第21話 許しを求めない手紙
北方の朝は、昨日よりも少し冷えていた。
窓硝子の端に薄く白い曇りがつき、庭の薬草畑には朝露が残っている。王都なら春の装いで済む季節でも、北方ではまだ冬の名残が影のように居座っていた。
セレスティアは、暖炉の火が落ち着くのを待ちながら、机の上の書類を整理していた。
王太子府への返書の控え。
王妃宮へ送った帳簿写しの記録。
王宮財務の不整合について、自分自身の言葉でまとめた説明書。
そして、王妃から届いた手紙。
私はまだ、あなたに戻れとは命じません。
あなたが戻るなら、それはあなた自身の判断でなければなりません。
何度読んでも、胸の奥が熱くなる。
王妃の言葉は、命令ではなかった。
けれど、今のセレスティアを一番強く支えていた。
「セレスティア殿」
扉が叩かれ、ノアの声がした。
「はい」
「入っても?」
「どうぞ」
扉が開く。
ノアは黒い外套を脱いだばかりらしく、肩にまだ外気の冷たさをまとっていた。手には一通の封書がある。
封蝋は、王妃宮のものではない。
レイノルド公爵家のものでも、王太子府のものでもなかった。
無地の蝋。
だが、封筒の表に書かれた文字を見た瞬間、セレスティアの指が止まった。
見慣れた字ではない。
けれど、知っている字だった。
丸みがあり、ところどころ線が揺れている。
急いで書いたときの癖で、語尾の払いが少しだけ上がる。
リリアナの字だった。
「……妹から、ですか」
「そのようです」
ノアは机の上へ置くことはせず、セレスティアに差し出した。
読むかどうかを選ばせている。
セレスティアは手紙を見つめた。
受け取るべきか。
そんなことを考える自分がいる。
リリアナからの手紙なら、以前は迷わず開けていただろう。
お姉様、助けて。
お姉様、分からないの。
お姉様、殿下に何と申し上げればよいの。
妹から届く手紙は、たいてい困りごとだった。
セレスティアはそれを読み、必要な返事をし、時には文面を代筆し、時には人を手配した。
妹を助けることに、疑問を持ったことはなかった。
けれど今、目の前にある手紙は違う。
助けを求める手紙かもしれない。
謝罪の手紙かもしれない。
許しを求める手紙かもしれない。
もしそうなら。
自分は、どうすればいいのか。
「今、読まなくてもいい」
ノアが言った。
「はい」
セレスティアは頷いた。
それでも、手を伸ばした。
封筒を受け取る。
紙は少し温かかった。
誰かが大切に運んできた温度が、まだ残っているような気がした。
「一人で読みますか」
ノアが尋ねる。
セレスティアは少し迷った。
一人で読むべきだと思った。
姉妹のことだから。
けれど、その考えの奥に、また昔の癖があることに気づく。
家のことは一人で抱える。
妹のことは自分が処理する。
感情は人に見せない。
それを続けた結果、自分はここまで来たのではなかったか。
「……ここにいていただけますか」
小さな声だった。
ノアは静かに頷いた。
「はい」
彼は向かいの椅子に座った。
近すぎず、遠すぎない場所。
セレスティアは封を切った。
中には、短い便箋が一枚。
最初の文字を見た瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
『セレスティアお姉様』
リリアナは、まだそう呼ぶ。
お姉様。
その言葉は懐かしく、苦しく、少しだけ温かかった。
セレスティアは続きを読んだ。
『私は、少しだけ知りました。お姉様が私の分まで背負っていたことを』
そこで、指が止まった。
私の分まで。
セレスティアはその一文を何度も読み返した。
誰がリリアナにそれを教えたのか。
王妃か。
マルタか。
それとも、リリアナ自身が帳簿や引き継ぎ書の中から気づいたのか。
胸の奥がざわつく。
リリアナは知り始めている。
自分が何を背負っていたのかを。
それは、よかったと思うべきことなのか。
それとも、今さら知ってどうするのかと怒るべきことなのか。
分からない。
セレスティアは、次の行へ目を移した。
『まだ全部は分かっていません。分かったふりもできません。ただ、知らなかったと言って逃げることは、もうしたくありません』
字は震えていた。
ところどころ、インクが濃い。
泣きながら書いたのかもしれない。
以前のセレスティアなら、そこで胸が締めつけられ、すぐに返事を書いただろう。
泣かないで。
あなたは悪くない。
私が何とかします。
そう言ってしまったかもしれない。
だが今は、続きを読んだ。
『私は今、王妃宮で救貧院支援金の記録補助をしています。小さな仕事です。でも、私がこれまで見ようとしなかった重さの一部だと思っています』
セレスティアは、ゆっくり息を吐いた。
リリアナが、救貧院支援金の記録補助を。
あの子が。
数字を読むだけで涙ぐみ、書類の束を見ると「お姉様には分かるでしょうけれど」と笑って逃げていた妹が。
その妹が、王妃宮で記録補助をしている。
小さな仕事。
けれど、それは確かにリリアナ自身の仕事だった。
セレスティアの胸に、複雑なものが広がる。
安堵。
痛み。
疑い。
そして、ほんの少しの嬉しさ。
嬉しいと思ってしまう自分に、少しだけ腹が立った。
こんな手紙一つで揺らぐほど、自分は簡単なのか。
違う。
揺らいでいい。
そう思い直すまで、少し時間がかかった。
続きには、こう書かれていた。
『お姉様に許してほしいとは、今は書きません。許されるために書くのではなく、事実を伝えるために書きます』
セレスティアの目が、その一文で止まった。
許してほしいとは、今は書きません。
リリアナが。
あのリリアナが、それを書いた。
セレスティアは便箋を持つ手に力を込めた。
許して、と書かれていたら、きっと苦しかった。
謝るから許して。
泣いているから許して。
知らなかったから許して。
そう言われたら、セレスティアはまた姉にならなければならなかったかもしれない。
許さない自分を責めることになったかもしれない。
でも、リリアナはそれを書かなかった。
許しを求めるためではなく、事実を伝えるために書く。
その一文だけで、セレスティアは、妹が本当に何かを見始めているのだと分かった。
最後の文を読む。
『いつか会うとき、私は泣いて逃げる妹ではなく、自分の分の記録を持って会いに行きます』
読み終えたあと、セレスティアはしばらく動けなかった。
暖炉の火が小さくはぜる。
窓の外で風が鳴る。
ノアは何も言わない。
手紙は短かった。
謝罪はあったようで、なかった。
言い訳もなかった。
自分がどれほど苦しかったかという訴えもない。
ただ、知ったこと。
今していること。
これからしようとしていること。
それだけが書かれていた。
記録のような手紙だった。
だが、冷たい手紙ではなかった。
「……困りますね」
セレスティアは、ぽつりと言った。
ノアが静かに尋ねる。
「何がですか」
「これでは、責めづらい」
自分で言って、少しだけ苦笑した。
責めたいのか。
責めたいのだろう。
リリアナを。
父を。
アデルを。
王宮を。
自分を悪女にした全員を。
責めたい。
でも、リリアナは許しを求めてこなかった。
ただ、立とうとしている。
それを読んでしまうと、怒りだけではいられない。
「責めてもいいのでは」
ノアが言った。
セレスティアは顔を上げる。
「立とうとしている相手でも?」
「はい」
「変わろうとしている相手でも?」
「はい」
ノアの答えは変わらない。
「相手が変わり始めたことと、あなたが傷つけられたことは別です」
セレスティアは黙った。
「リリアナ嬢が逃げずに書いたことは、評価してよい。けれど、それであなたの痛みが消えるわけではありません」
「……そうですね」
「受け取ることと、許すことも別です」
受け取ることと、許すことは別。
その言葉は、胸に静かに落ちた。
セレスティアは手紙をもう一度見た。
セレスティアお姉様。
その呼びかけは、まだ苦しい。
けれど、破り捨てたいとは思わなかった。
「私は、この手紙を受け取ります」
セレスティアは言った。
「はい」
「でも、まだ許せません」
「はい」
「会いたいかどうかも、分かりません」
「それでいい」
ノアの声は短く、揺るがなかった。
それでいい。
その言葉に、セレスティアは少しだけ救われた。
許せないままでもいい。
分からないままでもいい。
自分の気持ちが整う前に、姉として正しい答えを出さなくてもいい。
セレスティアは便箋を丁寧に畳み直した。
胸元ではなく、机の上に置く。
今までの彼女なら、大切なものほど胸元へしまった。
誰にも見せず、一人で守るために。
だが今は、机の上に置いた。
隠さない。
まだ答えは出ないけれど、受け取った事実をそこに置く。
「返事は」
ノアが聞いた。
セレスティアは少し考えた。
「書きます」
「今?」
「今でなければ、書けなくなる気がします」
ノアは何も言わず、新しい紙を差し出した。
セレスティアはペンを取った。
最初の一文で迷った。
リリアナへ。
それでいいのか。
お姉様と呼ばれたからといって、自分も妹として返さなければならないのか。
迷った末に、彼女はこう書いた。
『リリアナへ』
それだけで、胸が少し痛んだ。
けれど書き続ける。
『手紙を受け取りました』
短い。
冷たいだろうか。
でも、今の自分に書ける最初の言葉はそれだった。
『あなたが許しを求めるためではなく、事実を伝えるために書いたことも、読みました』
ペン先が止まる。
次に何を書くべきか。
頑張りなさい?
無理をしないで?
あなたは悪くない?
どれも違う。
セレスティアは深く息を吸った。
『私は、まだあなたを許すとは書けません』
書いた瞬間、手が震えた。
こんなことを妹に書いてよいのか。
姉なのに。
その言葉が頭をよぎった。
だが、ペンを止めなかった。
『ですが、あなたが自分の分の記録を持って会いに来ると言ったことは、覚えておきます』
それから、少し考える。
そして、もう一行。
『泣いても構いません。ただし、泣いた後に記録を閉じないでください』
書いてから、自分でも少し驚いた。
これは、王妃やマルタが言いそうな言葉だ。
厳しい。
けれど、突き放すためではない。
セレスティアは最後に署名した。
『セレスティア』
お姉様とは書かなかった。
まだ、書けなかった。
書かなくてよいと思った。
ノアが文面を読むかどうか、視線で尋ねる。
セレスティアは頷いた。
彼は短く目を通し、静かに言った。
「よい返事です」
「冷たくありませんか」
「正直です」
「それは、冷たいことと違いますか」
「違います」
即答だった。
セレスティアは小さく息を吐く。
「では、これで」
封筒に入れ、無地の封蝋で閉じる。
王妃宮経由で届けるよう、ノアの従者に託した。
手紙が部屋から出ていくと、セレスティアは椅子にもたれた。
疲れた。
帳簿を書くよりも、王太子府への返書を書くよりも、妹への短い返事を書く方がずっと疲れた。
ノアが茶を差し出す。
「今日は、もう十分です」
「まだ昼前です」
「十分です」
セレスティアは反論しかけて、やめた。
十分。
そうかもしれない。
今日は、妹の手紙を受け取った。
許せないと書いた。
それでも返事を書いた。
十分すぎるほど、心を使った。
「少し、休みます」
自分からそう言えたことに、セレスティア自身が驚いた。
ノアはほんのわずかに目を細めた。
「はい」
その返事だけで、なぜか胸が軽くなる。
一方、王妃宮では、リリアナが返事を待っていた。
待つのは、こんなにも怖いのか。
今まで、自分は姉へ手紙を出せば、必ず返事が来ると思っていた。
しかも、自分を安心させる返事が。
お姉様は、いつもそうだった。
困ったことを書けば、解決策をくれた。
泣き言を書けば、慰めてくれた。
失敗を書けば、次にどうすればよいか教えてくれた。
だが今回は違う。
返事が来ないかもしれない。
来ても、読めないほど冷たいかもしれない。
許さないと書かれているかもしれない。
もう二度と姉と呼ぶなと書かれているかもしれない。
そう想像すると、胸が苦しくなる。
それでも、マルタに言われた仕事は続けた。
救貧院支援金の記録補助。
王妃宮予備費の支出確認。
薬草契約の控え作成。
字は遅い。
数字も何度も確認する。
エルンに質問し、マルタに叱られ、王妃に短く褒められた。
少し前のリリアナなら、一度叱られただけで泣いていた。
今も泣きたくはなる。
けれど、泣いたら数字が滲む。
それが嫌だった。
夕方近く、王妃宮に封書が届いた。
マルタが部屋に入ってくる。
「リリアナ様」
その声で、リリアナはすぐに分かった。
姉からだ。
手が震える。
「読みますか」
マルタが尋ねた。
リリアナは頷いた。
「はい」
封を切る。
短い手紙だった。
『リリアナへ』
お姉様からの返事。
でも、そこに「妹へ」という甘さはない。
リリアナは続きを読んだ。
『手紙を受け取りました。
あなたが許しを求めるためではなく、事実を伝えるために書いたことも、読みました。
私は、まだあなたを許すとは書けません。
ですが、あなたが自分の分の記録を持って会いに来ると言ったことは、覚えておきます。
泣いても構いません。ただし、泣いた後に記録を閉じないでください。
セレスティア』
読み終えた瞬間、リリアナの目から涙が落ちた。
許してもらえなかった。
当然だ。
それなのに、胸の奥に小さな安堵があった。
姉は、返事をくれた。
突き放しきらなかった。
でも、許しもしなかった。
それが、痛くて、正しかった。
「……マルタ様」
「はい」
「お姉様は、まだ私を許していないそうです」
「そうでしょうね」
容赦ない返事だった。
リリアナは泣きながら少し笑った。
「はい」
「でも、手紙を返してくださった」
「はい」
「では、次にすることは?」
リリアナは涙を拭った。
「記録を閉じないことです」
「よろしい」
マルタは頷いた。
リリアナは姉の手紙を机に置いた。
胸元にしまいたかった。
でも、しまわなかった。
仕事の机の上に置く。
逃げそうになったとき、見るために。
「続けます」
リリアナはペンを取った。
涙はまだ止まっていなかった。
けれど、記録は閉じなかった。
その夜、王妃はリリアナから手紙の内容を聞いた。
静かに微笑んだ。
「セレスティアらしい返事ですね」
「厳しいです」
「ええ」
「でも、嬉しかったです」
「それも、よいことです」
王妃は小箱へ視線を向ける。
「少しずつ、二人とも自分の足で立ち始めました」
マルタがそばで頷く。
「箱は、まだ閉じたままですね」
「ええ」
王妃の指が、小箱の鍵穴に触れた。
「けれど、もう長くは閉じていられないでしょう」
北方ではセレスティアが、妹の手紙を机の引き出しにしまわず、王妃の手紙と並べて置いていた。
王妃宮ではリリアナが、姉の返事を帳簿の横に置いた。
二人はまだ会えない。
許しも、和解も、遠い。
けれど、初めて互いに向けて、嘘のない言葉を置いた。
その静かな一歩を、王宮の大人たちはまだ知らない。
そして、双生契約という古い鎖が。
二人の間に結ばれた本当の傷を、まだ箱の中に隠していた。




