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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第24話 彼女は、王都へ戻るのではなく向かう

北方の屋敷で用意された鞄は、思ったよりも小さかった。


 王宮を去った夜も、荷物は多くなかった。

 けれど、あのときの鞄と今の鞄は、重さが違う。


 あの夜の鞄には、行き場のない私物が入っていた。


 今の鞄には、記録が入っている。


 帳簿の写し。

 処理経路の説明書。

 王妃宮予備費に関する控え。

 救貧院支援金の遅延記録。

 王太子府儀礼費の不整合。

 自分自身の言葉で書いた、帳簿を外部保全した理由。


 そして、小箱に収めた古い鍵。


 セレスティアは、最後にリリアナからの手紙と自分の返書の控えを鞄へ入れた。


 入れるべきか、少し迷った。


 財務記録ではない。

 王宮の公式文書でもない。

 ただの姉妹の手紙だ。


 それでも、入れた。


 この先、王都で何が起きるか分からない。

 リリアナと向き合うことになるかもしれない。

 父と対面するかもしれない。

 アデルに、また都合のよい言葉を向けられるかもしれない。


 そのとき、自分が何を受け取って、何をまだ許していないのかを忘れないために。


 手紙は必要だった。


「準備はできましたか」


 扉のそばから、ノアの声がした。


 セレスティアは振り返る。


 ノアは旅装だった。

 黒に近い濃紺の外套。飾り気の少ない剣帯。北方の紋章を刻んだ銀の留め具。


 王都の貴族が好む華やかさはない。

 だが、ひと目で分かる。


 この人は、王宮へ遊びに行くのではない。


 証人として、立会人として、セレスティアと共に向かう。


「はい」


 セレスティアは鞄を閉じた。


「できました」


「重いですか」


「少し」


「持ちましょう」


「いえ、自分で」


 言いかけて、セレスティアは手を止めた。


 今までなら、何でも自分で持とうとした。

 誰かの手を借りることを、迷惑だと思った。

 荷物も、書類も、責任も。


 でも、この鞄は違う。


 自分のものだが、一人で抱える必要はない。


 セレスティアは、鞄の持ち手からそっと手を離した。


「……途中まで、お願いしてもよろしいでしょうか」


 ノアは何も言わずに鞄を受け取った。


 軽々と持ち上げる。


「もちろん」


 その一言が、妙に胸に響いた。


 セレスティアは小さく息を吐いた。


「不思議です」


「何がですか」


「人に荷物を持っていただくだけで、少し怖いのです」


「怖い?」


「自分のものを預けることに慣れていません」


 ノアは鞄を手にしたまま、少し考えた。


「では、これは練習ですね」


「練習」


「はい。戻してほしくなったら、いつでも言ってください」


 セレスティアは、思わず笑ってしまった。


「子どもの歩行練習のようです」


「大切な訓練です」


 ノアは真面目な顔でそう言った。


 その真面目さに、セレスティアはさらに笑いそうになったが、何とか堪えた。


 笑える。


 王都へ向かう朝に、自分が笑っている。


 そのことが少し怖く、少しだけ救いだった。


 屋敷の玄関には、使用人たちが集まっていた。


 短い滞在だった。

 それなのに、女中や家令、厨房の者たちまで見送りに出ている。


 朝食を運んでくれた女中が、腕を組んでセレスティアを見た。


「ちゃんと食べましたか」


「はい」


「馬車の中で倒れたら閣下が慌てますからね」


 ノアが静かに言う。


「慌てはしない」


「顔に出ないだけです」


 女中はぴしゃりと言い、包みを差し出した。


「焼き林檎の菓子です。甘すぎないようにしてあります。王都の立派なお菓子ほど上品ではありませんが、気が詰まったときに食べるにはこっちの方がいいです」


 セレスティアは両手で受け取った。


 温かかった。


「ありがとうございます」


「それから」


 女中は少しだけ声を落とした。


「向こうで嫌なことを言われたら、ちゃんと腹を立ててくださいね」


 セレスティアは目を瞬いた。


「腹を」


「ええ。怒るのを忘れる方って、あとで身体にきますから」


 あまりに率直な言葉に、セレスティアは返事に迷った。


 けれど、結局素直に頷いた。


「努力します」


 女中は眉を上げる。


「実行です」


 セレスティアは、今度こそ笑った。


「はい。実行します」


 ノアが横で、ほんのわずかに満足そうな顔をした。


 屋敷を出ると、北方の風が頬を撫でた。


 冷たい。


 けれど、その冷たさは嫌ではなかった。


 馬車に乗る直前、セレスティアは屋敷を振り返った。


 ここに来たとき、自分は行き場を失っていた。

 王宮から追い出され、公爵家にも戻らず、王都の宿に断られた。


 あのとき、ここは避難場所だった。


 今は違う。


 ここは、帰れる場所かもしれない。


 そう思った瞬間、胸の奥が少し熱くなった。


 ノアが声をかける。


「行きましょう」


「はい」


 セレスティアは馬車に乗った。


 車輪が動き出す。


 北方の屋敷が少しずつ遠ざかっていく。


 彼女はもう、王都へ戻るのではない。


 王都へ向かう。


 記録と鍵を持って。


 そのころ、王妃宮でも準備が進んでいた。


 正式説明の場は、王宮内の小会議室で行われることになった。


 大広間ではない。

 夜会のように貴族たちへ見せる場ではない。


 けれど、密室でもない。


 王妃宮、財務局、書記局、王太子府。

 そして第三者立会人として北方辺境伯。


 それぞれが席を持つ。


 机の配置ひとつで、意図が出る。


 マルタは、使用人たちが椅子を並べる様子を確認していた。


「王太子殿下の席を中央に置かないでください」


 若い侍従が驚いた顔をする。


「ですが、殿下は王太子で」


「今回は裁定の場ではなく、記録確認の場です。中央は資料台です」


「資料台……」


「ええ。中心に置くべきは人ではなく記録です」


 侍従は戸惑いながらも頷いた。


 マルタはさらに指示を出す。


「王妃宮の席は右。財務局と書記局は資料台の左右。王太子府は向かい側。北方辺境伯とセレスティア様の席は、出入口に背を向けない位置に」


「背を向けない?」


「必要です」


 それ以上、説明しなかった。


 だがマルタは分かっていた。


 セレスティアは、追い詰められることに慣れすぎている。

 逃げ道のない席に座らせれば、また背筋を伸ばして耐えてしまうだろう。


 今度の場は、耐えさせるための場ではない。


 話すための場だ。


 だから、出入口を視界に入れられる席にする。


 小さな配慮だ。


 けれど、セレスティアには必要な配慮だった。


 リリアナは、会議室の隅でその準備を見ていた。


 机の上には、姉からの返書を忍ばせた小さな手帳がある。


 泣いても構いません。

 ただし、泣いた後に記録を閉じないでください。


 その一文だけを、何度も読み返した。


「リリアナ様」


 マルタが声をかける。


「はい」


「あなたの席はこちらです」


 示されたのは、王妃宮側の補助席だった。


 王太子の隣ではない。

 父の隣でもない。

 証言者や記録補助者が座る席。


 リリアナは、その椅子を見つめた。


「ここで、よいのですね」


「不満ですか」


「いいえ」


 リリアナは首を振った。


「少し、安心しました」


「なぜ」


「殿下の隣に座ったら、私はまた守られる人に戻ってしまいそうで」


 マルタは少しだけ目を細めた。


「よく分かっています」


「怖いです」


「それも、よく分かっています」


 リリアナは椅子の背に触れた。


 姉の椅子ほど硬くない。

 だが、軽い椅子でもない。


 ここに座れば、自分の言葉を求められる。


 それが怖い。


 でも、逃げたくはなかった。


「お姉様は、私の手紙を受け取ってくださいました」


「ええ」


「まだ許せないと書かれました」


「ええ」


「でも、返事をくださいました」


 リリアナは小さく息を吐いた。


「だから、私はここに座ります」


 マルタは頷いた。


「その決意も、記録に残せるといいですね」


「それは少し恥ずかしいです」


「恥ずかしいことも、必要なら残します」


 厳しい。


 でも、今はその厳しさが支えだった。


 一方、王太子府ではアデルが身支度をしていた。


 正式説明の場は明日。


 セレスティアが王都へ向かっているという報告は、すでに届いている。


 北方辺境伯ノアも同行している。


 アデルは、その報告書を何度も読み返した。


 セレスティアが来る。


 いや、王都へ向かっている。


 その違いが、奇妙に胸へ引っかかっていた。


 以前なら、彼女は呼べば来た。


 会議前の資料確認。

 王妃の体調報告。

 リリアナの不手際の処理。

 アデルが必要だと思えば、彼女はそこにいた。


 今は違う。


 条件が整ったから来る。

 記録を持って来る。

 第三者立会人を伴って来る。


 それは、アデルの知るセレスティアではなかった。


 だが同時に、今になって思う。


 自分は本当に、彼女を知っていたのか。


「殿下」


 侍従が声をかける。


「レイノルド公爵閣下がお見えです」


「通せ」


 グレゴール公爵が入ってきた。


 相変わらず厳格な顔をしている。

 しかし、以前よりも目元が硬い。


「セレスティアが向かっているそうです」


 アデルが言うと、グレゴールは頷いた。


「聞いております」


「公爵は、明日の場で何を話すつもりだ」


「事実を」


 短い答えだった。


 アデルは眉を寄せる。


「どの事実だ」


「セレスティアが王宮記録を外部へ持ち出したことです」


「それだけか」


「重要な事実です」


 アデルは黙った。


 グレゴールは、まだそこにしがみつくつもりらしい。


 帳簿の内容ではなく、持ち出したこと。


 まるでそれだけを問題にすれば、ほかのすべてが霞むと思っているようだった。


「母上は、双生契約の箱を動かすつもりだ」


 アデルが言うと、グレゴールの顔色が明らかに変わった。


 ほんの一瞬。


 だが、確かに。


「王妃陛下が、その名を?」


「リリアナにも私にも話した」


 グレゴールの唇が薄く結ばれる。


「不要なことを」


「不要なのか」


 アデルは思わず尋ねた。


「公爵。あの契約は、セレスティアとリリアナに関わるものだろう」


「過去の話です」


「過去が今に繋がっているから、こうなっているのではないか」


 自分で言って、アデルは少し驚いた。


 こんなことを口にするつもりはなかった。


 グレゴールも、意外そうにアデルを見る。


 だがすぐに表情を戻した。


「殿下。過去を掘り返せば、傷つく者が増えます」


「すでに傷ついている」


「ならば、これ以上広げる必要はありません」


「セレスティアの傷は?」


 グレゴールは黙った。


 アデルは、初めてその沈黙を不快に感じた。


 以前なら、父親としての威厳だと思っただろう。


 今は違う。


 都合の悪い問いを避けているようにしか見えなかった。


「公爵は、セレスティアに謝るつもりはあるのか」


 アデルが問うと、グレゴールは冷たく答えた。


「まず、あれが謝るべきです」


「何を」


「家を騒がせたこと。王宮記録を持ち出したこと。父の命に背いたこと」


「……父の命」


 アデルは、低く繰り返した。


 それは、昨日までの自分が言いそうな言葉だった。


 王太子の命に従え。

 王宮に戻れ。

 説明しろ。


 命令で人を動かすことに、疑いを持たなかった。


 だが、今はその言葉が重く聞こえる。


「公爵」


「はい」


「もし明日、箱が開いたら」


 グレゴールの目が細くなる。


「開かせません」


 その答えは、あまりにも早かった。


 アデルは、そこで初めてはっきりと感じた。


 グレゴールは恐れている。


 双生契約の箱を。


 帳簿よりも、処理票よりも、セレスティアの沈黙よりも。


 その箱が開くことを恐れている。


「なぜだ」


 アデルは尋ねた。


「なぜ、そこまで箱を恐れる」


「恐れてなど」


「ならば開かせればいい。過去の記録だろう」


 グレゴールは答えなかった。


 その沈黙が、答えだった。


 アデルは、胸の奥に冷たいものを感じた。


 自分はまだ、多くを知らない。


 そして知らないまま、セレスティアを断罪した。


 その事実だけが、少しずつ重くなっていく。


 北方から王都へ向かう馬車は、夕刻、王都近郊の宿場に入った。


 明日の午前には王宮へ到着する。


 セレスティアは宿の部屋で、最後の確認をしていた。


 帳簿。

 説明書。

 王妃の手紙。

 リリアナの手紙。

 鍵。


 すべて揃っている。


 ノアは窓辺で外を見ていた。


「緊張していますか」


「はい」


 セレスティアは隠さなかった。


「手が冷えています」


「温かい茶を」


「ありがとうございます」


 ノアが茶を注いでくれる。


 セレスティアは両手で杯を包んだ。


 その姿を見て、少し前の自分を思い出す。


 王宮を出た夜、控室で水を飲んだ。

 喉は乾いていたのに、何も飲み込めない気がした。


 今は、茶の温かさが分かる。


 それだけでも違う。


「明日、父がいます」


 セレスティアはぽつりと言った。


「はい」


「殿下も」


「はい」


「リリアナも」


「はい」


「王妃陛下も、きっと」


「そうでしょう」


「……怖いです」


「当然です」


 いつもの答えだった。


 セレスティアは少しだけ笑った。


「閣下は、本当にその言葉をよく使いますね」


「便利ですから」


「便利」


「恐怖を否定しなくて済む」


 セレスティアは杯の中を見つめた。


 恐怖を否定しなくて済む。


 怖いまま向かっていい。


 それが今の彼女には、何より必要な許可だった。


「明日、私は泣くでしょうか」


「分かりません」


「怒るでしょうか」


「それも分かりません」


「言葉に詰まったら」


「待ちます」


 ノアは迷わず言った。


「誰が急かしても、私が止めます」


 セレスティアは顔を上げた。


「そこまでしていただいて」


 言いかけて、止まる。


 ノアが見ている。


 セレスティアは、言葉を変えた。


「……ありがとうございます」


「受け取ります」


 短い返事。


 けれど、それだけで十分だった。


 夜が深まる。


 王都の灯りが、遠くにかすかに見えていた。


 あそこに、王宮がある。


 彼女を悪女と呼んだ場所。


 彼女が十年支えた場所。


 彼女の過去を閉じ込めた箱がある場所。


 セレスティアは小箱を開け、鍵を手に取った。


 冷たい。


 だが、以前ほど重くは感じなかった。


 一人で持つ鍵ではないと、少しだけ思えたから。


「明日」


 彼女は小さく呟いた。


「私は、王都へ向かいます」


 戻るのではない。


 向かうのだ。


 ノアは静かに頷いた。


「はい」


 その夜、王都では王妃の箱が小会議室へ運ばれた。


 王妃宮の侍女たちは、慎重に布で包み、資料台の中央に置いた。


 百合紋と星紋の銀箱。


 鍵穴は、まだ閉じている。


 箱は何も語らない。


 けれど、その沈黙はもう安全な沈黙ではなかった。


 明日、鍵を持つセレスティアが来る。


 悪女と呼ばれた令嬢が、記録とともに王宮へ向かう。


 そして王宮は、ようやく彼女を迎えるのではなく。


 彼女が持ち帰る真実を、受け止めなければならなくなる。

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