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私だけが真実を知っているのに、誰も信じてくれない 〜悪役令嬢にされた私は沈黙を選びました。けれど王都は、私を失ってから少しずつ壊れていく〜  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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18/110

第18話 それでも王太子は、まだ悪女を信じたかった

 記録室の空気は、紙と蝋と古い革の匂いで満ちていた。


 壁一面に並ぶ棚。

 番号順に収められた処理票。

 過去の決裁書。

 誰かが忘れたいと思ったはずの数字。


 その中心で、一枚の処理票が灯りに透かされていた。


 王妃宮予備費から、王太子府儀礼費への一時補填。


 表向きの記録には、セレスティア・レイノルドの確認印がある。

 それだけを見れば、彼女が処理に関わったように見える。


 だが、書記局長が紙を傾けた瞬間、削られた筆跡が浮かび上がった。


 ガレオン・リード。


 王太子府側近の名。


 部屋にいた者たちは、誰もすぐには声を出せなかった。


 財務卿バルツァーは重く息を吐き、書記局長は黙って処理票を保全用の布の上へ置いた。


 アデルは、その紙から目を離せなかった。


 ガレオン卿は青ざめている。


「殿下」


 彼はかすれた声で言った。


「これは、何かの誤解です」


 その言葉は、あまりにも弱かった。


 いつものガレオンなら、もっと滑らかに話す。

 王太子の機嫌を損ねないよう、相手の不備をほのめかしながら、自分はあくまで忠臣であるという顔をする。


 だが今は違った。


 目の前には紙がある。

 数字がある。

 削られた名前がある。


 言葉で煙に巻くには、あまりにも無骨な事実だった。


「誤解とは」


 書記局長が尋ねた。


 声は静かだった。


 その静けさが、かえって容赦ない。


「この処理票に、あなたの名が残っているように見えます」


「私の名に見えるだけでしょう」


 ガレオンはすぐに言った。


「王宮には似た筆跡の者がいくらでもおります」


「では、筆跡照合を」


「待て」


 アデルが口を挟んだ。


 全員の視線が王太子へ向く。


 アデルは、自分が何を止めようとしているのか分かっていなかった。


 ただ、これ以上進めてはいけないという感覚だけがあった。


 もしこのまま調べれば、ガレオンの名が正式に記録される。

 王太子府側近が王妃宮予備費に手をつけようとした可能性が、表に出る。


 そうなれば、セレスティアの帳簿は正しかったことになる。


 彼女は横領犯ではない。

 機密を持ち出した悪女でもない。

 王宮の不正を止めようとした者になる。


 ならば、昨夜の断罪は何だったのか。


 広間で彼女を悪女と呼び、妹を庇い、婚約を破棄した自分は、何になるのか。


 アデルの喉が詰まった。


「殿下」


 財務卿バルツァーが静かに言う。


「これは保全すべき記録です」


「分かっている」


「では、筆跡照合と処理経路の確認を」


「今すぐでなくていい」


 アデルは言った。


 自分でも、声が硬くなっているのが分かった。


「一枚の処理票だけで決めつけるな。ガレオンは長年、王太子府に仕えている」


 ガレオン卿の顔に、わずかな安堵が浮かんだ。


 それを見て、書記局長の目が細くなる。


「セレスティア様は、十年近く王宮に尽くしておられました」


 アデルは書記局長を睨んだ。


「何が言いたい」


「一枚の処理票どころか、証拠もないまま断罪されました」


 記録室の空気が凍った。


 誰かが息を呑んだ。


 アデルの頬に血が上る。


「言葉を慎め」


「慎んでおります」


 書記局長は一礼した。


「だからこそ、記録に基づいて申し上げています」


 アデルは机に手をついた。


 怒りが湧いている。


 だが、その怒りの向け先が分からない。


 書記局長か。

 財務卿か。

 ガレオンか。

 セレスティアか。

 それとも、何も見えていなかった自分自身か。


 認めたくない。


 まだ、認めたくない。


「セレスティアが、この処理票を知っていたとは限らない」


 アデルは言った。


 その場にいた者たちは、全員が黙った。


 それは事実ではなかった。


 処理票の余白には、セレスティアの筆跡で注意書きが残っている。


『この処理は不可。王妃宮予備費の用途外。財務卿確認前に進めないこと』


 彼女は知っていた。


 そして止めていた。


 アデルにも、それは読めていた。


 それでも口にした。


 セレスティアが知っていたとは限らない、と。


 そう言わなければ、自分が崩れる気がした。


 ガレオン卿がすぐに続く。


「おっしゃる通りです、殿下。そもそも、その余白の書き込みが本当にセレスティア嬢のものかどうかも」


「それは違います」


 扉の方から声がした。


 全員が振り返る。


 そこに立っていたのは、リリアナだった。


 王妃宮の侍女に付き添われ、手には姉の引き継ぎ書を抱えている。


 顔色は悪い。

 だが目は逸らしていなかった。


「リリアナ」


 アデルは思わず声を上げた。


「なぜここに」


「王妃陛下より、記録保全の確認に立ち会うよう命じられました」


「君が立ち会う必要はない」


「あります」


 リリアナは一歩、部屋へ入った。


 足は震えていた。


 それでも進んだ。


「私はセレスティアお姉様の引き継ぎ書を読みました。お姉様の字も、確認印も、注意書きも見ています」


 リリアナは処理票を見た。


 そして、すぐに唇を噛んだ。


 姉の字だ。


 間違いない。


 何度も見た。

 机の上で、帳簿の端で、自分への注意書きの中で。


 整っていて、読みやすくて、責める言葉を使わない字。


「これは、お姉様の字です」


 リリアナは言った。


「少なくとも、余白の注意書きは」


 アデルは苦い顔をする。


「君に筆跡の専門知識はない」


「ありません」


 リリアナは認めた。


「でも、お姉様がこういう注意書きを残すことは知っています」


「リリアナ」


「そして、お姉様が止めようとしていたことも、分かります」


 ガレオン卿が口を挟んだ。


「リリアナ様。あなたは姉君への同情で」


「同情ではありません」


 リリアナの声が少し強くなった。


 彼女自身が、その強さに驚いた。


 けれど止まらなかった。


「私は、お姉様に同情できるほど、まだ何も返せていません」


 部屋が静まる。


「ただ、読んだだけです。帳簿を。引き継ぎ書を。療養記録を。救貧院の支払い記録を。読めば、分かります」


 リリアナはガレオンを見る。


「お姉様は、隠そうとしていません。止めようとしていました」


 ガレオンの顔が引きつった。


「それは、あなたの解釈です」


「では、きちんと調べてください」


 リリアナは言った。


「筆跡照合も、処理経路も、誰が確認印を承認印として扱ったのかも」


「リリアナ、もういい」


 アデルが低く言う。


「君は休むべきだ」


 その言葉を聞いた瞬間、リリアナは胸が冷えるのを感じた。


 まただ。


 休め。

 疲れている。

 優しすぎる。

 混乱している。


 そう言えば、女の言葉は退けられる。


 かつて姉も、こうして退けられてきたのだろうか。


「殿下」


 リリアナは小さく息を吸った。


「私は休みます。倒れたら記録を読めませんから」


 アデルは一瞬、言葉を失う。


「ですが、今は休む前に確認します」


 リリアナは処理票を指さした。


「この処理票を、保全してください」


 書記局長が静かに頷いた。


「すでに保全手続きを進めております」


「写しを王妃宮にも」


「手配いたします」


「財務局にも」


「もちろんです」


 リリアナは頷いた。


 自分が指示を出してよい立場なのか、まだ分からない。


 だが、今は誰かが口にしなければならない。


 姉なら、きっとそうした。


 その考えが浮かんで、リリアナは少しだけ苦しくなる。


 また姉を基準にしている。


 でも、今はそれでいい。


 何も知らない自分より、姉のやり方の方が正しい。


 少なくとも、人を不当に罪に落とすよりは。


 ガレオン卿は、汗を拭った。


「殿下。これは、王太子府への不当な介入です。王妃宮と書記局が結託して」


「結託?」


 財務卿バルツァーが、そこで初めて鋭い声を出した。


「王妃宮予備費の用途外処理に、王妃宮が確認を入れることが結託ですか」


「私はそういう意味で」


「では、どういう意味ですか」


 ガレオンは黙った。


 アデルはその沈黙を見た。


 見てしまった。


 ガレオンが、いつものように滑らかに答えられない。


 その事実が、アデルの胸に不快な影を落とす。


「ガレオン」


 アデルはゆっくり言った。


「この処理票に、お前の名があった理由を説明しろ」


 ガレオンの目が泳いだ。


「殿下、それは」


「説明しろ」


 王太子の声に、今度は冷たいものが混じった。


 ガレオンは唇を舐める。


「当時、儀礼費の処理が立て込んでおりました。南方大使関連の支出が急に増え、財務局の承認を待っていては間に合わず」


「だから王妃宮予備費を使おうとしたのか」


「一時的な補填です。後で戻す予定でした」


 バルツァーが低く言う。


「王妃宮予備費は、王太子府の儀礼費を一時的に補填する金ではありません」


「分かっています。ですが、当時は殿下の面子に関わる」


 ガレオンはそこで言葉を止めた。


 止めるのが遅かった。


 アデルの顔が変わる。


「私の面子?」


 ガレオンは青ざめる。


「いえ、殿下のお立場を守るために」


「誰が命じた」


「……私の判断です」


 その答えは、あまりにも遅かった。


 記録室の誰もが、その遅さに気づいた。


 アデルも。


「セレスティアは、これを止めたのか」


 アデルの声は低かった。


 ガレオンは答えない。


 バルツァーが代わりに処理票を指す。


「余白の注意書き通りなら、止めています」


 アデルは処理票を見た。


 セレスティアの字。


『この処理は不可』


 不可。


 たった二文字が、妙に重かった。


 彼女は止めた。


 王太子の面子を守るためという名目で、王妃宮予備費が使われることを。


 もし彼女が止めなければ、救貧院の支援金がさらに遅れた。

 王妃の薬草にも影響が出た。


 そしてその穴は、いずれ誰かのせいにされた。


 おそらく、彼女のせいに。


 いや、実際にそうなりかけていた。


「殿下」


 ガレオンが膝をつきそうな勢いで頭を下げる。


「私は、殿下のためを思って」


 その言葉を聞いた瞬間、リリアナが小さく震えた。


 殿下のため。

 家のため。

 王宮のため。


 それらの言葉で、姉はどれほど押し潰されてきたのだろう。


 アデルはガレオンを見下ろしていた。


 かつてなら、この言葉で許したかもしれない。


 自分のためを思って動いた忠臣。

 少し手続きに問題はあっても、悪意はなかった。


 そう処理していたかもしれない。


 だが、今はリリアナがいる。


 財務卿がいる。

 書記局長がいる。

 王妃宮の侍女がいる。


 そして机の上には、セレスティアの注意書きがある。


 逃げ道が、少しずつ狭くなっていく。


「……ガレオン卿を、当面の間、王太子府財務処理から外す」


 アデルは言った。


 ガレオンの顔が上がる。


「殿下」


「正式な調査が終わるまでだ」


 その場にいた者たちは、わずかに息を吐いた。


 それは処罰ではない。


 まだ甘い。


 けれど、王太子が初めて自分の側近を疑いの対象に置いた瞬間だった。


 リリアナは、胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。


 しかし、次のアデルの言葉でそれは止まった。


「ただし」


 アデルは処理票を見たまま続けた。


「セレスティアの帳簿持ち出しについては、別問題として扱う」


 リリアナの顔が強張る。


「殿下」


「彼女が止めていたことと、記録を外部へ持ち出したことは別だ」


 アデルは自分に言い聞かせるように言った。


「そこは、はっきりさせる」


 リリアナは言葉を失った。


 ここまで出ても、まだ。


 まだ姉を疑うのか。


 いや、違う。


 疑っているのではない。


 アデルは、姉を完全に正しかったと認められないのだ。


 それを認めれば、自分が間違ったことになるから。


 リリアナはそのことに気づき、胸が冷たくなった。


 王太子府の記録室で一つの事実が見つかったころ、北方の屋敷では、セレスティアがノアとともに書類の整理をしていた。


 彼女は一日の大半を休むよう言われていたが、完全に何もしないわけにはいかない。


 ただし今は、以前とは少し違う。


 王宮のためだけに書くのではない。

 自分の名を守るために書く。


 その意識があるだけで、ペンの重さが変わった。


「王太子府は、辺境伯閣下の同席を拒むでしょう」


 セレスティアが言うと、ノアは頷いた。


「拒むでしょうね」


「それでも、条件から外すつもりはありません」


「外さなくていい」


「閣下は、本当に巻き込まれてよろしいのですか」


「禁句に近い」


「……ありがとうございます」


「受け取ります」


 そのやり取りにも、少しずつ慣れてきた。


 セレスティアは手元の紙を見下ろす。


『正式説明の場における確認事項』


 一、王妃宮予備費の用途

 二、王太子府儀礼費との処理経路

 三、確認印と承認印の区別

 四、救貧院支援への影響

 五、帳簿写しを外部保全した理由


 並べてみると、恐ろしく冷たい項目に見えた。


 けれど、この冷たさが必要だった。


 感情だけで戦えば、また悪女と呼ばれる。

 涙だけで訴えれば、同情はされても記録は残らない。


 事実で立つ。


 それが、今のセレスティアにできる唯一のことだった。


 そのとき、扉が叩かれた。


 従者が入ってくる。


「閣下。王都より報告です」


 ノアが受け取り、目を通す。


 その表情がわずかに変わった。


「何か」


 セレスティアが尋ねる。


 ノアは少し迷ったように見えた。


 だが、隠さなかった。


「王太子府の記録室で、処理票が見つかりました」


 セレスティアの手が止まる。


「処理票」


「王妃宮予備費から王太子府儀礼費への一時補填。あなたの確認印の横に、削られたガレオン卿の名があったようです」


 セレスティアは目を閉じた。


 やはり。


 思い当たっていた。


 あの処理は、ガレオン卿が急がせていた。

 王太子殿下の面子に関わると言って。


 セレスティアは止めた。

 財務卿の確認を待つように書いた。

 王妃宮予備費を使うべきではないと記録した。


 その記録が、今になって出てきた。


「ガレオン卿は」


「当面、王太子府財務処理から外されたそうです」


「そうですか」


 セレスティアは、静かに息を吐いた。


 勝った、とは思わなかった。


 一人の名が出たところで終わりではない。

 むしろ始まりだ。


「殿下は、どうなさいましたか」


 ノアは報告書を見た。


「あなたの帳簿持ち出しは、別問題として扱うと」


 セレスティアは、ゆっくり目を開けた。


「そうですか」


 声は思ったより穏やかだった。


 だが、胸の奥には鈍い痛みがあった。


 証拠が出ても、なお。


 彼は自分を完全には認めない。


 認められない。


 それが分かってしまった。


「つらいですか」


 ノアが尋ねる。


 セレスティアは少しだけ考えた。


「はい」


 正直に答えた。


「つらいです。けれど、驚いてはいません」


「怒っていますか」


「少し」


「少し?」


「……かなり」


 言い直すと、ノアがほんのわずかに頷いた。


「それでいい」


 セレスティアは苦笑した。


「閣下は、私が怒ると安心なさいますね」


「はい」


「なぜですか」


「あなたが自分を守ろうとしている証拠だからです」


 その言葉に、セレスティアは黙った。


 自分を守ろうとしている。


 少し前まで、自分には許されないことだと思っていた。


 だが今は、怒っている。


 ガレオン卿に。

 王太子府に。

 自分の確認印を都合よく使った者たちに。


 そして、証拠が出てもなお別問題と言うアデルに。


 セレスティアはペンを取った。


「確認事項に、一つ追加します」


「何を」


「帳簿持ち出しを問題とするなら、まず王宮内で記録が改変されかけた事実を確認すること」


 彼女はそう書いた。


 文字は少しだけ強かった。


 以前よりも。


 ノアはそれを見て、静かに言った。


「よい字です」


 セレスティアは少しだけ首を傾げた。


「怒っている字では?」


「だから、よい字です」


 その言葉に、セレスティアはほんの少し笑った。


 その夜、王妃宮ではリリアナが王妃に報告していた。


 ガレオン卿の名が出たこと。

 アデルが彼を財務処理から外したこと。

 それでもセレスティアの帳簿持ち出しを別問題として扱うと言ったこと。


 王妃は静かに聞いていた。


「アデルらしいですね」


 王妃は疲れた声で言った。


「自分の間違いを一度に認めるには、まだ幼い」


「殿下は、幼いのでしょうか」


 リリアナが尋ねる。


「大人でも幼いままの人はいます」


 王妃は答えた。


「責任ある椅子に座れば、人は自然に大人になるわけではありません」


 リリアナは姉の椅子を思い出した。


 硬い椅子。

 重い書類。

 逃げられない数字。


「では、どうすれば」


「事実を積み続けることです」


 王妃は目を閉じる。


「アデルが認めたくなくても、認めざるを得ないところまで」


 リリアナは静かに頷いた。


「はい」


 王妃は、ふと小箱へ視線を向けた。


 百合紋と星紋の箱。


「そろそろ、あの箱も動くかもしれません」


 リリアナは顔を上げた。


「あの箱、ですか」


「セレスティアに渡した鍵と対になるものです」


「お姉様に、鍵を……」


 王妃は答えなかった。


 ただ、微かに微笑む。


「帳簿は、王宮の今の罪を暴きます。けれど、あの箱はもっと古い罪を暴く」


 リリアナの背筋が冷えた。


「古い罪」


「ええ」


 王妃は静かに言った。


「あなたとセレスティアの運命を分けた、古い罪です」


 リリアナは息を呑んだ。


 自分と姉の運命を分けた罪。


 それは、何なのか。


 王妃はそれ以上語らなかった。


 窓の外では、王宮の夜が深まっている。


 記録室では、処理票の写しが封じられた。


 北方では、セレスティアが怒りを文字に変えた。


 王太子は、まだ悪女を信じたかった。


 なぜなら、彼女が悪女でなければ。


 自分が、彼女を踏みにじった男になるからだった。

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