う重さではないと、知ったからだ。
「大丈夫ですか」
ノアが尋ねた。
セレスティアは、窓の外を見たまま答えた。
「大丈夫ではありません」
「はい」
「ですが、向かいます」
「はい」
短いやり取りだった。
それだけで、少し呼吸が整った。
門番が馬車へ近づいてくる。
北方辺境伯家の紋章を見て、彼らの表情が引き締まった。続いて、馬車の中のセレスティアに気づいたのだろう。片方の門番が、露骨に目を見開く。
悪女が戻った。
そう思ったに違いない。
だが、セレスティアは視線を逸らさなかった。
門番は慌てて頭を下げる。
「北方辺境伯閣下。セレスティア様。王妃宮より、小会議室へご案内するよう申しつかっております」
セレスティア様。
その呼び方に、わずかな間があった。
公爵令嬢でも、王太子の婚約者でもない。
けれど、悪女でもない。
セレスティアは小さく頷いた。
「お願いします」
馬車は王宮の敷地へ入った。
庭は、春の花で整えられている。
あの夜会で使われた白い花はもう片づけられていた。
何事もなかったように。
だが、王宮の空気は以前とは違っていた。
窓の陰から、侍女たちがこちらを見ている。
廊下の端で、書記官たちが足を止める。
庭師が剪定鋏を持ったまま固まっている。
好奇心。
恐れ。
後ろめたさ。
それらが、幾重にも重なった視線になっていた。
以前のセレスティアなら、そのすべてを受け流しただろう。
微笑み、礼をし、何も気づいていないふりをした。
だが今は、違う。
見られていることを、見られていると分かったまま歩く。
それだけのことが、こんなにも疲れるとは思わなかった。
馬車が止まる。
扉が開いた。
ノアが先に降り、セレスティアへ手を差し出す。
一瞬、彼女は迷った。
ここは王宮だ。
多くの目がある。
北方辺境伯の手を借りれば、噂になるかもしれない。
だが、すでに噂は十分すぎるほど立っている。
それに、手を借りることは恥ではない。
セレスティアは、ノアの手を取った。
降り立った瞬間、王宮の石畳の冷たさが足裏から伝わってくる。
懐かしい。
そして、少しだけ恐ろしい。
迎えに出ていたのは、マルタだった。
彼女はいつも通り背筋を伸ばし、深く礼をした。
「セレスティア様。お待ちしておりました」
その声に、セレスティアの胸が詰まりそうになる。
お待ちしておりました。
責めるでもなく、驚くでもなく。
ただ、待っていたと。
「マルタ侍女長」
「王妃陛下は小会議室にてお待ちです。ご体調を考え、長時間にはできません」
「承知しました」
「それから」
マルタは少しだけ声を落とした。
「お席は、出入口が見える位置にしてあります」
セレスティアは一瞬、息を止めた。
そんなことまで。
彼女が何も言えずにいると、マルタは淡々と続けた。
「必要でしたので」
「……ありがとうございます」
「受け取ります」
その言い方が、どこかノアに似ていて、セレスティアはほんの少しだけ笑いそうになった。
笑えはしなかったが。
小会議室へ向かう廊下は、王宮の中でも古い区画にある。
壁には歴代王妃の肖像画が並び、床の石は長い年月で少し磨り減っている。
セレスティアは、この廊下をよく歩いた。
王妃の薬草記録を持って。
救貧院の報告書を抱えて。
王太子府へ回す前の財務資料を確認しながら。
歩くたびに、過去の自分が壁の影から見ているような気がした。
あのころの自分は、今日ここへ来ることを想像できただろうか。
悪女と呼ばれ、王宮を去り、帳簿と鍵を持って戻る日を。
いや。
戻るのではない。
向かうのだ。
セレスティアは、胸元の鍵にそっと触れた。
小会議室の扉が見えた。
その前で、リリアナが立っていた。
淡い色のドレスではない。
王妃宮の補助をするための、落ち着いた服。
髪も華やかに飾っていない。
顔色は少し悪い。
だが、彼女は逃げなかった。
セレスティアを見た瞬間、リリアナの瞳に涙が浮かぶ。
それでも、こぼさなかった。
震える手を前で重ね、深く頭を下げる。
「セレスティアお姉様」
その声は、震えていた。
セレスティアは足を止めた。
胸の奥が、ひどく痛んだ。
妹だ。
自分を傷つけた妹。
自分が守ってきた妹。
自分の分まで何も知らずにいた妹。
今、泣かずに立とうとしている妹。
どれか一つではない。
全部がリリアナだった。
「リリアナ」
セレスティアは、その名を呼んだ。
それだけで、リリアナの目元が揺れた。
きっと、謝りたいのだろう。
許してほしいのだろう。
泣きたいのだろう。
だがリリアナは、言わなかった。
「記録を、続けています」
代わりに、そう言った。
セレスティアは、少しだけ目を伏せた。
「読みました」
「はい」
「字は震えていましたね」
リリアナの頬が赤くなる。
「……はい」
「でも、読めました」
短い言葉だった。
けれど、リリアナはそれだけで泣きそうな顔になった。
セレスティアは続けた。
「今日は、泣いても構いません」
「はい」
「でも」
「記録は閉じません」
リリアナが小さく答える。
その声を聞いて、セレスティアは胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
許したわけではない。
まだ、何も終わっていない。
でも、妹は逃げていない。
それだけは、確かだった。
扉が開かれる。
小会議室には、すでに人が揃っていた。
中央の資料台。
その上には、封じられた帳簿、処理票の写し、王妃宮予備費の記録。
そして、銀細工の箱。
百合紋と星紋が刻まれた小箱。
鍵穴は閉じている。
その箱を見た瞬間、セレスティアの呼吸が浅くなった。
胸元の鍵が、まるで熱を持ったように感じられる。
王妃エレオノーラは、部屋の奥に用意された椅子に座っていた。
寝椅子ではない。
体調は悪いはずだ。
それでも、今日は王妃として座っている。
マルタがすぐそばに立っていた。
財務卿バルツァー。
書記局長。
王太子アデル。
そして、レイノルド公爵グレゴール。
父の姿を見た瞬間、セレスティアの背筋に冷たいものが走った。
グレゴールは、彼女を見た。
その目に、謝罪はなかった。
怒り。
不満。
そして、抑えきれない苛立ち。
娘が命令だけでは戻らなかったことへの苛立ち。
セレスティアは、ほんの少しだけ手を握った。
ノアが隣で、静かに言った。
「呼吸を」
小さな声だった。
セレスティアは息を吸った。
ゆっくり吐く。
もう一度。
父の目から、少しだけ距離が取れた。
王妃が口を開く。
「セレスティア。よく来ました」
セレスティアは深く礼をした。
「王妃陛下。お招きにより参上いたしました」
「いいえ」
王妃は静かに言った。
「あなたは、あなたの条件で来ました」
その言葉に、部屋の空気がわずかに動いた。
アデルが目を伏せる。
グレゴールの眉が動く。
リリアナが小さく息を呑む。
セレスティアは顔を上げた。
「はい」
初めて、はっきり答えた。
「私は、自分の条件で参りました」
王妃は頷いた。
「では、始めましょう」
グレゴールがすぐに口を開いた。
「その前に、王妃陛下。セレスティアが王宮記録を外部へ持ち出した件について、まず」
「公爵」
王妃の声が静かに遮った。
「順序は私が決めます」
「しかし」
「王妃宮予備費が関わる場です。王妃である私が決めます」
グレゴールは口を閉ざした。
その顔は硬い。
セレスティアは、父が誰かに止められるところを初めて見た気がした。
王妃は資料台へ視線を向ける。
「本日の議題は二つ。まず、王太子府儀礼費と王妃宮予備費に関する財務記録の確認。次に、双生契約の箱について」
双生契約。
その言葉が部屋に落ちた瞬間、セレスティアの胸が強く鳴った。
初めて、他人の声でその名を聞いた。
アデルは顔を強張らせる。
リリアナは膝の上で手を握る。
グレゴールの表情が、明らかに険しくなった。
ノアだけが、静かにその場を見ていた。
「まず財務記録から」
王妃が言うと、書記局長が処理票を取り出した。
封蝋を確認し、全員の前に置く。
「こちらが、王妃宮予備費から王太子府儀礼費への一時補填として処理されかけた票です。余白にセレスティア様の注意書きがございます」
セレスティアは、その処理票を見た。
見覚えがある。
あのとき、ガレオン卿は急いでいた。
南方大使関連の儀礼費が不足している。王太子殿下の面子に関わる。後で戻せばよい。
そう言われた。
セレスティアは止めた。
王妃宮予備費は、王太子府の面子を補う財布ではない。
そう思った。
だが、それをそのまま言えば角が立つ。
だから、書いた。
『この処理は不可』
その二文字が、今ここにある。
「セレスティア」
王妃が言った。
「この注意書きは、あなたのものですね」
「はい」
セレスティアは答えた。
声は震えなかった。
「私のものです」
「なぜ書きましたか」
「王妃宮予備費の用途外処理だったためです。王妃陛下の療養費、救貧院支援金、東区薬師ギルドとの緊急契約に影響が出る可能性がありました」
財務卿が頷く。
「私の確認でも、その通りです」
アデルは何も言わない。
グレゴールが口を挟もうとしたが、王妃の視線に止められた。
王妃はさらに尋ねる。
「あなたは、この処理を承認しましたか」
「いいえ」
「確認印を押した理由は」
「不備を確認し、財務卿確認前に進めないよう記録するためです」
書記局長が記録する。
ペンの音が響く。
セレスティアは、その音を聞きながら思った。
残っている。
今度は、自分の言葉が記録されている。
「では、なぜ帳簿の写しを外部に保全しましたか」
王妃の声は静かだった。
部屋の空気が変わる。
核心だ。
王太子府が問題にしている点。
セレスティアは一度、目を閉じた。
王宮を信じたかった。
でも、信じきれなかった。
自分の確認印が、別の意味で使われる可能性があった。
記録が消える可能性があった。
それを認めることは、王宮を疑ったと認めることだ。
かつての彼女なら、言えなかった。
だが今は。
「王宮内で、確認印と承認印の区別が曖昧に扱われる危険があると判断したためです」
セレスティアは言った。
「また、王妃宮予備費に関する記録が失われた場合、王妃陛下の療養と救貧院支援に直接影響すると考えました。私は王宮を混乱させるために記録を持ち出したのではありません。記録を守るために写しを保全しました」
グレゴールが低く言った。
「それは詭弁だ。王宮記録を外へ出した事実は変わらない」
セレスティアの胸が冷える。
父の声。
命令の声。
だが、今日は一人ではない。
ノアが口を開いた。
「公爵閣下。外部保全された写しがなければ、この処理票との照合はできなかった可能性があります」
「辺境伯は、我が家の問題に口を」
「本日は第三者立会人として同席しています」
ノアの声は低く、静かだった。
「家の問題ではなく、王宮財務記録の問題です」
グレゴールの顔が硬くなる。
アデルは、そのやり取りを黙って見ていた。
リリアナは、記録用紙にペンを走らせている。
泣いていない。
セレスティアは、それを見て少しだけ胸が熱くなった。
王妃が手を上げる。
「帳簿持ち出しについては、さらに確認します。ただし現時点で、セレスティアが不正処理を止めようとしていたことは記録されました」
その言葉が部屋に落ちる。
不正処理を止めようとしていた。
セレスティアは、その言葉を静かに受け取った。
許されたわけではない。
すべてが解決したわけではない。
それでも、悪女ではなく、止めようとしていた者として記録された。
それだけで、胸の奥にあった硬いものが少しだけ緩んだ。
王妃は、銀の箱へ視線を向けた。
「次に、双生契約の箱について」
空気が一気に変わる。
グレゴールが立ち上がりかけた。
「王妃陛下。それは本件と」
「関係があります」
王妃は言い切った。
「なぜセレスティアが過剰な実務を背負うことになったのか。なぜリリアナが何も知らされずに育ったのか。なぜ公爵家が沈黙を強いたのか。その根に関わるものです」
グレゴールの顔から血の気が引いた。
セレスティアは、箱を見つめた。
鍵が胸元で重くなる。
王妃が彼女を見る。
「セレスティア。鍵は、あなたが持っていますね」
「はい」
「開けるかどうかは、あなたが決めなさい」
部屋中の視線がセレスティアに集まった。
アデル。
リリアナ。
父。
王妃。
財務卿。
書記局長。
マルタ。
ノア。
全員が待っている。
かつてのセレスティアなら、王妃のために開けただろう。
王宮のために開けただろう。
誰かの期待に応えるために、鍵を差し出しただろう。
でも今、王妃は言った。
あなたが決めなさい。
セレスティアは胸元から鍵を取り出した。
銀色の古い鍵。
手のひらに載せると、ひんやりと冷たい。
彼女は箱へ一歩近づいた。
リリアナが息を呑む音が聞こえる。
父の顔は見なかった。
見れば、きっと足が止まる。
セレスティアは箱の前に立った。
鍵穴を見下ろす。
この箱を開ければ、何かが変わる。
父との関係も。
リリアナとの関係も。
自分が背負ってきたものの意味も。
戻れなくなる。
けれど、もう戻る場所はない。
ならば、向かうしかない。
セレスティアは鍵を鍵穴へ差し込んだ。
金属が触れ合う小さな音が、部屋に響いた。
誰も声を出さない。
王妃が静かに見守っている。
ノアがすぐそばにいる。
リリアナが泣きそうな顔で、それでも記録用のペンを握っている。
セレスティアは、鍵に手をかけた。
回す。
その直前。
グレゴールが、低く言った。
「開ければ、後悔するぞ」
父の声だった。
昔から、セレスティアを止めてきた声。
それを聞いて、彼女の手は一瞬だけ止まった。
だが、今度は引かなかった。
セレスティアは父を見た。
静かに、はっきりと。
「後悔するかどうかも、私が決めます」
そして、鍵を回した。
小さな音がした。
古い鎖が外れる音だった。




