第19話 王妃の箱は、姉妹の過去を知っていた
リリアナは、その夜、眠れなかった。
寝台に入っても、目を閉じることができない。
まぶたの裏に浮かぶのは、王妃の言葉だった。
――あなたとセレスティアの運命を分けた、古い罪です。
古い罪。
その響きが、胸の奥に沈んで離れない。
帳簿の不正でもない。
王太子府の儀礼費でもない。
救貧院の支援金でもない。
もっと前。
自分と姉の運命を分けたもの。
リリアナは寝台の上で身を起こした。
部屋は暗い。
王宮で用意された客室は、公爵家の自室よりずっと広い。
壁には淡い花模様の織物が掛けられ、窓辺には香炉が置かれている。
以前なら、きっと胸が弾んだ。
王宮の部屋。
王太子殿下の近く。
姉ではなく、自分に与えられた場所。
けれど今は、その広さが落ち着かない。
机の上には、セレスティアの引き継ぎ書と、帳簿の写しが置かれている。
リリアナは寝台を下り、燭台に火を灯した。
小さな灯りが、机の上の紙を照らす。
姉の字は、夜に見るとさらに静かだった。
乱れない。
急がない。
怒らない。
けれど、最近になってリリアナは分かり始めていた。
乱れないことと、傷ついていないことは違う。
姉はきっと、乱れないように必死だっただけだ。
リリアナは引き継ぎ書を開いた。
王妃宮関連。
救貧院関連。
王太子府関連。
何度も読んだ箇所だ。
だが、今夜探しているものは違った。
古い罪。
姉妹の運命を分けたもの。
そんな言葉が直接書いてあるはずはない。
それでも、何か手がかりがある気がした。
セレスティアは、必要なことを必ずどこかに残す人だから。
ページをめくる。
やがて、一枚の薄い紙が挟まっていることに気づいた。
これまで見落としていた。
引き継ぎ書の最終部分、王妃宮の古い慣例について書かれた項目の間。
紙には、姉の字でこう書かれていた。
『レイノルド公爵家に関する古い記録については、王妃陛下の許可なく触れないこと』
リリアナの指が止まる。
レイノルド公爵家に関する古い記録。
そんなものが、なぜ王妃宮にあるのか。
続きには、さらに小さく書かれていた。
『特に、前公爵夫人エレナ様の療養記録、出産記録、ならびに王妃宮預かりの封印箱については、必ずマルタ侍女長を通すこと』
出産記録。
リリアナは、その言葉をしばらく見つめた。
自分と姉の母、エレナ。
リリアナの記憶にある母は、いつも薄い寝衣をまとっていた。
香りの薄い部屋で、静かに微笑んでいた人。
セレスティアに似た青銀の髪。
リリアナよりずっと穏やかな目。
けれど母は、リリアナが幼いころから病がちだった。
父はよく言っていた。
母は体が弱い。
だからお前たちは困らせてはならない。
特にセレスティア、お前は姉なのだから。
母が亡くなったあと、その言葉はもっと重くなった。
お前は姉なのだから。
リリアナを守れ。
リリアナは、幼いころからそれを当然だと思っていた。
姉は強い。
自分は弱い。
姉が守る。
自分は守られる。
でも、もし。
最初からその役割が、誰かによって作られていたのだとしたら。
リリアナは喉が乾くのを感じた。
紙を持つ手が震える。
「……お姉様は、知っていたの?」
声は暗い部屋に吸い込まれた。
答えはない。
だが、姉はこの紙を残していた。
少なくとも、何かがあると知っていた。
触れるなと書いている。
王妃陛下の許可なく、と。
それは、触れれば何かが壊れるからなのか。
それとも、触れるには覚悟が必要だからなのか。
リリアナは立ち上がった。
夜更けだ。
王妃陛下は休んでいる。
マルタ侍女長に会いに行くには遅すぎる。
分かっている。
だが、座っていられなかった。
廊下に出ると、夜番の侍女が驚いた顔をした。
「リリアナ様?」
「マルタ侍女長は、まだ起きていらっしゃいますか」
「恐らく、王妃陛下の寝室近くに」
「案内してください」
「ですが、夜も遅く」
「お願いします」
リリアナの声は震えていた。
けれど、引かなかった。
侍女は迷った末に頷いた。
王妃宮の廊下は、夜になると昼間よりずっと静かだった。
燭台の火が壁に影を作る。
遠くで、看護用の湯を沸かす音がかすかに聞こえる。
リリアナはその廊下を歩きながら、胸の中で何度も同じ言葉を繰り返した。
出産記録。
封印箱。
古い罪。
そして、姉の字。
マルタは、王妃の寝室前の小部屋にいた。
帳簿と療養記録を整理していたらしく、机の上には紙が広がっている。
リリアナの姿を見ると、少しだけ眉を上げた。
「この時間に来るということは、ただ事ではなさそうですね」
「申し訳ありません」
「謝罪より用件を」
厳しい声だった。
だが、リリアナはもうその厳しさに少し慣れてきていた。
彼女は懐から薄い紙を出した。
「これを、見つけました」
マルタは受け取り、目を通す。
表情が変わった。
ほんの一瞬だったが、確かに。
「どこにありました」
「お姉様の引き継ぎ書の中です」
「そうですか」
「これは、何ですか」
リリアナの声が震える。
「前公爵夫人の療養記録。出産記録。王妃宮預かりの封印箱。どうして、私たちの家の記録が王妃宮にあるのですか」
マルタはすぐには答えなかった。
その沈黙で、リリアナはさらに怖くなった。
「マルタ様」
「リリアナ様」
マルタは静かに紙を畳んだ。
「今のあなたが、それを知る覚悟をお持ちかどうか、私には判断できません」
「王妃陛下なら、判断できますか」
「はい」
「では、王妃陛下に」
「今夜はお休みです」
「私は、また待つのですか」
言った瞬間、リリアナは自分の声が思ったより強かったことに気づいた。
マルタの目が細くなる。
リリアナは唇を噛んだ。
「すみません。でも、私は今までずっと、知らなくていいと言われてきました。優しいから、未熟だから、荷が重いから。そう言われて、何も知らないまま、お姉様からいろいろなものを奪っていました」
涙が浮かぶ。
でも、落とさない。
「知らないことが、もう怖いのです」
マルタは、リリアナを長く見つめた。
やがて、小さく息を吐く。
「分かりました」
「では」
「ただし、今夜すべてを話すことはできません。王妃陛下の許可が必要です」
「……はい」
「ですが、一つだけ」
リリアナは息を止めた。
マルタは声を落とした。
「セレスティア様は、あなたを守るよう命じられていたのではありません」
「え?」
「正確には、命じられたのではなく、そうせざるを得ない立場に置かれたのです」
言葉の意味が、すぐには分からなかった。
「どういう……」
「あなたが生まれたころ、レイノルド公爵家には大きな混乱がありました。前公爵夫人エレナ様のご病状。公爵家の継承問題。そして、王家との古い取り決め」
「王家との?」
「それ以上は、王妃陛下からお聞きください」
マルタはきっぱりと言った。
リリアナは食い下がろうとして、やめた。
マルタの顔が、これ以上は本当に言えないと告げていた。
「では、明日」
「王妃陛下のご体調次第です」
「分かりました」
リリアナは頷いた。
そして、もう一つだけ尋ねる。
「お姉様は、そのことを知っていたのですか」
マルタの目が少しだけ揺れた。
「すべてではありません」
「では、一部は」
「知っておられました」
リリアナの胸が痛んだ。
姉は、やはり知っていた。
知っていて、黙っていた。
また。
「なぜ、私に言わなかったのでしょう」
マルタは静かに答えた。
「言えば、あなたが壊れると思ったのでしょう」
リリアナは何も言えなかった。
姉はまた、自分を守った。
自分が知らないところで。
自分が憎んでいた間も。
自分が王太子の隣で泣いていた夜も。
リリアナは、ゆっくりと目を閉じた。
泣くのは後。
そう思っていた。
でも、今夜ばかりは少しだけ無理だった。
涙が一粒、落ちた。
マルタは何も言わなかった。
慰めもしなかった。
ただ、机の上の布を一枚差し出した。
リリアナはそれを受け取り、涙を拭いた。
「明日、王妃陛下にお会いします」
「ええ」
「逃げません」
「その言葉、記録しておきましょうか」
マルタが真面目な顔で言ったので、リリアナは泣きながら少しだけ笑ってしまった。
「お願いします」
「承知しました」
そのころ、北方の屋敷では、セレスティアもまた眠れずにいた。
机の上には、王妃からの手紙と、自分が書いた返書の控えが置かれている。
そして、その隣には小箱があった。
王妃から預かった鍵と封書を収めた箱。
まだ開けてはならない。
何度もそう言われた。
けれど、最近その言葉が少しずつ変わって聞こえる。
まだ開けてはならない。
つまり、いつか開ける日が来る。
その日は近いのかもしれない。
セレスティアは箱を開いた。
古い鍵が、灯りを受けて鈍く光る。
小さな鍵だ。
だが、見るたびに胸が重くなる。
ノアは向かいで報告書を読んでいたが、セレスティアの手元を見て声をかけた。
「その鍵は」
「王妃陛下から預かったものです」
「王宮の?」
「はい。王妃宮にある箱と対になる鍵だと聞いています」
「中身は」
「知りません」
セレスティアは正直に答えた。
「ただ、おそらく……レイノルド公爵家に関わるものです」
ノアは報告書を置いた。
「開けるつもりですか」
「いいえ。まだ」
「まだ、ですか」
「はい」
セレスティアは鍵を指先でなぞる。
「以前は、王妃陛下に言われたから開けないのだと思っていました。でも今は違います」
「どう違うのですか」
「開ければ、戻れなくなる気がします」
ノアは黙って聞いている。
「父とのことも、リリアナとのことも、私が耐えてきた理由も。何かが、別の形になってしまう気がするのです」
「怖いですか」
「はい」
セレスティアはすぐに答えた。
怖い。
その言葉を言えるようになったことに、自分でも少し驚く。
「怖いです。帳簿よりも、王太子府よりも、父の手紙よりも。この鍵の方が怖い」
「なぜでしょう」
「帳簿は、私が見てきた事実です。どれほど苦しくても、何が書かれているか分かっています。でも、この鍵の先にあるものは、私が知らない事実です」
知らない事実。
それが一番怖い。
セレスティアは、ずっと知っていることで自分を支えてきた。
数字を知っている。
手順を知っている。
貴族の癖を知っている。
王妃の薬を知っている。
王太子の弱点を知っている。
リリアナの泣き方を知っている。
知っていれば、対処できる。
だが、この鍵は違う。
自分が知らないまま背負わされてきたものがあるかもしれない。
それを知るのが、怖い。
「開けるときは、一人でなくていい」
ノアが言った。
セレスティアは顔を上げる。
「一人でなくて?」
「はい」
「でも、これは私の家のことです」
「なら、なおさらです」
ノアの声は静かだった。
「家のことで一人だけ傷つく必要はありません」
その言葉に、セレスティアは胸を突かれた。
家のことで、一人だけ傷つく必要はない。
そんなことを、誰かに言ってほしかったのかもしれない。
ずっと。
「……ありがとうございます」
「受け取ります」
セレスティアは鍵を箱へ戻した。
まだ開けない。
けれど、開ける日は来る。
そのとき一人でなくてもいいと思えただけで、鍵の重さがほんの少し変わった。
王宮の記録室では、ガレオン卿への事情聴取が続いていた。
だが、アデルは途中で席を外した。
聞いていられなかった。
ガレオンは自分のためにやったと言った。
王太子の面子を守るためだと。
だが、その結果、王妃宮予備費が危うく使われ、救貧院の支援が遅れ、セレスティアに罪が着せられそうになった。
どこからが忠誠で、どこからが不正なのか。
アデルには、まだ分からなかった。
いや、分かりたくなかった。
執務室へ戻ると、机の上にはリリアナが残した短い書き置きがあった。
『本日は王妃宮に泊まります。帳簿確認のためです』
たったそれだけ。
以前のリリアナなら、もっと甘い言葉を添えただろう。
殿下、お身体を大切に。
明日お会いできるのを楽しみにしています。
心配をおかけしてごめんなさい。
そういう言葉が、今はない。
帳簿確認のため。
まるでセレスティアのような書き置き。
アデルは紙を握りしめた。
「なぜだ」
誰に向けた問いでもなかった。
なぜ、皆が変わっていくのか。
リリアナまで、セレスティアのように記録や帳簿を見るようになった。
王妃は自分に命じる。
財務卿は数字を突きつける。
書記局長は正論を言う。
グレゴール公爵は娘を修道院へ押し込もうとする。
そしてセレスティアは、北方から条件を突き返す。
昨夜までは、もっと単純だったはずだ。
冷たい悪女を断罪し、優しい妹を選び、王宮は新しく整う。
そのはずだった。
なのに今、王宮のあらゆる場所から、セレスティアが残したものが出てくる。
帳簿。
引き継ぎ書。
療養記録。
注意書き。
そして、人の心に残った違和感。
アデルは椅子に座り込んだ。
目を閉じると、昨夜のセレスティアの姿が浮かぶ。
完璧な礼。
謝罪はいたしません、と言った声。
そして最後に妹へ向けた言葉。
殿下を大切になさい。
王太子妃となる方は、殿下のお側に立つだけでは務まりません。
あれは皮肉だったのか。
それとも本心だったのか。
今になって、アデルには分からなくなっていた。
その夜遅く、王妃は目を覚ました。
マルタがすぐに近づく。
「陛下」
「リリアナは?」
「王妃宮の客室で休ませました。眠れているかは分かりませんが」
「そう」
王妃は小箱へ視線を向ける。
「明日、リリアナに話します」
「箱のことを」
「ええ。一部だけでも」
「よろしいのですか」
「もう、隠して守れる段階ではありません」
王妃の声は、かすかに疲れていた。
だが、決意はあった。
「あの子たちは、どちらも知らないまま傷つけ合わされてきました」
「……はい」
「セレスティアは知りすぎて黙った。リリアナは知らなすぎて奪った」
マルタは目を伏せた。
王妃は静かに続ける。
「どちらも、大人たちの罪です」
その言葉は、夜の寝室に重く落ちた。
大人たちの罪。
それは王太子府の帳簿よりも、ずっと古い。
そして、ずっと深い。
王妃は小箱に手を置いた。
「鍵は、セレスティアが持っています」
「はい」
「ならば箱だけを開くことはできません」
「では、どうなさいますか」
王妃は目を閉じた。
「まず、リリアナに箱の名を教えます」
「箱の名……」
「ええ」
王妃は、ゆっくりと言った。
「“双生契約の箱”と」
マルタの顔が強張った。
その名は、長い間王宮で口にされなかった名だった。
王妃は窓の外を見た。
北の空は、王都からは見えない。
けれど、その先にセレスティアがいる。
鍵を持ったまま、まだ箱を開けられずにいる少女が。
「近いうちに、あの子も知ることになるでしょう」
王妃は小さく呟いた。
「自分だけが姉だったわけではないことを」




