第23話 王太子は、謝罪の書き方を知らなかった
アデル・ヴァレンティアは、白紙を前にしていた。
王太子府の執務室。
机の上には、いつも通り上質な紙が用意されている。銀のペン、封蝋、王太子府の紋章印。
書簡を書く準備は、すべて整っていた。
ただ、言葉だけがなかった。
宛先は決めてある。
セレスティア・レイノルド。
いや、今の彼女をそう呼んでよいのかも、アデルには分からなかった。
レイノルド公爵家の指輪は返された。
王太子の婚約指輪も外された。
彼女は北方辺境伯家に身を寄せ、王太子命令に条件を返してきた。
それでも、彼女はまだセレスティア・レイノルドなのだろうか。
そんなことを考えている時点で、アデルは自分が追い詰められていると分かっていた。
机の横には、昨日の聴取記録がある。
ガレオン卿の処理票。
王妃宮予備費への不適切な補填案。
セレスティアの確認印。
そして余白の注意書き。
『この処理は不可』
その短い文字が、何度も頭に浮かぶ。
セレスティアは止めていた。
横領などしていない。
少なくとも、あの処理については。
それどころか、王太子府の不適切な支出が王妃宮へ流れることを止めていた。
認めなければならない。
だが、認めるということは、昨夜の断罪が崩れるということだった。
君には失望した。
王太子妃にふさわしいのは、冷たい野心を持つ女ではない。
そう言ったのは、自分だ。
広間の中央で、貴族たちの前で、リリアナを庇うように立って。
その姿を思い出すたび、喉の奥が重くなる。
もし自分が間違っていたなら。
あれは、愛する女性を守るための正義ではなかった。
ただ一人の令嬢に、王宮の不都合と自分の劣等感を押しつけた場だった。
「……違う」
アデルは小さく呟いた。
まだ、すべてが間違いだったわけではない。
セレスティアは有能だった。
だが冷たかった。
リリアナは傷ついていた。
それも事実だ。
セレスティアが妹に厳しかったことも、王宮実務に入り込みすぎていたことも、まったくの嘘ではない。
そうだ。
全てが間違いだったわけではない。
そう思おうとしても、白紙は何も受け取らなかった。
アデルはペンを取る。
『セレスティアへ』
そこまで書いて、手が止まった。
へ。
そんな親しげな呼びかけでよいのか。
昨夜、自分は彼女を公然と切り捨てた。
今さら親しげに呼ぶ資格などあるのか。
アデルはその一行を黒く塗り潰した。
新しい紙を取る。
『セレスティア・レイノルド嬢』
今度は少し距離がある。
だが、冷たい。
謝罪を書くなら、冷たすぎる。
また手が止まる。
そもそも、謝罪なのか。
アデルはまだ、正式に謝罪すると決めたわけではなかった。
ただ、何かを書かなければならない気がしているだけだ。
ガレオン卿は財務処理から外した。
記録保全も進んでいる。
王妃宮も、書記局も、財務局も動いている。
ならば王太子として、セレスティアへ何らかの言葉を送るべきだ。
それは分かる。
しかし、その「何らか」が見つからない。
すまなかった。
その一文を書こうとして、手が動かなかった。
アデルは初めて気づいた。
自分は、謝罪の書き方を知らない。
臣下に対して「遺憾である」と告げる文なら書ける。
外交上の不手際について「誤解を招いた」と表現する文も知っている。
相手の顔を立てながら、こちらの非を最小限にする言葉ならいくらでも教えられた。
だが、一人の女に。
自分が傷つけた相手に。
ただ、すまなかったと書く方法を知らない。
そのとき、扉が叩かれた。
「殿下」
声はリリアナだった。
アデルは慌てて紙を裏返した。
「入れ」
扉が開き、リリアナが入ってくる。
今日は淡い色のドレスではなく、落ち着いた灰青の服を着ていた。王妃宮で書類仕事をするための、飾りの少ない服だ。
以前のリリアナなら選ばなかった装い。
それだけで、アデルの胸が少しざわついた。
「何かあったのか」
「王妃陛下より、こちらを殿下へ」
リリアナは封書を差し出した。
アデルは受け取る。
王妃宮の封蝋。
「母上からか」
「はい」
アデルが封を切る間、リリアナは机の上へ目を向けた。
黒く塗り潰された紙。
途中まで書かれた宛名。
彼女は気づいたのだろう。
けれど何も言わなかった。
アデルは手紙を読んだ。
『アデル。
あなたがセレスティアへ何かを書くつもりなら、まず事実を書くこと。
謝罪とは、自分の体面を守るための儀礼ではありません。
相手の痛みを、自分の言葉で認めることです。
それができないなら、まだ書いてはなりません』
短い文だった。
だが、アデルはその一文一文に胸を刺された。
自分の体面を守るための儀礼ではない。
相手の痛みを、自分の言葉で認めること。
母は、すべて見透かしている。
自分が謝罪しようとしているのではなく、謝罪らしきものを書いて状況を整えようとしていることを。
アデルは手紙を机に置いた。
「母上は、厳しいな」
そう言うと、リリアナは静かに答えた。
「はい」
以前なら、「でも殿下のことを思って」と続けただろう。
今は違う。
ただ、はい、と言った。
アデルは、その変化にまた少し傷ついた。
「リリアナ。君は、私がセレスティアに謝るべきだと思うか」
問いかけてから、アデルは自分で驚いた。
こんなことをリリアナに聞くつもりはなかった。
リリアナは、すぐには答えなかった。
少し前なら、きっとこう言った。
殿下は悪くありません。
お姉様も、きっと分かってくださいます。
だが今のリリアナは、そう言わなかった。
「謝るべきかどうかは、私には決められません」
「なぜ」
「私も、お姉様に謝らなければならない側だからです」
アデルは黙った。
「でも」
リリアナは続けた。
「謝るなら、許してもらうために書かない方がいいと思います」
「許してもらうためではなく?」
「はい」
リリアナは少しだけ胸元に手を置いた。
おそらく、セレスティアからの手紙を思い出しているのだろう。
「私は、お姉様に手紙を書きました。許してほしいとは書かないようにしました。そうしないと、またお姉様に私の涙を背負わせることになるから」
「セレスティアは、返事を?」
「くださいました」
「何と」
リリアナは目を伏せた。
「まだ許せない、と」
アデルは言葉を失った。
リリアナは少しだけ笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「でも、手紙は受け取ってくれました」
「それで、君はいいのか」
「よくはありません」
リリアナは正直に言った。
「苦しいです。許してほしいです。でも、許されたいから泣くのは、私のためです。お姉様のためではありません」
アデルは、机の上の白紙を見た。
そこに書こうとしていた言葉は、まさに自分のためだったのではないか。
セレスティアに許されたい。
王妃宮に責められたくない。
リリアナに失望されたくない。
王太子として間違っていたと認めたくない。
謝罪さえも、自分を守るための道具にしようとしていた。
そのことに気づきかけ、アデルは胸が苦しくなった。
「リリアナ」
「はい」
「君は、変わったな」
その言葉に、リリアナは少しだけ顔を上げた。
「変わらなければ、またお姉様に背負わせます」
「それは、セレスティアに言われたのか」
「いいえ」
リリアナは首を振る。
「私が、そう思いました」
アデルはその答えに、ひどく遠くへ置いていかれたような気がした。
リリアナが、自分の言葉ではなく、自分の考えで立っている。
それは喜ぶべきことなのかもしれない。
だがアデルは、まだ素直に喜べなかった。
「王妃陛下がお待ちです」
リリアナが言った。
「私を?」
「はい。双生契約の箱について、殿下にも一部をお伝えすると」
アデルの眉が動いた。
「双生契約?」
聞き覚えのない言葉だった。
だが、リリアナの顔が強張っているのを見て、軽い話ではないと分かる。
「それは何だ」
「私も、まだ入口だけしか聞いていません」
「入口?」
「お姉様と私の役割に関わるものです」
アデルは、また胸が重くなるのを感じた。
セレスティアとリリアナ。
また、その二人の話だ。
王宮のどこを開けても、セレスティアの名が出てくる。
そして今度は、自分が知らない古い契約。
アデルは苛立ちかけ、しかし母の手紙を見て口を閉じた。
事実を書くこと。
事実を見ること。
自分の体面ではなく。
「分かった。行こう」
アデルは立ち上がった。
机の上の白紙は、そのまま残した。
まだ書けない。
それだけは、分かった。
王妃宮の小部屋には、王妃エレオノーラとマルタ、そして書記局長がいた。
机の上には、銀細工の小箱が置かれている。
百合紋と星紋。
アデルはその箱を見た瞬間、妙な圧迫感を覚えた。
ただの箱ではない。
王宮の古い沈黙そのものが、そこに閉じ込められているようだった。
「母上」
アデルは礼を取る。
王妃は寝椅子に身を預けていたが、その目は厳しかった。
「来ましたね、アデル」
「双生契約とは何です」
アデルはすぐに尋ねた。
王妃は少しだけ息を整える。
「あなたも知らなければなりません。セレスティアを断罪した以上は」
その言葉で、アデルの肩がわずかに強張った。
「双生契約は、レイノルド公爵家と王家の間にあった古い取り決めです。王太子妃候補と王妃宮補佐を、同じ家の二人の娘に分けて育てるためのもの」
「二人の娘……」
アデルはリリアナを見る。
リリアナは静かに頷いた。
「一人は表へ。王太子の隣へ。もう一人は奥へ。王妃宮実務へ」
王妃の声は静かだった。
「本来、セレスティアとリリアナは、役割を分けて育てられるはずでした」
アデルは眉を寄せる。
「しかし、セレスティアは私の婚約者だった」
「ええ」
「なら、表はセレスティアでは」
「そうです」
王妃は短く答えた。
「同時に、奥もセレスティアが背負わされました」
部屋が静かになる。
アデルは、すぐに意味を理解できなかった。
いや、理解したくなかったのかもしれない。
「どういうことです」
「リリアナが担うはずだった一部の教育が止められたのです。レイノルド公爵の判断で」
リリアナの指が膝の上で震えた。
王妃は続ける。
「リリアナは、守られ、愛され、選ばれやすい娘として育てられた。セレスティアは、表の責任と奥の実務、そして妹の不足を補う役を背負った」
アデルの喉が渇いた。
それは、王妃宮で聞く古い家の事情に過ぎないはずだった。
だが、今までのすべてと繋がっていく。
セレスティアが書類に詳しすぎた理由。
王妃の薬を知っていた理由。
救貧院支援にまで目を配っていた理由。
リリアナが何も知らずに王太子妃の席へ近づいた理由。
そして、自分がセレスティアを「王宮実務に入り込みすぎた女」と見ていた理由。
入り込みすぎたのではない。
入らざるを得ないように育てられた。
「なぜ、私に知らされなかった」
アデルは低く言った。
王妃は静かに見返す。
「あなたは知ろうとしましたか」
その一言で、アデルは黙った。
「セレスティアがあなたの資料を整えていたとき、なぜそこまで知っているのか尋ねましたか。王妃宮の支出を確認していたとき、なぜ婚約者がそこまで関わるのか考えましたか。リリアナが何も知らずに泣いているとき、なぜ姉だけが責められるのか疑いましたか」
アデルは何も言えなかった。
尋ねなかった。
考えなかった。
疑わなかった。
便利だったから。
セレスティアが整える。
リリアナが微笑む。
自分は王太子として中心に立つ。
それでうまくいっていた。
うまくいっているように見えていただけだが。
「箱の中には何が」
アデルは、ようやくそれだけ尋ねた。
王妃は小箱へ視線を落とした。
「契約書の原本。そして、前公爵夫人エレナの記録。セレスティアとリリアナ、それぞれに割り当てられるはずだった教育内容。さらに、途中でそれが変更された経緯」
「変更したのは」
王妃は答えなかった。
答えなくても、アデルには分かった。
グレゴール・レイノルド公爵。
そしておそらく、王宮の誰か。
大人たち。
「なぜ開けないのです」
「鍵はセレスティアが持っています」
王妃は言った。
「この箱は、あの子抜きでは開けません」
「では、セレスティアを呼び戻せば」
「命令で呼び戻すのではありません」
王妃の声が、初めて少し強くなった。
「アデル。あなたはまだ分かっていない。あの子は、命令されれば来る駒ではありません」
アデルは唇を噛んだ。
「では、どうすれば」
「正式な場を整えなさい。あの子が条件として出した通りに」
「辺境伯も入れて?」
「ええ」
「王宮の問題に、外部の者を?」
「王宮だけで隠してきた問題だから、外の目が必要なのです」
アデルは黙った。
言い返したい。
だが、言葉が見つからない。
王妃は静かに続けた。
「そして、謝罪を書くなら、それからです」
「……今は書くなと?」
「今のあなたは、まだ謝罪で自分を守ろうとしている」
アデルは顔を強張らせた。
母の言葉は容赦がなかった。
リリアナは、その横でじっと聞いていた。
彼女もまた、痛そうな顔をしている。
自分だけが責められているわけではない。
この部屋にいる全員が、何かを突きつけられている。
「私は」
アデルは、ようやく声を絞り出した。
「私は、セレスティアをどう見ていたのでしょうか」
問いは、誰に向けたものでもなかった。
王妃は答えた。
「便利な正しさとして」
アデルの胸が、深く刺されたように痛んだ。
「便利な……」
「あなたは、セレスティアの正しさを使っていました。けれど、その正しさに自分が責められると、冷たい女だと呼んだ」
リリアナが小さく息を呑む。
アデルは反論しなかった。
できなかった。
あまりにも、その通りだったから。
北方の屋敷に、王妃宮からの新たな手紙が届いたのは、その翌朝だった。
セレスティアは、ノアの前で封を開けた。
文面は短い。
『双生契約について、アデルとリリアナに入口を伝えました。
箱は、あなたの鍵なくして開けません。
開けるかどうかは、あなたが決めなさい。
ただし、あなたが一人で背負うべきものではありません』
セレスティアは、その文を何度も読んだ。
双生契約。
初めて見る言葉だった。
だが、意味はまだ分からないのに、胸の奥がざわめいた。
自分の人生のどこかに、ずっと隠されていた名前。
そんな気がした。
「双生契約……」
声に出すと、ノアが顔を上げた。
「聞き覚えは?」
「ありません」
セレスティアは首を振る。
「でも、なぜでしょう。怖いです」
「開けますか」
ノアはそう尋ねた。
セレスティアは小箱を見た。
鍵はそこにある。
開けることは、まだできない。
箱は王妃宮にある。
だが、開けるかどうかを選ぶ日は、確実に近づいている。
王妃は、決めなさいと書いた。
命じていない。
セレスティアに選ばせている。
それが、怖くて、ありがたかった。
「すぐには決められません」
「はい」
「でも」
セレスティアは、ゆっくり息を吸った。
「逃げたくはありません」
ノアは頷いた。
「なら、準備しましょう」
「何の準備を?」
「正式な場へ出る準備です」
セレスティアは顔を上げた。
ノアは静かに言った。
「王妃宮、財務局、書記局、第三者立会人。あなたの条件が揃えば、王都へ行くのでしょう」
「……はい」
「その場で、帳簿だけでなく箱も動く可能性があります」
セレスティアは鍵を見つめた。
小さな古い鍵。
それが、急に重さを増したように見えた。
「私は、王都へ戻るのですね」
「戻るというより、向かうのです」
ノアの言葉に、セレスティアは少しだけ目を見開いた。
「戻るのではなく?」
「ええ。戻る場所ではない。あなたが事実を持って向かう場所です」
その違いは、小さくて大きかった。
王都へ戻る。
そう思うと、追い出された場所へ引き戻されるようで苦しい。
王都へ向かう。
そう思えば、少しだけ背筋が伸びる。
セレスティアは鍵を箱へ戻した。
「では、準備します」
ノアは頷いた。
その朝から、北方の屋敷では静かに準備が始まった。
帳簿の写し。
処理経路の説明書。
セレスティア自身の記録。
王妃からの手紙。
リリアナからの手紙。
そして、小さな鍵。
それらはすべて、一つの鞄に収められていく。
王宮の大広間で悪女と呼ばれた令嬢は、もう同じ場所へ戻るのではない。
今度は、自分の名と記録と鍵を持って、王都へ向かう。
許されるためではない。
誰かを断罪するためだけでもない。
自分が何を背負わされ、何を奪われ、何を守ってきたのかを知るために。
王妃の箱は、まだ開かれていない。
けれど、その蓋の内側で眠る古い鎖は、少しずつ軋み始めていた。




