第22話 妹は、泣きながら記録を閉じなかった
王太子府の会議室には、以前とは違う沈黙があった。
以前の沈黙は、王太子アデルが口を開くのを待つ沈黙だった。
誰も彼に恥をかかせないように、誰も彼の言葉を遮らないように、臣下たちが息を潜める沈黙。
けれど今の沈黙は違う。
机の中央に置かれた処理票。
財務卿バルツァーの控え帳簿。
書記局長が保全した写し。
王妃宮から届いた確認書。
それらが、誰かの言葉を待たずに存在していた。
リリアナは、会議室の端に座っていた。
以前なら、王太子の隣に座ることを望んだだろう。
殿下のそばにいる自分を見てもらいたかった。
姉ではなく、自分が選ばれたのだと、誰かに認めてほしかった。
けれど今は、少し離れた席を選んだ。
机の端。
記録用の紙とインク壺が置かれた場所。
そこが、今日のリリアナの席だった。
「リリアナ」
アデルが声をかける。
その声は、以前より少し硬かった。
「君は、無理に同席しなくていい」
優しい言葉だった。
少し前のリリアナなら、そこで迷った。
自分は邪魔なのではないか。
やはり殿下の言う通り、こういう話は大人に任せた方がいいのではないか。
だが、膝の上にはセレスティアからの返事があった。
泣いても構いません。
ただし、泣いた後に記録を閉じないでください。
その一文を、昨夜から何度も読み返した。
許してもらえなかった。
けれど、姉は記録を閉じるなと言った。
だから、ここにいる。
「無理はしています」
リリアナは正直に答えた。
会議室の数人が、意外そうに彼女を見た。
「でも、同席します」
アデルは眉を寄せる。
「君が傷つく必要はない」
「傷つかないために何も知らないままでいた結果、お姉様を傷つけました」
リリアナの声は震えた。
それでも、最後まで言った。
「ですから、ここにいます」
アデルは何かを言いかけたが、王妃宮の侍女長マルタが静かに一礼した。
「王妃陛下のご意向でもございます」
その一言で、アデルは黙った。
王妃の名は、今の王太子府にとって重い。
リリアナは視線を机へ戻し、ペンを取った。
手は震えている。
それでも、紙の一行目に日付を書いた。
『王太子府儀礼費および王妃宮予備費に関する確認聴取』
字は、姉ほど美しくない。
でも、読める。
それでいい。
書記局長が静かに会議を始めた。
「本日は、王太子府儀礼費の一部支出、および王妃宮予備費への補填処理未遂について、処理経路を確認いたします」
ガレオン卿は、机の反対側に座っていた。
顔色は悪いが、服装は整っている。
彼はまだ、自分が完全に追い詰められたとは思っていない顔をしていた。
あるいは、思いたくないだけかもしれない。
「まず、こちらの処理票について」
書記局長が一枚の紙を示す。
「当初、王妃宮予備費から王太子府儀礼費へ、一時補填を行う形で処理が進められようとしていました。ガレオン卿、この処理を起案したのはあなたですか」
「正式な起案ではありません」
ガレオンはすぐに答えた。
「検討段階の仮案です。実際には実行されていない」
リリアナは、その言葉を書き取った。
『ガレオン卿、正式起案ではなく検討段階の仮案と主張』
検討段階。
仮案。
便利な言葉だ。
リリアナは、少し前ならそのまま頷いていたと思う。
けれど今は、机の上の処理票を見ていた。
仮案にしては、処理欄が進みすぎている。
仮案にしては、セレスティアの確認印が使われている。
仮案にしては、王妃宮予備費の項目番号まで記されている。
疑問が浮かぶ。
それを書き留めた。
『仮案にしては処理欄が具体的。確認要』
財務卿バルツァーが低く尋ねる。
「仮案であるなら、なぜ王妃宮予備費の項目番号が記入されているのですか」
「過去の支出例を参考にしただけです」
「王妃宮予備費を王太子府儀礼費へ流用した過去の例が?」
ガレオンは言葉に詰まった。
バルツァーは逃がさない。
「あるなら記録を示してください。ないなら、過去の支出例という説明は成立しません」
ガレオンは唇を引き結んだ。
アデルがわずかに身じろぎする。
「財務卿、責め立てる場ではない」
「責めてはおりません。確認しております」
その言葉を、リリアナは記録した。
『財務卿、責めではなく確認と発言』
書きながら、胸が少し苦しくなった。
姉も、きっとこうしていたのだ。
誰かが感情で話をずらそうとするたびに、事実へ戻す。
だから冷たいと言われた。
でも、冷たくしなければ、事実はすぐに誰かの都合で温められ、形を変えられてしまう。
「次に、セレスティア様の確認印について」
書記局長が続けた。
「この印は、承認印ではありません。セレスティア様が不備を確認したことを示す印です。余白の注意書きにも、“この処理は不可”とあります」
「その注意書きが後から足された可能性は」
ガレオンが言った。
部屋が静まる。
リリアナは、ペンを握る指に力を込めた。
後から足された可能性。
つまり、姉が自分を守るために記録を偽造したと言いたいのだ。
喉が熱くなる。
言い返したい。
でも、まず記録。
『ガレオン卿、注意書きが後から足された可能性を主張』
書き終えてから、リリアナは顔を上げた。
「その可能性は、筆跡とインクの劣化で確認できますか」
自分の声が会議室に響いた。
アデルが驚いたように彼女を見る。
ガレオンも目を向ける。
リリアナは怖かった。
でも、続けた。
「お姉様の字かどうか、いつ書かれたものか。調べればよいと思います」
書記局長が頷く。
「すでに確認を進めています。少なくとも、インクの乾燥状態は処理票本体と同時期のものと見られます」
「同時期……」
リリアナは記録する。
『注意書きのインク、処理票本体と同時期の可能性』
ガレオンの顔がさらに白くなった。
アデルは何も言わない。
その沈黙が、リリアナには痛かった。
殿下は、何を待っているのだろう。
ガレオンが無実である証拠か。
姉がやはり悪女である証拠か。
それとも、自分が間違っていなかったと言える逃げ道か。
リリアナには分からない。
けれど、一つだけ分かった。
今のアデルは、事実よりも自分を守りたがっている。
以前なら、それを可哀想だと思ったかもしれない。
でも今は、少し怖かった。
「殿下」
バルツァーが声をかける。
「この処理が実行されていれば、王妃宮予備費に穴が空き、救貧院支援金と薬草契約に影響が出ていました」
「実行されていないのだろう」
アデルはすぐに言った。
「未遂で終わった」
「セレスティア様が止めたからです」
会議室が静まる。
アデルの頬が、わずかに引きつった。
リリアナはその言葉を記録した。
『財務卿、未遂で終わったのはセレスティア様が止めたためと発言』
書きながら、胸が震えた。
それは、王太子府の会議室で初めてはっきり残された言葉だった。
セレスティアが止めた。
悪女ではなく。
横領犯ではなく。
機密持ち出しの問題人物ではなく。
止めた人。
その記録が、今ここに残っている。
「だが、彼女は帳簿を外へ持ち出した」
アデルの声は低かった。
「それは別問題だ」
また、その言葉。
別問題。
リリアナはペンを止めた。
今ここで、自分が何かを言うべきか迷った。
けれど、姉の手紙が頭に浮かぶ。
泣いた後に記録を閉じないでください。
リリアナは顔を上げた。
「殿下」
「何だ」
「帳簿を外へ持ち出したことを調べるなら、なぜ持ち出さなければならなかったのかも調べるべきです」
「それはすでに聞いた」
「いいえ」
リリアナは首を振った。
「まだ、殿下は聞いていません」
アデルの目が鋭くなる。
怖い。
けれど、言う。
「王宮の中で、お姉様の確認印が別の意味に使われそうになっていました。注意書きが無視されていました。王妃宮予備費が別の用途に動かされそうになっていました。その王宮の中だけに帳簿を置いていたら、記録は守られたのでしょうか」
アデルは黙った。
答えがない。
代わりに、ガレオンが口を開く。
「リリアナ様。それは結果論です」
「では、結果を見ましょう」
リリアナは言った。
「お姉様の写しがあったから、この処理票と照合できました。王妃宮にも、財務局にも、書記局にも記録が残りました。結果として、記録は守られました」
自分でも驚くほど、言葉が出た。
胸は痛い。
涙も出そうだ。
でも、今は泣く場所ではない。
「私は、お姉様がすべて正しいと言いたいのではありません。帳簿を持ち出したことについて、正式に確認する必要はあると思います。でも、その前に」
リリアナは机の上の処理票を見た。
「王宮が記録を守れなかった事実を見なければ、公平ではありません」
部屋の空気が、また変わった。
マルタは無言でリリアナを見ていた。
その目は厳しいが、わずかに柔らかい。
書記局長が静かに言った。
「リリアナ様の発言を、記録に残します」
リリアナは頷いた。
「お願いします」
アデルは椅子の肘置きを握っていた。
彼はリリアナを見ている。
その目にあるのは、怒りだけではなかった。
戸惑い。
焦り。
そして、わずかな寂しさ。
リリアナは、それを見て胸が痛んだ。
自分は、アデルを傷つけたいわけではない。
ただ、今までのように彼の言葉だけを信じて泣いていることは、もうできない。
「今日はここまでにしましょう」
王妃宮の侍医が入ってきて言った。
「王妃陛下より、長時間の聴取は避けるようにとのお言葉です」
マルタが頷く。
「記録は封印します」
書記局長と財務卿が処理票を確認し、王妃宮、財務局、書記局それぞれの封蝋を押した。
リリアナも、自分の記録用紙を差し出した。
「これも、保全してください」
書記局長が受け取る。
「承知しました」
リリアナの字が残る。
震えた字。
何度もインクが濃くなった字。
それでも、残る。
会議室を出たあと、リリアナは廊下で足を止めた。
涙が一気に込み上げてきた。
でも、壁にもたれたまま必死に息を整える。
マルタがそばに立った。
「泣いても構いません」
「……はい」
「ただし?」
リリアナは涙をこぼしながら答えた。
「記録を、閉じません」
「よろしい」
マルタは布を差し出した。
リリアナはそれを受け取り、涙を拭った。
「私、言えましたか」
「言えました」
「お姉様のように、ではなくても?」
「あなたの言葉で言えました」
その一言に、リリアナはまた泣きそうになった。
でも今度の涙は、ただ苦しいだけではなかった。
王太子府での聴取記録が北方へ届いたのは、翌日の午後だった。
セレスティアはノアの執務室で、それを読んだ。
リリアナの発言。
震えた字の記録。
確認印と承認印の区別。
王宮が記録を守れなかった事実。
読み進めるうちに、セレスティアの手が止まった。
『リリアナ様、発言。帳簿を外へ持ち出したことを調べるなら、なぜ持ち出さなければならなかったのかも調べるべき』
その一文を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。
リリアナが言った。
王太子府で。
アデルの前で。
ガレオン卿の前で。
泣いて逃げる妹ではなく、記録を持つ者として。
セレスティアは、しばらくその文から目を離せなかった。
「リリアナ嬢は、立ち始めていますね」
ノアが言った。
セレスティアは小さく頷いた。
「はい」
声が少し掠れた。
「嬉しいですか」
ノアの問いに、セレスティアはすぐには答えなかった。
嬉しい。
確かに、少し嬉しい。
でも、それだけではない。
寂しい。
痛い。
腹立たしい。
今さら、とも思う。
もっと早く気づいてほしかった。
自分が壊れる前に。
王宮を追い出される前に。
悪女と呼ばれる前に。
そう思ってしまう。
「複雑です」
セレスティアは正直に答えた。
「嬉しいと思う自分もいます。でも、遅いと思う自分もいます」
「どちらも本当でしょう」
「はい」
セレスティアは記録を閉じた。
「私は、まだ許せません」
「はい」
「でも、あの子の記録は受け取ります」
ノアは頷いた。
「それでいい」
セレスティアは、リリアナの記録の写しを自分の帳簿の隣に置いた。
姉の記録と、妹の記録。
初めて、二つが並んだ。
その光景を見て、胸の奥が静かに揺れた。
一方、王太子府ではアデルが一人、会議室に残っていた。
机の上には、処理票の写しがない。
すべて保全のため持ち出された。
残っているのは、空の机と、重い沈黙だけ。
アデルは、自分の手を見た。
昨夜、セレスティアに婚約破棄を告げた手。
リリアナを守ると誓った手。
ガレオンを信じようとした手。
その手が、今は何も掴めていない。
「……なぜ、こうなった」
呟いても、答えはない。
だが本当は、少しずつ分かり始めていた。
こうなったのではない。
ずっと前から、こうだった。
セレスティアが整え、隠し、支えていたから、見えなかっただけだ。
その彼女を自分が追い出した。
だから、見えるようになった。
ただ、それだけのことだった。
アデルは目を閉じた。
それでもまだ、完全には認められなかった。
認めれば、あの夜の自分が間違っていたことになる。
リリアナを守ったつもりで、リリアナからも大切なものを奪っていたことになる。
そして、セレスティアに謝らなければならなくなる。
謝る。
王太子が、悪女と断じた令嬢に。
その想像だけで、胸がひどく重くなった。
王宮の夜は、静かに深まっていく。
王妃の箱は、まだ閉じられている。
リリアナは泣きながらも記録を閉じなかった。
セレスティアは妹の記録を受け取った。
そしてアデルは、ようやく自分の足元に広がる穴の深さを見始めていた。
けれど、まだ落ちきってはいない。
落ちるまでには、もう少し時間がかかる。
それが王太子の誇りなのか、弱さなのか。
まだ誰にも分からなかった。




